5
着ていたのは白いワンピースではない大きめの白いシャツだった。
そして、袖だと思っていた腕を覆う白い物は全て包帯だ。
体中のあちこちに見ていて痛々しいほどに包帯が巻きつけられている。体が痛いはずだった。
傷を自覚したせいなのか、急にまた体中からびりびりとした痛みが沸き出てくる。思わず、顔が痛みにゆがみ、目に涙が滲んできた。
「薬だ」
突然、かなり近くから聞えた。
ぎょっと涙が滲んだ目を上げると、いつの間に近づいていたのか、男がすぐ目の前にいた。
先ほどよりも近い、腕を伸ばせば届きそうな距離だ。手には小さな白い袋を持って、目の前に差し出されている。
と、男は遠慮もなしに何も持っていないほうの手を、コーデリアの包帯が巻かれた腕に伸ばしてきた。
はっとして、コーデリアは咄嗟に後退りしようと体を動かした。
だが、そこはもう窓際でそれ以上は下がれない。直ぐに背中がぶつかる。ドンっという鈍い音が当たりに響いた。
それでも、背中の衝撃を感じながら、目の前に迫る腕から体は必死に逃げようとした。
段々と距離がつまり、逃げれない恐ろしさが急にこみ上げてくる。言い知れぬ不安と恐怖に体が硬直していった。
動けなくなっていく。
もう、目の前に迫る真っ黒な男の瞳をじっと見つめる事しかできない。
バクバクと耳に自分の鼓動が鳴り響いた。
「……」
と、コーデリアの瞳をじっと見据えていた男は触れる寸前にぴたりと手を止めた。
その瞳からは何の感情も読み取れなかった。ただただ、じっとコーデリアを観察するように見てくる。
すると、ふいに男は止めていた手を下げ、くるりと背を向けテーブルの方へと戻っていった。
コーデリアは硬直したままじっと男を目で追った。
男はテーブルに戻ると、何事も無かったかのように上に置いた紙袋から何やら緑色のビンを取り出した。そして、キュっという音をたてフタを開けるとビンを傾けて飲み始める。
突然の行動に、コーデリアは思わず硬直したままの体勢で呆然と目を瞬かせた。
静かな室内に喉が鳴る音だけが響く。
その姿をコーデリアはふうっと男が小さく息をはきビンから唇を放すまで、じっと見続けた。
「・・・・・・」
だが、飲み終わっても男が何か言う気配は無かった。
コーデリアはごくりと唾を飲み込んだ。
先ほどの恐怖は消え去ったが、今度は妙に緊張が込み上げてきた。
男は飲み終えたビンを手に持ったまま、再び袋の中身をあさり始めている。
(ど、どうしよう・・・・・・。何も言ってもこないし、私はどうすれば?)
何故だろう。コーデリアはずっと動かなくても男が何も言ってこない気がしていた。
かといって、男を無視して行動するのも、このままいつまでもこうしている訳にも行かない。
コーデリアはふうと一度大きく息を吸い込んでから吐き出し、一旦落ち着く事にした。それを何度か繰り返し、そして、意を決して自ら声をかけた。
「あなたは、誰ですか?」
緊張した面持ちでゆっくりはっきりと言う。
と、男は再びビンを傾けようとしていた手と頭をを途中で止め、視線だけでチラリと見てきた。
目が合った瞬間、一瞬どきりとした。
その目はやはり感情が見えない。
その事に再び緊張がこみ上げてきた。
暫く、無言が続いた。
どれくらい経ったのか、いい加減答える気が無いのかと思い始めた頃。
急に男の口が声を発した。
「ディザナン。ディザナン・グルックだ」
予想外にちゃんと答えが返ってきた。発せられた声は落ち着かせるような低音だ。
その事に一瞬、驚いたもののコーデリアは意を決して続けて質問を投げかけた。
「こ、ここは、何処ですか」
「『無地』だ」
「む、ち?」
『ムチ』か『鞭』なのか、『無知』なのか、はたまた『無恥』なのか『無智』なのか。思わず様々な単語が頭に浮かんだ。
自分の頭のなかでハテナが浮かび続けていたコーデリアに、今度は男、ディザナン・グルックの方から質問がきた。
「お前の名前は?」
「エッ!? あ、コ、コーデリア・アルベニス・・・・・・です」
先ほどの単語について考えていたため、突然の問いかけになんとか取ってつけたような丁寧語で返した。
そんな事も気にしてないのか、気がついてないのかディザナンは淡々と質問を続けてきた。
「どうして、あんなところで寝ていた」
「えっと? あんなところって?」
「どこから来た。『無地』の出身じゃなさそうだが、『楽園』か? まさか、『聖地』か?」
「らくえん? せーち?」
淡々と告げられる質問と単語に、コーデリアはますます混乱して答えが詰まっていった。
言っている単語は分かる気がするが意味がわからない。
その事実を自覚した瞬間に、ある事に思い至った。
だんだんと体から血の気がひいた。
明らかに顔色が変わったせいか、ディザナンの無表情な眉間に皺が寄った。
「どうした」
「……」
「おい」
「……わからない」
「は?」
「わからないの! どうしてここにいるのか。自分がどこから来たのか・・・・・・」
もう、自分の大きな心臓の音しか聞えなくなっていた。
思い出そうとすればするほど、目覚める前の事がまったく出てこなかった。まさに真っ白。ぐるぐると疑問だけが頭を巡って答えが見つからない。
不安が膨れ上がり、どうしようも出来ない恐怖を押し殺そうとぎゅっと力の限りに着ている服を両手で握る。
喉をこみ上げてきそうな気持ち悪さに、口から留め止めなく言葉が洩れた。
「ねえ、ここはどこ。私いったい誰なの? 何処から来たの? どうしてこんなに怪我してるの? どうして? どうしてっ」
「おい」
いつの間にか、ディザナンが再びコーデリアの目の前まで来ていた。躊躇無く体に手が伸ばされる。
だが、今度は逃げる事はしなかった。そんな事よりも次々と込み上げてくる言い切れない恐怖で体が小刻みに震えることしかできなかった。
よほどキツク服を掴んでいたのだろうか、ぐいっと強い力で服から手を引き剥がされた。
「落ち着け」
すとんと、心地よい声が耳に聞えてきた。
「息を吸って吐け。そうだ、ゆっくりだ」
言われた通りに口から意識して息を吸い込む。喉に空気が入るのがわかった。冷やされた空気が徐々に騒いでいた心と頭を冷静に導いていく。
ふっと激しく高鳴っていた鼓動は徐々に落ち着きを取り戻し始めた。だが、それと同時に急に心には果てしない孤独が舞い降りてきた。
そして、頭には一つの疑問だけが残った。
自分はいったい誰なのか。
「わからない……」
何もわからない。
何も思い出せない。
一体、自分はなんなのだろう。
体が寒くも無いのに小刻みな震えが止まらない。
「・・・・・・落ち着いたな。とりあえず飯を食え」
ディザナンはゆっくりと導くように背中を押してきた。
背に触れる僅かな暖かさ。その温もりが心に押し寄せていたどうしようもない孤独と不安感を僅かに消し去ってくれた。
コーデリアはその暖かさに縋るように、導かれたテーブルへと座った。