20 とある貴族の宿借り話2
噴水が見事な庭園にて。
醜い怒声をあげる夫婦がいた。
「――どうして!? 我が家は侯爵家なのでしょう!? 田舎の辺境伯などより……」
「だ、だだだ、黙れ!」
妻が――かつて男爵令嬢であった妻が、身分のことをまったくわかっていなかったのを、侯爵は改めて思い知った。
辺境を決して貶してはならない。
辺境伯。そうある地位にありて、この小さな国を護る方々だ。
辺境、それは田舎ではない。辺鄙な地方を意味するのではないということを、恐ろしいことに妻は理解していなかった。
王都から離れた地方住みなのは自分たちとて同じなのに。
むしろ家格は高くとも、価値は低い。
なのに、娘も「王姪殿下」を、相手は伯爵家だからと――馬鹿にしてしまった。
家格ではない。
血統なのだ。
王族なのだぞ。
娘はまったくもって、妻に似た。顔だけでなく、中身まで。
思えば、十数年前。
自分は長く支えてくれた婚約者と婚約破棄をし、学園で知り合った――この平民上がりの男爵家の娘を妻とした。
当時は成績順でクラスが分けられ、妻とは同じクラスになったのだ。下位クラスだった。
娘が上位クラスと聞いても、うっかり忘れて喜んでいた。今はそうではないことを。
元婚約者は上位成績クラスで、自分や妻は――彼女に馬鹿にされていると勘違いした僻みがあったのだろう。
ずいぶんと失礼な婚約破棄をした。
婚約者であった伯爵令嬢が、婚約破棄したときに終いには呆れ果てて二度と関わりたくないと、そう話を締めくくったのを思い出す。そうしてくれるなら、慰謝料を少なくしても良いとすら言われて。
「その分、奥方になる方への教育費となさって」
貴方も再教育なさい、と……。
こちら側が有責になったのが「妻が無礼だったから。そんな妻に現を抜かし、周りが見えていない男だから」という理由だった。
その時はこっちが悪いのか、何一つ解らなかった。元婚約者が情がなく、この妻を虐めていたと思っていたから。
最後に言われた言葉も忠告ではなく、嫌味ととらえてしまった。
婚約破棄したあと、彼女が同じ伯爵家に嫁いだことすら、ざまぁみろと。あちらは自分たちと縁が切れて、ほっとしていただろうに。
周囲に叱られても、当時はわからなかった。
むしろこの愛らしい妻に嫉妬したのだとすら、思い上がっていた。
男爵の愛人だった母親が亡くなったことにより引き取られた男爵家の庶子だった妻は、平民だったときの感覚がなかなか抜けず、それが愛らしく見えた。
無邪気で、朗らかに明るくて。
コロコロと歯を見せえくぼを浮かべて笑う顔が可愛くて。
これが彼女の良さなのに、何を教育させることがあるか。
それが、貴族令嬢ならばありえないだなんて……。
王都で、妻があの噴水のある屋敷に招くお友達という名の下位貴族や平民たちが、何を思っていたか。
おべっかの下に、逆にこちらへの侮蔑が混じっていたのを気がつかないのが無知な証拠。
思えば、いつからか上位貴族や、礼節を重んじる家の方々から、距離を置かれたのは――。
――娘の婚約者が、決まらなかったのは。
同じ上位貴族に申し込んだら、やんわりと断られた。下位貴族、裕福な平民にも。
妻は、当の娘も、「学園で運命の出会いがあるから」と、平気そうだったのを、もっと心配するべきだった。
妻の「自分たちのような出会いが」という言葉に危機感を。
そんな妻に子育てを。
自分たちは、とうに整っていた婚約を――家と家の契約をぶった切ったやつらと未だに思われていると、侯爵もようやく悟った。
しかも妻の振るまい。娘も同じように礼儀知らずと……。
娘が王姪殿下に無礼を働いたと聞いても、妻はキョトンとしていた。
「だ、だって、今は伯爵家なんでしょう?」
伯爵家に嫁いだならば。
ならば侯爵家に嫁いだ自分の方が偉いはずだ。娘も、また。
「だから、気にする必要もないと思って……!」
それこそ――かつて自分がされた虐めではないのか?
妻は、子は、連れてきた使用人たちは西の辺境伯の使用人たちによってとらえられ、妻がお気に入りだった噴水のある庭に転がされていた。
「かわった押し入り強盗かと思いました」
妻は先に屋敷でくつろいでいた辺境伯に、この屋敷は自分たちが使うのだから出て行きなさいと――辺境伯を下に見て、命令したそうだ。
妻との会話を……状況的に仕方なく同席していた辺境伯が、もはや哀れみの視線を向ける。
「……何とも無知な」
言い返す言葉がない。
「何よ! 私は侯爵夫人なんだから! 貴方なんて王宮に訴えてやる!」
「どうぞ?」
「え……」
辺境伯に平然と返されて妻はポカンと口をあける。
「その方が、しっかりと解るのではないですか?」
自分たちがどれほど物知らずであったか。身分も、何もかも。
「そもそも借りてもいない屋敷に、よく上がりこめましたね。私の方が不法侵入で訴えますよ」
キョトンとしている夫人に、辺境伯は仕方なしに話し始めた。
「身分の話をまずしましょうか。貴方は男爵家からでしたか? 確かに侯爵家に嫁いだから、侯爵夫人として偉い、かもしれない」
「そ、そうよ!」
「では、私の妻は元公爵令嬢でしたが、今では辺境伯夫人です。貴方より下になりますか?」
「そ、そうよ……そうよね?」
妻は言葉もない夫に確認するが、返事はない。もはや屍のようだ。
「では、する気はまったくありませんが、もし我が妻が私と離縁して実家に帰ったら再び公爵令嬢になります。貴方よりどちらが偉い?」
「そ、それは……」
夫人の中でてんびん棒があちらこちらに傾く。
あれ、もしかしたら、結婚前の身分て、とても大事? 結婚後にも関係あったの?
「そう――そもそもなのですがね、王妹殿下は嫁がれても未だ王位継承権は保持され、王族です」
「……え?」
「そのお子様も。位置的には王の姪となられる殿下も同じく」
だから王姪殿下と、皆が敬っているのだ。
何かしらあれば、彼女らもまた、玉座につかねばならない可能性があるのだから。
さぁっと、興奮状態で赤くしていた顔を、音を立てるように青くした侯爵夫人。
「伯爵家に嫁がれても、血筋というものはかわらないのですよ」
王族の地位はさすがに理解できたかと、辺境伯は謎の安堵でため息をついた。
これで理解できなかったらどうしようとすら、何故か彼の方がハラハラしはじめていた。
「聞けば、貴方の娘さんは……まぁつまり、王族に不敬を働いたのです。貴方の教育の賜物のようですね?」
「あ、あ……」
「付け加えるなら、王太子殿下と王太子殿下に嫁ぐ予定の公爵令嬢にも」
「公爵令嬢て……」
「そう、貴方たちより上の地位ですよ。さらに付け加えるなら、彼らのお気に入りの子爵令嬢にも失礼なことしたから……こうして、宿無しになったわけです」
「……宿無し」
「そもそも、身分を笠に着るその性根が如何なものでしょうね?」
男爵家に引き取られて、貴族の仲間入りをして。
正妻とその子供たちにはずいぶんと虐められた。
旦那様の婚約者にも。
それを旦那様に言って、慰めてもらった。意地悪を言う奴らを懲らしめてもらった。
そんなことはしてはいけない。
マナーを学びなさい。
身分を弁えなさい。
――うるさい。
婚約者のいる方にそのように近づいてはいけません。
――うるさいうるさい。
そんな意地悪で虐められた。
だけど私は侯爵家の跡取りと、旦那様と結婚できた! 偉くなった!
正妻の娘なんて、同じ男爵家にしか嫁げなかったじゃないか!
私は……あたしは――偉くなったんでしょ?
――あたしの考えって、間違いなの?
――あ……娘が、昔、私がされたことを、したの……虐めた側?
彼女の場合は、決して虐められていたわけではないのだが。皆して、彼女を心配して、注意や忠告をしてくれていたのに。
それを彼女はいつ理解できるだろう。
項垂れる夫人に、辺境伯はやれやれとため息をつく。数時間前にとある子爵家の跡取りがしたのと同じように。
「これは貴方が教えるべきことでしたよ」
教育をと……かつての婚約者も……。
侯爵に止めをさしつつ、放心状態の彼らをどうしようと……辺境伯は悩む。
え、せっかく借りた庭に放置したくないんだけど?
噂通り見事な噴水がぴゃーと水を吹き上げる。
実家に先に挨拶に行っている妻が、まだ幼い我が子が、喜びそうだ。自宅にも欲しいと言われたらどうしようかなぁ。うちの地方は水が貴重だからなぁ。
そろそろ子供が大きくなってきたから、王都にもこうしてまたちょくちょく来ることになるし、ここを借りることで毎年のお楽しみってことにしようかな。うん、うちの王都の屋敷、老朽化してきたから維持費が逆にかかるんだよね。今回も泊まるの止めたくらいだし。子供がもう少し大きくなったら修繕しようかと思ってたけど、たまにしかこないなら借りた方が良いかも。奥さんと相談しよ。
うん、少しの間借りに程良いよな、この屋敷。もしも問題あったときは他の屋敷や系列のホテルを融通してくれるっていうし。フォローしっかりしてるのが良いよね。
さすがカーロン社。さすがクロシュ子爵。商売上手。
それはこの目の前の侯爵家の毎年の楽しみだったのだが。もう二度と、それは訪れない。
辺境伯、実はニバール侯爵たちの後輩にあたる。
彼らの婚約破棄のあれこれを当時、同じ学園に通っていたから記憶に残っていた。
まるでその頃流行だった物語のような出来事だったから。
けれども、現実はそうではなく。彼らの卒業後しばらくして、学園は成績順ではなく家格により別けられることになった。
それは上位貴族と下位貴族、平民の問題が少しでも減るように。
彼らの行いもまた、問題のひとつ。
何と、流行はしばらくしたらまたはやるという。今また、彼らの子世代でそんな物語が人気があるのは、何とも皮肉な。
彼と婚約破棄した伯爵令嬢とも夜会にて会ったことがあるが、学生時代よりずいぶんと穏やかな顔をなさっていた。面倒のかかる婚約者の、その面倒をみなくてすむ日々は、どれほど心安らぎ幸福なのだろうか。
「そもそも奥方、あなた辺境伯を田舎の伯爵とも誤解されているようですが、この国では地位的には侯爵家の方々と同じですよ?」
「う、うそ……」
「あー……そうですね。今まであまり王宮の催しには参加していませんでしたが、貴方がたが同じ催しに呼ばれていたら、私の方が王族に近い席が用意されますね?」
そう、同じ爵位でも――家格により違いがある。席順が、まさに現す。
「まぁ、これは多くの方が誤解してますから仕方ないですけど」
王都に近い住まいほど、偉いと。
だったら領地持ちでない宮廷貴族たちこそが何よりも偉くなってしまうだろうに。
「フローラちゃんは、ギリギリ間に合って良かったねぇ」
妻の姪は、今回の渦中にあった公爵令嬢だった。
若人たちもそう勘違いしたものが多い。公爵令嬢と――王太子殿下すら。
長閑な地方に住まう、のんびりした人たちだと。
まあ、彼らは雷を落とされ、反省したようだと聞いている。罰をしっかり受けているとも。
「辺境を、北を……ただの田舎と思っちゃいけないよ?」
友人でもある北の、まさか王妹殿下も惚れるとは思わなかった男を思い浮かべる。本人はのんきに、今日も牛さんの乳搾りをしているだろう。
ニバール侯爵の幸いは、領地に小さな鉱山を持っていたことだろうか。その辺りは先代からの家令がしっかりと管理しているから、彼らの生活は彼らが無知でも何とかなっていたのだ。
上がダメでも、領地に代々住むものたちは、自らの生活の為に、日々しっかりと土地に根ざして頑張っていた。
だが、これからはどうなるだろうか。
とりあえず今日の宿を、どこか知り合いの屋敷に泊めてもらえたらと――そうするしかないと、ようやく屍から甦った侯爵はあちらこちらに使用人たちを走らせ始めた。
この祭りに合わせて親戚を呼んだから部屋は空いていないと言われたりして、使用人たちはしょんぼりして戻ってくる。ホテルも同じく空いていないと――カーロン社の横の繋がりだと、ニバール侯爵は子爵家と侮った自分に後悔するしかない。
「庭で寝泊まりしないでくださいね?」
先んじてうちの庭にも野宿はさせないと辺境伯は釘をさす。まぁ、野営経験豊富な自分たちと違い、侯爵家の面々は空の下で寝たことなどないだろうが。
侯爵家は、辺境伯の温情で、手違いで家を間違えたのは許してもらえた。
その年の家族旅行、うっかりと宿の手配を忘れてしまっていた、と。
騒ぎにならないよう、そうしてもらえた。それなら宿がないことをお友達に説明しやすいだろう、と。
果たして、侯爵家に部屋を貸してくれるお友達はどれほど残っているだろうか。
すでにほとんどの貴族が水面下で行われたこの一連を知っている。騒がないようにしている。
当事者で今日のここまで理解できなかったのは、逆にいっそのこと哀れである。
これから先、王家と公爵家――そして国最大の穀物庫である北に睨まれた彼らを。
その数日後。
ニバール侯爵令嬢は、学園を自主退学されたという。何でもご家族が使用人たちとともに王都まで迎えにきたとか――本当は旅行だったという噂も流れたが。
宿が無く、借りた馬車にて、寝泊まりしながら。
その馬車も、方々に報せて唯一貸してくれたのは――妹の教育ができなかった罪滅ぼしだと、侯爵夫人が下に見ていた男爵家に嫁いだ姉が、何とか手配をして貸してくれたものだった。
今までちやほやしてくれたものたちは……――。
未だに謝罪にこない厄介なのがいると公爵家が心配して、親戚のどえらい良識人(腕力武力戦力付き)を子爵家に紹介したコソッと裏話。
辺境伯もお得で素敵な常宿見つかりWIN-WIN。
(シーズンオフ中も王都に訪れる方はいるし、自宅でお茶会開くのが難しいときに一日レンタルなどもあり。絵画の展覧会や音楽会など、イベント会場としても貸し出ししていることを了承されるなら、などなど例規にあります)
…この親ありて、というのはあまり好きではなかったのですが…今度こそきちんと教育されますことでしょう。




