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東風  作者: 都の辰巳
2/8

荒海

この屋敷へ連れて来られてすぐの頃、下女達が朝の身支度を整えながら彼女の髪をすく。

それが嫌でたまらず手近にあったハサミを取って、腰まであったそれに刃を入れると、銀色の髪が床一面に散らばった。

下女達は怯え、彼女の気が振れたと思ったようだった。

離れの騒ぎに様子を見にやって来た男は、部屋の有様を目にすると小さな悲鳴らしき声を漏らし、

一目散に母屋へ逃げ帰った。

それ以来、世話をするための着替えの服や食事を運んでくる以外、誰も彼女に近づこうとはしなくなった。


ところが酔った男が倒れこむように部屋へ現われたのは、夕餉の膳が運ばれてきた直後だった。

この時はじめて、彼女は男を間近に見た。

高価な布に包まれた肉の塊のような男だ。

しかも酔っているためか服は着乱れ、あちこちに食べこぼしのような染みが付いている。

円く太い足は立っているのもやっとというように、覚束無い。

食事の支度を整えてしまうと下女達は、彼女と男を残してそそくさと部屋を出て行った。


それまでも三度、菓子や色とりどりの宝石を持って男は部屋を訪ねて来た。

彼女は紫檀で作られた寝台の頑丈な扉を、がんとして開けなかった。

なんとか開けさせようと粘っていたが、無理だと分かるとぱたりと来なくなった。

他に云うことをきく女達が沢山居ると話す声を聞いていた。


女達は入り組んだ造りの屋敷内にある離れの部屋がそれぞれ与えられ、出入りするのは主の男と部屋付きの下女だけ。

誰がどこに何人いるのか、互いに知らない。

なにも彼女に固執する必要はないと知り、ほっとした。


蒸し菓子のように膨らんだ指が、逃れようとした彼女の腕を掴んだ。

「今夜こそ逃がすものか。他の客たちも、皆お前を手に入れようと値を吊り上げたが、競り落としたのはわたしだ。

誰も彼も悔しいそうにわたしを睨んでいた。それはそうだろう、お前ほどの上物は滅多に出ないものな。」

鼻を膨らませ、紅をさした様に赤い頬を彼女に摺り寄せた。

身を捩ると、男がよろけ卓の上の皿や小鉢が賑やかな音と共に床へ落ちて割れた。

彼女を見る肉に埋もれた小さな目は、酒のせいで赤く淀んでいる。


彼女は片方の手で卓に掴まり足を踏ん張るが、じりじりと男の方へ引き寄せられて行く。

力で比べれば、彼女に勝ち目は無い。

男もそう思っているらしい。

「お前のように言うことを聞かぬ娘は初めてだ。これだけ良くしてやっているというのに、ほれこの通り。

野良猫のようだものな。行儀の悪い奴よ。少しは大人しくせい。わたしはお前の主人ぞ。捕って食おうというのではないのだ。」

その高い声に似つかわしくない力で腕を掴まれ、彼女は動けない。


「お前を馴らすには、どうすれば良いのだろうな。

他の女たちのようになっては詰まらぬし・・・お前ならしばらく、わたしを楽しませてくれそうだ。

それでこそ高い金を払った効があるというものよ。

「その内お前にも見飽きるだろうから、そうしたら店のほうへ出すとしよう。

お前なら沢山の客が捕れる。わたしが払った金もすぐに取り戻せるだろう。」

身を捩っても、男の柔らかい手は吸盤のように貼り付いている。

男の体は生温かく、甘ったるい汗の匂いが鼻を衝いた。


次の瞬間、布の裂ける音がする。

着物の袖が肩から千切れて、肌が露わになっていた。

手近な瓶を投げてみたが、男は弛んだ頬を嬉しそうに綻ばせ気味の悪い笑い声を漏らしただけ。

「例え叫んだ所で、誰も助けになど来ないよ。皆、わたしのお遊びを良く知っているから。分かったら大人しくしておいで。

お前は一生わたしの物なのだから。ここでの暮らし方を覚えなくてはいけないよ。

「お前が良い子なら、うんとよい暮らしができる。誰もさせてくれなかったような贅沢をな。

本当にお前は、珍しい姿をしているな。肌も、ほれこんなに柔らかで。食べてしまいたいくらいだよ。」

「いや!」男の顔を押しのけようと腕に力をいれた。


「そういう声をしていたんだ。初めて聞いた。まるで媚薬のようだ、甘くて魔を含んだ、男を狂わせる声。

たまらない、もっと聞かせておくれ。」

自分の身体で自由になったのは、足だけだった。

どうしたのかは判らない。

気がついて見ると彼女の裂けた袖をつかんだまま、男は驚いたような顔をして、真後ろに倒れていくところだった。


自由になるとすぐ隣の部屋の寝台の内へ駆け込んで、扉に太い閂をかけた。

見事な透かし彫り花や鳥彫られた扉の内から、隣室正面の男の様子を息を潜めて彼女は見守った。

男が立ち上がって、こちらへ来たらどうしよう。

あの体で圧し掛かられたら、この寝台も壊されてしまう。

しかし、当の男は丸い体をさらに丸くして縮こまり、立ち上がるどころかぴくりと動こうとさえしない。

死んでしまったのかしら?

不規則ではあるが、肩が上下に動き続けているから生きてはいるらしい。


思わず小さな笑みがこぼれた。

それに気ついた様に、男が顔を上げた。

入ってきた時とは打って変わって、頬は蒼白になり、目は苦痛と怒りの涙で潤んでいる。

きっ、と彼女のいる寝台を睨みつけながら、男は震える体を起こそうと卓の端をつかんだ。

そして立ち上がろうとしたその刹那、男は再び卓と共に後ろへひっくり返った。













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