第七話 『玉藻と連夜』 その2
どれくらい眠っていたのだろうか。
闇の世界から急速に意識が浮上し、ぼんやりとだが思考能力が回復してくる。
自分が布団の中で横になっていること、今まで眠っていたことをすぐに自覚するが、それ以上のことを考えるにはまだ頭ははっきりしてはいない。
そんな状態のまま、しばらく横になった状態のまま天井をぼんやりと見つめ続ける玉藻。
やがて半分くらい覚醒した状態になると、いろいろな夢を見ていたことを玉藻は唐突に思い出す。
楽しい夢、悲しい夢、嬉しい夢、辛く苦しい夢、本当にいろいろさまざま。
そう言った夢を間違いなく見ていたという覚えはあるが、では具体的にどんな内容だったかと聞かれると、もうすでに記憶の中には残っていない。
夢というものはそういうものだとわかってはいる。
しかし、浮かんでは消えたたくさんの夢の中に、何故か忘れてはいけない大切な大切な夢があったような気がする。
絶対に思い出さないといけない、自分にとって大切な何か。
絶対に思い出して現実にしないといけない、自分にとって大事な何か。
(あ~、なんだったけ~。ここまで出ている気がするんだけどなあ)
いつもなら、やっぱりどうでもいいやと一笑に付してさっさと忘れてしまうようなこと。
だけど、今回だけはどうしてもそうすることができない。
何故か、有耶無耶にしてはいけない、絶対にそうしてはいけない気がする。
気がするのだが。
やはり思いだすことができず、横になったまま、彼女は深い深い溜息を一つ吐きだした。
気だるい感じが全身を包み、いつも通りではない疲労感。
とはいえ、熱っぽさはなく気分が悪いということもない。
それどころか、額と後頭部に程よい感じの冷たさすら感じる。
額に手を回してみると、冷たく冷やされたタオルのようなものが置かれている。
また、自分の頭の下敷きになっているのはいつもの枕ではなく、冷たい氷枕へと変わっていた。
首を横に回してみると、布団の横に氷水の入った洗面器が置かれているのが見えた。
(あ〜、誰か看病してくれていたんだなあ・・)
そういえば、昨日すこぶる体調が悪かったのだと、唐突に思い出す。
昨日、玉藻は小学校時代からの親友にして悪友であるミネルヴァ・スクナーの追試に付き合って、大学に出かけた。
正直朝から調子は悪かったものの、なんとかなるだろうと軽い気持ちで出かけてしまったのが最大の間違い。
途中から一気に体調が悪くなり、静かな図書館に避難してダウンしていたのだった。
熱っぽいし、頭は痛いし、吐きそうだし、身体は全身だるいし、実に最悪な状態であったが、今は全然そんなことはない。
誰かわからないが、実に細やかに配慮して看病してくれたのだろう。
いつも寝ているせんべい布団と違い、今自分が寝ている蒲団はふかふか。
頭を乗せている氷枕は冷たすぎない程度にひんやりしてて気持ちいい。
額に乗せてあるタオルは、目にかからないように注意してのせてられているので、これもまた快適だった。
実に寝やすい。
というか、二度寝したい誘惑に勝てないほど気持ちいい。
(もういいや、もう一回寝よう)
あまりの気持ちよさに即決し、再び目を瞑り眠りの世界に入ろうとする玉藻。
しかし。
あることに気がついて意識を一気に覚醒させる。
そして、自分の中にわきあがった強烈な疑問を思わず叫びながら布団を跳ね除けて起き上がるのだった。
「って、誰が!? 誰が、看病してくれたの!?」
玉藻は一人暮らしの大学生。
ルームメイトなどいないし、彼氏もいない。
家族はここから遠く離れた霊狐の里に住んでいるし、こちらに来るなら一週間以上前に連絡がきているはずだった。
と、言うことはいったい誰が・・
得体の知れない不安と恐怖で、玉藻の全身からいやな汗が噴出す。
急いで自分の着衣と身体を確認するが、熱のせいによる汗はかいているものの、着ているパジャマに乱れはないし、身体そのものにどうこうされたわけでもないようだった。
その事実に少し安堵の息をもらしかける玉藻。
だが。
「あ、あれ・・そういえば私、いつパジャマに着替えたの? と、いうか、ここってどこ!?」
玉藻は唐突に、昨日のある時間から先の記憶がないことに気がついた。
親友ミネルヴァに付添って大学にやってきた後、気分が悪くなり図書館に入った。
ここまでは覚えている。
しかし、それ以降の記憶がない。
まさか、自分は誰かに拉致されたのか!?
玉藻は戦慄すると共に自分の意識を一瞬にして戦闘モードへと切り替える。
嬉しいことではないが、玉藻は下心満載の男性達から頻繁に毎日のように声を掛けられている。
自分に向けられるそんな男性達の目は、どれもこれも発情期の血走ったオスそのものの欲情の光で満ちあふれておりで、気持ち悪いことこの上ない。
勿論そういう輩に対して好意を持つわけがなく、容赦なく片っ端から蹴り倒し絶対に寄せつけたりはしないのだが。
昨日は本当に体調が悪かった。
あの状態の自分に襲いかかられていたのなら・・
玉藻はぞっとしながら急いで周囲を見渡す。
きちんと整理整頓された六畳ほどの部屋
真ん中には布団が敷いてあり、ほかには化粧台とか、タンスとかまばらに置いてあるだけ。
一応窓はあるのだが、かけてあるカーテンも実用性だけを考えたような地味な紺色だし、全体的に部屋の中は地味で質素だった。
「どんだけ地味な部屋なのよ。布団はともかくとして、化粧台なんて私の部屋にある奴と同じ。これ家具雑貨店『ダブルバード』で買ってきた『三千九百八十サクル』の安物だし、タンスもこれ『七千九百八十サクル』の特化品でしょ? あ~あ、カーテンもうちにあるやつと同じ。どうみても男の部屋のカーテンよねえ、これ。そうそう、ここに私がコーヒーこぼしてつけたシミが・・って、私の部屋じゃん!!」
ようやく自分がどこにいるのかを把握した玉藻は驚愕の声をあげる。
気がつかなかった。
いや、本当に玉藻は気がつかなかった、いや気がつけなかったのだ。
今自分が居る場所が、他ならぬ自分の部屋だということに。
それはなぜか?
あまりにも自分の寝室が、奇麗になっていたためだ。
「え? え? なんで? ビールの空き瓶は? 雑誌は? もっといっぱい散らかっていたのに、あれ? あれれ?」
彼女の記憶にある彼女の部屋は、こんなに小奇麗で整理整頓された部屋ではなかった。
いや、それどころか、『奇麗』とか『整理』とか『整頓』とかなんて言葉は欠片も存在しない部屋であった。
ビールの空きビンや、読みかけの雑誌や、脱ぎ散らかされた服が部屋のあちこちに散乱し、その中に埋もれるようにせんべい布団がかろうじて敷かれている。
そんなとんでもない状態であったのだ。
であったにも関わらず、玉藻の部屋はその様子を一変させている。
「どういうこと? いったい、一晩で何があったの? え、ちょっと待てよ、本当に一晩なのかしら!?」
はたとある可能性について気がついた玉藻は、急いで化粧台に近寄る。
そして、そこに置いてある時計を手に取って確認してみると。
「表示されている日付と私の中の最後の記憶の日付を照らし合わせてみると・・一日しか経ってないということか」
自分が予想していた最悪の事態ではなかったことに脱力しながら、すとんとそこに坐り込む玉藻。
のろのろと化粧台の上に時計を戻しながら、深い溜息を一つ吐き出す。
「う~~ん。ってことは、私の中で失われている記憶は半日程度ってことか。いったい、何があったんだろ? 図書館に入ってから先の記憶がすぽんと抜け落ちているのよねえ」
両腕を組んでしばし考え込む。
なんとなくぼんやりとだが思いだせそうな気がするのはする。
かなり大変な何かがあったはずなのだが。
あ~でもない、こ~でもないとしばらくそのまま頭を捻り続ける。
そうして十分ほどうんうん唸っていた玉藻であったが、はっとあることに気がついてその身を緊張で強張らせる。
この家に誰かがいる。
自分以外の誰かがいる、誰かの気配がする。
どうして今まで気がつかなかったのか?
玉藻は霊狐族である。
霊狐族は異常に警戒心が強い一族で、自分のテリトリーに侵入してくる外敵、あるいは自分に向けられる害意、悪意、敵意を瞬時に敏感に察知する能力を持っているのだ。
普通なら気がつかないわけはない。
いくら起きたばかりとはいえ、下手をすれば命に関わるかもしれない重大事を見過ごすわけがない。
にも関わらず玉藻はこの気配を完全に見過ごしていた。
いや、そればかりではない。
今、意識してこの家の中の自分以外の誰かの気配を感じている。
感じてはいるのだが。
その気配に対する警戒心というか敵対心というか、闘争本能というか迎撃態勢というか、そう言ったものが全然わいてこないのである。
と、いうことは自分の知り合いだろうか?
ありえるといえばありえる。
氷枕といい、冷たいタオルといい、ふかふかの蒲団といい、誰かが調子の悪かった自分を看病してくれたのはほぼ間違いはない。
それもかなり気を使って看病してくれていたとわかることからも、相当親しい間柄の誰かのはずなのだ。
しかし。
この気配の主はどうも自分が知る誰とも気配が違うような気がする。
だが一方で、物凄くよく知っている気配という感じもする。
よ~するによくわからんというのが本音。
とりあえず、相手からは一切悪意の類は感じられないし、ここでぐだぐだしているよりも、直に確かめたほうが早いなと決断する。
本調子でないが、なんとか意識を集中して今一度家の中の気配を探る。
すると、リビングルームの向こうにあるキッチンのほうから何者かの気配を感じる。
玉藻は音もなく立ち上がると、自分の部屋からリビングにつながっている襖へと向かい、少しだけ襖を開けて中を見る。
「え・・うそ・・」
玉藻は自分の目に映るリビングルームの様子が信じられず、何度も目をこする。
ピカピカに磨き上げられたテーブルに地味だが趣味のいいモスグリーンいろのカバーがかけられたソファ。
ベランダに続くガラス張りの大窓はきれいに磨き上げられ、ぼろぼろになっていたはずのカーテンは光を入れることができる薄く透けている白いレースのカーテンと、厚めの生地でできたレモンイエローのカーテンの二種類にかえられていた。
部屋の隅にきちんとセッティングされた念波放送受信対応の二十八型テレビに、色艶のいい観葉植物が植えられた鉢植え。
家具が置いていないスペースはあきらかにきちんと掃除されて、恐らく雑巾がけまでしてあるのがわかる。
しかも、ほんのりと匂うか匂わないかという嫌味にならない程度に、金木犀の良い香りまで漂っている。
「ど、どうなってるの?」
玉藻が驚くのは無理もない。
玉藻の記憶の中にあるリビングルームはゴミ捨て場のような見るに耐えない有様だったのだ。
記憶している限りでもありとあらゆるものが部屋中に散乱していたはず。
自分が脱ぎ散らかした衣服。
自炊するのがめんどくさくて近くのお惣菜屋で買ってきて食べきれずに中身残ったままの弁当(中がどうなっていたかについては絶対確かめたくない状態)。
暇つぶしに買ったのはいいけど整理できずにほったらかしの雑誌類。
そして、なによりも部屋の空間を圧迫していたのは、無数の空缶空きビンの山。
ビール、東洋酒、どぶろく、ワイン、ウィスキー、ウォッカ、チューハイ、カクテル、etcetc。
いや、確かに玉藻は酒が嫌いではない。
どちらかといえば結構好きなほうだ。
しかし、流石に部屋を埋め尽くすまで飲むほどではない。
むしろちびちびと、ちょっとだけ楽しみたい程度なのに、小学校時代から続く腐れ縁というにはあまりにも長い付き合いの親友が、ほとんど毎晩のように酒のビン缶を抱えてやってくることが最大の原因なのだ。
いや、百歩譲ってここで飲むのは許してもいい。
だが、飲んだ後の後始末を全くしないで、ごみ散らかし放題で帰るのはいかがなものか。
思い返すとふつふつと怒りが湧き上がってくる。
と、いうか、なんだかその友人に関することで重大な何かを忘れてしまっているような気がするのだが、とりあえず、その思いをとりあえず心の棚の上に置いておいて、もう一度部屋の様子を落ち着いて伺ってみる。
腐海というか魔界というか一種異様な光景と醜悪極まりない匂いに満ちていた部屋が、どうやったらここまで昇華されるのか。
しばらく唖然としていた玉藻であったが、ずっとそうしているわけにもいかないので、意を決してリビングに出て行くことにする。
なるべく気配を消し、滑らせる音が立たないようにゆっくりと襖をずらすと、なるべくキッチンから死角になっている場所を選んで素早く移動する。
キッチンから死角になっているリビングの壁際に移動した玉藻はもう一度気配を探るが、キッチンで感じる気配の主はまだこちらに気づいていないようだ。
ほっと安堵の吐息をもらし、何気なく視線をめぐらせると、自室からは見えなかったソファの影に何かが積まれているのが目に入る。
注意を向けてみると、どうやらそれは自分の衣服。
恐る恐る近づいて確認してみると、それらは全て綺麗に洗濯されてきちんとたたまれており、しかもブラウス類などはアイロンまでかけてある念のいりよう。
「か、完璧だわ・・完璧な掃除・・完璧な洗濯・・」
正確に四角に折りたたまれたブラウスを持つ手をぶるぶると震わせながら、玉藻は恐るべき可能性に気づいて台所のほうに振り向いた。
「ま、まさか、キッチンにいるってことは!?」
うそだ、そんなわけない、信じたくないと思いつつも、ゆっくりと四つんばいになりながらキッチンに近づく玉藻。
しかし、そんな玉藻を絶望に追い込むかのごとく、リビングから離れるにつれて金木犀の香りは薄くなって消えていき、かわりにものすごい食欲をそそるいい匂いが・・
そう、この匂いはあれだ、あれに間違いない!
「お、お腹に優しいクリームシチューの優しい香りが」
認めたくない、認めたくないが、自分の狐特有の鋭い嗅覚はごまかすことができない。
匂いだけでわかる。
この匂いをさせているクリームシチューは絶対おいしい!!
「か、完璧か、全部完璧なのか!? 掃除洗濯炊事、非の打ち所のない完璧超人か!?」
なんか女として物凄い敗北感を味わわされてがっくりとうなだれる玉藻。
たった一日で自分の住居ををごみ屋敷から、できるかっこいい女の部屋に作り変えた見知らぬ完璧女。
まるで『この程度のこともできないなんて・・あんたってくずね・・うふふ』と嘲笑されている幻覚まで見えてきて、玉藻は立ち直ることができずに床に涙の池をつくるのだった。
「どうせどうせ、わたしは駄目な女ですよ〜。掃除片付けできないパナシ女ですよ〜。洗濯できない異臭汚物女ですよ〜。料理作ってもまずいものしか作れませんよ〜。しくしくしく」
「あ、あの〜、そんなところで寝ているとお身体にさわりますよ」
「ほうっておいて!どうせ、わたしは女のくずよ、くずなんだから!! うわぁぁぁぁぁぁぁん!!」
「そんなことないと思いますよ」
「上辺だけの同情なんていらな、え?」
さっきからから自分が誰かとしゃべっていることに気がついた玉藻は、声のしたほうにゆっくりと顔を向ける。
そして、自分の先に立つ一人の少年の姿をその目にしたとき、強烈な衝撃に貫かれて玉藻は思わずよろめいた。
「あ、あなたは・・」
一度も見たことも会ったこともない少年。
しかし。
自分はよく知っていた。
玉藻は自分の目の前に立つ少年のことをよ~く知っていた。
見たことがないはずなのに。
会ったこともないはずなのに。
玉藻は知っていた、知っていたのだ。
そして。
「おはようございます、如月さん」
一度も見たことがないはずの笑顔。
一度も聞いたことがないはずの声。
なのに。
いつもどおりの優しい笑顔。
今までと変わらぬ温かい声。
懐かしくて切なくて嬉しくてどうにもたまらなくなった玉藻。
気がついたそのときには、涙と鼻水で美しい顔をぐしゃぐしゃにしながら少年の小さな体を力いっぱい抱きしめていた。
「え? え? き、如月さん?」
「おはよう、おかえり、ただいま、ああ、やっと、やっと会えた、やっと捕まえた、捕まえたんだから!!」




