01 学食の後輩
「うーん? これどうなってんだっけこれ……。取って取られて? 違うな……こっちか? じゃ、こっちからいくと、こうこうで……あれ?」
昼下がりの学食。窓際の席。スマホの画面をじっと見つめて混乱気味につぶやいている学生がいたら、それはたぶん俺だ。
べつに授業で出されためんどくさいレポートに取り組んでいるのではない。複雑化する社会問題についてわかりやすく解説してるはずの記事が逆に難しすぎて困っているわけでもない。人生の困難にぶちあたって身の振り方に悩みまくってる――わけでも、もちろんなくて。
将棋アプリだった。
しかも今やっているのは、対人とか対CPUとかの対局じゃなくて、〈詰将棋〉だ。日替わりで出てくる問題を、うんうんうなりながら考えて、〈詰み筋〉を探し、見出していく。
詰将棋なんて、そもそも知っている人のほうが少ないだろう。たとえ知ってても、「地味だな」とか「マゾだな」みたいな感想をもつ人もそれなりに多いと思う。それもわかる。たしかにちょっと苦行っぽいところがあるし。そういえば昔、「詰将棋、意味ないです」って言い切っちゃった棋士の先生がいたって話もあったような……?
けれど、やり方がだんだんわかってくると世界が変わる。パズル感もあって楽しいし、詰むまでにびっくりするくらいきれいな流れがあったりして、結構おもしろい。
それに、最後の〈詰み〉まで全部が見えて、「うぉっしゃっ!」と思わずガッツポーズしたくなる感じとかは、ゲームの高難易度クエストで突破口が見えたときのそれに近いかもしれない。アドレナリンがどばどばって出まくる感じだ。その達成感が忘れられなくて何度もやっている気がする。
そんなわけで、今日の授業が午前で終わった俺は、一人ボヤきつつ詰将棋を解いていた。
テーブルの上には空の食器とトレイ。午後の授業はもう始まってるし、それに加えて混雑の時間もずらすようにしたので、今の食堂内はガランとしている。他にはヒマそうなのが数人、ちらほら座っているかいないか、というくらい。
「こっちの駒を取って、取って……そうするとアレ? 王様に逃げられて? ……どうなってんだ?」
つぶやきながら湯呑に手を伸ばした。
お茶の残りを飲もうとしたんだが、手が皿にふれる。おっと危ない、ソースに注意。
画面を見つつ、ソースを注意しつつ、安っぽいが頑丈なプラ製の湯呑を手にぐいっと――
ありゃ。入ってない。いつのまにか全部飲んでしまってた……。
「やれやれ……」
ため息をつきながら、お茶を追加しようと立ち上がると――
くすくすくす。背後で笑い声。あ、この声はよく知っているぞ。ウザいあいつの声じゃないか……。
「鳴清せんぱ〜い、『やれやれ……』だなんて、何ベストセラー小説の主人公みたいなセリフ言ってんスか〜(笑)」
ウザい奴の、ウザい問いに、返す答えは決まっている。
「うっさい。だまれ。ウザ後輩」
「え〜、そこはカ・ワ・イ・イ後輩って言うところッスよ? 先輩のことをいつもこんなに慕っている、カ・ワ・イ・イ後輩ちゃんッスよ〜?」
うん。ウザいな、と思いながら、声をかけてきた後輩をあらためて見る。
ちょい長めのボブみたいな……、うーん、女子の髪のことはよくわからないけど、彼女に似合ってる髪がサラサラ揺れて。目はくっきりくりくりしてて、よく動いて。鼻すじはスキッとしてて。結構大きめにワハハと笑う口も容貌よく……ってあれ? ほめるところしかないな……?
たしかに外見はかわいいかもな、と思う。しかしこの後輩は、それ以上に内面が相当ウザい性格の、ウザ後輩なのだった。
こいつの名前は、兎近 沙歩子。
名前の最初と最後の「兎」と「子」をとって、まわりからは「ウサコ」と呼ばれてかわいがられている。が、俺にとっては「ウザコ」だ。
そういえばあるとき一緒にいた彼女の友人が、「黙ってさえいればかわいい系……」とかつぶやいてたなあ。言い得て妙だった。
後輩は俺のすぐ後ろの席に座っていたらしい。それならそうと言ってくれればいいものを……。
「え〜、先輩を観察してたんスよ? じっくり。ボッチ先輩の挙動が不審すぎて、すっごいおもしろかったッスね〜。あっはっは」
こいつ……。お茶入れ機から注いだお茶を、その場でヤケ飲みする。げぷ……。
「そうか。じゃな」
さっさと席に戻り、トレイを手にしてさっさと出て行こうとしたところ、
「で、詰将棋ッスか?」
(おぉ? わかるのか!?)
誰かに画面をチラ見されて「将棋?」と聞かれることはあっても、「詰将棋?」と聞かれることはほとんどない。「チェス?」とか「囲碁?」とか聞かれることの方が多いかな。チェスはまだわかるが、囲碁と聞いてくる人は、たぶん囲碁と将棋の区別がついてない人だ。というか「何かのゲーム?」と、ぼんやりとした感じで質問されることが、いちばん多い気がする。
なのでピンポイントに「詰将棋」と、それが何かわかって話しかけてくるやつは貴重だ。レアだ。こんな希少種が身近にいたとは。
後輩とは今まで将棋の話をしたことはない。いつもだいたいこいつがちょっかい出してきて、ウザがらみしてきて、それにこっちがウガーッと反応したりして、彼女がワハハハと笑って、そんなんばっかりだ。
あ、いつか図書館でたまたま偶然ばったり隣の席になったときは、びっくりするくらい静かだったな。こいつほんとにウザ後輩か? 人違いじゃないか? そっくりさんじゃないか? 別世界におしとやかな後輩がいて、そいつと入れ替わってないか? というか俺のほうが知らないうちに異世界に飛ばされてんじゃないか? とか気が気じゃなくて、本の内容がまったく頭に入らなかったことがあった。
後輩についていろいろ考えすぎて、だんだん頭がくらくらしてきたので、切り上げて図書館から出ようとしたら、さも当然のようについてきて、
「せんぱ〜い、ず〜っと同じページのままだったじゃないッスか〜、ナニ考えてたんスか〜?」
とニヤけながら聞いてきたので、
「おまえのことだよ……」
上の空だった俺は、そのままぼそっと口に出してしまった。そしたら、
「そそそ、そう……ッスか、……ふにゅ」
あれは妙な反応だったな。てっきり「や〜ん、なんスか、それ〜。『フッ、おまえのことだよ……(きらり)』って今どきドラマでも使わないッスよ〜、アハハ」くらいは言うものと思ってたんだが……。
まあ、いいや。
それで今だ。今ここに将棋の知識を持ってそうなやつがいるなら、がっちりキープしておかねば。
「将棋したけりゃ将棋部に行けば?」というのが一般的な意見なんだろうけど、「将棋部は覚悟がなければ行ってはいけない」との、誰かの言葉があったはず。ずばり核心をついていると思う。
俗に、在学中に近寄ってはいけないサークルが、この世には二つあるという。
それは「将棋」と「ワンダーフォーゲル」。
理由は、「ハマると人生を棒に振るから」。
うーん、将棋に関してはなんとなくわかるかな。一歩先に底なし沼が広がってるのがわかるときがある。ワンゲルはやったことないからわからないな。
個人的には、「将棋はほどよく楽しめるくらいがいい」と思っている。ネットで指してても勝ったり負けたりと半々くらいだ。強くなりたいとは思うけど、寝食を忘れて没頭しようとかは、今のところは思っていない。今のところは……。うん。
将棋の話をふられたので相応の応対でこたえよう。学内や街なかで見かけたら、なるべくそっと距離をとっておきたいウザ後輩。けれど、将棋が好きなら話は別だ。
「そうそう、将棋。知ってるとはな。意外だな」
「そうッスか〜? 先輩がやってたのって〈将棋ダンジョン〉の日替わり詰将棋ッスよね?」
またしてもピンポイントで、今度はアプリ名まで当ててきやがるとは! こいつ……!
〈世界中の将棋ファンとネット対局ができて、毎日難易度別に詰将棋問題も配布! あなたの対戦相手はもしかすると有名プロのあの人かも!? さあ、あなたも将棋ダンジョンの奥深くへ……〉みたいな感じでプロモーションをかけている、数ある将棋アプリの中でも人気ランキング上位のやつだ。
「おまえも入れてんの?」
「入れてるッス。ちょくちょくやってるッスよ〜」
「マジで!? ちなみにどのくらい?」
「どのくらい?」とは段とか級のこと。後輩の〈棋力〉を知るため、さりげなく探りを入れる。有段者なら――ごめんなさい俺が悪うございました。その下の級位者なら――級の中か上あたりなら、いい勝負ができそう。下の方なら――くっふっふ……、と心の中で舌なめずりしていると、
「え〜? 『どのくらい?』って、『どのくらいの強さか?』ってことッスよね? う〜ん? どのくらいって思うッスか〜?」
ニマニマしながら質問に質問で返してきやがった。
「初段……くらいかな?」
アマチュアはまず初段になることを目標にするので、このへんから探っていく。
「う〜ん? どう、ッスか? ね〜?」
はぐらかしがうまいな、こいつ!
「先輩はどのくらいなんスか?」
「俺? うーん、俺は……」
正直に言ってもいいが、
「初段を目指してる、かな」
こちらも曖昧にこたえる。将棋してるときも〈含みをもたせる〉なんて言うしなっ! 日常で便利に使える用語!
「ふ〜ん、なるほどなるほど……」
後輩は少し考えこむ様子だったが――
「先輩、今日はもう授業ないッスよね? これから何か予定ありますか?」
「いや、ない」
即答できる学生生活が悲しい……。あと後輩に、取ってる授業のスケジュールを把握されてるっぽいのは腑に落ちない……。
「ふ〜ん、じゃあ――」
なんだかうれしそうな声音と表情だぞ、このウザ後輩。
「ウチに来ないッスか?」
なんで!
「ウチ、駒と将棋盤ありますよ。あ、盤は卓上用のッス。脚付きのちゃんとしたのじゃないッスけど……」
マジで!? あるだけですごい!
「って、おまえん家、たしかマンション……」
「そうッス。一人暮らしッスよ〜、一人暮らし。花の女子大生の、カワイイ後輩のお部屋をのぞけちゃうんスよー? 将棋をダシにして。ふふふ〜」
「ダシって、おまえ……」
ぐぬぬぬ……。
しばし考える。
部屋に誘っているのは、からかい気分も半分くらいはあるとみた。
じかに顔を合わせて一対一の対面で指せる機会は、今のところまったくない。普段はネット対局ばっかりだし。
別にネットだけでいいし、とも思う。けど、たまには実際に面と向かって指してみたいなあ、と思うのも本音だ。だから誘いにのってみるのも……、だが後輩の部屋に、女子の部屋に俺一人……。
「もしかしてぇ〜、意識してるッスか? カワイイ後輩の部屋にほいほいついていって、カワイイ後輩ちゃんと二人っきりになって、ドキドキしちゃって、そしたらナニかシちゃうこと、想像しちゃうッスか〜? きゃ〜!」
「してねえよ! おしっ、行こうぜ、おまえん家に」
これはもう勢いだっ。
「お、本当ッスか? やった!」
あれ? 素直にうれしがってるな。
うーん? まあいいか? ウザったいウザ後輩の部屋に、ちょろっとお邪魔して、ちょいと一局指して、軽くひとひねりして俺が勝ち、こてんぱんにやられて、ほけーっと魂が抜けている後輩を尻目に、ふっふっふ、とほくそ笑みながらさっさと帰るだけだし。何も起こらないさ。
そう。このときの俺はまだ、そんな甘っちょろいことを考えていたのである。
それがまさかあんなコトになるなんて――知る由もなかったのである……。