第八話 お~ぷにんぐ
どんな『人』にでも、自分だけの『人』生という道が存在している。
道は『人』によって千差万別。
はじまりも違えば、終わりも当然違う。
ましてやその道の途中途中に現れる選択の道の内容に至っては、たった一人の『人』生においても、いったいどれだけの分岐点があることか。
さて、今、目の前に二つの道がある。
誰にでもある選択の道の一つ。
一つを選べばもう二度と選び直すことはできないそれぞれの道。
『人』によっては、その道の行き着く先をある程度予測することは可能だろう。
しかし、どんな『人』でも、道を歩く前に先んじて完璧に結果を知ることはできない。
あくまでも予想することしかできないのだ。
だがしかし。
もしもその道の行き先が完璧にわかっていたとしたら。
『人』はどちらの道を選ぶだろうか?
一つ目の道の辿る先は裕福な道。
何不自由ない生活を送ることができる場所に辿り付ける道。
夏は涼しく、冬は暖かい念動気温調節器の効いた部屋、贅の限りを尽くした食べ物、たくさんのおもちゃ、そして、いつ遊んでいても咎められる事がない自由な時間。
一方、もう一つの道が辿る道は苦難の道。
不自由だらけの生活を送らなくてはならない場所が待ち受ける道。
夏はうだるように暑く、冬は凍え死ぬほど寒い風通しの悪い部屋、毎日あまり代わり映えのしない質素な食べ物、落ちているゴミやありあわせのガラクタで作られたおもちゃ、そして、強制され続ける死と隣り合わせの労働。
普通なら考えるまでもない選択。
質問をされた誰もが裕福な生活に繋がる道を選ぶであろう。
しかし、彼は違っていた。
その質問を聞いた時、彼は即座に一般的とは決して言い難いほうを選ぶと答えたのだ。
しかも自信満々に胸を張り、誇らしい表情でだ。
「・・」
「・・」
「クロ」
「な~に、タコ」
「・・君、馬鹿でしょ」
「え?」
自分の身体の半分もありそうな大人用の大きな大きな作業用バックパックに、採掘用の道具を詰め込んでいた彼の相棒は、彼の答えに呆れ果てた様子で手を止める。
顔全体をすっぽりと覆うタコの口のような対毒ガス用マスクをかぶっているため、はっきりとした今の表情はわからない。
しかし、長い付き合いのせいで、彼は自分の相棒がどういう表情をしているか見えてなくてもよ~くわかっていた。
「ば、バカってなに? 僕、馬鹿じゃないもん」
「いや、馬鹿だって。間違いなく馬鹿。いや、大馬鹿だよ、ってか、超馬鹿?」
「ち、『ちょうばか』って何? なんなの? また僕にわからない難しい言葉で僕のこと馬鹿にしてるでしょ? 絶対そうでしょ!? タコの意地悪、いじめっこ!!」
やけに大人びた雰囲気で、やれやれと首を横に振ってみせたガスマスク姿の相棒は、殊更にわざとらしく溜息を吐きだして見せた後、再び採掘に行くための準備を始める。
そんな相棒の言葉に、かなり傷ついた表情になった彼は、艶やかな黒髪を振り乱し涙目になって相棒へと詰め寄る。
「だ、だいたい、タコはいっつもいっつもひどいよ。ひどすぎるよ。ちょっと頭がいいからってすぐ僕のこといじめるんだから。そんなんだからハゲちゃうんだよ」
「は、ハゲじゃない。これは剃ってるの!! 常時ヘルメット着用しないといけないから、剃ってないと暑くて仕方ないの。だから、剃ってるの。ハゲじゃないの」
「は~げ、は~げ。タコのは~げ」
「こどもか!? って、あ、そういえばまだ子供だった」
勝ち誇ったようにはやし立てる彼に対し、相棒は鋭いツッコミを入れるが、そのツッコミが妥当ではないことにすぐに気がついてがっくりと肩を落とす。
そう、彼らはまだ子供だった。
はっきりした歳は自分達でもわかってないが、少なくともまだ小学生ではないはずだった。
にも、関わらず彼らの精神年齢はかなり高い。
無理矢理に引き上げられているからだ。
人体に負担が大きく、下手をすれば死に至ることも少なくない危険極まりない劇薬を投与された彼らは、精神、及び知能を格段に引き上げられていた。
なぜ、そんなリスクを犯してまで彼らの精神年齢を引き上げたのか。
理由はただ一つ。
大人でも難しく危険な作業を彼らに実行させるため。
ここはある犯罪組織が作り上げた念素石採掘場。
そして、彼らはその犯罪組織が、ここで働かせるために各地からさらってきた子供達。
強力な精神進化促進剤によって精神をある程度まで高められ、組織のいいように洗脳された都合のいい人形。
念素石という巨万の富を生み出すレアメタルを採掘するため、『害獣』達が跋扈し、極悪な毒ガスが常に放出される危険な採掘場で働かされる彼らは・・
『奴隷』であった。
「まあ、それはともかくさっきの話の続きだけどね。毎日毎日、死ぬかもしれないところで働かされているのにさぁ。なんで、こっちの道を選ぶかなぁ。普通、おいしいもの食べたいっしょ? もっと遊びたいっしょ?」
全身から理解に苦しむという雰囲気を放ちながら仕事の準備を一旦中断した相棒は、彼のほうに視線を向ける。
彼らの日常は本当にひどいものだ。
朝早くから叩き起こされ、夜遅くまで危険極まりない過酷な環境で働かされる。
働かされる場所は、子供達の個々の能力によって違う。
最も基準とされる能力はその子供が保有する『異界の力』の潜在エネルギー量。
基本的に、攫われてくる子供達は潜在エネルギーを持たない者がほとんど。
それというのも、彼らが働く場所は『害獣』のテリトリー、あるいは『巣』そのものの中であることが多いため、『害獣』を引き付けることになる『異界の力』の保持者は使い物にならないのだ。
なので、ほとんどがエネルギーゼロに近いものばかりである。
しかし、全くゼロというものはほとんどいない。
現在確認されている『人』類の種族の中で、全く『異界の力』を持たない種族はたった一種族しか存在せず、その種族もほとんど絶滅に近い状態であるため、大概は限りなくゼロに近い下級種族の中でも特に下級に位置づけられているものか、あるいは上級種族の中にたまに生まれるという突然変異種か。
いすれにしろ、攫われてきた子供達が強制労働させられる場所はどこも危険極まりない場所ばかり。
また、労働だけがひどいわけではない。
日々の食事内容だってひどいものだ。
食事は朝夕の二回だけ。
それも、非常に粗末な食べ物な上に量も少ない。
育ち盛りの子供が食べるようなものでは決してない。
子供達の中には物心つく前に攫われてきたことで、カレーやハンバーグといった子供なら誰しもが食べたことのある定番メニューを知らないものまでいるくらいだ。
また、自由時間もほとんどない。
と、いうよりも一応はあるというべきであろうか。
精神進化促進剤という劇薬を使っている上に、極悪な洗脳まで行っているため、子供達は組織の構成員達の言うことをよく聞く上、難しい仕事の内容もすぐに理解して実に効率よく仕事をこなす。
しかし、その反面、無理に無理を重ねているためなのか、子供達の精神力は非常に脆く弱い。
洗脳のせいでわかりづらいが、突如として壊れる。
どれほど従順で優秀であっても一度壊れてしまっては最早使い物にならない。
組織にとって折角育てた優秀な労働力に壊れられるほど痛いことはない。
そもそも目当てとなる子供達を各城砦都市から誘拐してくるだけでも大変な労力と費用がかかっている。
それだけではない。
精神進化促進剤の値段も馬鹿にならないしし、洗脳する手間暇も非常にかかる。
使えるようになったあともそれなりに面倒をみなくてはならない。
ともかく、自分達に都合のいい『奴隷』であるといっても子供達には結構な費用がかかっているのだ。
採算が取れるまでは壊れられるのは絶対に避けなくてはならない。
そのため、組織の構成員達は、子供達が壊れない程度に洗脳を緩め、彼らを遊ばせる時間を作っている。
と、いっても寝る前のほんの一時間ほどであるが、それでも効果は絶大であった。
子供達が壊れる度合いがまったく遊ばせないときに比べるとはるかに減ったのだ。
なので、一応子供達は歳相応の子供に戻れる時間が存在している。
だが・・
やはりそこは正常な世界ではない。
歪み澱んだ地獄の世界。
毎日誰かが命を落として彼らの元を去っていく。
なのに彼はどうしてここに繋がる道を選ぶというのか。
彼の相棒は、それがどうしても理解できず、小首を傾げて彼のことをじっと見詰める。
「だって、僕、お家ではいらない子だったから」
「いらない子?」
「うん」
彼は寂しげな表情でポツリと呟く。
元々彼は寂しがりやである。
ここに連れてこられた彼ら血の繋がらぬ『兄弟姉妹』の中にあって、ダントツトップの寂しがりやで甘えん坊。
それが彼だ。
そんな彼であるから、寂しそうな表情などいつでもどこでも見ているわけだが、今、浮かべているその表情はいつものそれではない。
かろうじて笑顔を作っているものの、ふとした弾みですぐにも決壊しそうな危うさがはっきりと見え隠れしている。
そんな姿を見た彼の相棒は、この話を続けていいものかどうか迷ったが、結局話を変える前に、彼自身がその理由を話し始めた。
「僕ね、『イチゾクのハジサラシ』なんだって」
「なんで? なんでそんな風に呼ばれていたのさ?」
「僕自身今でもいまいち意味がよくわからないけど、ともかくお父さんやお母さん、お兄ちゃんやお姉ちゃんたちと違って、僕は全然力も強くないし、頭もよくないし、見た目もかっこよくないからダメなんだって。だからね、僕、いっつもお家でひとりぼっちだったんだぁ」
「ふ~ん」
「特にね、僕のお姉ちゃんは僕のことがキライだったの。いじめられたりはしなかったけど、『私についてくるな』って、『あんたみたいなできそこない、とても友達に紹介できないよ』とか言われてね、仲良くしてもらえなかったんだ。僕は仲良くしたかったんだけどね、結局ダメだったの」
「ひっでぇ姉ちゃんだなぁ。サキ姉ちゃんだったら絶対そんなことしないし、なにより絶対絶対そんなひでぇこと言わないぞ!!」
「うんうん。だよね。サキお姉ちゃんほんとに優しいよね。でもね、やっぱり僕お姉ちゃんと仲良くしたかったから、ある日ね、お姉ちゃんがいつものように僕を置いて遊びに出かけたあと、こっそりあとをついていこうと思ったの。どんなところで遊んでいるのかな、どんなお友達がいるのかなぁって、すっごい気になって気になって仕方なくて。それで、お出かけの用意をしていたんだけど、そしたら、変なおじさん達がお部屋に入ってきて、なんか白い煙みたいなものに包まれて、眠くなって、気がついたらここにいたの」
話を聞いていた彼の相棒は、ガスマスクの裏側で盛大に顔をしかめる。
正確なところははっきりとわからない。
しかし、彼が攫われたときの状況を推理すると、ある仮説が脳裏に浮かんで来る。
両親や、兄姉からも愛されていなかった目の前の少年。
『一族の恥さらし』と家族から呼ばれ蔑まれていた彼が攫われたのは、果たして本当に偶然に起こった不幸な事故だったのだろうか?
ひょっしたら家族の誰か、あるいは全員が関わっていたのではないだろうか。
ツルツルの頭を無意識に撫ぜながらムッツリと考え込む。
『兄弟姉妹』達から『タコ』と呼ばれている彼の相棒は、『兄弟姉妹』の中でも特に精神年齢が高く、知能が高い。
いや、知能が高いというよりも、非常に『悪知恵』が働くというべきか。
時に大人顔負けの『悪知恵』を働かせ、組織の構成員を出し抜くこともたびたびというとんでもない悪ガキのタコは、それゆえに、『人』の『悪意』から生み出されたものを敏感に察知し、それらから兄弟姉妹達を密かに守り続けている。
洗脳されているはずなのに。
組織の言うがままの人形となっているはずなのに。
マスクの奥で不気味に光る彼の目は操られるままの人形のそれではない。
暗い暗い真っ暗な底なしの闇の中、強烈な意志の光が宿っているのだ。
彼の大事な兄弟姉妹達はみなそれを知っている。
しかし、欲に目がくらんだ愚かな大人達は全く知らない。
取るに足らないいたずら坊主が、実はとんでもない致死性の猛毒であることを彼らが知ることになるのはもう少し後のこと。
さて、その猛毒持ちの『タコ』は、目の前に立つ黒髪黒目の少年の話からいくつか仮説を立てたあと、ゆっくりと陰鬱そうな息を吐きだした。
どの仮説も不愉快極まりないものばかりだったからだ。
「いずれにせよ、そいつらの腹の中は真っ黒だな」
「え、何が?」
「いや、なんでもないよ。それよりも、連れ攫われた先がここだったわけだから、余計に辛くなったんじゃないの? どう考えても全然いいとは思えないけどさ」
きょとんとして聞き返してくる彼に対し、タコは慌てて両手を横に振りながら話を元に戻す。
すると、彼は全く疑う様子もなく再び話をはじめる。
今度は今までと全く違う本当に嬉しそうな顔で。
「ううん、ここに来て本当によかったよ。だって、みんながいたもの。ここには優しい老師様や、サキお姉ちゃんがいたし、リビーや、くれよんや、フェリや、ヨハンもいるし、それにそれに、他の兄弟や姉妹もたっくさんいるもん」
決して痩せ我慢から出た言葉ではない。
彼は本当にここに来てよかったと思っていた。
自分の家では与えられなかったものが、ここには全て揃っていたから。
自分のことを全く見ようとしなかった両親とは違い、ここには彼を心から愛してくれている父親代わりの老師と、母親代わりの長姉がいる。
自分の存在すら知らなかった兄や、自分のことを腫れ物扱いした姉とは違い、ここには彼を本当の兄弟と思って慕ってくれるたくさんの兄弟姉妹達がいる。
そして、なによりも・・
彼は幼いながらに万感の思いを込めて目の前の大事な相棒を見詰める。
たくさんの兄弟姉妹達の中でも、特に彼のことを大事に思ってくれている大切な相棒。
ぶっきらぼうで口から出るのはきつい言葉ばかりだけど、彼は、相棒が物凄く自分を心配してくれていることを知っていた。
彼のことを兄弟姉妹の仲でももっとも出来の悪い奴という相棒。
でもそれは、彼を危険な作業場の担当しないため。
組織の構成員達に何度もそう言って先入観を植え付けることで、彼を一番安全な作業場の担当にさせるため。
彼が心の中で最も大切と思っている四人の家族の中の一人。
言葉では言い表せないくらい感謝している。
いつかはそれを口にしたいなぁと思っている。
が、しかし。
やっぱり、今は照れくさいので、彼は別の言葉を口にするのだった。
「ついでにいじめっこのタコもいるし」
「まさかのついで扱い!?」
思った以上に傷ついた様子で驚くタコ。
そんな様子を見てくすくす笑いながら、彼はもう一人の大事な家族の名前を口にしようとする。
遠まわしに彼を支えてくれているのがタコであるなら、もう一人は常に側にあって彼を支えてくれる者。
彼が大好きで大好きで仕方ない大事な友達にして姉妹。
「それにね、僕の一番仲良しで一番大事な人がここにはいるもの」
「え~、誰だよそれ。てっきり自分だと思っていたのに、『ついで』扱いで超ショックなんだけど」
「いっつも意地悪してくるくせに、そういうところだけ物凄くあつかましいよね、タコって」
「ほっといてよ。ってか、もったいぶらずにいいなよ、早く」
「へへへ~、それはね」
「あちしだよ!!」
「「うわっ、びっくりした!!」」
突然響き渡る元気一杯の女の子の声。
二人の間に突然現れたのは、美しく長い銀髪をポニーテールにまとめた霊狐族の女の子。
「「ギンコ!?」」
「おういえ。みんなのアイドル、そして、クロちんの最強の『ぼでぃがーど』、ギンコちゃんでぃ~す!!」
彼とタコと同じくらいの年齢と思われるその霊狐族の少女は、大きな大きな目の横に右手で作ったブイの字を横向きにして決めポーズ。
その表情はこれ以上ないくらいの『ドヤ顔』
ほめてくれ、いや、いますぐ褒めやがれ貴様らといわんばかりに、短くも大きな銀色の尻尾をぶんぶんと振り続ける。
そんな少女のキメキメポーズを、二人はしばらく呆気に取られてみつっめていたが、やがて、同時に溜息を吐き出した。
「なんで、溜息!?」
完全に予想外の二人の反応に思いっきり驚愕の表情を浮かべる少女。
てっきり熱烈な賛辞を送ってもらえるとばかりと思っていただけに、落胆はあまりにも大きい。
。しかし、そんな少女の内心などどこ吹く風。
一人は肩をすくめて『やれやれ』といった感じで再び作業場に行くための用意を再開し、もう一人はなんともいえない微妙な笑顔で彼女を見詰める。
「え、何? なんなのその反応!? 超絶かっこいい、そして、猛烈にかわいいギンコちゃんの登場に感激するところじゃないの?」
「「いやいやいや、ないから」」
「え~~~、うっそ~~」
クロ、タコ、ギンコ。
三人のいつもと変わらぬ他愛ない日常。
彼・・黒髪黒目の少年、クロにとって、なによりも大事なもの。
たとえ危険な道であったとしても、クロは間違いなくこの道を選んだであろう。
彼らに出会うことができる道を。
真・こことはちがうどこかの日常
過去(高校生編)
第八話 『二人の日常』
CAST
宿難 連夜
城砦都市『嶺斬泊』に住む、高校二年生。
十七歳の人間族の少年。
この物語の主人公で、如月 玉藻の恋人。
自分の命よりも恋人が大事という、玉藻至上主義者
「本当に、心から、玉藻さんだけを、『恋人』として、愛しています」
如月 玉藻
城砦都市『嶺斬泊』に住む、大学二年生。二十歳。
上級種族の一つである霊狐族の女性。金髪金眼で、素晴らしいナイスバディを誇るスーパー美女。
この物語のヒロインであると同時にヒーローでもある。
連夜の恋人で、連夜のことを心から愛している。
「えへへ、連夜くんごめんね」
布団を跳ね除けて連夜は不意に起き上がる。
夢を見た。
幼き頃の夢を。
忘れかけていた大事な記憶。
大切な『人』達との思い出。
辛く苦しい日々であったが、同時に楽しい日々でもあった、遠い過去の記憶。
もう取り戻すことはできない大切な時間。
思い出しただけで胸が痛くなる。
今、見た夢は楽しかった頃の思い出。
だけど、その楽しい思い出は辛く悲しい思い出と表裏一体であることを連夜はよくわかっていた。
忘れていたつもりはない、それどころか失ってしまったあの過去の日を常に胸に秘めながら生きているつもりだった。
けれど、夢に見てこれだけ動揺してしまっているということはやはり、どこかで忘れてしまっていたということなのだろう。
これ以上ない幸せを掴んでしまったが故にであろうか。
何ともいえない申し訳ない気持ちが胸に広がるのを抑えられず、連夜は息を一つゆっくりと吐き出して呼吸を整える。
その後、暗闇になれた目で、念気蛍光灯が消され、カーテンに仕切られて真っ暗な部屋の中を見渡した連夜は、枕元に置いてある目覚まし時計を手に取ると、頭の部分についているライトアップボタンを押下した。
ぼんやりとしたあまり眩しくない光がデジタル時計の画面を映し出す。
時刻は夜中の二時三十四分。
夜明けまでまだ十分に時間がある。
連夜はもう一度溜息を吐き出すと、再び布団の中に潜り込む。
今日は最愛の恋人と会うことになっているのだ。
寝不足になったひどい顔を見せるわけにはいかない。
ましてや今の夢を引きずった状態で会うなんてことになったら最悪だ。
絶対に見破られて余計な心配をさせることになってしまうだろう。
恋人の曇った顔は見たくないし、絶対にさせたくない。
彼女にはいつも笑っていてほしいのだ。
あの過去の日を永遠に忘れるつもりはない。
だけど今日だけは・・
連夜はそっと目を瞑る。
今日だけはあの日の夢をみませんようにと願いながら。
連夜は深い眠りに落ちていった。