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<8>

 父さんの住まいは、4畳の台所と8畳の居間で構成されている。玄関を入ってすぐに台所があって、その奥が居間になっている。

 お世辞にも広いとは言えないけど、少なくとも僕なら、二人で住むには十分なスペースだ。

 父さんの手招きで部屋に上がると、アイが姿見に向かって化粧をしているところだった。

 アイは父さんの新しい奥さんだ。居間はカーテンも壁紙も花柄模様になっているけど、それはアイの趣味だ。

 彼女は22歳で、父さんよりも随分と若い。

 実は、以前は母さんのスナックで働いていたホステスだった。つまり父さんは、母さんの店の従業員に手を付けて、2人で母さんの近所に暮らしているってことだ。

 そういうのって、気まずい気持ちになりそうなものだけど、少なくとも父さんは、なんとも思っていないみたいだ。父さんには、浮気をしたことへの罪悪感が全く無いんだ。だから、そうやって堂々としていられるんだ。

 すごいよね。ある意味、感心するよ。

 アイの方も、母さんと顔を合わせる距離に住んでいるのに、特に嫌がっている様子は無い。こっちも父さんに負けず劣らず、図太い神経の持ち主みたいだ。


 っていうか、実際に母さんとアイが鉢合わせしたこともある。その時は、僕も母さんと一緒だったんだ。母さんが服を買いに行くのに付き合わされたんだ。最初は嫌がったんだけど、僕の服も買うからって言われてね。

 それで、デパートに行ったら、エスカレーターのところでアイと遭遇した。

 その時の母さんとアイの態度は、まるでドラマみたいだったね。母さんはカッとなったりしなかったし、アイも気まずそうな表情は全く示さなかった。

 先に声を発したのはアイで、

 「あらママ、お久しぶりです」

 って、すました顔で挨拶した。かつて働いていたスナックのママだから、そう呼んだわけだ。

 それに対して母さんは、

 「久しぶり。元気にしてる?」

 と穏やかに微笑して言葉を返した。

 だけど、どっちも明らかに作った表情なんだよね。だから顔の筋肉が引きつっていたんだ。

 僕には、すぐに分かったよ。たぶん、取り乱さないことで、お互いに意地を張っていたんだろうな。


 それで結局、軽く言葉を交わしただけで、アイとは別れた。

 その後、母さんが彼女のことを気にしている様子は無かったし、口にすることも無かった。

 ただ、そのことが逆に、意識しているんだろうなあと感じさせたけどね。

 ひょっとすると、その後も母さんとアイは顔を合わせているかもしれない。僕だって父さんと何度も遭遇しているんだから、その確率は高いだろう。

 その度に、お互いに女優みたいな芝居をしているのかな。

 女の意地ってのは、すさまじいらしいからね。


 「あらっ、ルイ。久しぶりね」

 アイが僕を見て、笑顔を作った。

 「やあ、アイ」

 僕は短く告げる。

 年上のアイを呼び捨てにするのは、相手を見下しているとか、そういう理由じゃない。アイの方から、そう呼んでほしいと言われたから、そうしているだけだ。

 「アイとルイ、いいコンビじゃない」

 と、彼女は言っていた。そんなコンビ、僕はゴメンだけどね。漫才コンビだったら、絶対に売れないと思うよ、そのネーミングだと。

 それに、呼び捨てにしているのは向こうの希望だけど、心の距離は、そんなに近くない。アイは僕に対してフランクに接するけど、それは明らかにポーズなんだ。

 アイは母さんの店を辞めて父さんと再婚した後、キャバクラで働いているんだけど、その商売と同じようなノリで、僕に応対しているんだ。

 実際にキャバクラでのアイを見たことは無いけど、本当の姿で僕に接していないことぐらいは、すぐに分かる。スナックにいた頃の彼女なら知っているからね。

 だから、その笑顔も、マヌーとは違った意味で、作られた笑顔なのさ。


 それと、アイのミーハーな感覚も、僕は好きじゃないな。

 前に会った時、サッカーが好きだという話になったから、どこのチームが好きなのかと尋ねたんだ。そしたら彼女は、レアル・マドリードだって答えた。

 その時点で違和感はあったけど、それでも僕は、

 「じゃあ、日本のチームでは?」

 って訊いた。

 するとアイは、

 「Jリーグとか、そういうのには興味が無いから良く分からない」

 って、しれっと答えたんだ。

 そういうセンスには、ヘドが出そうになるね。その一点だけでも、僕がアイを好きになれないのは当然だと思う。


 「そう言えばルイ、そろそろ父兄参観日じゃないのか」

 不意に父さんが言ったので、僕は驚いた。

 「どうして知ってるの?」

 学校行事の予定なんて、父さんには一切知らせていないのに。

 「たまたま、お前と同じ中学に子供を通わせている人と飲み屋で知り合いになってな。それで、そういう話を聞いたんだ」

 よりによって、具合の悪い相手と知り合いになったもんだよ。

 ってことは、今後は学校で何があるのか、父さんに全て分かってしまうってことになる。

 何が厄介かって、父さんが学校行事に関わろうとすることだ。


 「正確な日付までは聞かなかったんだけど、いつなんだ?ちゃんと行くから」

 「父さん、来るつもりなの?」

 薄々は予想していたことだけど、一応、確認の質問をしてみた。

 すると父さんは、

 「当然だろう。父兄参観日なんだから、父親である俺が行かなくてどうするんだ」

 と言う。

 そりゃあ、理屈としては、間違っているわけではない。だけど、それって僕にとっては、すごく迷惑なことだ。


 「別に来なくても構わないよ。父さんも忙しいだろうし、父兄参観日は平日だから」

 やんわりと断ろうとしたけど、そんな手口では、たぶん無理だろうなあって分かっていた。

 「忙しくなんかないぞ。それに、父兄参観日なんだから、少しぐらいは無理をしても行ってやるぞ」

 ほら、やっぱりだ。

 父さんは、母さんに対しては不誠実なことばかり繰り返してきたのに、息子に対しては「いい父親でありたい」っていう気持ちがあるんだろうか。

 っていうか、家にいる頃は、父親らしいことなんか、してもらった覚えは無いんだけどね。

 離婚して家を出たことで、逆に父性が強くなったのかもしれないな。


 ただ、僕としては、絶対に来てほしくない。だって、クラスの連中はウチの両親が離婚したのを知っているんだから。

 父さんが教室に行ったら、きっと好奇の目で見るし、後でコソコソと色んなことを言うに決まってるんだ。父さんは父兄参観日が終われば二度と会うこともないだろうけど、その後も僕は同じ学校に通い続けなきゃいけないわけだからね。

 そりゃあ、両親の離婚や父さんについて何を言われたって、それでヘコむほど軟弱じゃないよ。ただ、うっとおしいことは確かだし、何かと面倒だろうからね。そうなることが事前に分かっているんだから、避けようと考えるのは当然だ。

 「でも、もう父さんは母さんと離婚したんだし、父兄参観日に来るってのは、変じゃないかな」

 何とか諦めてもらおうと、僕はそう告げた。

 「何も変なことなんか無いだろう。離婚しても、父親は父親だぞ」

 父さんはキョトンとした顔をする。

 「なあアイ、変じゃないよな」

 「あんまり普通じゃないかも。行かない方がいいんじゃないの」

 そうアイに言われて、父さんは

 「そういうものかなあ。良く分からないが」

 と、首をかしげた。


 父さんは決して、悪意があるわけじゃない。それは分かってるんだ。僕を困らせようとしているわけじゃなくて、何も考えず、ごく当たり前の行為だと思っているんだよね。

 でも、それが僕にとっては、すごく迷惑なんだ。もう僕には干渉しないでほしいのに、首を突っ込んでくるんだよね。

 悪意の無い悪党ってのは、本当にタチが悪い。いわゆる確信犯っていう類だけど、そういう連中はコミュニケーションが取れないんだよね。

 ちなみに確信犯ってのは、「わざと犯罪をやらかす」っていう意味じゃないよ。それは故意犯であって、確信犯じゃない。まあ、今はそういうのを確信犯って呼ぶ面々が多いけど、僕は本来の使い方にこだわってる。

 確信犯ってのは、例えば環境テロリストとか、中絶反対の過激なカトリック信者とか、何かの思想に凝り固まって突き進む連中のことだ。

 そういう連中は盲信しちゃってるから、周囲の忠告も全く耳に入らない。だから、ものすごくタチが悪い。そんな連中に比べたら、父さんは悪意の無い悪党の中では、随分とマシな方だ。っていうか、ひよっこレベルだね。


 僕の周囲で最もタチの悪い確信犯と言えば、やっぱり野口のオバサンだね。あの人は、かなりキツい。えぐるようなタチの悪さだ。

 野口さんは白粉を塗りたくった前衛舞踊の役者みたいな顔で、耳は常に折り畳んでいる。目玉は黒目だけで白目の部分が無いから、どこかを見る時には、視線だけを動かすことが出来なくて、首ごとそっちを向かなきゃいけないんだ。

 とても不自由そうに思えるんだけど、本人は誰よりも自由だと信じているらしい。

 野口さんは何とかっていう難しい漢字を並べた宗教の熱心な信者なんだ。漢字の団体名だけど、たぶんキリスト教の系列だと思う。前に、イエス様が云々って言ってたし。

 まあ、それは別にいいとしよう。誰だって信仰の自由はあるし、本人が信じているんだから、勝手にやればいいだけさ。

 だけど、自分だけで済ませてくれないのが、野口さんの困ったところなんだ。信仰を周囲にも広めようとするんだよね。その宗教の素晴らしさを熱心に説いて、信者になるよう勧誘するんだ。

 「イエス様の教えを信じれば、貴方も救われる。信心によって明るい未来が開ける」

 とか、そんな風なことを言っていたよ。


 ウチにも野口さんは来たんだ。まあ母さんは全く相手にせず、野良犬でも追い払うような態度だったから、二度と勧誘には来なかったけどね。

 だけど普通の主婦は、そこまで荒っぽく、冷たく対応することなんか出来ないよね。ご近所さんなんだからさ。

 それで、作り笑顔で対応し、丁寧に断ろうとすると、しつこく勧誘されるハメになっちゃうんだ。あれは一種の拷問だね。

 その宗教に入信することなんて、誰も望んでいないんだよ。布教してくれなんて、近所の人は誰も頼んでいない。だけど、自分が信じている宗教は素晴らしいものだから、他の人々にも広めて幸せになってもらおうっていうのが野口さんの考えなんだ。

 つまり、悪気は全く無いんだよ。本人としては、周りの人々を救おうという善意で布教活動をしているんだ。

 ホント、虫唾が走るよ。


 僕から言わせれば、そもそも宗教を信じている時点で、幸せなんかじゃないけどね。それで救われたと思っているなら、それは見せ掛けだよ。愚者の黄金だよ。

 宗教なんて、百害あって一利無しだね。あんなものは、世の中から無くなってしまえばいいんだ。

 だって考えてみてよ、宗教は皆を救うためにあるはずなのに、世界中では宗教が原因で殺し合いが起きているんだよ。

 ってことは、宗教ってのは皆を救うどころか、皆を争わせるためのものになっているんだ。

 だったら宗教なんて要らないでしょ。

 それに、どれだけ信仰心が厚くても、頭のイカれた通り魔に殺される奴もいれば、病気で若くして死ぬ奴もいる。そいつらは、どんな神様も救ってやれてないってことだもんね。

 それとも、それは信仰心が足りないからなのかな。

 もちろん、これは皮肉だよ。


 それに野口さんは、

 「神様を信じることで、世界中のみんなが幸せになれる」

 なんてことを平気で言うんだけど、そんなの無理に決まってるじゃないか。不可能なことを臆面も無く言えるなんて、大したものだよ。それも野口さんは、本気でそう信じているんだろうな。

 いちいち反論はしないけど、そんなのは無理なんだよ。世界中のみんながハッピーになるってのは、絶対に不可能だ。

 誰かがハッピーになったら、その陰でアンハッピーになる人が生まれているんだ。世の中ってのは、そういうものさ。

 例えば、誰かがある女性を好きになったとする。二人が結ばれたら、その男女はハッピーになれるだろう。だけど、その女性を好きだった別の男がいたら、そいつはアンハッピーになる。

 たかが男女の恋愛関係だけを取っても、みんながハッピーになれていない。世界にまで枠を広げたら、みんながハッピーになるなんて、不可能なことは明白なんだよ。

 それは僕が水袋だっていうことよりも明らかだ。


 僕は別に、みんながアンハッピーになればいいとは思っていないよ。みんなハッピーになるのは無理だから、自分が好きな人たちだけはハッピーになってほしいと思っている。ハッピーの数が限られているんだから、それは自分が好きな人に回ってほしい。

 そのために他の誰かがアンハッピーになるけど、そんなのは知ったことじゃない。赤の他人が不幸になっても、僕の心は全く痛まないね。だって、そういう連中のことを全く知らないんだからさ。

 だから僕は、路上で募金活動をしている連中なんかを見ても、一度も募金箱に金を入れたことは無いしね。

 見たことも無い相手を助けるために、散財するなんて馬鹿げてる。テレビでもチャリティー番組をやったりするけど、絶対に参加しようとは思わない。

 そもそも僕は、チャリティーとかボランティアってのは全く信用していないんだ。


 そういう募金活動で集めた金が、ホントに恵まれない人のために使われるかどうかなんて、分からないんだよ。そんな所に金を渡すなんて、正気の沙汰とは思えないね。

 本気で恵まれない人を救いたいと思ったら、現地へ飛んで支援活動に汗を流せって話だよ。金を出すだけで済ませようなんて、その根性が、そもそも慈善の精神とは違うんだよ。

 ただし、僕は現地に飛んで汗を流そうとも思わないけどね。

 赤の他人を助けるために慈善活動をするような感覚が、僕には全く理解できないんだ。そんなことをして、何の意味があるんだろうって思うね。

 たぶん、それは本当に他人を助けたいってわけじゃなくて、他人を助けることで自分が素晴らしいことをしているっていう満足感に浸りたいんだろう。あるいは、そういう恵まれない連中よりも、自分の方が上だっていう優越感に浸りたいんだろう。

 そうでもなかったら、そんなのは正気じゃないよ。


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