07 第四〜五局 反則!?
「――? それ〈二歩〉ッスよ?」
「二? えっ? …………あっ! あぁぁぁぁぁぁーーーーっっ!!」
第四局の幕切れはあっけなかった。
こちらの反則負け……。
後輩が〈美濃囲い〉から〈高美濃〉へ陣形を整備しかけたところで、ここが攻め時と俺から歩を突き捨て、急戦調に戦端が開いた。
中盤のヒリヒリしたねじり合いから、おたがい相手の陣地に飛車を成り込ませて龍をつくり合う。こうなったら、横からの攻めをどちらが先に間に合わせるか、だな。
速度勝負だ。
だが後輩は左桂をうまくさばき、龍と連携させて味よく攻め込んでくる。こちらがやや押され気味。
そこでなんとか耐久力をつけようと、自陣の金の真下に支えの歩を打つ。ひとまず〈底歩〉で強化してから攻勢に転じた。
つまり、その後の俺は攻めることばっかりを考えて、最下段に打った歩のことを、あろうことかすっかり忘れてしまったのである。級位者あるある。
そして数手進み、
(お? ここで後輩の金を上ずらせれば……かなり有利になるな。よし!)
ここで使える歩の手筋といえば――〈叩きの歩〉!
――だった。
――だったんだよ……。
――ぐあぁぁぁぁぁ……。
駒台の歩を持って、「うりゃっ!」と勢いつけて相手の金の頭に打った手が、まさかの二歩……。
そう。将棋のルールでは、同じ縦の筋に歩は二つ使えないのだ。
ウザ後輩よ……、自爆に悶える俺を笑いたければ笑うがいい……。
「ま、まあ……、〈二歩はいい手〉って言いますもんね? たしかにここで歩を叩くのは、いい手ッス」
あれ、笑われないぞ!? むしろなぐさめてくれてる?
でも俺はくやしい。すごくくやしい。負けたというより、自分の不注意で勝負を台無しにしてしまったことへの歯がゆさが、身悶えるような、なんとも言えない感情を引き起こしていた。
「怒り」に近いがちょっと違う。たとえるなら「大勢の人がいるところでステージに立ってて、何かやらかして、焦って顔がカッと熱くなる」、そんなときの気分に近いのかもしれない。
悔やんでも悔やみきれなかった。
「待――」
つい〈待った〉という語が口から出かかったが、それはダメだ。言葉をぐぬぬ……と飲み込む。俺はこの対局の冒頭で、後輩の〈待った(わざと)〉の要望をつっぱねている。そんな自分が同じ言葉を使えるわけがない。
でもくやしいっ! うぁーっと頭を抱えていると、
「『待』、何ッスか〜ぁ?」
やっぱり煽りだしやがった! おまえ、俺が今、何言おうとしたかわかってやってるよな!?
しかし、これはもう「負けは負けだ」と納得する。後戻りはできない。後輩の煽りで逆に冷静になれた。
ふーっ、と息を吐く。
「――負けました」
「あれ? いいッスか? まだまだ際どい勝負で、ここからがおもしろくなりそうですし。このまま続けても……」
「いや、二歩は二歩なんで。こちらの負け」
「そ、そうッスか……。そうッスよね……。二歩ッスもんね」
ちょっと気まずい雰囲気になったな。しばらく二人で勝負の終わった〈投了図〉をじーっと眺めていたが――
「次、歩を叩く以外にやるとしたら、どういうのがあるッスかね?」
「うん? うーん……。歩のかわりに使える香を拾う……かな?」
「そうこられたら……、こう、ッスか?」
彼女が駒を動かし始めた。
「……なるほど、じゃあこちらからこう、かな?」
「え〜? そっちじゃなくて、こう、じゃないッスか?」
「いやいや、それはダメだろ!? やっぱりこうだよ」
しゃべりながら、なんとなく指し次いでいく。それからしばらく〈感想戦〉の時間が続いた。
▲△▲△ しばらくして ▲△▲△
「それじゃあ先輩、お待ちかねの――」
――来たかッ。
「セクスィ〜・ストリップ・タ〜イム! ひゅ〜っ、ひゅ〜っ!」
いや盛り上げなくていいから。
対局中は先を読むことに熱中していてすっかり忘れていたが、すでに俺の上半身は何もない。なので脱ぐとすれば下半身しかないわけで。
ちらりと後輩の様子をうかがう。
(こいつめ。目をキラキラさせて、ランランさせて、ワクワクしてやがる……)
「脱ぐとこ動画に撮っていいッスか?」
「ダメだろ! 撮ったらお返しにおまえのも撮るからな」
「あ。そりゃそうなるッスね。はい、じゃあ先輩のズボン脱ぎ脱ぎシーン、目に焼きつけるッス」
(ん? 今こいつは、俺がズボン脱ぐって思ってんのか? ふふふ――ならば!)
「よーし、脱ぐぞー、今すぐ脱ぐぞー(棒)」
言いながら、いそいそと立ち上がる。
「おぉ!? 今回は積極的ッスね〜」
ふふ、後輩め、引っかかるがよい。
カチャカチャとベルトをゆるめ、ジィーっと前も開ける――ふりをする。
「おっ? おっ? まじッスか? まじッスか?」
両手を頬にあてる後輩。指先が目元を隠して――いるように見えて、しっかりばっちりこちらを見ている。
そんな後輩に向かって、俺はきっちり目を据えた。
「な、何ッスか……。いきなり見つめるの、なしッスよ……」
まずは彼女の視線をうまいこと下半身からそらすように誘導したい。俺が後輩を見つめているように見せかけて、眼と眼を合わせて、しばらくの間、俺の顔に視線を固定させるのが目的だ。
よって今、後輩が見ているのは、だいたい俺の顔と上半身あたりのはずだ。ズボンまわりは一応見えているけど、あんまり見えてなくて、意識の範囲の外――くらいになっていると思いたい。
そして一気に脱ぐ動作のふりをして、勢いよくしゃがみむ。そぅれ、ズボッと――
「きゃ〜っ(棒)」
後輩の悲鳴にまったく切迫感がこもってない。楽しそうだなぁ……。
「――って、あれ? 先輩、しゃがみ込んでるだけじゃないッスか。脱いでないじゃないッスか?」
ふっふっふ……、後輩め、引っかかったな。
「え〜、先輩、脱いでくださいよ〜?」
「ん? もう脱いでるんだが?」
余裕をもった鷹揚な態度でもって対応する。
「『もう脱いで』って……。――あ!」
ようやく気付いたか。
「靴下! それも片方!」
「ふっふっふ」
「ずるいッス! ずるいッス! 反則ッスよ!」
「『一枚ずつ』って約束だったろ? 俺はルールにのっとった行動をしてるだけだが?」
「む〜〜〜〜〜〜っ、そうッスけど、先輩のくせにずるいッスよ!」
「後輩よ、何を言ってもムダだ。ルールはルールだ」
「ずるいッス! やっぱりずるいッス!」
憤慨して興奮した後輩がブンブン腕を振って抗議しはじめた。その腕振りに連動して彼女の胸部の膨らみも、たゆんたゆん揺れていて……。
やめてくれ……その揺れは、目に毒だ……ありがたや。と、毒を目の中にたっぷり吸収していると――
「ッス」
ひょいと後輩が手を差し出してきた。
「ん? 手? ……を握る、のか?」
「違うッスよ。手袋……じゃなかった、靴下! 預かるッス」
手を出しているのとは反対の手で、ぽんぽん、と自分の横を叩く。そこには衣服類が戦利品のように重ねられている。ああ、そこに追加したいわけね。コレクションかよ。
「いいけど。脱ぎたて……なんだが?」
「鼻つまんでますから」
そう言ってるのに全然鼻をつまむことなく、そして汚そうに指先でつまむこともなく、彼女はごく自然な動作で、俺の脱ぎたてホカホカ靴下(片方)を受け取った。
それをちょっと持ち上げるようにして、しげしげと眺めている。
あちこち擦り切れてくたびれてるし、毛玉もあるしで、ちょっと恥ずかしいな……。
「へ〜、これが先輩の靴下ッスね……」
「悪かったな。ボロいので」
「ん? あ〜、いやそれは普通じゃないですか? 普段履いてればこんなもんッスよ。それよりもおっきいな〜って思って見てたんスよ。先輩、やっぱり男の人なんだなって」
「お、おぅ……」
そう言われると、どことなくこそばゆい。
「でもまぁ? やっぱり少し臭うッスかね?」
おい!
そんなこんなで靴下(片方)が、後輩のコレクションに加わった。
▲△▲△▲△▲△
「さて、それじゃあ、ええと何局目? 行きまスかっ」
「五局目だよ」
「あ、そうですね。ちゃんと覚えてて、さすがッス」
「おまえもしかして……、適当にやってるな?」
「ま、まあ……えへへ」
「奇数番がおまえの先手な」
「あ、な〜るほど。そう言われればそうッスね。実は先輩を脱がせるのが楽しくて、そっちにばっかり集中してたッス。えへへ」
楽しそうだなー。しかし楽しいのはいいことだ。今日の後輩は、いつにもまして生き生きしている。いつにもまして元気なので、……いつにもましてウザい。
「はい、じゃあ五局目ッス。よろしくッス」
挨拶もだいぶ軽くなってきた……。
「う〜んと……。ズズズ……。ごっくん。まあこれッスかね」
後輩は初手をお茶したあと、角道を開けた。
(▲7六歩か。手が広いんだよなあ……)
後輩はここまで、無敵囲い、アヒル囲い、パックマン、とマイナー戦法を多用している。もし初手で飛車先の歩を伸ばしてくれると居飛車がほぼ確定なんだが、角道を開けただけではまだまだ作戦がわからない。
(こちらも角道通して、止めて、飛車振って……いや、もし相振り飛車になると自信がない。どうしたらいいかわからなくなる……)
練習での対局ならともかく、今回は負けると即脱衣の、生きるか死ぬかの戦いだ。不慣れな作戦にチャレンジしすぎて死亡フラグがたってからでは手遅れになる。なのでなるべく勝率高そうな方針でいくのが吉のはず……だ。
(ここは居飛車でいくか)
飛車先の歩を進める。
「お、△8四歩ッスか。〈王者の一手〉ッスね〜。矢倉、横歩に角換わり、はては相掛かりなんかの居飛車系はなんでも来いってわけッスか」
「ふっふっふ……」
自信はないが、自信のあるフリをして胸を張る。ときにはハッタリも大事だ。童貞には、ときにハッタリも必要なのだ。うん。
「……先輩って、ドーテーっぽいッスよね〜?」
こいつ心の中を読んできた!? エスパーか!? ドッキリするじゃないか! ちょっとこの後輩さん、ときどき妙に鋭くてこわいんですけど!
「な、なんだよ。いきなり」
「いや〜、指し手がなんだかんだで慎重なんスよね。さっきのパックマンにも食いついてこなかったですし。将棋の指し方って『性格が出る』っていうじゃないッスか。攻めっ気の強い人は、抑えてるつもりでもいつの間にか攻め将棋になってる、とか。逆に受けがめちゃくちゃ強い人とか。先輩は――わたしがアヒルしたときに端を攻めてきたみたいに暴発するときもあるッスけど、全体としてはバランス重視の慎重派に思えるんスよね。だから実生活でも慎重なのかな〜って。なのでドーテーかな〜って思ったんス。それだけッスよ?」
ポチポチと手が進む。
「い、いや俺は……経験豊富…………とか?」
「にゃははは! 『とか?』とか! なんでそこで疑問形っぽくなるんスか! 語尾が軽く上がっちゃうんスか! そういうとこッスよ? バレバレッス!」
「べ、別にどうでもいいだろっ!?」
「え〜? どうでもよくはないッスよ? せぇ〜んぱぁ〜い、はぐらかすんスか〜? その歳にもなってドーテーとか、奥手にもほどがあるッスよぉ〜? くふふふ……」
「う、うるさい! こういうのはな……、セクハラだぞ!」
くっ、後輩め……。だが言われっぱなしはくやしい。指し手の手つきだけは強くビシっといく。
「せくはら……セクハラッスか〜。くふふふ……」
「……そういうおまえはどうなんだよ?」
「ん? どうって。何がッスか?」
「しょじょ……コホン、け、経験はあるのか?って意味だ」
とたんに彼女の頬がパッと赤くなった。
「なっ、ななななな、なんスかいきなり!」
「いや、おまえが先に聞いてきたから、同じことを聞き返しただけなんだが!?」
「……せ、せ、せ! セクハラ! セクハラッス! 先輩はセクハラおやじッス!!」
えー。理不尽だ……。
「む〜、せくはら……先輩のセクシャル……ハラハラ……はらすめ……すめ、スメル? そのスメルな靴下のうらみ……はらさで……おくべきか」
後輩はしばらく妙な文句をぶつぶつ言いながら指していたが、
「……まあわたしは? 先輩と違って? 大人? ッスから? 経験豊富? ッスし?」
まだその話題続けるのか。そして語尾が全部尻上がりで、嘘なのもバレバレなんだがなぁ。
「はいはい、そうですかそうですか、後輩ちゃんは大人ですか」
「なんスかそれ。軽くあしらわれたみたいで、イヤッスよ?」
「はいはいそうでちゅねー」
「ぶ〜」
と、やり合いながら、また手が進み、盤上ではおおよその形ができていった。