第七話 『玉藻と連夜』 その3
溢れる想いに任せて、しばらくの間、目の前に立つ少年を抱きしめ続ける玉藻。
自分の顔のすぐ下には少年の柔らかい黒髪。
そこに顔を埋めて匂いを嗅ぐ。
柑橘系のシャンプーを使っているからだろうか、実に爽やかで甘い香りが玉藻の鼻孔をくすぐる。
抱きしめた身体は思ったよりも小さく、自分の腕の中にすっぽりと納まるが、やはり男の子だからかそれほど柔らかくはない。
服の上からでもわかるほど、引き締まった筋肉の感触。
しかし、だからといって拒絶感とか嫌悪感のようなものは一切感じない。
むしろ実に馴染んだ抱き心地で、いつまでもいつまでも抱きしめていたくなってしまう。
そうして、失われた何かを取り戻そうとするかのように、自分の腕の中にいる大切な何かを全身で感じようとする玉藻。
ふと、視覚的になんだか物足りないと思った玉藻は、ちょっと腕を緩め、腕の中にいる少年の身体を少しだけ離す。
そして、腕の中の少年の顔が見えるように自分の身体をずらし、もう一度その全身を観察する。
すると、見るからに性格の良さそうな顔をした高校生くらいの人間族の少年が心から心配している様子でこちらをのぞきこんでいるのが見えた。
くせのない黒髪に、大きな瞳、かっこいいというよりは圧倒的にかわいい感じのする顔。
恐らく学校の中でも小柄なほうに入るであろう身体に、かわいいひよこのアップリケがしてあるエプロンがよく似合っていた。
やっぱり自分はこの少年に会ったことがなければ、見たこともない。
そう確信する玉藻。
だが、次の瞬間、玉藻の脳裏にいくつもの記憶がフラッシュバックしていく。
脳裏に浮かび上がる数々の記憶、脳裏に映し出される様々な映像。
自分の記憶として自覚できるものもあれば、全く記憶にないもの、どうして今思いだしているのかわからないもの、流れる映像に心当たりがあるもの。
一気に噴き出したそれらは、玉藻の意思を無視して洪水のように流れて行く。
『え、でも、僕の魂が気に入ったんでしょ? それってどんな形であれ好意があるってことですよね?』
『だって、きれいなおねえちゃんを目のまえでよくみたかったから』
『もう、狐さんはいっつもそうなんですから。ちょっとそこに正座してください』
『またね、たまもおねえちゃん』
『!?』
『玉藻さん、いつかまた二人でもう一度あの世界に戻りたいですね』
『この子達も、おねえちゃんとおなじなんじゃないかな』
『いえ、あの、どうぞ、食べていいですけど』
小さくてごぼうみたいに痩せた少年、フードにすっぽり覆われて顔がよく見えない少年、『祟』の一文字をつけた仮面をつけた人影、ゆったりした東方の着物姿に身を包み穏やかな表情でこちら見つめる年齢不詳の青年。
膨大な記憶の濁流に翻弄されながら、やがてそれは二つの記憶によって終焉を迎える。
玉藻の脳裏に浮かび上がるのはフードにすっぽりと覆われて顔がよく見えない少年。
どういう顔をしているのか、どんな表情をしているのかさっぱりわからない。
しかし、その声はどこまでも温かく、その言葉は何度聞いても玉藻の心を熱くさせる。
『おねえちゃん、僕が勝ったら、僕のおよめさんになってくれる?』
いいよ。
今なら、言える。
はっきり言える。
いいよって、お嫁さんになってあげるって。
あのときは言えなかった言葉だけど、今なら、今すぐにでも応えられる、はっきり口にして答えられる。
でも、その答えはもう届かない、永遠に届かない。
記憶の中で手を伸ばそうとする玉藻の前から少年の姿は急速に闇に溶けて消えていく。
そして、次に玉藻の前に現れたのは、小さくてごぼうみたいにガリガリにやせ細った少年。
質素な茣蓙の上に寝かされた十代後半と思われる人間族の黒髪の一人の少年。
その少年は今にも消えてしまいそうで儚げな、しかし、どこまでもどこまでも優しさと慈愛に満ちた表情でこちらをじっと見つめて言葉を紡ぐ。
『狐さん、僕が死んだら僕を食べて、そして、僕のことは忘れてください。忘れて自由になってください。もう僕に縛られないで。あなたが大好きな風のように、雲のように、自由に楽しく暮らしてください。そして、お願いだから、幸せになって・・』
弱いくせに、脆いくせに、苦しいくせに、辛いくせに、意地を張って痩せ我慢して、最後まで余計なお節介全開で・・
少年は永遠にその目を閉じた。
自分は全然幸せになれなかったくせに、人には幸せになれという。
「なれるわけがないでしょうが!! 忘れられるわけがないでしょうが!! 私を・・私をバカにするなあああっ!!」
いつの間にか玉藻の目からは滝のように熱い何かが溢れだしていた。
溢れだしていたが、そんなことを言っている場合ではないし気にしている場合ではない。
ここはきっちり言っておかないと、また同じことを繰り返す、絶対に繰り返すことになるのだ。
玉藻は目の前の少年の胸倉をムンズと掴むと、持ちあげて自分の顔の真正面へと持ってくる。
そして、渾身の気合いの入った瞳で少年の黒い瞳をギラリと睨みつけるのだった。
「あ、あ、あの如月さん?」
「よく聞きなさいよ、この大バカ者!! いい? 二度と私を置き去りにすることは許さない!! 許さないんだからね!!」
「ちょ、あの、落ち着いてくださいってば、き、如月さん? もしもし?」
「黙って私の話を聞きなさい!!」
「は、はい。すいません」
「すいませんじゃないのよ!! 謝って済む問題じゃないのよ!! 例え私の為にだったとしても、自分が死んじゃったら何にもならないのよ!?」
妙に申し訳なさそうに身体を小さくしている少年の姿を見ていると、かわいそうだしもう許してあげようかなという気持ちがむくむくとわき上がってくる。
だが、今後のためにもここで徹底的に叩いておかないといけない。
そうしなければ、また自分はあの辛い想いを味わうことになる。
なんせこの目の前にいる超ド級のスーパーアルティメットミラクルアメージングウルトラワンダフルお人好しバカは、大切な人の為ならば、自分の命を平気でドブに捨てることができる、そういう生き物なのだ。
というか、実際にそれを許してしまったがために、自分は地獄のような辛い想いを味わったのだった。
絶対に油断してはならない。
ここは心を鬼にしてよく言い聞かせておかなくてはいけないのだ。
「自分を忘れろだとか、自由に生きろだとか、幸せになれとか、大きなお世話なのよ!! 私は私が決めた『人』の為だけに生きるの、私の決めた『自由』の為だけに生きるの、私の決めた『幸せ』の為だけに生きるのよ。それは誰にも邪魔させないし、否定させないし、強制されたりもしないの!!」
「ええ、それが僕の望みでもありま・・」
「ばかっ!! 全然わかってないじゃない!! 私が、私が生きる目的はね。『自由』も『幸せ』も、全部、あなたって『人』あってのことなんだって、いい加減わかれ!! あなたという『人』が千切れた時点で私の人生は終わってるのよ!! だから、あなたは生きないとダメッ、私の側で生きないとダメッ、離れたらダメッ、絶対に絶対に絶対に、二度と離れたらダメッ。ここよ、私の腕の中のみ。あなたの存在価値はここの中にだけある。それ以外の場所で生きることはもう許さない!! 当然死ぬのもダメッ!! わかった!?」
噛みつくように本能の赴くままに絶叫する玉藻。
そんな玉藻の姿をぽか~んとしてしばらく見つめていた少年だったが、その言葉の意味を知ると急速に顔を赤らめ、宙釣りにされたままなんだかもじもじして玉藻から顔を背ける。
「あ、あ、あの・・な、なんかその」
「何よ?」
「その、今の・・あ、愛の告白みたいですね。えへへ」
自分で言ってても恥ずかしいのか、すっかりゆでダコになってしまった少年は、耐えきれなくなって顔を下に向けようとする。
しかし、玉藻はそれよりも早く少年の下顎をがっちりともう片方の手で掴んであげさせる。
そして、完全に据わりきってしまった目で少年の大きく見開いた黒眼を真っすぐに見つめ、真顔で告げるのだった。
「それ以外の何に聞こえるのよ」
狙った獲物を捉えた捕食獣としての表情、全身から発せられる圧倒的なオーラ。
どこからどう見ても、誰がなんといおうとも、全身全霊、全力全開で『マジです』と訴えかけてくる黄金の瞳の前に、言葉を無くしてしまう少年。
「あ、え、い、う」
「返事は?」
「え?」
「返事はどうしたの!?」
「え、えええっと、返事って、急に言われてもその、心の準備があの」
「男らしく『はい』か、『わかりました』で答えなさいっ!?」
「そうですね、男らしく『はい』か、『わかりました』で・・って、どっちも肯定じゃないですか!?」
「嫌なのっ!?」
「いえ、嫌じゃないです。その・・わかりました。僕で・・こんな僕でよかったら如月さんの側にいさせてください」
相変わらず顔は熟れたリンゴのように赤いまま。
しかし、少年の表情は真剣そのもので、その深い夜色の瞳は真っすぐに目の前の黄金の瞳を見つめ返す。
しばし、交錯する二つの視線。
やがて、その夜色の瞳に浮かぶ深い想いを感じ取った金色の光は、耐えきれなくなってまた滲みはじめ、熱い何かで濡れはじめる。
「本当に? 嘘じゃない?」
「本当です。嘘じゃないです」
「もう勝手にいなくなったりしない? もうどこにもいかない?」
「あなたが望んでくれる限り、許してくれる限り、側にいさせてください」
「わかった。私は、私、如月 玉藻は望む、あなたが側にいてくれることを望む。私、如月 玉藻は許す、あなたが側にいることを許す。だから・・だから、いつまでも私の側にいて、お願い」
「はい」
優しい声、優しい表情。
それは今まで通りの声、それは今まで通りの表情。
何も変わらない、いや、むしろこれまで以上に深く大きく、かけがえのない何かが含まれるようになったそれら全て。
玉藻は取り戻した。
今、完全に取り戻したのだ。
それを確信した玉藻の全身を凄まじい歓喜が包み込み、気がついた時には玉藻は少年の小さな唇を自分のそれで塞いでいた。
ずっと我慢していた何かを取り戻すかのように重ね貪る玉藻。
唇を離してはまた重ね、重ねてはまた離す。
そうやって何度も同じことを繰り返していた玉藻だったが、なんだかそれでもまだ物足りない気がして、今度は半分狐、半分人の半獣人化の姿になると、盛大に少年の顔を舐めまわし始める。
獣人の一族の者にとって、顔を舐めるという行為は、ごく親しい者にしか行われない神聖な儀式である。
親と子、あるいは兄弟姉妹、そして、夫婦かそれに近い恋人同士。
強い愛情、強い絆を感じる者に対し、自分が抱いている正の感情を表現するために行われるのだ。
玉藻は今まで顔を舐めるという行為を他の誰かに行ったことがほとんどない。
ほとんどないが一応あるにはある。
しかし、それは恋人とかそういう関係の相手ではない。
里に残してきた自分の妹。
自分に懐いてくれ、一緒にいてくれたたった一人の家族。
それ以外にはない。
そして、里を離れてからは一度たりともない。
正直、自分がこういう行為を行うことは二度とないのではないかと思ってきた。
自分に近寄ってくる大勢の男達、あるいは一部の女達、すべて、嫌悪の対象でしかなかった。
なのに、自分は今こうして自分以外の誰かに対し、ありったけの愛情表現を行っている。
不思議だった。
実に摩訶不思議であったが、嫌悪感は全くない、むしろずっとずっとこうしていたい。
「ちょ、如月さん、お気持ちはわかりました。顔を舐めることが獣人族にとって最大限の愛情表現にあたることだということは理解していますし、それをしていただけるのは大変光栄だと思っています。しかしですね、そろそろ、放していただけないかと」
「いや」
「いやって・・」
玉藻の腕の中で、心底困惑した表情を浮かべる少年。
決して嫌がっていないことはわかってる。
ただ、どういう態度をとればいいのかわからなくて、何よりも照れくさくて逃げたがっているのだ。
そんな少年の気持ちが手に取るようにわかる。
かわいい。
なんて、かわいらしくて愛おしい生き物なのだろう。
いっそ食べてしまいたい。
頭から丸ごと食べてしまうのだ、そうすれば二度と裏切られることはない。
愛しい少年の生命は永遠に自分のもの。
そして、同時に。
愛しい少年の笑顔は永遠に失われる。
「ないわ。ないない。それだけはない」
「ふぇ? 何がですか?」
「いいの。気にしないの」
「またそれだ。なんなんですか、毎回毎回、一人で意味深なこと言っては一人で納得しちゃうんだから」
「いいったらいいの。気にしなくていいの。どうせ説明したって、あなたの答えなんて決まってるもの」
『いいですよ、僕を食べても』
「それはもういいっつ~の。食べないっつ~の」
「何をですか?」
「いいから。気にしなくていいっていってるでしょ。もうっ!!」
「そんな無茶な、うわっぷ。如月さん、僕、さっきまで掃除してたから埃まみれで汚いですって!! お腹壊しちゃうからいい加減顔を舐めるのはやめてください!!」
「汚いなら尚更奇麗にしないとダメでしょ。あなたは黙ってなさい」
「えええええっ!?」
情けない表情で腕をばたばたさせてもがく少年。
そんな姿を見た玉藻は、くすくすと笑いながら少年の顔に自分の赤く長い舌を這わせていく。
自分の腕の中で完全におもちゃになってしまっている少年には、本当に申し訳なかったが、玉藻は今、最高に幸せだった。
だって、この世で一番大事だと思っている掛け替えのないものがこの腕の中に戻ってきたのだから。
もう二度と取り戻せないかもしれない、そう思っていた大切な大切な宝物が戻ってきたのだから。
その幸せを噛みしめながら、丹念に丁寧に大切に大事に少年の顔を舐めていく玉藻。
そんな風にどれくらい幸せな時間を堪能していたであろうか。
玉藻は、ふとあることに気がついて、少年の顔を舐めるのをやめる。
そして、腕の力を緩めて少年の身体をそっと離し、まじまじとその顔を見つめた。
玉藻の腕の力が抜けたことで、ようやく解放されるのだと思った少年は、どこかほっとした表情を浮かべて肩の力を抜こうとする。
しかし、目の前にある玉藻の狐の顔が、微妙に困惑気味に歪んでいることに気がついて、小首を傾げる。
「ど、どうしました、如月さん?」
「あ、あのね」
「は、はい」
「そ、そのね」
「え、ええ」
「だ、だからね」
「な、なんなんですか? いいからなんでも聞いてください。どうしたんですか?」
物凄く何か聞きたそうにしているのだが、同時に物凄く言いにくそうにしている狐。
何度も口を開きかけて言葉にしようとしてはやめ、また何かを聞こうと言葉を紡ぎかけるがやめる。
そういうことを何度も繰り返し、話が全く先に進まない。
そのことに業を煮やした少年が強い口調で逆に玉藻に問いかけると、ようやく玉藻は言葉にする決意を固めたらしく、おずおず口を開いた。
それもなんだかやたら申し訳なさそうに。
「そ、そのね」
「はい、はい」
「い、今更なんだけどね」
「ええ、ええ」
「『何言っちゃってるのおまえ!?』とか言わないで聞いてほしいんだけど」
「いや、いわないですから。なんなんですか、早くいってくださいってば」
言ってる途中でなんだかやたら顔が赤くなってきた玉藻。
途中から声がだんだん小さくなっていき、またもや口を閉ざしてしまう。
しかし、少年に強く促され、物凄く仕方ないという感じではあったがとうとう思いきってそれを口にする。
「あ、あのあの。あのねあのね」
「は、はい」
「いや、つまりその、だから、いわゆる」
「要点だけズバッと言ってください!! ズバッと!! 早く!!」
「んもうっ、こういうところは全然変わらないんだから!! だから~、その~、あ、あなたは」
「僕? 僕がなんですか?」
「あなたは」
「僕は?」
「あなたは、だ~れ?」
「・・」
「・・」
し~~~ん。
狭いキッチンの中を地獄の沈黙が支配する。
その沈黙の中にたたずむ二つの人影。
一つは、真っ赤になった顔を相手に見えないようにささっと背け、この沈黙が早く終わりますようにと必死に両手で耳をふさいで無駄な努力を続ける狐。
もう一つは、両目と口を最大限まで開放し、埴輪のような状態になって狐の背中を見つめる少年。
やがて、はっと我に返った少年が、追い打ちとなるような無情な言葉を狐に投げかける。
「すいません、如月さん、もう一回言ってもらってもいいですか?」
「無理」
「いや、無理じゃなくて、ショックのあまり何を言われたのかわかんなくなっちゃったので、もう一回お願いします」
「絶対無理」
なんとか少年の言葉を聞かないようにと自分の耳を塞ぎ続ける玉藻。
しかし、少年は無情にもその手の隙間に口を近づけて自分の言葉を無理矢理狐の耳の中へと流し込む。
流石の狐の両手も、少年から流し込まれ続ける無形の言葉の刃を防ぐことはできず、なすすべもないままに翻弄され、いやんいやんと身体をよじり続けて悶えるばかり。
顔はますます真っ赤になり、フローリングの上に団子のように丸まって、なんとかこの羞恥地獄から逃れられないかと更なる無駄な努力を試行し続けるのだった。
「ちょ、如月さん、本当にお願いしますよ、話が全く先に進まないじゃないですか!! もう一度お願いしますよ」
「む~り~!! 絶対む~り~!! 恥ずかしくて死ぬ!!」
「わかりました。じゃあ、僕が覚えている内容があってるかどうかの確認でいいです。いまさっき、如月さんは、『あなたは、だ~」
「あ~~~~~、ああ~~~、あ~~~~~、聞こえない、聞こえない、聞こえないったら、聞こえない~~!!」
「なんなんですか、いったい!? え、あれ、ちょっと待ってくださいよ。さっきの質問が間違い無かったとしたら、如月さん、あれですか? 全然知らない相手に愛の告白したってことですか?」
「いやああああっ!! 言わないで言わないで!! ち、ちがうもん、い、今のはちょっとした冗談だもん!!」
「どっちがですか? 愛の告白がなかったってことですか? 冗談ということですか?」
「いや、それはぁ~、超本気だったけどぉ~」
「じゃあ、『あなたは、だ~れ?』が冗談だったってことですか? 僕、自己紹介しなくていいんですね?」
「いや、それも~、ちょこっとは本気だったような気がしないでもなかったようなそんなアンニュイな午後に薔薇からタンポポに変わる季節の変わり目が」
「わけわかりませんて。じゃあ、もう自己紹介しなくていいってことでいいですか?」
「そ、そんなに自己紹介したいなら、聞いてあげないこともないわよ」
「まさかの上から目線!? ってか、玉藻さん、まだ熱が下がってないんじゃないですか?」
玉藻の言動にいいように翻弄されつつあった少年であったが、玉藻の体調が昨日から悪いことを思い出して顔色を変える。
「え、えっと、熱?」
「昨日から体調悪いみたいでしたけど、やっぱりまだ本調子じゃないんですね。いつもの如月さんらしくないし、ひょっとしてまだ熱があるんじゃないですか?」
その少年の言葉を聞いた玉藻はフローリングに座りこんだ状態で吃驚した表情を浮かべてみせる。
少年は、そんな玉藻にかまうことなく近づくと、美しい金髪に隠れた額にそっと手を伸ばして触れる。
「よかった、熱は下がったみたいですね」
「あ、あの・・」
「でも、あまり無理しないほうがいいですよ。霊力覚醒によって引き起こされる【過邪】って、油断してるとぶり返すことが結構あるんですよ」
「【過邪】? 私、【過邪】だったの?」
「気がついてなかったんですか? ほら、尻尾がいま三本になっていますよね。昨日はまだ分かれかけの状態で先が割れているだけでしたけど、今は完全に分離してますよね」
「ほ、ほんとだ。私の尻尾、三本になってる」
少年の言葉に玉藻は、急いで後ろを振り返る。
すると、昨日まで確かに二本だった自分の尻尾が、三本に増えているのがはっきり確認できた。
意識すると、三本の尻尾を別々に自分の意思で動かすことができる。
間違いなく自分の尻尾だった。
「おお、すごい!! でも、私が【過邪】だってことがよくわかったわね?」
「兄や姉も【過邪】で倒れたことがあるんですよ。その症状の細かいところは違いますけど、大きなところが変わりませんからね。そうだ、ちょっと待っててください」
少年は玉藻の側からパタパタと離れて、台所の横に移動していった。
そこにはユニットバスと洗面所があるはずだが。
ぼんやりとそっちを見ているとやがて、袖を捲り上げた少年がもどってきた。
「ちょうどいいからお風呂入っちゃってください。汗かいて気持ち悪いでしょ?いまいい湯加減になってますから。東方ゆず湯にしたので、過邪ひいた身体にいいし何よりもあったまりますよ。さ、起きて起きて」
少年は玉藻の両手をつかむと、無理にならない程度に引っ張ってその身体を起こし、背中を押して風呂場の前の洗面所兼脱衣所に連れて行く。
そして、玉藻の身体を中にいれたあと脱衣所の扉を外側から閉める。
「ゆっくりつかってくださいね。あ、そうそう、着ていたものは魔道洗濯機の中にいれておいてください、あとで洗いますから。着替えは籠の中にいれてますからそれを着てくださいね」
少年の言葉に足もとに目をやると、下に置かれた竹でできた籠の中にはきちんとたたまれた新しいパジャマと下着が。
しかし、あることが気になった玉藻はすぐにパジャマを脱ごうとはせず、ドアの向こう側にいるはずの少年のほうに視線を向け直す。
「いや、あの、その」
「お風呂からあがったらご飯にしましょう。そのときに僕のことを改めてご説明させていただきます。あと、昨日のこともお話しないといけないですし」
「いや、だから、そうじゃなくて」
ドア越しに何かを伝えようとする玉藻。
いろいろと聞きたいことがあるのは間違いない、それを少年は後で説明してくれるといっている。
なぜかわからないが、この場限りの嘘ではないと確信できる。
それで納得できるはずなのだが。
しかし、今、玉藻が言いたいのはそれではない。
もっと単純なことで大事なことなのだが。
なんだか、それをここで言うのはあまりにもしつこいような気もする。
ドアの向こうでちょっとシュンとして切ない溜息をひとつ吐きだした玉藻は、とりあえず、大人しく風呂に入ってしまおうとパジャマを脱ごうとした。
そのとき、玉藻が一番欲しかった言葉がドア越しに投げかけられる。
「大丈夫ですよ。ちゃんと、側にいますから」
「え・・あ、う、うん」
やっぱりいつもどおりの優しい声。
その声を聞いてようやく安心した表情を浮かべた玉藻。
衣服を全て脱ぎ目の前の洗濯機の中に放り込んだあと、風呂場の扉をあけて中へとはいっていった。