02 後輩の部屋(実質的にお持ち帰りだったと後で気付いた)
後輩にリアル将棋盤と駒をエサに誘われ、ホイホイついてきた俺。
後輩のマンションの部屋の前に、今は二人で立っているところ。
彼女のほっそりとした手がドアを開く。
ガチャッ、ギイィィッ……。やや重めのドアの音。
「ほい、じゃあ、どうぞ〜」
後輩がドアに体をくっつけてスペースをつくった。んん? 俺を先に入れようとしてる? なぜに?
「? 電気とか……」
「! ああ! そうッスそうッス、でへへ……」
あわてた様子で玄関内に突進する後輩。
支えを失ったドアが、ギイィィッと、また閉まりかけてきたので手で止めていると、
「あぁっと……、すみませんッス。すぐ脱いじゃうんで。入っちゃってください」
「お、おぅ……」
彼女の「脱いじゃう」という言葉に、一瞬反応してしまった……。別に「靴を脱いじゃう」だけだし。それだけだし! 他のところを「脱いじゃう」わけじゃないし!
(けどなあ……)
明らかにいつもよりアタフタそわそわした感じの後輩の後ろ姿を見ていると、ちょっと緊張してるのかな? と思う。
ちなみに俺は、かなり緊張しています。はい。
ウザ後輩とはいえ、いちおう女子だ。女の子の部屋で、これから二人っきりで過ごすのだ。下心などなくても、少しくらいは緊張するってもんだ。
ここまで歩いてくるときは、それなりに普通だったと思う。普通に二人で一緒に歩いてきた。大学近くの、学生マンションが立ち並ぶ区画。まわりの部屋に住んでるのもほとんどが学生。なので多少騒いでも、それほど目くじらを立てられることもない。明け方近くまで駐車場で酒盛りとかをしないかぎり……。
つい先日も、酔っぱらった誰かが何を思ったのか、ベランダ側の壁のパイプをよじ登って上の階まで行こうとしたのがいたらしく、そのときはさすがに通報があって、けっこうな騒ぎになったって話は聞いた。その後、大学当局から全学生に通達が出たりして――
「あ〜、そういうことも昔はあったッスね〜」
彼女が遠い目をする。いやそんなに昔のことじゃないから! つい最近のことだから!
そんな会話をしながら、普通にここまできたんだった。途中のコンビニで飲み物とお菓子を買って。……完全に家飲みのコースだな。
ガッチャン、とドアが閉まった。
「てきとうに上がっちゃってくださ〜い」
キッチンの電灯をつけつつ、浴室につながるスペースをざっと片づけつつ、後輩が奥の部屋に向かう。
ふーん、こんなふうにテキパキ動くんだな。しっかりものだ。性格はウザいけど。意外な一面が見られておもしろい。
キッチンまわりも、つい観察してしまう。洗剤とかスポンジとか、壁に下がったフライパンとかお玉とか。生活感がありつつも、きれいに使っているようだ。
「そういやおまえ、自炊とかやる方なの?」
「や〜ッスねぇ……。なんスかそれ。親みたいなこと言わないでくださいよ〜?」
「お、おぅ……。すまん」
ついでに部屋の奥に進む後輩の後ろ姿も、じっくりと観察してしまう。動くたびにさらさらと流れる髪。厚地でざっくりめの、ゆったりカーディガンを着ていて――そういえば、これよく着ているな。お気に入りのやつなのかな?
それから彼女の動きに合わせてゆらゆらと、これもよく揺れるスカート。将棋界の一部で伝説として語りつがれている〈鉄のスカート〉みたいなロングなのでもなくて、膝下くらいの長さのスカートだ。別に短いとか、ピッタリしているとか、そういうわけでもない。ごくごく普通のスカートなんだが、普通とはちょっと違うところもあるような気がする。
(なんだろ。折り目? ドレープ? が多い?)
スカートのことはよくわからないな、と思いながら、裾からすらっと伸びている黒タイツを見るとはなしに見ていると――
「あっ、ちょちょ、ちょ〜っと待っててくださいッス」
と黒タイツがしゃべった。
ん? 顔を上げると、部屋の間仕切り戸をうすく開け、そのすきまから向こう側に体をすべり込ませつつ、すまなさそうな表情をつくった後輩が、くりっとしたお目々でこっちを見ている。
なるほど、お部屋の整理だな。というか部屋に上げてから気付いたのか。
「おー、ゆっくりでいいよ」
「えへへ、すぐ終わるッスからね……」
そう言いながら、やっぱり「申しわけない」という様子でゆっくり戸を閉めていく。
そして音もなく戸が閉まった。
うーん、やっぱりヤツはちょっと緊張気味なのかな? 男を部屋に上げたりとかは……あんまりないんだろうな……、と思いかけたが、なんだか他の男のことはあんまり考えたくない気がして、またキッチンをぼんやり眺める。やっぱりきれいに使ってるなとか、この調理器具ってどう使うのかなとか、もう一度見回しつつ時間をつぶした。
▲△
「お待たせしました〜ッス」
再び戸が開いた。
「ご開帳〜♪」
ナニ言ってるのかな、こいつは!?
「お邪魔します」
「散らかってるッスけどね」
今おまえが掃除したばっかりだがな。
室内は普通だった。いや普通というか、普通に居心地のいい部屋だった。明るい色のカーテンが今は開けられていて、大きな窓から明るい外の光がたっぷりと差し込んでいて、やたら採光がいい。
「ここ、明るいなぁ……。いいなぁ……。」
「ふっふ〜、昼間は電気いらずッスよ!」
ベッドにローテーブル、本棚、チェスト。シンプルではあるが、基本的なものがそろっている。あと、家具の一角にメイクコーナーがちゃんとあったり、全身が映せるミラーがあったり(俺の部屋には半身用しかない)と、「あ、こいつも女だったか……」と今さらのように納得した。
うん、こいつは女なんだけどね。そしてこいつは、普段わりとざっくりめの服を着ていることが多いから他人には気付かれにくいようなのだが――だが! このウザい後輩の胸囲サイズが、世の女性の平均サイズを驚異的に上回っている事実を、俺は知っている!
――そう、あれは風が強い日の午後だった。学内でたまたま偶然一緒になって、たまたま行き先も同じだったのでなんとなく一緒に歩いていたときのこと。ふと隣を見たときの、あのときの衝撃を俺は忘れない。まさしく青天の霹靂。
向かい風が強く、服が彼女の身体に巻き付くようにへばりついて――な、なんだと!? おまえ、そんな所に、そんなモノを、その、よくぞお持ちで……と口をあんぐりさせていると、
「ん? 先輩、この風の強い日に、なんでそんなに大口開けてるんスか? ちくわが飛んできたら、ずっぽり入りそうじゃないッスか」
と、けげんな顔をされたものだ。
それ以来、後輩の胸のサイズはいくつなのだろうと、もわんもわんと想像して、いろいろいろんな考察をしたことも……いや、あるんだけど、ないと思いたい。なかったことに、しておきたい!
くそう! 後輩のくせに! ウザいくせに!
そんなことを思い出していると、
「まあ、てきと〜に座ってくださいね〜」
お、おぅ。用意されていた座布団の上に座ると、
「ん?」
と手を差し出された。
何だ? 手を差し出されたということは――手を取れってことか? え? 手と手を取り合って俺たちはどうするんだ? 唐突にミュージックがスタートして、そのまま二人はダンシングしだすのか?
「ジャケット、お預かりしま〜ッス」
? そういう……ものなの? 着ていたジャケット――というかカバーオールなんだが――を脱いで渡す。
実はこのときの後輩の「ジャケットお預かり」には、将棋で数十手先を見越しているような、奥深いたくらみが隠されていたのだが――このときの俺は、まだその罠につゆとも気付いていなかった……。そんな深い読みは俺にはできない。もしできてたらホイホイ渡さない。くそぅ……。
▲△
後輩の部屋の壁に、いつも着ている自分の服が、しれっとハンガーに掛かって妙になじんでいる……。変な気分だな。いや変というか、やや居心地が悪いような? 体のどこかがもぞもぞする感じ。
「で、これがッスね〜。よっと」
と彼女が言いながら取り出してきたのが、
「将棋盤ッス!」
「おおっ。……あれ、かなり本格的だな?」
卓上用のもの。よくある折りたたみ式のじゃなくて、分厚い一枚板のやつだ。厚さのせいだろうか? 重厚感もあって、年季もかなり入っているように見える。
「へへへ、死んだおじいちゃんの形見ッスよ」
「まじでか……」
祖父から孫へと代々受け継がれていく想いと歴史。それをたしかに伝える道具たち……。なんかいいな……。
「嘘ッス。生きてるッスよ〜」
こいつめ。
「あ、飲み物。コップは……。準備してくるッス。適当にくつろいどいてくださ〜い」
手伝おうとしたが、「ほらほら、この駒もいいものッスよ、見てみてください」と、暗に座っとけ、と指示されたのでそれに従う。
じゃあ駒も見てみよう。パカッ。〈駒箱〉の蓋を開けると……、おぉ、ちゃんと巾着の袋に入ってる。〈駒袋〉ってやつだ。やっぱり本格的だ。
袋からいくつか取り出す。
「へー……」
てっきりプラ製のかと思っていたが、木製でキリリとした佇まいをみせている。
「字は印刷? スタンプ? の安いやつなんスけどね」
そう言いながら後輩が飲み物を差し出す。さんきゅ。
「いやいや、木製ってだけですごくいいよ。それにこの――」
たまたま持っていた〈飛車〉の駒を裏返す。〈龍王〉の字が、黒字でかっこよく書いてあった。
「裏側がさ、朱? じゃなくてさ、黒ってのが玄人っぽくて、いい」
「あ〜、〈成る〉側を朱色? で書くのは、たしか初心者がわかりやすいように、でしたっけ?」
「――ということは、後輩は初心者……ではなく、それなりの実力者……のようだな?」
「ふっふっふ、さてどうッスかね〜?」
ふふふ……、ふふふ……、と不敵に笑い合う。牽制のつもりだが、傍から見たら、たぶんバカっぽいだろうな。
それじゃあ、ちょっとやってみますかと、二人で対局の準備をした。
「どうせなら、ネット中継でやってるような、あんな感じでしないッスか?」
「無駄に高そうな椅子に座って、無駄に厚いアクリル板があるシュールなやつ?」
「いやいや、そっちの国営放送のほうじゃなくて、畳の対局っぽい感じッスよ?」
と言うとつまり? 正座して、足のついてる将棋盤置いて、横に〈駒台〉がついてる感じで? でも後輩の盤は卓上用の足なしのやつだ。それを直に床に置いてやるのは、できないこともないけどちょっと無理がありそう。そう思って、
「でも、それだとやりにくくないか?」
「その辺は適当につくるッスかね〜。え〜っと……」
彼女は、その辺に転がっていた尼橋天.comの空き箱を適当に見繕うと、テーブル横で組み合わせていった。なるほど、これを土台にするのか。
将棋盤の位置が決まると、次に駒台の置き場をつくる。駒台とは、対局中に取った駒を置くところだ。今回は、さっき駒が入っていた駒箱をひっくり返して、その代用とする。本棚から文庫本を数冊抜き出して重ね、うまいこと調節し、盤とだいたい同じ高さにする。
「まあ、こんなもんッスかね」
ふっ、どうだっ、という顔でパタパタ手をはたく後輩。
あとは双方の座る位置に座布団を置き、準備万端となった。
「そういえば時間はどうする? 無制限だとちょっとな……」
「あ〜、そうッスね……」
さすがに〈持ち時間〉を計る〈チェスクロック〉は持っていないらしい。
チェスクロックというのは、時計が二つ付いている機器だ。自分の手を指したあと自分側の時計の上のボタンを押すと、相手側の時間が減っていく。早指し対局の番組とかで、棋士の先生方がバシンバシン時計を叩き合っているアレだ。アレは決して叩き壊し合っているわけではない。勢いあまって意図せず壊してしまう人はいるかもしれないけど。
「先輩って、〈将棋ダンジョン〉はいつもどれでやってるッスか?」
対人戦ができる将棋ダンジョンアプリでは、持ち時間に10分、5分、3分のパターンがある。双方がそれだけの時間を持ち、時間が切れたら負け。追加の秒読みはない。なので、どんなに長くても20分あれば決着がつく。
「10分が多いかな。5分はたまに。3分は慌てるのでやらない」
「ほうほう……先輩は時間が短いと慌てる……と」
っ! しまった! 弱みを見せてしまったか!
「ふっふ〜、冗談ッスよ。わたしも10分が多いので、これからするのも同じような時間感覚でどうッスか? 終盤の切れ負けはないッスけど、ざっくり一分以内に指す感じで」
「おけ」
「なんちゃって秒読みで急かすのもアリで」
「……まじか」
「ふふふ、冗談ッスよ?」
ぐぬぬぬ……。
それから二人、盤の前に座った。
「…………」
「…………」
急に無言になる二人。
(近いな……これ)
9×9のマスで構成されている将棋盤というのは、盤の全体に手が届く範囲でないとやりにくいので、サイズは思いのほか小さい。
そんな小さい盤の前に、すぐ目の前に、すぐそばに、後輩がちょこんと正座していた。さらに――
(あれ? こいつ、こんなに小さかったっけ?)
座布団の内側にすっぽりおさまって、ややモジモジしている後輩は、いつもよりずいぶんとおとなしく、かわいら――いやいや、小さく見えただけで、ほかに何もないぞぅ! 膝の先や足先が座布団からはみ出ている俺とはずいぶんな違いだなーって思っただけだぞぅ!
「これ……、思ったより近いッスね〜、えへへ」
「ウサコは対面でやった経験ってどのぐらいある?」
「ん〜、子どものころ、おじいちゃんにつき合ったり、学校の休み時間に、とかッスかねえ。最近は全然。この将棋盤もこっちに引っ越すときなんとなく目について、なんとなく持ってきた、くらいッスから」
「そうか。俺も対面じゃ長いことやってないな……」
「まあそんなわけで、お手柔らかにッス」
「こちらこそ、だな」
そんな話の途中だが、後輩は何やらキョロキョロとまわりを見回していた。自分の部屋だろうに、まるでどこか違う部屋にいるような――そんな態度だった。
たとえばテーブル越しに座っているときは、おもに相手の上半身が見えるわけで、下半身のことはあまり意識しない。けれど今はテーブルよりもさらに近づいてて、しかも相手の上から下まで体のすべてが見えている。顔を動かしたり、目をきょろきょろさせたり、首を傾げたり、腕を動かしたり、呼吸で胸が上下したりするのも見て取れる。
息づかいの強弱もわかるし、体温までも伝わってきそうだった。
後輩が腰をもぞもぞさせたり、足をずらしたりするのも一目瞭然だ。
彼女の脚は膝頭までスカートにくるまれていて、ふくらはぎにも布地がかぶさっている。けれど、ちょっと身じろぎしただけで横からちらっとタイツがのぞくのをバッチリ確認できて――うん、見えるだけだな。今現在見えているものを、見えているまま、そのまま言ってみただけだな。別に後輩の体を上から下までエロ目線で観察したいとか、そういうことは全然考えてないな。
「う〜ん……、これがもしかして、『膝を突き合わせる』ってやつッスかね?」
「そ、そうだなー」
「ふふふ……、そうしたら先輩とわたしは『膝を突き合わせる間柄』ってわけッスね」
「そ、そうだなー。――っておまえ、その言葉の意味わかってる!?」
「え〜わからないッスよ〜? 決して『親密な関係の二人』をあらわす言葉だなんて、これっぽっちもわかってないッスよ〜?」
こいつめ……。
「それに何だか……」
後輩は両手を膝の上におき、ちょっと肩をせばめながら、やっぱり周囲をキョロキョロし、
「料亭とかで……お見合いするときって、こういう感じなんスかね〜?」
ナニ考えてんのかな、こいつは……!
「あ、ちょっと動揺してますか? いいッスよ〜、たくさん動揺しても。将棋は心理戦ッス。先輩が動揺すればするだけ、こちらが有利になるッスから」
おのれ、それが目的かっ! こいつめ!
俺が「こいつぅ」と、ウガーッと腕をあげて襲いかかる動作をしたり、後輩が「キャ〜ッ」と身をすくめて防御する遊びをひとしきりやったあと――
居住まいを正す。将棋番組のみようみまねだが。
「では」
「はい」
「「よろしくお願いします」」
一礼して、俺たちの対局が始まった。