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真・こことは違うどこかの日常  作者: カブト
過去(高校二年生編)
69/199

第八話 『二人の日常』 その1

 どんなに嬉しい出来事があったとしても、どんなに悲しい出来事があったとしても、『人』は日々の生活から逃れることはできない。

 当り前のように起きて、ご飯を食べて、仕事をし、そして、また明日同じことを繰り返すために眠る。

 『人』がこの世に生まれ落ちてから、再び死んで無明の闇の中に還るまでの間、延々と繰り返される『日常』。

 その『日常』という名前の戦いが続く日々を生き続けなくてはならない。

 と、言っても毎日毎日寸分の狂いもなく同じ日々かといえば、またそれも違う。

 ときには、いつもと違う出来事が起こり、それを乗り越えて進まなくてはいけないこともある。

 あるいは回り道したり、誰かに手伝ってもらったり、諦めて別の道を選んだり、それはもう『人』によって起こる出来事は様々、そして、選ぶ道もまた様々である。

 しかし、大半の『人』の人生は、どれだけ変わった出来事に巻き込まれたとしても、最終的には同じようなループへと再び戻り、また単調な『日常』との戦いが始まるのだ。

 

 そして、それは宿難(すくな) 連夜(れんや)という少年にとっても例外ではなかった。


 一カ月前、連夜の人生に大変な出来事が発生した。

 

 『恋人』というものが出来たのだ。

 相手は自分よりも三つ年上の大学生で、自分の実姉の大親友。

 一流モデルや有名女優でも全然歯が立たないくらいの凄まじい美人。

 そのうえ都市立大学に通うスーパーエリートで、武術の腕前はこの都市でも十指に入るほどの強者。

 性格は人付き合いが少々苦手で気難しいところがあるものの、連夜に対してはとてつもなく優しい。 

 幼い頃から大好きで大好きでたまらなかった、憧れの女性。

 その女性と、ある出来事がきっかけで付き合うことになってしまった。

  

 連夜がこの世に生を受けてから十七年間。


 連夜は一度たりとも『恋人』というものを持ったことがない。

 おかげで付き合いだした最初の頃は、本当に戸惑うことの連続ばかり。

 どう付き合えばいいのか、どう付き合っていけばいいのか全くわからない連夜。

 『恋人』に嫌われたくない一心で、腫物を触るように慎重に慎重を重ねて付き合い、自分達に一番いい距離を探ろうとして頑張った。


 しかし、年上の『恋人』はそんな彼の臆病な配慮を、たった数日で簡単に蹴っ飛ばして木端微塵に粉砕してしまった。

 

 勿論それは決して悪い意味でではない。

 年上の『恋人』は連夜の想像をはるかに超えて積極的だったのだ。

 連夜が距離を取ろうとするよりも早く毎回その懐めがけてひたすらに真っすぐに飛び込んできて、避ける暇も、対抗する策を仕掛ける暇も決して与えない

 凄まじい勢いで連夜の精神防御壁を破壊し、粉砕し、突破してくる。

 自分が傷つくことなんか全くお構いなしのスーパーカミカゼアタックである。

 そして、慌てふためく連夜の心と体をがっちりと羽交い絞めにした上で、雁字搦めに押さえこんでしまうのだ。


 そう連夜の年上の『恋人』は、決して連夜に距離を空けさせようとはしなかったし、絶対にさせなかった。

 

 連夜にしてみれば距離を探るどころの話ではない。

 あっという間に彼女の間合いに支配され、気がついた時にはもうそのペースにすっかり慣れてしまっている自分の姿。


 今、彼女に捨てられるようなことになれば、大怪我どころで済まない心の傷を負うことになるだろう。

 なんせたった一カ月そこらで完全に連夜の心は彼女に掌握されてしまっていたのだから。


 付き合い始めてから一カ月後の今、彼女を中心とした生活が当たり前のように流れている。

 

 夢のような幸せ。

 しかし、それは儚く消える危うさと背中合わせ。

 

 それを自覚した当初はかなり悩んだ。

 これで本当にいいのかと、かなり悩んだ。

 悩んでは見たが、結局、どうにもならないということがわかっただけだった。


 根本的に連夜は『恋人』のことが好きだ。

 好きという言葉ではいい表せられないくらい、『恋人』のことが心から好きだったし、愛している。

 だから、他の『人』に取られて自分が捨てられる姿を想像しただけで、どうしようもなく悲しく、身を刻まれるように苦しく辛い。


 だが、多分、そうなることで『恋人』が今以上に幸せになれるとわかったら、自分はあっさり納得してしまう気がする。

 自分の幸せよりも『恋人』の幸せのほうが重要だから。


 そして、連夜はそれらのことについて考えることをやめた。

 とりあえずさしあたっては、本日、あるいは明日、そして、ごくごく近い未来にある彼女を幸せにしなくてはならない。


 それ以上の未来にはまた別の誰かが彼女の側にいるかもしれない。

 だが、今現在その役目は間違いなく連夜のものであり、連夜の仕事である。

 

 そういう風に思いながら日々を送っていった結果、あっという間に一カ月という月日が流れた。

 ありがたいことに、連夜はまだ『恋人』に飽きられて捨てられてはいない。

 

 いつまで続けられるかわからないが、彼女の『日常』を守り、その『日常』が幸せであるようにと、今日も連夜は『日常』に戦いを挑む。


 連夜は、一週間に二日か、三日、一人暮らしをしている『恋人』の家に通っている。

 本当は毎日のように通いたいのであるが、いろいろと問題があり、二日か、多くても三日しかいけないというのが現状である。


 学校帰りに『恋人』の家に立ち寄ることが多い連夜。

 連夜は、そのときに家の中を掃除したり、たまっている洗濯物を洗濯したり、夕食や、翌日の朝食、場合によっては翌日彼女が大学に持っていくお昼ご飯のお弁当の用意をしたりして過ごす。

 一応『恋人』は全く家事ができない『人』ではない。

 それなりに掃除洗濯炊事をこなすことができる。

 できるのだが、その彼女の家事能力のキャパシティを大幅に超えて邪魔する『人』物達が何人かすぐ側にいるため、その機能を活かすことができないのである。

 当たり前であるが、その邪魔をする『人』物達の中に連夜は含まれてはいない。

 むしろ、彼女達がしっちゃかめっちゃかにした『恋人』の家を清潔且つ、整理整頓された『人』の住む空間に修復し、維持しているのは他ならぬ連夜である。


 幼い頃から家事の達人である父親に厳しく教育されてきた連夜は、そこらへんのハウスキーパーが束になってかかっても敵わない位の恐るべき家事能力の持ち主である。

 実家にはたくさんのプロのメイドさん、召使さんが働いている。

 それぞれが掃除の達人、洗濯の達人、料理の達人であり、非常に優秀な『人』達ばかり。

 一つ一つの能力では、間違いなく連夜よりもみな優れている。

 だが、家事全般の総合能力で見たとき、連夜に匹敵する、あるいは越えるだけの能力を持った『人』材は一人として存在していない。

 

 強いてあげるとするならば、連夜の妹弟子でメイド長のさくらがいるが、そのさくらでも連夜には遠く及ばないのである。

 

 達人を越える名人級の腕前。

 それを存分に振い、連夜は、日々愛しい『恋人』の日常生活を守っているのだ。

  

 さて、今日はその『恋人』の家を訪れることになっている日。

 一昨日訪れたときに彼女の家の霊蔵庫をチェックしたが、中にはほとんど何も入っていなかった。

 今日は、しっかり買出ししてから行かなくてはいけない。

 連夜は、高校の授業が終わったあとの放課後、彼女の家の近くにある総合衣食住商品取扱大型店へと向かった。


 連夜が住んでいる城砦都市『嶺斬泊』。

 北方都市最大の交易都市であるここには、当然のことながら総合衣食住商品取扱大型店がいくつも存在している。

 城砦都市『ストーンブリッジ』に本社を置く『グレートA』。

 城砦都市『アルカディア』に本社がある『良音』

 城砦都市『通転核』が発祥の地と言われる『コップ』

 実に様々な店が、あちこちに点在してその覇を競っているが、なかでも連夜がよく行くのはこの『嶺斬泊』で生まれた『ジャスト』だった。


 理由は実に簡単。

 取り扱っている商品が若干だが、ほかの大型店舗よりも多く、何よりも月に何回かある特売日の値引きが非常に高いからだ。

 誤解のないように説明しておくと、連夜が『恋人』の生活費を全て出しているわけではない。

 むしろそういうことを非常に嫌う『恋人』は、連夜に出来るだけ出費させないようにしている。

 連夜に買い物を任せはするものの、必ず連夜が建て替えた金額を全て細かく算出し、絶対に連夜の負担にならないよう後で支払ってくれるのだ。


 連夜は現役の高校生。

 普通なら親の脛をかじってお小遣いをもらい、収入などないはずで、『恋人』のそうした気遣いがありがたいはず。


 ・・なのだが。


 連夜の場合は少々事情が違う。


 連夜は幼い頃から父の農業を手伝っていて、今では自分でもいくつかの畑を所有している。

 父親から譲り受けたいくつかの畑を耕し、市場に出回りにくい薬草や食物を栽培してそれをしかるべきところに売ってそこそこの収入を持っているのだ。

 つまり、彼は高校生であると同時に、既に社会に出て収入を得ている社会人でもあるのである。

 今の状態でも贅沢さえしなければ、『恋人』一人くらい楽に養っていけるだけの財力を持っている連夜。

 だから、連夜としては別に『恋人』の生活費くらいどうってことないし、むしろ、今後のことも考えて出してあげたいのであるが、彼の『恋人』はというと。


『連夜くんの気遣いは本当にうれしいけれど、何もかもおんぶに抱っこしてもらうのはいや!! 絶対にいやっ!! 連夜くんのお荷物にだけは絶対になりたくない!!』


 と言って、絶対に受け取ってくれないのである。


 連夜にしてみれば、自分のほうがはるかにお荷物という気がするのであるが、でもまあ対等の立場でいたいという『恋人』の気持ちはわからないことはない。

 むしろ、自分に立場を置き換えてみれば、自分も同じことを言うだろうなと考えて、彼女が出してくれるお金はありがたく受け取ることにした。

 こうして、買い物したお金はきちんと彼女から連夜に支払われることになったのである。

  

 が、しかし。


 その受け取ったお金は連夜の財布には入っていない。


 連夜は彼女に秘密で某銀行に彼女名義の口座を作った。

 そして、受け取ったお金はそこに全て連夜の手で預けられ貯金されていっている。

 もちろん、彼女には完全に完璧に秘密である。


 バレたら大変なことになるので、いざというそのときまでは徹底的に秘密を貫くつもりだ。


 さて、こうして実質的には『恋人』の懐へ戻ることになる予定の買物の代金。

 しかし、最終的に『恋人』の懐にもどることになるといっても、一時的には間違いなくそのお金は懐から離れてしまう。

 いくら『恋人』の為になるとはいえ、考えなしに大きな買い物をしてしまうと最愛の『恋人』に負担になってしまうわけだ。

 そこで連夜はできるだけ特売日を狙って安くていいものを買うことにしている。

 毎日チラシをチェックし、安くていいものは絶対に見逃さない。

 長年鍛えられ磨きあげられてきた連夜の『主夫魂』が今日も燃える。


「おお、卵安い!! って、烏骨鶏の卵も今日特売してる!!!」


 学校での授業終了後、HRにも出席しないままに学校を抜け出し、夕日が沈む前にジャストにやってきた連夜。

 高校生の少年が買い物カートを押しながら、特売品の卵のパックの値札をうっとりと見つめる光景というのも、なかなか妙なものだが、本人は全然気にしていなかった。

 連夜は、Lサイズの通常卵のパックを二つと、烏骨鶏の卵パック二つをカートにそっと割れないように入れると、背中のリュックから今朝の新聞に折り込まれていたジャストの広告チラシを取り出した。


「よし、目当てだった『神農牛乳』と『卵』と『トイレットリーフ』は買った。あと他に目ぼしいものなかったかなぁ」


 ショッピングカートのカゴの中に並べられた本日の戦利品を見て満足気に頷いたあと、別の標的を探すために手にしたチラシへと視線を向ける。

 日が暮れるまでにはまだ時間がある。

 まだお得な商品があるかもしれない。

 それを見逃してしまうのはあまりにも悔しいので、真剣にチラシを見つめる連夜。

 高校の授業でもここまで真剣に、そして熱心に教科書を見たりしないだろうことを自覚し、若干自嘲気味な苦笑を浮かべながらも、チラシを穴があくほど見つめ続ける。

 

 そんなときだった。 

 連夜は、突如自分の首にほっそりきれいな女性の腕が巻きついてくるのに気がついた。

 新雪のようにどこまでも白い肌に、物凄く形のいい細く長い指がそろった手。

 しかし、それは病的な白さというわけではない。

 その証拠にその腕は細くはあっても貧弱ではない。

 鍛え上げられ、鞭のように見事な筋肉がついている。

 そんな腕の持ち主で、連夜が知っている人物と言えば一人しか思い浮かばない。

 しかし、現在その人物は大学で講義を受けている時間のはずなのだが。

 不審には思ったが、この気配、この匂い、この肌ざわり、どれをとっても予想通りに人物に間違いないと確信する。


「玉藻さん?」


「そうよ~、あなたの最愛の恋人、玉藻で~す」


 連夜の顔の前にひょこっと顔を出したのは金髪金眼の霊狐族の美女。

 バレタかという顔で可愛らしく舌を出してみせたあと、人目もはばからず連夜の頬にちゅっと軽くキスする。


「だ、大学の講義中じゃなかったんですか?」


「うん。でもさぼちゃった。てへっ」


「さぼったって」


「だって、あの授業ってさ、ミネルヴァと一緒なんだもん。連夜くんだって知ってるでしょ? あいつと同じ授業受けると、終わったあと必ず呑みに連れ出されちゃうんだもん。どんだけ断っても私のこと強引に連れ出そうとするからね。あいつさぁ、ここ最近はバイト三昧でほとんど大学に来てなかったんだけど、このまえの追試騒動からこっち、真面目に授業に出てきちゃってるのよねえ。連夜くんが来る日はできるだけ同じ授業には顔を出さないように調整していたんだけどなあ」


 大いに驚いた表情で問いかけてくる連夜に、玉藻はなんとも疲れ果てた表情で首を横に振ってみせる。


「ありゃりゃ、それはまた大変でしたねえ。でも、さぼってしまって単位は大丈夫なんですか? 玉藻さん自身が今度は追試受けないといけないなんてことにならないですか?」


「だ~いじょ~うぶよん。あいつと違って私は真面目に授業受けているからね。出席日数は全然余裕だし、今日受けなかっのはただの必修科目だからね。試験で『不可』さえ取らなければ問題なしなし」


 ぶいぶいっと連夜のほうに二本の指を立てて見せながら、玉藻は実に無邪気な表情で微笑みかけてくる。

 そんな最愛の恋人の姿を、赤く上気した表情で見惚れる連夜。

 めざとくそれを見つけその表情の意味を悟った玉藻は、年下の彼氏をからかってやろうといたずらっこそのものといった表情で口を開いた。


「あれあれ? 連夜くん、顔が赤いぞ? さては私の美貌に見惚れていたな?」


 からかうような口調。

 自分の言葉に年下の彼氏が大いに慌てふためくのを想定しての言葉。

 だが、彼女の三つ年下の彼氏は、予想していたのとは大分違う反応を見せるのだった。


「はい、あまりにも玉藻さんが超絶に奇麗だから、見惚れていました。女神様っていうのが本当にこの世にいるとするなら、それはきっと玉藻さんみたいな姿をしているんでしょうね」


 お世辞ではない。

 表情は柔らかく笑ってはいるが、その瞳、その口調は間違いなく真剣そのもの。

 むしろ、あまりにも素直に絶賛されてしまった玉藻のほうが耐えきれず、顔を真っ赤にして大いに慌て始める。


「も、もうもうっ、連夜くんったら何言ってるの!? め、女神って、そ、そんなわけないでしょ!!」


「痛いっ!! ちょっと、痛いですって玉藻さん!!」


 盛大に慌てふためきながら、照れ隠しに連夜の背中をバシバシ叩きまくる玉藻。

 そんな姿もかわいらしいことこの上なかったりするのだが、背中に間断なく浴びせられる衝撃と激痛のせいでのんびり見ている余裕はない。

 流石、一流武術家の『恋人』である。

 相当手加減してくれているのであろうがその連撃は尋常ではない。

 日頃不良達に絡まれて相当耐久性があがっているはずなのだが、どうにも耐えきれずにたまらず悲鳴をあげる。


「ご、ごめん、連夜くん。恥ずかしさのあまりつい。い、痛かったよね、ごめんね」


「流石は音に聞こえし『不良潰し(アウトローイーター)』。御稜高校史上最強の元風紀委員長殿。数に物を言わすことしかできないバカ達の一撃とは比べ物にならないですね。手加減してもらってもこたえます」


「だ、だから、ごめんってば。もう、そんなにいじめないでよ。本当に悪かったって思っているんだから」


 あからさまに冗談とわかるように大袈裟に痛がって見せる連夜。

 しかし、それを見た玉藻は連夜の思惑とは違い、みるみる表情を曇らせて本気で涙目になっていく。

 

「じょ、冗談ですって玉藻さん。泣かないでくださいよ」


「う~~、連夜くんのいじわるぅ~。わ、私だってね、自分でがさつだなってわかってるんだから、そ、そんな風に言わなくてもいいじゃ・・うえぇぇ」


「うわ~~、ごめんなさい、ごめんなさい。本当にごめんなさい」


 大慌てで謝罪の言葉を口にするも、玉藻の顔はあっというまにくしゃくしゃになり、両手で顔を覆って泣きだしてしまう。

 スーパーの一番奥にある卵売り場で、人通りは中央売り場に比べれば格段に少ないが、それでも結構な数の『人』が行き来する往来のド真中。

 眼を見張るような超絶的美女が大泣きしている姿に気がついた通りすがりの『人』達が、野次馬根性で次々と立ち止まり興味深そうに見つめてくる。

 すぐにそのことに気がついた連夜は、これ以上騒ぎを広げないために必死の説得工作にでる。


「た、玉藻さん、さっきのは嘘です、嘘!! 全然痛くなかったです!! ちょっと冗談で言ってみただけなんです、ごめんなさい、調子に乗り過ぎました」


「ぐすっ、ぐすっ。怒ってない?」


「怒ってません怒ってません。こんなことくらいで怒るわけないじゃないですか」


「ほんとに? 私のこと嫌いになったりしてない?」


「玉藻さんを嫌いになんかなるわけないじゃないですか。絶対にそんなことにはなりません」


「じゃあ・・好き? 私のこと愛してる?」


 必死の説得工作に徐々に玉藻の機嫌が直っていく。

 涙が引っ込み、表情がみるみる明るくなっていく。

 だが、その表情は徐々に明るいとかいうレベルから、明らかに何かを期待してわくわくしているそれへと変化。


 周囲に群がる野次馬達の存在をばっちりわかっているはずなのに。

 連夜が一刻も早くこの場から立ち去りたいと思っていることもわかっているはずなのに。

 もう十分機嫌は直っているはずなのに。


 目の前の美しい年上の恋人は連夜にかなり高いハードルを『飛べ』と要求してくるのだった。


(え~~、何この羞恥プレイ!?)


 流石の連夜もこの要求にはすぐに応じることができず、思わず心の中で絶叫して周囲に視線を向ける。

 すると、周囲に群がる野次馬達が、さも買い物をしていますという風を装いながら、耳を大きくしてこちらに向けているのがわかってしまった。

 目の前の恋人からだけでなく、周囲の野次馬達からも期待に満ちた気配が流れてきるのを感じ、連夜は途方に暮れた表情で天井を見あげる。

 どうしても言わないといけない状況らしい。

 正直、このまま有耶無耶に誤魔化して走って逃げだしたかったが、それをすると連夜に逃げられた恋人が盛大に傷つくことになる。

 そういうことまで計算にいれた状態、そういうことが全部わかった状態で、この頭のいい年上の恋人は要求してきているのだ。

 しょうがない、腹をくくるしかない。

 連夜は、顔が引き攣らないように全力で顔面の筋肉をコントロールしながら、なんとか笑顔を作って言葉を無理矢理紡ぎ出す。


「も、勿論、玉藻さんのことを愛していますよ」


「なんか、いやいや言ってるように聞こえる」


 わざとらしく顔を伏せた玉藻は、心底悲しんでいるという表情で上目づかいで連夜を見つめる。

 どんなドラマのヒロインでも見せられないような、本当に心からの悲しみに満ちた表情、そして仕草。

 大抵の男であれば、これほどの美女にこんなに悲しい表情で訴えられてしまったら、どんなお願いでも聞いてしまうであろう。

 だが、連夜は見逃さなかった。

 上目づかいで見つめてくる玉藻のその瞳を。

 その瞳が完全に笑っていることを。


(もう~~、玉藻さんはずるいよなあ)


 ここがスーパーの中ではなく玉藻の家の中だったのなら、即座に正座させてお説教しているところである。

 しかし非常に残念なことに、ここは玉藻の家の中ではない。

 地の利は完全に圧倒的に玉藻に有利だった。

 勝負を仕掛けられた時点で連夜に勝ち目などなかったことを今更ながらに悟った連夜は、完全敗北を認めてもう一度言葉を紡ぐ。


「本当に、心から、玉藻さんだけを、『恋人』として、愛しています」


 できるだけ大きな声で、はっきり聞こえるように連夜は言葉を身体の外へと解き放つ。

 すると、玉藻は一瞬吃驚したような顔を浮かべたが、すぐに大輪の華のような笑顔を浮かべて連夜の小柄な体に正面から抱きついた。


「嬉しい!! 私も、私も連夜くんの大好き!! 愛しているわ!!」


 天の彼方、あるいは地の果てまで届けと言わんばかりの心からの大絶叫。

 勿論、それを聞いて嬉しくないわけはなかったが、連夜は、周囲の様子を見てぎょっとなる。

 そこにはいつのまに集まっていたのか、物凄い数の野次馬達が、連夜と玉藻の愛の告白に対して割れんばかりの拍手喝采を送っていたのだった。


「いや~、久しぶりにいいもの見た」


「若いっていわね~」


「幸せになるのよ~」


「お母さん、あのお兄ちゃんとお姉ちゃんって結婚するの?」


「そうね~、きっとするわね~」


「ちゅ~もするかな?」


「そうね~、きっとするわね~」


(しないしない!! こんなところでできるわけないでしょうが!!)


 無責任に浴びせられる祝福の言葉の数々に、羞恥で顔を真っ赤にする連夜。

 いくら玉藻でもこの状況は恥ずかしいだろうと思い、自分よりも高い位置にある顔を見上げてみる。

 すると、そこにはやたらうっとりした表情、熱い視線で自分のことを見つめ続けている姿。

 その顔のどこを探しても羞恥の色は浮かんではいない。

 それどころかなんだかめちゃくちゃ幸せそうだった。

 

(ダメだ!! これ以上ここにいたら死ぬ!! 恥ずかしくて死ぬ!!)


 連夜は玉藻を横抱きにして持ち上げると、ショッピングカートを器用に動かして全速力でその場から逃げ出したのだった。 

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