追憶
いつか龍になって空へと還る___________
そう屋台の男から言われて彼女を飼い始めてから、気付けばもう何十年と経っていた。
彼女は龍になるどころか不思議な事に体を大きくする事なく、かといって弱っていくのでもなく、優雅に初めて会った日と変わらぬ姿で金魚鉢の中を泳いでいた。
時折ふとその中を覗くと彼女もこちらを見つめ返し、餌をくれとでも言うように水面へと口を出していた。
変化したことは数知れないが、私と彼女の日常は私が年老いた今でも変わらずにいる。
幼少期から今に至るまで、彼女には時々不思議なことが起こっていた。
その不思議な出来事に初めて遭遇したのは、彼女を飼い始めてからひと月ほど経った時だっただろうか。
その日も彼女に餌を与えようと金魚鉢の中を覗くと、なんと彼女がいなくなっているのだ。
誤って飛び出したのか、そう思い慌てて辺りを探しては見たものの彼女の形跡は見当たらず、と言うことはきっと親に捨てられてしまったのだと思い至り、私は悲しみのあまり水がたっぷりと入った何もいない金魚鉢を両手に抱え、瞳から涙をポロポロと零しながら嗚咽を漏らし、自分の部屋にずっと篭っていた。
それからどのくらい経っただろうか。
泣き疲れて何とは無しに金魚鉢に目を向けると、先程までは見当たらなかった彼女がそこにいたのだ。
これは幻か何かか。
それとも私の願いを神が聞き入れてくれたのか。
彼女が戻ってきてくれたならそれで良い、と深く考えずにその時は唯ひたすらに戻ってきた事に感謝をした。
あまりの嬉しさに金魚鉢を抱えながら部屋中を駆け回ったのを覚えている。
それからその不思議な彼女の失踪は唐突に何度もやってきた。
気が付けば彼女はいなくなり、気が付けば彼女は何事もなかったかのように静かに泳いでいた。
繰り返し彼女の失踪を体験するにつれ、私は彼女はきっと何処かへと旅に出ているのだと思い至った。
彼女はこの狭い世界から、如何にして旅に行っているのであろうか。
ある日私は、彼女が住む金魚鉢の水の中にそっと指を入れると、それは普通の水でしか無かった。
なるほど、この金魚鉢自身が彼女を違う場所へと運んでいるのだな。
その時私は確信したのだった。
水を入れ替えてやる時、彼女は不思議そうにいつも私を見つめ返した。
その瞳のなんと美しいことか。
何者にも穢されることのない純粋で真っ直ぐなその眼差しは、なんと神々しいことか。
彼女はとても気まぐれではあったが、私が結婚し孫が生まれた後でも変わらず互いに想い合っている事は分かっていた。
私たちの間には見えない絆があるのだと私は信じていた。
しかして私の寿命も終わろうとしている今この瞬間、彼女は気まぐれにも再び旅に出て行ってしまっていた。
最期の時を迎えようとしているこの瞬間、私は彼女にもう一度会いたいと強く願った。
水だけが入った金魚鉢を次第に遠のく意識の中じっと見つめ、最後の力を振り絞り腕を金魚鉢へと手を伸ばしたその時、金魚鉢が置かれた窓辺の外で、私は確かに見る事が出来たのだ。
蒼穹を優雅に泳ぎ回る壮麗なる姿をした彼女を、確かに見ることが出来たのだ_________
夏の屋台で良く見る金魚すくい。
そこから連れてこられた小さな金魚は小さな世界で一生を終える。
果たしてそれは幸せなのか、籠の中の鳥のように自由になりたいと願っているのか。
そんな事を思いながら書いてみました。