船出
おんな達の騒がしい声がしている。
その声に混じって、風に運ばれて笛と太鼓の音が途切れ途切れに流れて来た。
この家の主はどこぞの部屋で、毎夜のように酒宴を開く。
客を招き女達をはべらせ、皆が酔いつぶれるまで宴は続いた。
その機に乗じて部屋を抜け出したのだが、こうも早く気付かれるとは思いもしなかった。
なにより、とっくに屋敷の外へ出ているはずなのに。
今にも消え入りそうな虫の音が余計に不安を掻き立てた。
どこで道を間違えたのだろう。
しゃがみ込んだ蔵の陰で、彼女は辿った道を思い出そうとした。
が、すぐに止めた。
どうしたものだろう。
通用門をちらりと目にしたのは1度切り、しかも四方を女官たちに囲まれて。
うる覚えながら庭に朱色の太鼓橋があった。
景色は闇に沈んでいたが、川があるような水の流れは聞こえない。
途方に暮れた。
辺りは漆黒の闇一色。自分がどちらの方から来て、どこを目指していたのかも定かではない。
薄布を通して感じる肌寒さは、金属に触れたような冷たさがある。
かといって、それは嫌なものではなかった。
びっしりと刺繍された重い上着や暑いほどに温められた部屋よりも、それは彼女にとって心地よい。
「こんな所においでとは。みなさん大騒ぎですよ。」
背後の声に飛び上がった。
「だれ?」新月の夜、目は何の役にも立たない。
「驚かせてしまったようで、申し訳ありません。出入りの船商人でザンと申します。」
そう云われてみれば、声に聞き覚えがある。
主に気に入られて客として呼ばれた商人のひとりなのだろう。
「私が此処にいると、彼らに教える?」
「わたしは貴女を探すように頼まれてはいませんので。此処にいることを知られては困るのですか?」
「困るわ。私は此処を出たいの。」
そのとき、温もりのある上着が彼女の身体を包んだ。
「春とはいえ、そんな薄着で出歩くには少々早すぎます。」
彼女は男の姿を見る事は出来ないが、彼の方は違うようだ。
それは僅かながら潮の匂いがする。
彼女にとってそれは非常に懐かしい匂いのような気がした。
どうやら男は陸に上がったばかりらしい。
海から離れた高台にある屋敷では、波の音を聞くことがない。
なぜか分からないが、それがとても寂しいことに感じた。
「此処を出て、どこへいかれます。行くあてはあるのですか?」
「ないでしょう、たぶん。でも、私は此処がきらい。」
「外はかなり物騒な土地ですよ。ご不便があるのなら、近くの者にそうおっしゃれば良いでしょうに。」
「此処が嫌いだと云ったでしょう。寄って集って私を見世物のようにあつかうのだもの。」
この嫌な感じは覚えがある。
きっと以前も同じような暮らしだったのだろう。
この屋敷に来る前の記憶は曖昧だ。
何度も薬で眠らされ、船底で目を覚ました日から名も暮らしぶりも覚えていない。
覚えているのは、薄暗がりの部屋で競りをしている男達の声や
充満するむせる様な香の匂い、それに女を買いにやって来た男達の彼女に向けられた目だけ。
場所は何度も移ったが、それ以外は全部同じだった。
「貴女を妻に迎えようとしている御仁に、随分と手厳しいですね。
許婚の貴女を構いたいのですよ、許して差し上げてはいかがですか。」
「それは違うわ。私は妾として競り落とされたの、姿が珍しいといって。」
すると素っ頓狂な男の声が響いた。
「妾だぁ!?」
「お願い、静かにして。やっと逃げ出してきたのに、見つかってしまうじゃないの。」
「貴女は許婚ではないのですか?」
「とんでもない、許婚はどこか別棟よ。あんな男の妻にされるなんて、本当にお気の毒。
この屋敷内に女が何人いることか、あなただってご存知でしょうに。」
「お噂しか存知あげませんが、出来た方だと聞き及んで・・・」
余程驚いたと見えて、声が尻すぼみに消える。
「それはたぶん、弟の方でしょう。私を買った方は、財産にものを云わせて女達を囲うような人。
その上、厭きたら店に出して客をとらせるそうよ。
あんな男の側女になるくらいなら、外に出て殺されるほうが私にはましだわ。」