第七話 『玉藻と連夜』 その8
キッチンのほうからは洗い物をしている少年の気配と匂いが漂ってくる。
もう絶対に忘れないし、間違うことがない気配と匂い。
自分の身体に存分に刻みこんで覚えさせ、どんなにその姿が変わってしまっても、誰の目にもわからなくても、自分にだけは絶対に絶対にぜ~ったいに誤魔化せない気配と匂い。
しばらくその気配と匂いを、目をつぶって感じ続け、ぶれることがないことを確認し続ける。
大丈夫、死の間際にあって意識が混濁した状態であっても、これだけは見分けられる。
そう心から確信した玉藻はようやく目を開けると、気配と匂いがする方向に改めて視線を向け直した。
視線を向けた方向には、忙しそうに炊事場で皿を洗っている少年の後ろ姿。
身につけた衣服の上からではあるが、全体的に華奢な感じがするものの、男性特有の少し角ばった線と少年特有の緩い曲線とが絶妙なバランスを醸し出している。
特に後ろから抱き締めてしまいたい小さな背中と、きゅっとしまったウエストのあたりがなんともいえない色気があり、それが玉藻にはなんともたまらないのだ。
たまらないというか、我慢できないというか。
玉藻は、くたっと床の上にうつ伏せになると、爛々と眼を光らせてターゲットとなる部分に注視する。
そして、まるで蛇のような動きで身体全体を左右に揺らしながら、床の上を滑るように移動。
凄まじい勢いで獲物へと近づいた玉藻は、あと少しというところで空中へジャンプ。
そのまま、獲物の、いや、連夜のお尻に後ろから組みついた。
「ああん、連夜くん、連夜くん、連夜きゅ~~ん!!」
「ちょ、玉藻さん、もうっ!! なにやってるんですか!?」
危うく手にしていた皿を落としそうになった連夜であったが、間一髪なんとかその場に踏みとどまり、急いで皿を食器念動乾燥機の中へと避難させる。
大事な皿を守りきったことに、ほっとした表情を浮かべる連夜。
しかし、それも束の間のこと、腰にしがみついてきた甘えたがりの恋人が、これでもかこれでもかとばかりに連夜のぷくっとしたお尻にその顔を押し付け、今まで以上にぶんぶんと連夜の身体を振り回し始める。
「大好き、大好き、大好き~~ん!!」
「大好きはわかりましたけど、まだ洗い物途中なんですから、邪魔しないでくださいってば!!」
「洗い物? もうやぁねぇ、連夜くんったら。ちゃんとさっき洗ってあげたじゃない」
連夜の言葉の意味をどう捉えたのか、玉藻は何故か顔を赤らめてしきりに『いやんいやん』と身体をくねらせる。
一瞬どういう意味ですかと問い掛けそうになる連夜。
だが、連夜が問いかけるよりも早く、玉藻はとんでもないことを自ら口走りはじめるのだった。
「私の血と汗と何かで汚れちゃった連夜くんの身体はぁ~、私がさっきぃ~、お風呂に一緒に入ってきれいきれいにしてあげたじゃないのよぅ。もう忘れちゃったのん? しょうがない『人』ねぇ」
「そっかぁ、そういえばそうでしたねぇ・・って、なんてこと口にしているんですか、玉藻さん!!」
玉藻が口にしようとしていることがなんなのかを完全に理解した連夜。
顔を熟したトマトのように真っ赤にしながら、あわわと両手を振り回して慌て始める。
「『なんてこと』って、いやあねぇ、連夜くんたら、照れちゃって。だって、私と連夜くんはぁ~、ついさっきぃ~」
初々しい様子で照れまくる連夜の様子を見た玉藻は、とてつもなく嬉しそうに連夜の腰をさらに強く抱きしめる。
そして、その柔らかいお尻に頬を押し付けたまま、うっとりと自分達が先程まで行っていたある行為についての感想を口にしようとしたのであるが。
「うわあああああっ!! ちょっ、何を口にしようとしているんですか、玉藻さん!! そういうことは口にしちゃ駄目です、絶対にダメ!!」
「え~、いいじゃない別に。私と連夜くんしかこのお家にはいないわけだし。誰も聞いていないんだから、私と連夜くんがさっき人生で初めて」
「きゃあああああっ!! も、もう、その話はいいんですっ!! おしまい!! 僕が言ってるのは夕食の後片付けの最中だから邪魔しないでって言ってるんです。玉藻さんが口にしようとしている行為とは一切関係ありません!!」
「関係ないことはないでしょ。だって、連夜くんの後片付けがこんなに遅くなっちゃったのは、私と連夜くんがさっきまで、リビングの床の上や御布団の中とかお風呂場で」
「ぐ、具体的に話さなくていいんです!! ってか、絶対余所でそんなこと話さないでくださいね!!」
「そんなぁ~。さっきの連夜くん、すっごいかわいかったのに。私の腕の中で必死に声を押し殺してしがみついてくる連夜くんの姿が、もうたまらんというか、あれだけでご飯三杯はいけるというか。ほんとにかわいかったのっ!! あれが世間一般でいうところの『萌える』ってことなのね!! 連夜くんのあの姿について誰かに話したい、めっちゃ話したい。でも、逆に私の胸の中にだけ納めて私だけの秘密にもしたいし。ねぇねぇ、連夜くんはどっちがいいと思う?」
「にゃ、にゃああああああっ!! 何言ってるんですか、何言ってるんですか!! そ、そんなこと知りません!!」
真剣極まりない表情でとんでもない質問を連夜にぶつけてみる玉藻。
すると連夜は、怒りと羞恥心と果てしない照れくささで極限まで真っ赤になった顔をぷいっと玉藻から逸らしてしまう。
そして、明らかにぷりぷりと怒った様子を再び炊事場に向かい、先ほどとは打って変わって荒々しい手つきで洗い物を再開し始めるのだった。
「もうもうもうも~~~~っ、もういいです!! 僕後片付けの続きしますから、玉藻さんはリビングに戻ってテレビでも見ててください!!」
「やだ~、一人でテレビ見てるの寂しいもん。ねぇねぇ、連夜くん、もう邪魔しないから、ここにいてもいいでしょ~?」
自分の腰にがっちりとしがみつき、上目づかいで見つめてくる玉藻。
痛いほど視線を感じてはいたものの、しばらく連夜は玉藻を放置して洗い物に専念。
しかし、何度も何度も玉藻がしつこく懇願してくるものだから、やがて諦めたように視線を足もとに座り込む玉藻のほうへと向ける。
横目でじろりと一瞥。
必要以上にうるうるとした瞳で連夜を見つめる玉藻。
両者によって交わされる静かだが、激しい無言の攻防。
しかし、この戦いの結末はわかりきっていた。
この二人がこういう戦いを始めた場合、絶対に結末が変わることはないのだ。
予想通りに敗者となった連夜は、深い溜息を吐きだしたあと、ゆっくりと頷く。
「本当に邪魔しないでくださいね」
「えへへ、は~い」
連夜の言質をとった玉藻は、嬉しそうにパタパタと三本の尻尾を振りながら満面の笑顔で再び連夜のお尻に顔を押し付ける。
連夜は、玉藻のそんな姿に対し、もう少しお小言を言おうかなと思ったが、なんともいえない幸せいっぱいな表情の玉藻の顔を見ていると、何も言う気がなくなってしまう。
結局、苦笑を浮かべただけで再び口を開こうとはせず、連夜はまた洗い物を再開する。
静かな。
とても静かで穏やかな時間。
蛇口から出る水の音と、その水が食器を洗いながす音だけが緩やかに流れて行く。
二人とも何もしゃべらない。
一言も口をきかない。
しかし、それは冷めきった感情の果てに生まれる沈黙ではない。
お互いがお互いを感じている、感じることができる空気、空間がここにはある。
だから、今、言葉は必要ない。
玉藻は、抱き締めた愛しい人の身体から伝わってくる大きな優しさを。
連夜は、幼い頃から憧れ続け、ついにその心を手に入れた最愛の人がすぐ側にいてくれることを。
そんなことを無心に感じながら、温かな空気の中に浸り続ける。
どれくらいの時をそうしていただろうか。
そろそろ夕食の洗い物の終わりが見えてきた頃。
連夜が、すべての食器を乾燥機に放り込み、スイッチを入れようとしていたまさにそんなとき、玉藻が沈黙を破ってぽつりと呟いた。
「ねぇ、連夜くん」
「なんですか?」
「怒ってる?」
恐る恐るといった感じ。
そして、物凄く聞きにくそうな声。
誰がどう聞いても短すぎて、内容がはっきりとわかりにくい問いかけ。
しかし、その質問に対し、連夜は『何をですか?』とは聞き返さなかった。
かすかに苦笑を浮かべて見せはしたが、すぐにいつもの優しい笑顔になって首を横に振りながら乾燥機のスイッチを入れる。
「別に怒ってませんよ」
「ほんとに?」
「本当ですよ」
「絶対に?」
「怒ってませんて」
「ご、ごめんね」
力ない謝罪の言葉。
ふと足元に視線を向け直すと、連夜の視界にはへにょっと垂れた三本のふさふさした尻尾。
連夜はそのまま屈みこむと、三本のうちの一本を手に取って優しく撫ぜる。
ふわふわの黄金の獣毛に包まれ太く見える狐の尻尾。
一見大きく見えるが、実は獣毛を取り除くとかなり細長くなっていて、しかも軽い。
「この尻尾って、【過邪】の影響で新しく増えた尻尾ですよね」
「う、うん。よくわかるね」
「他の二本よりも明らかに細いですからね。どうですか? 今まで身体になかった器官が増えたわけですが、何か違和感ありませんか?」
その言葉にしばし考えこむ玉藻。
両腕を組んで小首を傾げながら、連夜が持っていない残りの二本の尻尾をぱたぱたと動かしてみる。
そして、今度は連夜が持っている三本目の尻尾の先端をぴこぴこ。
「う~ん、別に違和感はないわ。ただ、ほかの二本ほどまだうまくは動かせないけどね」
「そうですか」
「時間が経てば、ほかの同じように動かせるようになるわ。でも、それが何? 私の尻尾に何かあるの?」
質問の意味がわからなかった玉藻は、いまだ自分の尻尾を優しく撫ぜ続けている恋人にきょとんとした表情で尋ねる。
「いえ、大した意味はないんです。ただ、なんとなく・・」
「なんとなく?」
玉藻の問いかけに対し、何かを口にしようとした連夜であったが、結局そのまま何も言わずに口を閉ざしてしまった。
気になる玉藻は視線だけで問い掛け続けてみたが、その後連夜が口にしたことは別のこと。
「そうだ、さっきのことですが」
「え、あ、うん」
「僕、本当に怒ってませんから」
新しく生えてきた尻尾をそっと下し、それとは別の尻尾を取りながら玉藻のほうに顔を向けた連夜は、穏やかな表情で頷いて見せる。
そこには一片の曇りもなく、ただただ穏やかな笑みが浮かんでいるだけ。
玉藻はしばらくその笑顔をぼ~~っとした様子で見惚れていたが、はっと気がついたような表情を浮かべたあと、すぐに顔を俯かせる。
そして、頬をちょっと赤くしながら両手をもじもじと組み合わせ、ごにょごにょと聞こえるか聞こえないかくらいのかすかな声で言葉を紡ぎ始めるのだった。
「だ、だけどさ。連夜くんは、今日はダメって言っていたのにさ。その理由もしっかり話してくれたのにさ。結局、私ってば勢いに任せて、その、連夜くんのこと押し倒して、いろいろとその、『いやんあはん』や、『うふんだめん』なことってしちゃったしさ」
「それでも最終的に僕が受け入れたんですから。本当にダメだったら、最後まで抵抗しましたよ」
「で、でも、それはぁ~、連夜くんが優しいからで、私のために折れてくれたんでしょ?」
「そんなことないですって。それに僕は全然優しくないですよ。超自己中心型ですし」
「や、優しいよ、連夜くんは!! 全然、自己中じゃないし。それに比べて私ってやつは。だ、ダメ女って思ってるよね? ウザイって思ってるよね?」
「思ってないですってば。あのね、玉藻さん。確かに僕は今日はダメっていいました。新しい命ができたとしても、育てる責任も自信も覚悟も持てないって言いました。でもね」
玉藻の尻尾をゆっくりと撫ぜ続けながら、はふ~と一度溜息を吐きだした連夜。
しかし、すぐに表情を引き締め、真っすぐに玉藻を見つめる。
「僕が一番に望んでいることは、玉藻さんが望む道に一緒についていくことなんです。玉藻さんが進もうとしている道に一緒についていって、少しでもそのお手伝いができたらいいなあって。仮面をつけて玉藻さんに会っていたときから、ずっとその想いは変わっていないはずなのに、ちょっとヘタレたこと言っちゃったんですよね。でも、今日、玉藻さんははっきりと自分の進む道についてきてくれって、僕に言ってくれました。側にいてほしいって言ってくれました。それは僕が一番待ち望んでいた答えなんです。その答えを貰えた時の為に、必死にいろいろな技術や技能や知識を身につけてきたんです。なのに、今になって自信も覚悟もないってどういうことだってことですよ。ここで覚悟決めなくていつ決めるんだってことなんですよ。で、改めて思いなおしたんです。出来る限り玉藻さんの望む通りにしようって。本当にどうしようもないときはダメだけど、それ以外の場合、僕の覚悟や力でどうにかなる場合は全力で受け止めようって」
「連夜くん」
「何かあっても僕が責任を持ちます。いえ、持たせてください。力関係では玉藻さんには全然敵いませんし御役に立てませんけど、それ以外の生活全般のことでは少しは役に立てると思うんです。だから」
尻尾から手を離し、玉藻の手をそっと取って握りしめた連夜は、冬の夜空のような黒い色をした瞳を玉藻の黄金色の瞳へと向ける。
澄み切った瞳と心。
それを感じ取った玉藻は、連夜の手をそのまま引き寄せて、自分よりも小柄なその身体を万感の思いを込めて抱きしめるのだった。
「ありがとう。ありがとうね、連夜くん」
「いいえ、それは僕のセリフです。僕を選んでくださってありがとう。僕、精一杯玉藻さんの望みに応えますから」
「うん」
再び重なり合う二つの影。
それは完全完璧な一つにはなれない。
一つになることは一生ないであろう二つの心、二つの魂。
そのことを二つの影はよくわかっていた。
だが、同時に、どれだけずれることがあったとしても離れることは決してないと確信する。
二つのままで一つであり続ける。
それが二つの影の願い。
二つあることで自分達は決して孤独ではないと知る。
そして、重なり合い一つになることで大きな力を発揮するのだ。
存分にお互いを感じながら、その場で抱き合い続ける二人。
片方はどこまでも熱く。
片方はどこまでも静かに。
やがて、己の中に熱を感じた片方は、もう片方からそっと身体を離す。
そして。
「どうしよう連夜くん、わたし、私・・」
「ど、どうしたんですか、玉藻さん?」
妙に熱っぽく艶っぽい視線が連夜に注がれる。
まるで飢えた肉食獣が餌となる草食動物を見つけたときのような、そんなギラギラした視線。
(あれ? この玉藻さんの視線、どこかで見たような感じがするんだけど)
連夜の心のうちに再びわき上がる強烈な嫌な予感。
その予感はすぐに現実となる。
「わたし・・めっちゃ、テンションあがってきた!!」
「え?」
うおおっと雄叫びなんかあげちゃったりなんかしつつ、玉藻は連夜の両肩をがしっと掴む。
一方連夜はというと、そんな玉藻の急展開についていけず、ぽか~んとして玉藻の顔を見返すばかり。
完全においてけぼり状態。
しかし、そんな連夜に構わず、玉藻は己の本能の赴くままにエンジン全開で爆走を開始する。
「なんていうのかな、連夜くんの熱烈な愛の言葉がキュンキュン胸にきちゃって、テンションあがりまくりっていうか、そう、つまりこれは『最初からクライマックスだぜ!!』的な感じ?」
「いや、『感じ?』って言われても。もしもし? 玉藻さん?」
「よ~し、よしよしよし、なんかまた私の中の永久機関システムがいい感じに唸りを上げて動き出したわ。なんていうかその、連夜くんに『貫かれる、止められるものなら止めてみろ!!』的な感じ?」
「ええええっ、玉藻さん、何言ってるんですか!? ちょっと、あ、なんでエプロンひっぺがえすんですか!? きゃあああっ」
「いくぜいくぜいくぜぇぇぇっ!! 連夜くんの唇は私のもの、連夜くんのうなじも私のもの、連夜くんのおへそも私のもの、連夜くんのお尻は私のもの、そして、連夜くんの
【現在、掲載できない類の言葉が使用されています。また、同時に掲載できない類の行為が行われていますので、ご迷惑をおかけいたしますが、行為終了までしばらくお待ちくださいませ】
連夜くん、連夜くん、しっかりして!!」
いつの間に移動したのか、二人の姿は現在玉藻の寝室の中。
上に大きめのカッターシャツ一枚だけ羽織っただけの姿になった玉藻の口から悲鳴があがる。
彼女の目の前には背中を向けて全裸で横たわる連夜の姿。
いったい何があったのか、その身体は小刻みに震えて激しく憔悴しているよう。
玉藻に声をかけられてからもしばらくはぴくりとも動かなかった連夜だが、やがてのろのろと顔だけを玉藻のほうに向ける。
うっすらと上気して赤くなった顔。
男であることを忘れてしまいそうなほど色っぽい表情、潤んだ瞳で玉藻を見つめた連夜は、小さい声で呟く。
「玉藻さんの・・バカ」
結局、この日も連夜は泊まり込み、玉藻が完全に回復した翌日、家へと帰っていった。
もちろん、家に帰るという連夜と玉藻の間で、またもや一騒動あったりもしたが、定期的に玉藻の家に連夜が通うということで玉藻が渋々納得。
二人の新しい生活、新しい人生は実に騒がしく幕をあけたのだった。
こことは違うどこかの世界で、二人の新しい日常が始まる。