それがきっと愛なのです。
どう、しよう。逃げられない。
恋なんて、した事ない。
別にしたいとか思ってないし、出会いもないし。
正直どうでも良い。
したくない訳じゃなくて、運命に従ってるだけ。
その時がくれば必然的に恋をするはずなのだから。
その時が来ない事を同じ位強く願っていたとしても。
恋をする相手はもう決まってるのだから。
でも、そう言うと酷く子供扱いされる。
ネンネの蛹ちゃんだからと優越感を裏に重ねた心配をされる。
免疫が無いからオオカミに襲われちゃうよ、と。
聞く度に作り笑顔の裏で否定してた。
そんな事にはならないよ、と。
だって。
***
不意に曲がり角の向こうから現れた人影に驚いて、足を止めた。
無意識にさっと俯き、さりげなく身を引くと相手が通り過ぎるのを待つ。
他人の顔など見たくない。
いや、違う。怖いのだ。
運命を。待ち侘びている癖に、忌避している。
見たい、けれど、見たくない。
相反する感情が心の中で渦巻き、身も心も身動きが取れなくなる。
やっぱり、外は苦手だ。
最低限、外出は必要で、いざとなれば如何様にも擬態できるけれども。
内心でそう思いながらも視線を下に向け、立ち止まってその人影が通りすぎるのを待っていたのに、相手も驚いたのか同じように動きが止まったのでそろりと俯いていた視線を上げて相手を見た。
「…ぁ」
瞳があった瞬間、逃げ道がなくなった。
逃げなきゃいけないのに動けない。
癖の無い、でも無造作に整えられた黒味を帯びた短い髪。
その下の凡庸で、何処にでもあるような、けれど親しみの有る容貌。
少し我の強そうな鷲鼻が特徴と言えば特徴と言えるような、普通だったら一瞬後には忘れている、タイプ。
それ、でも。
「これが、運命ってか?」
ほんの少し意地悪そうに笑いながらぼそり、とその人が言った。
「……え?」
「ふうん?あんた、背ちぃせーな、幾つ?」
「あ、152」
思わず素直に答えてしまう。
瞳が逸らせなくて、見上げているから首が痛くなる。
「玩具みてぇ~。マジちっちぇなぁ~」
その人は不意に私の手を掴むと、からかうようにそう言った。
余りの事に驚き、びくり、と自分の体が固まるのが分かった。
思わず視線を手に向ける。
私の手を包み込んで尚余りあるその大きな手。
暖かくて優しくて冷たい私の手がじんわりと熱を取り戻していく。
その事にほっとする自分に気づき、一瞬鼓動が大きく跳ねた。
慌てて掴まれた手を引き抜こうとすると、強く引き留められた。
痛くはないけれど、逃がさない、
という意図がはっきり判るその強さに更に混乱し、視線を再度上げると、楽しそうに笑う瞳が見下ろしていた。
「あ、の。放して?」
「ヤだ」
はっきりと面白そうに笑いながらその人は、あっさりとそう返してあろうことか掴んだ手を引き上げ唇を寄せた。
瞳は私を見たまま。
「…ッ!?」
一気に自分の頬が熱くなるのを感じ、恥ずかしさに耐え切れず俯くと再度掴まれた手を振りほどこうと力を込めたけれど、やっぱり逃がしてはくれなくて。
逆に落とした視界の中にその人の靴が入る。
ゆっくりと近づいてくる気配に、羞恥と混乱と恐怖を覚え2・3歩後ずさると、頭上で面白そうに笑う声が響き、一瞬それに気を取られている間に掴まれた手を強く引かれた。
不意に手を引かれた反動で私は、その人の腕の中に閉じ込められた。
「…やッ!」
「逃がさねぇよ。あんただって解ってんだろ?」
ご丁寧に背中にもう一方の腕を回され完全に閉じ込められたその状況に慌て、何とか抜け出そうともがくも、腕は頑固な牢のようにがっちりと閉じ込めたままびくともしない。
おまけにわざわざ屈んで耳元で囁かれた言葉と耳に触れた吐息の熱さにびくり、と体が反射的に固まってしまって、その人は満足そうに耳元で笑う。
思惑通りの反応を返してしまう自分を呪いながら、けれどどうする事も出来なくて私は更に暴れた。
すると今度は掴んだ手はそのままにあっさりと腕が外れ、私は出来る限り距離を取ってその人を睨みつけた。
「毛ぇ逆立てた猫みたいだな。んな真っ赤な顔で睨んでも怖くねぇし、逆に誘ってんだって気付いてる?」
「…ッ!?さそッ…そんな事!?」
からかうように意地悪で恥ずかしい言葉と態度をこれでもか、という位私に押し付けてくるから、私は自分の全身がまるで発熱したように熱くなっているのを自覚する。
その人もそれがわかっているようで、更にくつくつと愉快そうに喉の奥で笑いながら私の瞳をひた、と見つめ返した。
その瞳には熱に浮かされたような凶暴さを秘めた色が隠す事無く浮かび上がっていて、私は下腹がぞくり、と震えるのを自覚した。
本能が、理性を無視して歓喜の声を上げる。
私の運命に。
抗いようのない、運命に出会った事に。
いいえ。いいえ。ダメ。
違う。運命なんていらない。
恋なんていらない。
獰猛な本能があげる喜びの咆哮に搔き消されまいと、必死に理性に縋りつき、否定する。
恋なんていらない。欲しくなかった。出会いたくなんか、無かったのに。
「泣くなよ」
「……だって…あ、なただっていやじゃな、の?」
その人は、先ほどまでの愉快そうな嗜虐に満ちた笑みを消して、真面目そうな表情で静かに私に近寄ると、気付かない内に零れていた涙をそっと人差し指で拭ってくれた。
その人の瞳には相変わらず消えない炎が宿っていたが、先程のように怖いとは思わず、しゃくりあげながら問いかけた。
口調が小さな子供のように舌足らずになりかけていて、内心羞恥を覚えるが、こぼれてしまったものは仕方ない、と割り切る事にした。
しゃくりあげながらだったから、という事にしておこう、と頭の片隅で誰に対してか分からない言い訳を浮かべた。
「そうだな。誰かに縛られるのはごめんだって、そう思う気持ちも確かに有ったよ。でも、それでも本能には抗えねぇ。…解るだろ?」
その人はそう言うと、瞳の奥の炎を一層燃え上がらせながら私に覆い被さってきた。
ゆっくりと、唇が重なる。
静かな触れ合いは、その最初の触れ合いだけだった。
本能には、抗えない。
確かにそうだ。抗えない。
だから、怖かった。だから、渇望していた。
私の、ただ一度きりの、運命。
永遠とも言える、その一時。
時間にして数分も経っていない間貪られた唇は、熱を持ったように熱く、まるでそこに心臓があるかのようにどくどく脈打っているように感じた。
名残惜しそうな様子で唇が離れると、私はその人を見上げた。
視界が若干ぼんやりしているから、涙で目が潤んでいるのだろう。
「良いのね?」
「当たり前だ」
怯えていた少女はもう何処にもいない。
目の前の男が葬り去った。
ここにいるのは、運命に出会った、女。
恋をするのは、生涯ただ一度だけ。
時期が来たら強制的に出会い、そして瞳を見かわした瞬間に恋に落ちる。
「……愛して、います」
「ああ。俺も愛している」
私は、飢えた本能に突き動かされるようにして伸ばした爪でその人の喉元を一気に切り裂いた。
…ああ、なんて、甘い御馳走。
免疫が無いからオオカミに襲われちゃうよ、と。
顔も思い出せない誰かが言った言葉が頭を過る。
そんな事には、ならないの。
だって。
だって、私が捕食する側、なのだから。
相手の肉体も、魂も、全て取り込んで私の全てと溶けあわせて。
そうして私は、私の全てを捧げて私達の仔をこの世に送り出す。
少なくて二匹。
多い時には何十と生まれ、最初の糧である母親を喰らい、闇に紛れる愛しい異形。
私達の可愛い化生が、もうすぐ、生まれる。