9
鉛色の雨は、あの日からまだ降り続き今日も、その雨が壁を打つ音で目を覚ました。
コーデリアはその音に誘われるようにベッドから出て真っ先に窓辺に向かった。
外は相変わらず灰色のビルが立ち並んでいる。この3日間、幾度となく外を眺めているが、人が道を通る事はやはり一度もなかった。あまりにも見かけないため、本当にここにはディザ以外の人間がいるのかと少し不安にもなる。それほど、本当に生き物の気配を感じない。
空を見上げれば曇天の雨雲ばかりだ。ここに来てからというもの一度たりとも青空を見ていないなとふと思った。
まったく毎日変わり映えが無い世界だ。
そんな外から目を放し、コーデリアは窓に映る自分をじっと見つめた。そこには、群青色の瞳を不安げにしている包帯だらけの金髪の少女がいた。着ている服もディザの着古したシャツを借りっぱなしであった。
目が覚めてから3日。
相変わらず降り続ける雨と同じく、自分の記憶も全く変化が無かった。
何度か思い出そうと記憶を辿ってみても、靄がかかったようにぼんやりするばかりで、すぐにツンとした頭痛に襲われる。
ディザの所に残れると分かった後、心が落ち着きを取り戻し腹も充たされた途端に体は再び痛み出した。一時は傷が熱を持ち始め、再び寝込む破目になるほどだ。それもディザが用意した薬で翌日には何とか持ち直し、今も大分痛みは和らいでいる。
それでも時間がたてば、またヒリヒリとした痛みが全身に広がるため、何度か薬を服用しなくてはならなかった。今も、ベッドの側にあるテーブルには水差しとコップ、そして薬が置かれている。
と、じっと雨が落ちていくのを眺めていたコーデリアの耳にドアの外から人が歩く足音が聞こえてきた。
(帰ってきたのかな)
と、そう思った瞬間。
ぐうううううう
「・・・・・・おなか減った」
自己主張するように鳴ったお腹をさすり、一人頬を赤くする。
コーデリアはもう一度、幾分弱まった気がする雨へと目を向けてからリビングへと向かった。
部屋を出ると予想通り、ディザがリビングにある古めかしいダイニングテーブルの上に紙袋を置いて、側で黒いコートを脱いでいた。
「おかえりなさい」
「・・・・・・ああ」
コーデリアがダイニングテーブルのイスに座って話しかけると、相変わらずのこっちを見もせずに無表情で返事が返ってくる。
ディザは脱いだコートをコーデリアの横のイスに引っ掛け、自らもその横に座った。イスを一つ空けて座るこの場所が、この3日間ですっかり2人の定位置となった。
椅子に座るとディザは早速テーブルの上に上げていた紙袋の中身を出していた。
紙の束に、いくつか中身の分からないビンが数種、布きれや、一体何に使うのか分からない小さな金具。
(いつもより、荷物が多いな・・・・・・)
いつも、というよりこの2日間で見た荷物より多めだ。本来なら、ここで荷物に混じって朝食が登場するところなのだが、今日はなかなか出てこない。
まだまだ時間がかかりそうだと思ったコーデリアは気を紛らわすため改めてリビングをぐるりと目をやった。
このリビングは、寝室と同じでコンクリート壁がむき出しの部屋だ。ワンフロア使っているのか、かなり広い。
中央にはコーデリア達が座っている古めかしい大きい円卓のダイニングテーブルとイスが数脚。玄関側の壁際にはキッチンがあり、ダイニングテーブルを挟んでフロアの真ん中にディザでも余裕で寝れるほどでかいソファがドンと置いてある。コーデリアがここに来てからディザはこのソファで寝ているようだった。
ちなみに、コーデリアの寝ている寝室は玄関から入ってすぐ左側。円卓を挟み反対側にはもう2部屋、物置き部屋になっている扉がある。
その物置部屋に並んで、リビングの一番奥にはカーテンで仕切られただけの謎の部屋がある。他の部屋は見せてくれたがあの部屋だけはディザに入るなと言われていた。
一体何があるのか。恐らく私室なのだろう。だが、ちらりと見えるカーテンの奥はいつも暗くディザはあの部屋に入ったら中々出てこない。
(あの奥には何が? うん。隠されると気になるんだよね・・・・・・)
「食わないのか」
はっと、コーデリアは慌ててカーテンから目を離した。
ディザの方に目を向ければ、いつもと変わらない無表情がコーデリアを見ている。気がつけば、目の前に牛乳といつもの硬いパンが置かれていた。そして、不思議な事にアレだけ溢れていた荷物が消えていた。
ぐううううううううう
「・・・・・・」
「さっさと食って薬を飲め」
そう言って、ディザはなんと目の前のパンを持って口元まで運んできた。
ぎょっとしていると、無理やり口の中に入れ食べさせようとする。冗談なのか本気なのか、どちらともつかない声と表情に、慌ててディザの手からパンを奪い取る。
「じ、自分で食べるから」
慌ててそう言って、奪い取ったパンを一口齧った。
相変わらず美味しいと素直に頷けないパンだ。それでも、牛乳でなんとかいつもどおりに流し込むとお腹に満足感が広がった。お陰でお腹の虫も鳴り止んでくれる。
「……」
ふと、視線を感じて顔を上げるとディザがじっとこちらを見ていた。
顔はやはり感情の起伏を感じられない。目はどこまでも虚無な真っ黒だ。
この3日で分かった事は、この表情が平常時らしい事だ。笑った顔や怒った顔ですらコーデリアは見たことが無かった。お陰で、言っている事が冗談なのか本気なのか、先ほどのように迷う事が多々ある。
と、暫くコーデリアが見ていても見つづけていたディザであったが、ふっと鼻からため息のような息を小さく吐き出すと自分の食事を始めた。といっても彼の目の前にあるのは初日に見た緑色のビンだけだ。その他に食べ物は一切見当たらない。ビンを片手に何処からか出した書類に目を通していた。
(いつも食べてないけど、もしかして、どこかで食べてきてるのかしら)
パンを租借しながらコーデリアは横目でディザを観察した。
ディザはコーデリアが起きる前には出掛けていた。朝起きてリビングにくるともう居らず、暫く待っていると帰ってくる。そして必ず手に紙袋を持っていた。
その中身は大体その日の食料だ。
といっても、その殆どがコーデリアの物で、ディザはあまり食事を摂ってはいなかった。
その他にコーデリアの薬や生活用品であったりと、様々なものを持ってくる。いったい何処から調達しているのか。不思議に思いディザに昨日聞いてみたところ。
『買ってきた』
と、だけしか答えなかった。
結果として、分かるようではっきりと判らない答えだ。
とりあえず、買い物できるという事は確かで、やはりディザ以外に誰かがこの土地にいるのだろうという実感は得られた。
暫く、互いに話をしないまま黙って食事を続けていた。が、粗方の食事を終えると妙にこの沈黙が居心地悪い。部屋の中は雨の音ばかりが響く。ちらりとディザを伺うが、書類を読むことに集中しているのか何の反応も返って来ない。
(どうしよう。間が持たない)
ディザに間を持つという事態似合わない気がするが、これ以上の沈黙に耐え切れなくなってきて、コーデリアはふと疑問に思っていたことを聞いてみる事にした。
「ねぇ、ディザ」
「なんだ」
いつものように顔を上げずに返事をしたディザに、コーデリアはそのまま質問をした。この3日間でこのディザの態度には慣れた。
「これって何処から買ってきたの? そこに人って沢山いる? それに、薬はどこから持ってきてるの? 病院があるの?」
随分子供っぽく質問をしてしまっただろうか。だが、気にしないことにした。恐らく、ディザは何も思わないはずだ。
予想通りに、ディザはちらりと視線だけコーデリアに向けてきた。そして、再び資料に視線を戻した。続けざまに質問したのが悪かったのか、答えてくれそうにない。
駄目だったかと諦めかけ次の間をどう取り次ごうかと思った時、呟くように突然答えが返ってきた。
「食料は『楽園』の商人から買った。人はまあいる。沢山がいったいどれくらいなのか知らんが、恐らくお前が想像する位は沢山はいる。薬は……、無理やり持たされた」
(最後に変な間があったけど、誰から?)
と、言いそうになったが何とか踏みとどまった。そして、一気に言われた情報を頭の中で整理する。それにしても、また、なにやら色々と疑問が溢れる回答が返ってきた。
ディザは見た目とは違い、口数は少ないが質問をすれば答えてくれる人だった。
だが、その答えは必ずしも分かりやすいものではない。ここの人にとっては、それで分かる答えなのかもしれないが記憶が無いコーデリアにとっては実に不親切な答えの方が多かった。
納得のいく答えだったのか。ディザは話しは終わったとばかりに書類に集中してしまう。
このままでは謎が深まっていくばかりだ。
考えた末、コーデリアはとりあえず初めに浮かんだ疑問を解消する事にした。
「ディザ」
「なんだ」
怒っているように聞える声に一瞬怯みそうになったが、コーデリアはそのまま質問した。
「『楽園』って、何?」
その言葉と同時に、ディザがすっと視線をコーデリアに向けてきた。その余りにも鋭い視線に思わずびくりと体が動いたが、ディザの口からは気が抜けた声が出てきた。
「・・・・・・言ってなかったか?」
「う、うん」
頷くと、ディザは「そうか」と一言呟いただけで、考え事を始めてしまった。
コーデリアは慌てて言い募った。
「あっ、でもちらっと『楽園』に行けってディザ言ってた事あったよね? あと、『聖地』がなんだとかっ」
「……意外と記憶力はいいんだな」
と、片眉を僅かに器用にあげて関心するような声で頷いた
珍しいく表情が動いた。その事にコーデリアはポカンと口を開けて見入ってしまう。
が、はっと失礼な発言に気がついた。
「……って、だから意外ってどういう事!」
思わずツッコみを入れてしまうが、それを見届ていたディザはあいかわらずの無表情な顔のまま何事もなかったかのように窓の方へと目を向けた。
急に勢いを削がれたコーデリアはうっと前のめりになりそうな体を戻して、その視線を追って窓へと目を向ける。
リビングから見る窓の景色は、寝室の窓と殆ど大差は無い。灰色の廃ビルが建ち並んでいるだけだ。少し違うとすれば、遠くには高い壁ではなく、真っ黒な所が見える事だ。
(そういえば、あの黒いのってなんだろう)
そう思っていると、ふいにディザが再び話しを始めた。
「遠くに黒い土地が見えるだろう」
「えっ! あ、うん」
今しがた思っていた事を言われちょっと驚いた。ちらりとディザに顔を向ければ、ディザは窓を見つめたまま淡々と話を続けた。
「あれは『死の森』と呼ばれている」
「『死の森』? 森って事は、あの黒いのってもしかして木なの?」
俄には信じがたく、コーデリアはもう一度窓の外に目を向け、黒い部分を見た。
そこは本当に真っ黒だ。漆黒といって良いかもしれない。闇のようなその色はぽっかりと穴が開いているようにも見えるほどで、言われてもとても植物には見えなかった。
だが、ディザはさも当たり前のように頷いて続けた。
「ああ、そうだ。本来なら葉は緑色をしているが、外の植物はあの森のように真っ黒な葉をしている。話では土に溜まった毒素を吸って黒くなったらしい。で、あの『死の森』の地区が『楽園』と呼ばれている地区だ」
「死の森なのに『楽園』?」
死と楽園。
相反するような言葉だ。思わず理解できず首を横に捻る。
「あの森の下には、地下都市がある」
「地下都市って事は、地面の下に人が住んでるの? 森の中じゃなくて?」
もしかしたら森の中に村があるのだろうと思っていたコーデリアは目を円くした。
「ああ。森の中にも数人は暮らしているがな大体は地下に住んでる。事故以前に作られた施設でな。かなり多くの人間がいる。広さも深さもかなりあって、あそこは地上にある森が毒素を吸ってくれているお陰で水が飲め、農業や家畜も行われている。その上、自家発電装置があるから電気も通ってる。人として殆ど不自由なく暮らせる人間の欲を満たせる場所」
「もしかして、だから『楽園』? あっ、もしかして買い物もそこからっ」
ディザは小さく頷いた。
「そうだ。『楽園』で作られた作物や物品は商人を通じて購入できる。で、『聖地』は『楽園』とはここを挟んで反対側にある地区だ。寝室の窓からも見えるだろう。ビルの向こうに巨大な壁が」
コーデリアはあっと僅かに声を上げた。
「あれ何かなって思ってたけど」
「あれは『聖地』を取り囲んでいる壁だ。上は透明な屋根がついて大きな隔離施設になっている。『聖地』は事故以前に科学者達が富裕層を守るために作ったシェルターみたいなもんだな。周りを高く分厚い壁と、透明で特殊な物質で覆った天井は毒素を含む外気を一切入れないようにしているらしい。話に聞くと中は事故以前と全く同じ生活がなされているらしい」
「らしいらしいって、ディザは中に入った事ないの?」
「ない。俺だけじゃなく『無地』や『楽園』の連中はあの中に入ることはできない。逆に、『聖地』の連中も外に出てくる事は殆どない。あそこは完全に外界をシャットアウトしている」
そう言うと、ディザは窓から目を話してコーデリアを見た。
と、突然向けられた黒い視線に視線に、コーデリアは一瞬、ビクリと体が硬直した。何故か、ディザに心の中を探られたような気がしたのだ。
だが、それも一瞬でディザは相変わらずの無表情でふっと鼻から溜息を出し話を始めた。
「で、その『楽園』と『聖地』からあぶれた連中が暮らしてるのが、ここ『無地』だ」
「あっ、『むち』ってここの事だったの? あれ? でも、『楽園』や『聖地』は意味がわかるけど、『むち』って・・・・・・」
「見たとおりのままだ。『何も無い土地』で『無地』。ここで暮らしてるのは大抵、孤児や力の弱い女、『楽園』の島から追い出された者とか、あとは、俺みたいな裏の仕事をしてる連中だな。ま、事情がそれぞれあるが、大部分は事故後に貧困層といわれていた連中の名残だ。今の『楽園』がある地下都市や『聖地』があるかつてのシェルターに入れなかった者達がここに暮らし始めた。事故後、地球で人が住める土地であった『清地』に後に人間達がつくったのがこの『楽園』『聖地』『無地』の三地区だ。これでいいか?」
ディザの締めくくりの言葉に、コーデリアは今まで説明された内容を頭の中で反復する。
意外と詳しく教えてくれた内容に大丈夫と一度は頷きそうになった。だが、一つ、引っかかる事があり、思わず思いつくままに質問をした。
「あっ、ねぇ、ディザ。一つだけ。さっき『聖地』の内情について『聖地』に入ることも、住んでる人が出てくる事もないんでしょう? どうやって、中の様子を知ったの?」
ディザの話しだと内情を知るのは難しいのではないのか。
すると、ディザはじっと無表情でコーデリアの顔を見つめてきた。
あまりにも見てくるので、コーデリアも瞬きをして見つめ返した。もしかして、不味い事でも聞いてしまったのかもしれない。
と、ディザは変わらない無表情でポツリと言った。
「・・・・・・なんだ、意外と鋭いな」
「って、だから意外ってなんなの!」
もう、条件反射で言い返してしまった。
意外と大きな声で言ってしまってから、はっと我に返り急に恥ずかしくなる。顔が熱くなった。
そんな百面相をディザはちらりと見ると無表情のまま言った。
「だから、殆どと言ったんだ。ま、お前の疑問だが、それは追々わかる」
そう言って、再び手元の資料に戻っていった。
(あれ、質問の答えをはぐらかされた?)
結局、答えになっていない。
追々分かるとはどういう事なのか。
気になってしょうがなくなってきたコーデリアはジッとディザへと視線を向けた。
濡れたまま歩いていたのか、未だディザの髪も黒いシャツもズボンも濡れていた。毛先からぽたりと落ちた雫が首筋を通って鎖骨に落ちていく。服や髪が黒いせいか、妙に肌が白いのが目に付く。その姿が妙に色気を放っていた。
何故かどきりと鼓動が高鳴った。
(って、何どきどきしてるの私はっ!)
また、違った意味で顔が赤くなりそうになり慌てて熱を覚まそうと頭を横に思いっきり振る。だけど、意識して忘れようとすればするほど、ディザの首筋が頭から離れなくなった。
なんとか追い出そうとさらに首を横に振る。
「何してるんだお前」
呆れた声にはっと顔を上げれば、ディザがその無表情な顔に珍しく呆れた眼をしてこちらを見ていた。
「な、なんでもない! ちょっと、そう! 首の運動よ!」
「……」
我ながら、もう少しマシな言い訳はなかったのかと思ったが遅かった。
内心、冷や汗をかきながらディザの視線を受け止める。幸い、ディザは呆れた目をしつつも再び書類に視線を戻していた。
(へ、変に思われた、かな?)
無表情なだけに、どう思われたかなどまるで予測ができない。まあ、いつもどおりに気にしてはいなさそうである。
その事にほっとしたコーデリアは。とりあえず一度落ち着こうと残っていたパンを一つとって再び口に運んだ。