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僕の住処は一軒家だけど、そんなに大きくない。部屋は台所を含めて4つで、どれも6畳ぐらいだと思う。
近所でも、他の家はもっと大きくて、どれも似たような外観なのに、僕の家だけが極端に小さくてオンボロだ。同じ通りに立っているのに、まるで地上げに反発して居座ったように、僕の家だけが異質だ。
でも、それを恥ずかしいとは思わない。狭い家に対するコンプレックスってのは、僕には無いね。
むしろ、他とは違うんだから、それって面白いと感じる。僕は、そういうのを楽しめるタイプなんだな。
みんなと一緒なんて、個性が無くて、つまらない。
これは強がりじゃないよ。
「ただいま」
そう言いながら、僕は家に駆け込んだ。
その「ただいま」は、誰か特定の人間に対して告げたというよりも、日常生活のパターンの中に組み込まれている言葉だ。「家に帰ったら、そう口にする」という流れが、勝手に出来上がっている。
いわば工場の流れ作業みたいなものかな。
だけど、それに応答する相手がいないわけでもない。大抵の場合、僕が帰宅する時間は母さんが家にいるから、どこからか返事の声が聞こえてくる。
今日はキッチンから、
「おかえり」
という低い声が聞こえた。
今日はキッチンから、と言ったけど、ほぼ毎回、声が聞こえる場所はキッチンだ。それには、ちゃんと理由がある。
僕はキッチンへ向かい、母さんの姿を確認する。母さんはパジャマ姿のまま、新聞を読んでいる。缶ビールを片手に、スナック菓子を口に運んでいる。
母さんは壷だ。だけど職人がろくろを回して作ったようなモノじゃなくて、プラスティック製だ。安いけど、落としても簡単には壊れない。壷の中身はアルコールだ。
「母さん、またビールかよ」
呆れたように僕が言うと、
「迎え酒だよ」
と軽い調子で返してきた。
母さんに歩み寄ると、酒の匂いがプンプンと漂ってきた。僕は思わず、しかめ面になった。
いつも母さんは酒臭い。シラフの時を見たことが、ほとんど無い。
手が震えたり、目の焦点が合わなかったりということは無いので、たぶんアル中じゃないとは思うけど、酒の摂取量は半端じゃないだろう。
「それに、またお菓子で御飯を済ませてるの?」
「しょうがないだろ、明るい間は食欲が無いんだよ」
低い声で母さんが言う。野太い声は、まるで男みたいだ。
母さんは、朝は食べないし、昼もスナック菓子とか、おつまみとか、そういう物だけで済ませてしまうことが多い。たまに違う物を食べるとしても、カップラーメンぐらいだ。
まあ朝に関しては、食べないという以前に、まだ寝てるんだけどさ。それに昼食も、昼と呼ぶには遅い時間帯だし。
「ちゃんと食べないと、いつか倒れるよ。ただでさえ、お酒ばかり飲んで内臓を痛め付けているんだから」
僕は諭すように言った。我が家は母さんと二人暮らしだから、母さんが倒れたら、生活が立ち行かなくなってしまう。
「大丈夫だって。夜はキッチリと食べてるし、お酒は私にとって水みたいなもんだから」
僕の注意を、母さんは軽く受け流す。
母さんはスナックをやっているから、商売柄、酒を多く飲むのは仕方が無い。ただ、母さんの場合、明らかに好きで飲んでいるんだけどね。
僕は改めて母さんを眺めた。
頭はボサボサで、肌はカサカサだ。
水商売をやるには容姿のレベルが低すぎるんじゃないかと思ったりもするけど、母さんは秘密兵器を持っているんだ。
実は、母さんの顔は取り外しが出来るようになっている。家にいる時の母さんは、裏モードなんだ。スナックへ行く時には、隠してある表モードの顔と取り替える。かなりケバケバしいけど、でも華やかな風貌に変身するんだ。
それに、母さんは店に行く時には、超小型の特殊声帯マシーンも装着する。それを使えば、お客を誘惑する音波が放出されるんだ。
自分の部屋に行こうとした僕は、ふと思い出して振り返り、
「母さん、昨日のハンバーグ、真ん中が生焼けだったよ」
と告げた。すると母さんは新聞から顔を上げて、
「本当?一応、確認したつもりだったんだけど。今度は美味しく作るから」
と、軽い調子で謝った。
「味はともかく、火はちゃんと通してくれないと。お腹を壊しちゃうからね」
そう言ってキッチンを出ると、僕は自分の部屋に向かった。
母さんはスナックに行く前に、僕の夕食を用意してくれる。夕食の時間帯になったら、僕はそれを食べるわけだ。
ただし母さんは、お世辞にも料理が上手いとは言えない。っていうか、ものすごく下手だ。レパートリーも少なくて、カレーとクリームシチューは、1ヶ月に3回か4回は出て来る。もちろんカレーとシチューは市販のルーを使っている。
カレーをあれだけ不味く作れるってのは、ある意味、天才的だと思う。
母さんは、料理は下手だし、だらしないし、いつも酒臭い。だけど、僕を扶養してくれているんだから、ある程度は寛容に対応しないといけない。僕は今のところ、母さんの養育に頼らないと、自分だけで生活していく能力が無いんだから。
それに母さんには、いい部分だって、たくさんある。
例えば、僕を放任主義で育てていることだ。学校の成績がどうだとか、そういうことに全く固執しない。だから成績が落ちても、文句は言わない。
そもそも、通知表やテストの答案を見ようともしない。だから、いい成績を取っても、誉められることもないんだけどね。
何の関心も示さないってのは、ちょっと問題があるのかもしれない。息子がどういう学校生活を送っていようと、何があろうと、どうでもいいって感じなんだからね。
だけど僕にとっては、ものすごく楽だ。もし教育ママだったりしたら、僕が職人になりたいと言い出したら、絶対に反対するだろうからね。でも、母さんは、自分がやりたいなら勝手にやればいいと考えるはずだ。
母さんには欠点も色々とあるけど、女手一つで僕を育ててくれていることには、本当に感謝しているんだ。これは嘘偽りの無い気持ちさ。
何より、父さんに比べれば、遥かにマシだ。
父さんはカラスだ。だけど体が黒じゃなくてピンク色だから、カラスだとは分かりにくい。でも、それは表面を塗っているだけで、本当の色じゃない。それに今はピンクだけど、その時によってコロコロと色が変わる。
色だけじゃなくて、父さんは仕事もコロコロと変わっていた。ある時は化粧品のセールスマン、ある時は不動産屋、ある時は喫茶店の雇われマスター、ある時はパン工場の工員っていう風に、色んなジャンルの仕事をやっていた。
どれも長続きはしなかったけど、すぐに新しい仕事に就いていただけマシかな。
今の仕事は、詳しくは知らないけど、何かのキャラクターグッズのバッタモンを売っているらしい。
僕が小学5年の時に両親が離婚して、父さんは家を出て行った。
離婚の原因は、父さんが他に女を作ったからだ。父さんは女癖が悪くて、それまでも浮気はしていたんだけど、その時は浮気というレベルじゃなくて、その女と一緒に暮らすって言い出したんだ。
「他に女が出来たから、離婚してくれ」
って、堂々とした態度で母さんに言ったんだよ。
面の皮が厚いってのは、父さんみたいな人のことを言うんだろうね。
それを聞かされた時、母さんは激怒するんじゃないかと思ったけど、そのリアクションは僕の予想とは違っていて、どこか達観したような雰囲気だった。もう父さんのことを、どこかで諦めていたのかな。
「はいはい、どうぞ」
って、そっけない対応だった。
まあ、ずっと前から夫婦関係は完全に冷え切っていたしね。愛情なんて、すっかり消え失せていたのかもしれない。それで、慰謝料も要求せずに、父さんと別れたんだ。
その代わり、父さんには家具とか電気製品とか、何も持ち出させなかったけどね。それぐらいは当然だよね。
父さんも、そこは納得して、自分の荷物だけをカバンに詰めて出て行った。
父さんが出て行っても、僕はちっとも悲しくなかったね。むしろ、せいせいしたって感じだった。
夫婦として成立していない両親の同居生活を、これ以上は見なくて済むんだと思ったら、ホッとした。
父さんがいなくても、僕としては、困ることが何も無かったんだよ。収入は少し減るけど、どうせ父さんは稼ぎの大半を女遊びに注ぎ込んでいたから、そんなにダメージは受けなかった。
出来れば、もう父さんには二度と会わないでいたかったんだけど、そういうわけにもいかない。今でも、しょっちゅう顔を見るんだ。
というのも、父さんは同じ町で暮らしているからだ。
実は、先週の日曜日も会った。会ったというより、声を掛けられたんだけどさ。
自転車を漕いでいたら、父さんが向こうから歩いてきて、僕に気付いた。
「おお、ルイじゃないか」
って声を掛けられたから、僕は自転車を停めた。そこで無視して通り過ぎるほど、失礼な奴にはなれない。そういう所が、僕の甘さなんだろうな。でも、甘いとしても、そういうのを変えたくはないけどね。
「父さん、どうも久しぶり」
僕は、かしこまった口調で言った。
家を出てからは、父さんと喋る時は、他人行儀な口ぶりになるんだ。そうしようって決めたわけじゃなくて、何となく、自然にそうなった。
「親子なのに、やけに硬いな」
と父さんに言われるんだけど、もう親子であって親子じゃないからね。
いや、もちろん血の繋がりは絶対に消去できないんだけど、精神的には、もう赤の他人に近い存在だからね。それでも一応は、父さんって呼んであげるけどさ。それもまた、僕の甘いところなんだろうな。
「どうした?今日は何だ?」
父さんは訊いてきたけど、返答に困る質問だよ。ただ自転車を漕いで、自宅へ向かっていただけだ。父さんに会うために、そこを走っていたわけじゃない。確かに、父さんのアパートの近くだとは分かっていたけどさ。
ただ、こっちとしては、表の通りは避けたんだ。なのに、父さんが裏通りを歩いてくるから、会ってしまっただけだ。
「別に何も無いよ」
僕は、抑揚の無い調子で答えた。それ以外に、答えようが無いからね。
「お前、どうせ暇だろ。たまにはウチに寄っていけよ」
父さんが誘う。
会う度にそんなことを言うわけじゃなくて、逆にそっけなくて、さっさと立ち去る時もある。だけど何かの拍子で、たまに息子と触れ合いたい気分になるらしい。父さんは気まぐれなんだ。
「いや、いいよ。もう家に帰らないと」
僕は断った。
「遠慮するな」
父さんは言ったけど、遠慮しているわけじゃない。単純に、立ち寄るのが嫌なだけだ。
でも、父さんは
「ちょっとだけだ。ウチの奴も、お前に会いたがってるぞ」
と言う。
ウチの奴ってのは、新しい奥さんのことだ。
「さあ、来いよ」
父さんは僕の腕をグイッと掴み、引っ張って行こうとする。
そういう強引なところが、父さんにはある。常に自分のやり方、自分のペースを貫こうとするんだ。それを男らしさと取る人もいるかもしれないけど、僕からすると、ただ身勝手で自己中心的なだけとしか思えないね。
だけど、その時の僕は父さんに抵抗せず、そのまま従うことにした。抗った方が厄介だと考えたんだ。次に会った時に、その時よりも執拗に誘われるに違いないんだ。そして、もっと長く留まることを強いられるだろう。
以前に、そういう経験があったんだ。そんなの、面倒で仕方が無いよ。だったら、今回は従うってことで、妥協しておいた方が賢明だろうというのが僕の考えだった。
父さんは、リンダーハイツっていうアパートに住んでいる。名前はカタカナだけど、何とか荘っていうネーミングの方がピッタリと来るような安アパートだ。
住む場所にこだわりが無いわけじゃなくて、父さんは収入が多くないから、その程度の場所にしか住めないってことだろう。
父さんは僕に会うと、
「いつか成功してやる。チャンスを掴んでビッグになってやる」
って良く言うんだけど、それが現実になる可能性はゼロだと思うね。だって、成功するために何か行動しているのかっていうと、何もしていないんだからさ。
チャンスを掴むには、チャンスを掴むための努力をしなきゃいけないんだけど、父さんの場合、向こうから来るのを待っているだけだ。ようするに、口だけ番長なのさ。番長なんていう言葉も古いけどね。
ただし僕は、必死で努力しないことが悪いとは思っていないんだ。努力したところで、報われない世の中だからね。
真面目な奴はバカを見て、卑怯な奴、あくどい奴が得をするのが世の中の仕組みってものなんだ。それぐらい、中学生の僕でも知っている。システムを作った奴らは内緒にしているつもりかもしれないけど、バレバレなんだよ。
だから僕も、必死に努力しようなんてつもりは全く無い。それは父さんの血を受け継いでいるんじゃなくて、僕が自分の意思で決めたことだ。
だけど卑怯な手を使おうとか、そんな気も無いよ。汚れた英雄や卑怯な成功者になるぐらいなら、死んだ方がマシだね。
僕が父さんに対して感じるのは、努力を怠るのは構わないから、大きなことを偉そうに言うのはやめた方がいいってことさ。父さんは、ちっぽけな野郎なんだからさ。
それを本人に注意したことは無いけどね。注意して直る性格でもないし。
ただ、僕は父さんに感謝しているんだよ。これは偽りの無い気持ちだ。
だって、人は平気で嘘をつくってこと、すました顔をして裏切ることもあるんだってことを教えてくれた最初の大人だから、そりゃあ感謝しているよ。
尊敬は出来ないけどね。どうしようもないクソ野郎だから。