心曲
「団野は、自分がいつか死んじゃうって、気づいたことはある?」
比嘉が、こちらを振り向いて立ち止まっている。
彼女が何がしかこういった哲学的な問いを投げかける時は、唐突に思いついたか、俺には共感の難しい考えに行き詰まった時であると知っていた。
今回は、おそらく後者だった。
「…そりゃ人間いつかは死ぬだろ。」
「そういう事じゃないってば。」
彼女の関心を刺激するような、機転の効いた言葉を持たない俺は、さぞかし高名であらせられる哲学者様に少しぶっきらぼうになった。
「きっと、皆んな自分が死ぬと思ってないんだよ。だから、病院の余命宣告であんなに慌てるんだ。」
「そんな、今日明日自分が死ぬなんて考えて生きてたら疲れるだろ。」
「あはは、人生に疲れるのと、人生に後悔するの、どっちがマシなんだろうね。」
「…もっと分かるように話せよ、そんな訳知り顔で大事な部分省かねえでさ。」
彼女の頭の中の思考では、もうある程度答えは決まっているのであろう。俺にとっては、知らないと解けない暗記問題を投げつけられて、解けなければ “そんなことも知らないのか”、と小馬鹿にされているような気分だった。
それでも、恐らく彼女が自身の思考回路とは異なった回路の人間から新しい観点を得ようとしている事は伝わったので、被害妄想気味になりながらも甘んじて話に付き合う事にした。
「聞いたことある?人の心はどこにあるのか。」
「胸じゃなくて頭、とか?」
「そう、私も頭にあると思う。頭は、胸にあると思ってる気がするけど。」
「…つまり?」
「人の心、人生は、その人の記憶にある。もし記憶がなくなっちゃったら、その記憶の持ち主はもうこの世にはいないんだよ。」
「あー、言ってる事は分かるが、最初の話と繋がってこねえ。」
「我思う故に、我あり。けど、私が私を思う時、私はどんな私が私かって知ってないと、私は私だって気づかないの。で、死んじゃったら私の頭は焼かれて骨になっちゃう。だから、私はあの世で私は私だって気付けるのかな?」
「…そこまでいってあの世の存在信じてるのか?」
「ううん、信じてるんじゃなくて、信じないと怖いんだよ。私が死んだ時、私の魂はあの世に行くかもしれない。けど、『わたし』はこの世に取り残されるんだよ、きっと。
ヒトは、いつかその魂が極楽に行く為の使い捨ての容れ物。魂は天国に行けても、ヒトは天国には行けないんだ。」
「お前がこの世に残って、魂だけが天国に行くなら、なんであの世がないと怖いんだよ。お前はこの世組だろ?」
「それはね、私も天国に連れて行ってもらえたらいいなーって思ってるからだよ。」
「…言ってることがどっちつかずだな、お前は。」
「……それだけ怖いって事だよ、死ぬのは。」
多少の興奮を交えながらも、滔々と語った彼女の顔に影が差す。彼女の恐怖の源泉は何処にあるのだろうか。その間欠泉をどうにかしてやれないものか。こんな時、彼女と似た感性を持たない自分が恨めしくなる。俺には、彼女の奥まった部分に触れるアクセスキーがないのだ。それでも、その冷たくなってしまった心に寄り添うだけでもありたいと、どうしようもなくそう想うのだが——
「どうせ、人類全員一回ぽっきりの人生、恥かこうが大発明しようが財産ひと山築こうが原爆ぶっ放そうが、死んじまえば全部真っさら、あの世には何一つ罪も徳も持っていけやしねえかもしんねえけどよ。
お前の言う通り、俺たちは何処まで行ってもこの世の存在でしかねえ。だったら、人生の終わりに自分の人生のキャンバスが満足いくもんだったら、それでいいんじゃねえのか?」
「…そうだね、私もそう思うよ。……私も、そう思う。」
…間違えたか。
最大限の言葉を尽くしたつもりだったが、届いたのか届いていないのか、あやふやな彼女の返事に鼓動が早くなるのが分かる。
彼女はどんな言葉が欲しい?…いや、そもそも言葉なのかさえ怪しい。一体何が彼女の心を埋められるのか。頭までもが熱くなってくると、尚更相応しいと思えるものは思いつかなくなっていった。
「——二ヶ月前、妹の誕生日だったの。」
「…あぁ。」
「この話の流れだと誰か死んじゃったみたいだね、ふふ。全然そんな事ないんだけど、や、そんなに遠くもないんだけど、」
「その誕生日の動画を私がスマホで撮ってたから、一昨日、ふとその動画を見てたの。…妹の隣でお母さんが楽しそうに笑ってて、妹はローソクをふーふーするんだけど、なかなか消えなくて、」
「それ見て私の横でお父さんがニヤニヤしてるの。私も笑っちゃったんだけど、それで妹も自分で吹き出しちゃって、ふふ、皆んなでひとしきり笑ってから、ローソクは吹き消したんだけど、」
「…そんな一人ずつ、一年に一回来る、今まで当然だと思ってた幸せが、いつかは、当然じゃなくなって、お母さんも、お父さんも、いつかは…って……きづい、ちゃって、」
比嘉の声が震える。平生は飄々とした比嘉が、自身の弱さを晒していた。
彼女の、膿んだ傷口に無造作に触れたくなる欲求が高まる。
今、彼女の心に触れないで、いつ触れるのか。
しかし、一度触れれば、その無責任さに責任を持たなければならないという意識が、その一歩を躊躇わせる。いや、責任は背負いたいのだ。好きな女が泣いている。暖めてやるには絶好のタイミングだ。俺は——
「——団野が、昨日の夢に出てきたの。」
「っ…お、俺が、か。」
「…うん。私の目の前でね、僕は死にましぇ〜ん!って言いながらトラックの前に飛び出すの。」
「……バカにしてんのか?」
「ううん、ふふ、いや、やっぱ、バカにしてるかも。でも……団野、そのままトラックに轢かれて、…死んじゃった。」
「……失礼な夢だな。俺はそんな変な事叫びながらトラックの前に飛び出さねえし、なんならトラックに轢かれたって死にやしねえよ。」
「あはは、言えてる。団野、バカだもんね。」
「今のは明らかにバカにしたよな?な?」
「褒めてるんだよ、バカで羨ましいなぁ〜って、ふふ。トラックに轢かれても死なないくらいバカで。」
「そうかよ、じゃあお前の頭でも今日から殴りまくって、電車に轢かれたって死なねえくらいバカにしてやるよ。」
「なんでバカはバカだと何が起きても死なないと思うんだろうねぇ〜、あ、どっかのバカにはわかんないか、バカだもんね。バーカ、バカバカバカバ…いたっ!」
調子に乗り出したバカの後頭部をひっぱ叩いて、団野は歩き出した。
こういった事は、口先でどうこう出来る話ではないのだ。それは、ある意味この会話から逃げる事に等しい考えかもしれない。だが、そんな哲学的な人生の命題に、即座に満足のいく答えなど、誰であれば出せるというのか。
「(……なあ、お前なら、別にそういう事考えなくたって、やりたいように生きて、気づいたら死んでた、みたいな生き方がお前には似合うんじゃねえかって、俺は思うんだよ、比嘉。つまんねえ事で悩んでんじゃねえよ。俺に、どうしようもねえ事で、俯かないでくれよ——)
」
「団野!」
「…なんだよ。」
「——もし、私が死んでも、団野は、ずっと私のこと、覚えていてくれるかな?」
振り向くと、比嘉が自嘲するように、俯きがちに笑っていた。
「……」
「あ、はは、何か重たいよね、ごめん、忘れて」
「…誰が、忘れるんだよ」
「え?いや、うん、だからそれは、ごめ」
「誰が!自分の!!好きな女を!!!忘れるんだよ…」
「——え」
「道理でさっきから散々人のことバカにして、そんな当たり前のことも出来ないバカだと思ってるっつー事か。あーあ、悪かったなそんなバカでよ。バカだからたった今知ったんだけどよ、自分の好きな奴の事を軽く見られんのは、それを好きな奴自身がしてるのを聞くだけでもむかむかするみたいだぞ。それと、一つだけ覚えとけ」
「ちょ、ちょっと待って、」
「——俺はお前の事が好きだし、だから一生忘れねえし、死んでも忘れねえ。たとえあの世にこの脳みそが持っていけなくて、この世に全部落っことしたって、忘れねえ。誰に忘れろって言われても忘れねえ。お前に、拒絶されたって忘れねえ、忘れてやらねえ。…絶っっっ対に忘れねえよ。」
「…………」
燻っていた想いの丈を吐き出した。これで、今の関係が変わったって構いやしないと、熱くなりすぎて、真っ白になった頭の中で思った。中途半端なこの関係がいつまでも続くわけでは、そう、比嘉の言う通り、二人の関係がいつまでも同じ様に続くわけはないのだ。なら、二歩も三歩も踏み出してきた彼女に、こちらも大きく踏み出してやろうではないか。お互いがそのまますれ違って、通り過ぎて行ってしまっても、それはもう仕方ないのだと、受け入れるしかないような、そんな気がした。
「…なんだか、プロポーズみたいだね」
目を白黒させながら、俺のヤケクソ気味の告白を聞いてから、それを反芻するように目を閉じていた彼女の口元が少し、暖かな笑みを浮かべた。
「人の心は、人の命は記憶にあって、でも、私たちはこの世の生き物で、体が無くなれば、私たちは消える。でも……、うん、多分、人は、信じる事は、出来るんだね。きっと、それが…」
「お、おい、よく分かんねえけど、なんだ、収まったのか?」
「…うん、やっぱりバカは羨ましいよ、団野がバカで良かった。ありがとう、バカ。」
「あのなぁ、いい加減普通に傷ついて、きた、んだが…」
流石にこれ以上の中傷はごめんだと言い返そうとした時、比嘉はしゃくり上げるように泣いていた。その顔は見たこともないぐらいぐしゃぐしゃになって、今まで一緒に過ごした中で、一番俺にとって意味のある、俺にだけに晒されているものなんだと、そう思わせられる顔だった。
「…私のハグは、高いよ?」
しばらく泣いて、少し落ち着いた比嘉が、俺の胸に顔を埋めて言った。
「この状況で胸貸さねえでいつ貸すんだよ。」
「…そうかもね。汚れたって、知らないから。」
「んなもん気にするかよ。」
「ふふ、ばーか」
…彼女の恐怖の全てを理解してやる事は出来なくても、彼女が恐怖と戦う時、側にあれれば、側にいさせてくれるなら、それだけで俺は嬉しかった。彼女が笑っていられる限り、それだけでも良いのだと、俺は思う事が出来た。彼女もそれ以上の事を求めなかった。きっと、それで良いのだと思う。きっと——




