第六話 『そして、二人は巡り合う』 その10
「いい構えに、いい気迫ですね、ジャック。さて、『祟鴉』殿、何か言い残すことはございませんか?」
舎弟の頼もしい姿に気を良くしたカミオは、目の前で今にも息絶えそうな状態でありながら闘志を枯らすことなくこちらにぶつけてくる黒装束の怪『人』に問いかける。
しかし、怪『人』は不良達に闘志を放つだけで言葉自体を紡ごうとはしなかった。
カラスにしてみれば、こんな奴らとは一言も口をききたくなかったのだ。
だが、言い残したい言葉がないわけでもなかった。
できれば。
できることならば、ある『人』にだけは謝りたかった。
心から謝りたかった。
彼が自分の心に住まわせる憧れの、そして、最愛の女性。
せっかく彼女が自分と約束してくれたのに。
彼女自身が、こんな自分に会いたいと、会ってほしいと約束してくれたのに。
結局自分はその約束を果たせなかった。
たとえ、ここで命散らすことになったとしても、彼自身にほとんど悔いはない。
短い人生ではあったが、彼は自分が間違いなく幸せだったと思っている。
温かくも優しい両親の元に生まれることができた。
兄姉妹達は自分のことを本当にかわいがってくれた。
生死を共にするほど仲が良い友達もできた。
人間である自分を差別することなく、自分達が蓄えた知識技術を惜しみなく伝授してくれた偉大な師匠達とも会えた。
辛いこと悲しいことはいっぱいあったが、それ以上に楽しくも満ち足りた『人』生であった。
これ以上望むことは贅沢以外の何物でもない。
それはよく心得ている。
しかし
もし一つだけ願いをかなえてもらえるなら、もし許してもらえるならば
最愛の『人』の側で死にたい。
たった一人、自分が愛したあの『人』の側で死にたかった。
最後の最後まで『生』を諦めはしない。
だが同時に、目の前に構えられたあの剣を避ける術が今自分にはないこともわかっている。
終わりの時が来る。
それはもうどうしようもなく逃れられない運命。
そう確信する。
なればこそ、あの『人』の側で最後の時を迎えたかった。
どうしてそう思ってしまうのかはわからない。
でも、どうしてもそう思ってしまうのだ。
かつて自分がその道を通ったように感じてしまうのだ。
(そう思うのは迷惑ですよね、如月さん)
心の中で苦笑しながら最愛の女性に呼びかける。
答えが返ってくるはずはないとわかっている、だけど、もう一度だけ、幻聴でもいいから、あの『人』の声が聞きたかった。
そう思って問いかけた言葉。
心の中、誰も聞いている筈のない言葉。
だったはずなのに。
(迷惑に決まってるじゃろうが、この馬鹿っ、あほっ、スカタン!!)
突如として心の中に響き渡る妙齢の女性の声。
聞き間違えるはずがない。
聞き間違えようがない。
多少言葉使いが違っていても、最愛の女性の声を間違えたりするはずがないのだ。
だが、同時にカラスは絶望も感じていた。
大量の失血のせいでとうとう幻聴が聞こえるようになってしまったらしい。
どうやら本当に最後の時がやってきたようだ。
でも。
でもよかった。
幻聴でもいい。
今わの際に最愛の女性の声が聞こえた。
それだけでも満足だった。
(バカバカバカッ!! 満足してるんじゃない!! やっと、やっと逢えたのに!! 悠久の時を延々と彷徨ってようやく出会えたというのに、何勝手に諦めてるんじゃ、この大バカ者!! あ~、もうこれじゃから、安心して消えられないんじゃ!!)
カラスは心の中で小首を傾げる。
妙にリアルな幻聴だなと。
(ちがうっちゅ~にっ!! 幻聴じゃないの!! わしなの!! 本人なの!! 本物なの!!)
すかさず返ってくる言葉にしばし考え込んだカラスだったが、もう最後だし、なんでも聞いてみるかと幻聴に聞き返してみる。
(え、本物なんですか?)
(本物、本物)
(マジですか?)
(マジでマジで)
(本気ですか?)
(本気で本気で)
(『真剣』と書いて『マジ』と読むみたいな感じですか?)
(『真剣』と書いて・・って、あ~~もうもうっ!! おまえ、相変わらず本当にしつこい!! 本物だっつ~ったら本物なの!!)
(あ、なんだ、本物かあ。幻聴かと思っちゃった・・って、ええええええっ、ほ、ほんものおおおおっ!?)
(驚くの遅っ!! ってか、今にも死にそうなこの極限状態でいくらなんでも冷静すぎるじゃろ、おまえ!? どんだけ精神図太いんじゃ!?)
(褒められちゃった、てへっ)
(いやいやいや、全然褒めとらんから。きっぱり呆れてるから)
(え~~)
(『え~』じゃないわっ!!)
もう心底呆れ果てたと言わんばかりの口調でカラスに語りかけてくる妙齢の女性の声。
そんな女性の様子もどこ吹く風、どこまでもいつもの調子で軽口を返し続けるカラス。
しかし、女性はそんなカラスの言葉に誤魔化されはしなかった。
(まったく、そうやって苦しい時ほど心配かけないように無理しておどけてみせるんじゃから。ほんとにほんとにほんとにもう、バカなんじゃから)
(む、無理してるわけじゃないですよ。無理してるわけじゃなくて、本当に楽しくお話したいだけなんです。多分、これが最後ですし)
どこか疲れたような、しかし、本当に嬉しそうに心の中の最愛の女性に声をかけるカラス。
だが、そんなカラスに対し女性は本気の一喝を放つ。
(だから、『最後』っていうんじゃない!!)
(え、でも)
(いいか、よく聞け、この大バカ者。残される者の身にもなってみろ。目の前で死なれる者の身にもなってみろ。どれだけ辛いか、どれだけ悲しいか、おまえにわかるか?)
(それは、その・・そうかもしれません。いえ、そうですね。すいません、浅慮なことを、いえ、とても残酷なことを願ってしまいました。ごめんなさい)
深い悲しみが宿る女性の言葉に、過去にあった何かを思い出したカラスは、素直に謝罪の言葉を口にする。
すると、女性のほうも何か思うことがあるのか、ひどく動揺して慌てたように言葉を紡ぐ。
(い、いや違う。謝ってほしいわけじゃない。その、おまえが死んでしまう原因を作ってしまったのはわし・・私だし、死んだ後も残って私を慰めてくれたことには感謝してるし、ずっと一緒にいてくれるためにそういうことを言ってくれている気持は嬉しいから全部否定しているわけじゃないというか・・)
(死んでしまう原因? いや、今のこれは僕の油断が招いたことですし、死んだ後も残れるかどうかわからないですけど)
(以前の話のことなの!!)
(以前?)
(い、いいから!! それはもういいから!! 気にしないの!! それよりも私がここに来たからには最後にはさせない、させはしない!! そうさせないために私はこの世界に生まれてきたんだから!!)
とても強くとても激しい決意と覚悟が込められた言葉。
その言葉がカラスの心に響いた次の瞬間だった。
突如としてカラスのその心が、そしてカラスのその命の炎が、再び活性化して燃え上がる。
(え、ちょ、な、何を? 何をしたんですか!?)
(私の最後の魂の残照全て使っておまえの命の炎を再び活性化させた)
(は、はあっ!? ちょっ、何勝手なことしてやがってくれますかな!? 最後の残照って、それって如月さんが死んじゃうってことじゃないですか!! やめてくださいやりなおしてください、今すぐに!! そんなことで助けられても全然嬉しくありません!! 如月さんに死なれちゃったら、僕が生きてる意味もないじゃないですか!!)
女性の言葉の意味を瞬時に把握したカラスは、焦りまくって心の中で盛大に喚き散らす。
(いいのよ。私は消えるけど、私は消えないもの)
(い、意味がわかりませんってば、消えちゃダメです、そんなの嫌です、逝かないでください!!)
(ふふふ、ほんと、やっぱり変わらない。どんな風に生まれてきても、どんな風に育ってもあなたはあなたなのね。嬉しい。あなたにもう一度逢うことができて本当にうれしい。ほんとはこの世界の私の中で消えるつもりだったけど、どうしてもあなたかどうか確かめたくて、私がずっとずっと探していたあなたなのかどうか自分自身で確認したくて、無に抗ってここまで飛んできた甲斐があったわ)
(うわああっ!! そ、そんな最後みたいな言葉聞きたくない!!聞かせないでください!! 消えちゃだめだあああああっ!!)
(ありがとう。でもね、本当に大丈夫なのよ。ここにいる私はあなたの命となってあなたの中に消える。でも、私の心はちゃんと残ってる、体と魂もちゃんと残る。ちゃんと残ってあなたのことを守る。今度こそ守るから、そして、一緒に生きるから)
自分の心の中にいる女性の気配が今にも消えていきそうなことを感じとったカラスは、懸命に女性をこの世界に繋ぎ止めようと泣き叫び続ける。
だが、そんなカラスの悲しみに満ちた声、心に対し、女性はどこまでも優しく、そして、どこまでも力強く話しかける。
それは最後の力を振り絞った魂の声。
しかし、そこに悲しみはない。
あるのは新しい希望のみ!!
(二つの声、二つの心、二つの魂、いまこそ重なる時。ずっとずっと、これからはずっと一緒。いつまでも一緒。もうこの手からこぼし落としたりはしない。もう二度とあなたを失ったりはしない。私達はもう巡り合った。あとは走り出すだけ。私は逝く、あなたの命の中に。だけど、私は生く、あなたを守るために!! さあ、始めましょう。もう一度、私達の物語を!!)
(如月さん!!)
(すぐ・・会えるわ・・ほら、上を・・見て。希望はすぐ・・そこに・・ある・・ああ・・愛しているわ・・わたしの・・わたしだけの人)
『うわああああああああっ!!』
心の中で小さく小さくなっていく女性の気配。
なんとかして掴もうとするが、急速に消えていく女性の気配を掴むことはできず、カラスは半狂乱になって叫ぶ。
ただひたすらに叫び続ける。
その声は実際の声となって外へと飛び出し、その様子を見ていたカミオとジャックは一瞬ぎょっとして狂乱状態に陥ったカラスの姿を見つめる。
「死に直面してついに頭がおかしくなりましたか」
「こうなるとトドメをさしてやるのが慈悲ってやつか。迷わず成仏しろよ」
一瞬顔を見合せて嘆息を漏らした二人。
しかし、すぐに表情を引き締めたジャックは、もう一度剣を構えると目の前の黒装束の怪『人』の胸を見据える。
一撃で心臓を抉り抜く。
そう狙いを定めると、限界まで自分の腕を引き絞る。
『サードテンプル』を大いに騒がせた怪『人』もいよいよ最後の時を迎える。
この場にいる誰しもがそう思い、その最後の瞬間を見逃すまいと目を凝らす。
しかし、たった一人だけ、別の場所を見据えている者がいた。
それは今まさに殺されようとしているカラス本人。
彼は、半狂乱になりながらも心の中の女性が残した言葉を信じ、真上に視線を向け続けていた。
カラスがいるのは吹き抜けになっているかつてある会社のロビーとして使われていた場所。
昔はガラス張りにされていたのであろうが、今はすっかり全て割れてしまって夜空が丸見えになっている。
その闇夜の中には控え目だが美しい光を放ち続けるたくさんの星々とミスリル銀でできたような白銀色の三日月。
そして
一匹の狐
(え? き、狐?)
カラスは一瞬自分がいま見ている物が幻覚か何かかと思った。
漆黒の夜の世界、星でできた銀色の川に浮かぶ三日月型の船。
その中から飛び出したのは黄金に輝く一匹の狐。
気高く美しく、そして、誰よりも愛おしく感じるその狐を見たとき、カラスは間違いなく幻覚だと思った。
だが、その狐は彼の視界から消えない。
いつまでたっても消えない。
それどころかどんどん、どんどん近付いてくる。
どんどん、どんどん。
近く近く。
一直線に彼の元へ。
(ちょっ、え? え! えええええええっ!?)
見る見る大きくなっていくその狐は、やがて、カラスの目にはっきりと全体が見えるほどに近づく。
そして、カラスは、それがいったいなんなのか、いや、誰なのかを悟ると、仮面の奥にある瞳を極限まで見開いて、驚愕に満ちた絶叫をあげるのだった。
『いやいやいやいや、嘘! ウソ? うそ~~ん!?』
再び叫び出したカラスにまたもや驚くジャックとカミオ。
しかし、先程のことがあったことである程度耐性がついていたため、すぐに冷静さを取り戻したジャックは、カラスにトドメを刺すべく今度こそ最後の一撃を解き放つ。
「あばよ、クソガラス」
スピードそのものはそれほど速くはない。
しかし、このメンバーの中で屈指の怪力の持ち主である西域牛頭人体族の少年の一撃は、緩い中にも凄まじい重みを感じさせる風を巻き起こしながらカラスの心臓へと吸い込まれていく。
しかし。
カラスの胸に到達しようとした瞬間、剣は乾いた音と共にへし折れて宙を舞う。
そして、続いて起こる物凄い轟音、周囲を一瞬にして覆い隠すほど舞いあがる土煙り。
目の前で起きた怪奇現象の意味がわからず、ぽかんと口を開けて固まるジャック、カミオ、そして取り巻きの不良達。
ただ一人今起きた事態の真相を全てしっかりと見ていたカラスは、土煙の中に立つ一匹の獣の影に視線を向ける。
天から舞い降りて自分の窮地を救ってくれた世にも美しい生き物を。
体長二メトルを越える大きな体躯は黄金そのものといった美しい獣毛に包まれ、その大きくも細っそりした素晴らしい身体からは、四本のすらりとした四肢、形の良いお尻からは一本の細い尻尾と、先が二つに分かれ、二本になりつつある大きく太い尻尾。
どう見ても『狐』。
しかし、顔だけが違う。
本来『狐』の顔がある場所に、それはない。
あるのは『人』の顔。
頭部から大きな狐の耳が出ているものの、紛れもなくそこにあるのは『人』の女性、それも絶世の美女の顔だった。
獣毛と同じ黄金色をした長く艶やかに光るストレートのロングヘアー、ルビーのような真紅の瞳、薔薇のような色をした唇、そして、抜けるような純白の肌。
そんな美女の顔を持つ大狐は、周囲を面白くなさそうな無表情でしばらく見つめ見まわしていたが、やがて、カラスのところでその視線を止める。
次の瞬間、無表情だったその表情に心からの安堵の色、瞳に万感の思いを浮かびあがる。
「よかった、間に合った。あなたが絶対絶命のピンチだって聞いた時は生きた心地がしなかったけど。あいつが言ったようになんとか間に合ったのね。よかった、本当によか・・」
明かな涙声でカラスに語りかけながら駆け寄ろうとした大狐だったが、そのカラスの身体を不良達が拘束し続けていることに気がつくと、再びその表情を無表情の鬼のへと変化させる。
「どけ。邪魔をするな、屑ども」
不機嫌そうな声と共に前脚を一閃。
目にも止まらぬ速さで風が走り抜ける。
すると、その一瞬の後、ぼとぼとと何が固い床の上に落ちる音がした。
いったい何が落ちたのか、最初そこにいる誰一人としてわからなかった。
落とされた者である本人達ですらわからなかった。
しかし、その中の一人が、なんとか我に返り、近づいてくる大狐に対し、恫喝めいた言葉を発しようとしたその瞬間、その人物は自分から何かが失われていることにようやく気がついた。
「あ・・あうああ、あう・・」
顔の下を構成しているある部分に手をやったその者は、自分の顔からそれが失われていることに気がついて絶句する。
いや、絶句したわけではない。
悲鳴をあげようとしたのだが、できなかったのだ。
なぜなら彼の顎は、蹴り飛ばされて床の上に落ちていたのだから。
いや、彼だけではない、カラスの身体を抑えつけて拘束していた不良達全ての顎が蹴り飛ばされてなくなってしまっていた。
遅れて気がついた彼らは一斉に悲鳴をあげようとする。
だが、下顎を完全になくしてしまっている彼らにそれができるはずがない。
しかも、不幸なことに、自分の顎がなくなったと認識してしまったことで、耐えがたい苦痛が彼らを襲う。
他人に苦痛を与えることは得意でも、与えられることには全くなれていないし得意ではない彼ら。
あっというまに全員ばたばたと悶絶してその場に倒れこむ。
その様子を軽蔑しきった冷めた視線で見つめていた大狐だったが、すぐに視線を地面にへたりこんでいるカラスのほうに向け直す。
不良達に向けていた鬼の表情から、再び女の顔になった狐は、カラスの元に駆け寄ると、そのぼろぼろの身体を前脚で器用に引き寄せ抱きしめる。
「こんなに・・こんなにボロボロになっちゃって。ごめんね、来るのが遅くなっちゃって本当にごめんね」
血だらけ泥だらけのカラスの仮面に、狐は美しい顔をすりよせ心からの謝罪の言葉を口にする。
本当に愛おしそうにカラスの身体を抱きしめる大狐。
その瞳からはいつしか熱いものが噴きこぼれはじめていた。
カラスはすぐにそれに気がついて、傷だらけ泥だらけの自分のコートのポケットから奇麗なハンカチを取り出そうとしたが、今更ながらに両腕がぽっきり折れて使い物にならなくなっていたことを思い出した。
取り出そうと動かしてもぷらぷらするだけで満足に動かない腕。
一応、先程命の炎を燃え上がらせてもらったことで致命傷からは回復してはいるものの、両手両足は相変わらずぽっきり折れたままだし、それ以外の場所も結構傷だらけの満身創痍。
一番大好きで、一番心配をかけたくないその『人』に、なんとも情けない姿を晒している。
カラス自身が泣きだしてしまいそうだった。
「ああ、いいの。あなたは動かなくていいのよ、むしろ無理しないで。大丈夫だから。もう大丈夫だから、後でちゃんと治してあげるから」
カラスの行動の意味をなんとなく察した狐は、これ以上ないくらい優しい表情を浮かべて首を横にゆっくりと振ってみせる。
「あなたが生きていてくれた。それがとても嬉しい。あなたに会えて、抱き締めることができる。それがとても嬉しい。あなたとまたお話するができる、あなたのお話を聞くことができる。それがとても嬉しい。こんなにもたくさんの嬉しいを感じることができる。やっぱり、あなたは私の特別な『人』。裏切られるとか、裏切られないとか、信頼できるとか、信頼できないとかもうどうでもいい。どうしてわからなかったんだろ。ほんとバカだった、私。また失ってしまうところだった。でも・・でもね」
そう言って自分の目の前にある『祟』の仮面をじっと見つめる狐。
まるでその奥にあるカラスの本当の瞳を見ているかのように、じっと見つめ続ける狐。
「もうわかったから。もうわかってしまったから。だから、だからね」
何かを言おうとする狐。
懸命に何かを言おうとする狐。
しかし、想いが深すぎるせいかなかなか言葉を紡ぐことができず、狐は声を詰まらせ、ただただはらはらと涙を流すだけしかできない。
そんな狐の身体に、カラスは折れて使い物にならなくなった両腕をそっとまわす。
強く抱きしめることはできない。
しかし、それでもカラスは今できる全力でその腕に想いを込めて大狐の、最愛の女性の身体を抱きしめるのだった。
そんなカラスの行動に、一瞬びっくりした表情を浮かべた狐であったが、すぐにこの上なく幸せそうだといわんばかりの表情になると、狐自身もそっとカラスの身体を抱きしめ返す。
カラスが苦しくならないように。
でも、自分の想いが伝わるようにと。
「あなたにね、あとでいっぱいいっぱい聞いてほしい話があるの。もうたくさんたくさんありすぎてここでは話しきれないの。それからそれから、あなたに聞きたい話もいっぱいいっぱいあるわ。それもたくさんたくさんありすぎてとてもじゃないけど、まとめきれない。だけど、付き合って。最後までつきあってほしい。どれだけ時間がかかるかわからないけど、他でもないあなたに話したいから、他でもないあなたに話してほしいから。いい・・かな?」
気弱で不安そうな表情で聞いてくる狐に対し、カラスは迷うことなく力強く頷きを返す。
それを見た狐は、今にも泣き出しそうな、しかし、とてつもなく嬉しそうな表情を浮かべて自分の顔をカラスの仮面にこすりつけた。
「ありがとう。ここにいてくれてありがとう。生きていてくれてありがとう。私に出会ってくれてありがとう。あ~、もう嬉しすぎて何かもういろいろなことがどうでもよくなってきたなあ。でも、すっきり爽やかな気持ちでこれからあなたと新しい関係を築いていくためにも、ここでいい加減をかますわけにはいかないよね」
歓喜の表情を浮かべて腕の中のカラスのことを見つめていた狐だったが、そっとその小柄な体を部屋の隅っこへと運んで座らせると、これまでとは明らかに違う種類の笑みを浮かべてカラスに再度笑いかける。
「ちょっとだけここで待っててね。すぐに済むから。ケジメだけはきっちりしとかないと、後でモヤモヤするのは嫌だものね」
実に爽やかで優しい笑顔。
しかし、カラスは瞬時にして理解する。
目の前の美しい獣の目が全く笑っていないことを。
美しい獣の背中が憤怒の炎で燃え上がっていることを。
そして、間違いなくこれからこの部屋にとてつもなく巨大な嵐が吹き荒れることになることを。
「じゃあ、ちょっと行ってくるわね」
カラスが制止の言葉を発しようとするよりも一瞬だけ早い絶妙なタイミング。
そのタイミングで言葉を発して制止の言葉を封じた狐は、カラスに背中を向ける。
そして、その顔は美女のそれから、獰猛な肉食獣たる狐そのものへ。
黄金の毛並みに中に、ぽつんと一つ、真紅のくまどり模様が覆う、不気味な白い狐の顔。
濡れ濡れと不気味に輝く真っ赤な瞳が、すっかり静まり返った室内をゆっくりと見渡していく。
先程までの土煙がようやくおさまった室内。
突然現れた大狐の存在を未だに受け入れることができず、カミオやジャックをはじめとする不良達は呆気に取られて突っ立ったままの状態。
そんな不良達を完全に馬鹿にしきった様子で見ていた狐は、誰が見ても嘲笑しているとわかる形に表情を歪めて見せる。
聞えよがしに鼻から噴き出して嗤ってみせる。
そのことにようやく反応を見せたのは西域牛頭人体族の少年ジャック。
真ん中で折れた直剣の切っ先を狐に突き付けて激昂する。
「だ、誰だおま・・」
「黙れ!!」
凄まじいばかりの一喝に、ジャックの舌が凍りつく。
ただでさえ静まり返っていた室内の空気が、さらなる緊張に包まれて硬質化。
今まで感じたことのないとてつもない圧迫感が室内にいる不良達に襲いかかる。
いてもたってもいられず、今すぐにでも逃げ出したい衝動にかられる。
じわりじわりとわきあがってくる不安が不良達の心を覆い尽くしていく。
原因はわかっていた。
目の前に立つ金色の獣が放つ不気味なオーラが彼らの心を締め付けているのだ。
「き、貴様、今朝のあの女・・」
なんとかその呪縛を打ち破ったカミオが、自分自身を奮い立たせる意味も含めて、懸命に言葉を口にしようとする。
だが、その途中、自分自身に向けられた狐の恐ろしいまでの怒りの視線をまともに直視してしまい、どうにか動かすことができていた舌は完全に凍りつき何もしゃべれなくなってしまう。
静寂が再びこの場を支配する。
そして、その静寂の中心に立つ狐が、ゆっくりと言葉を紡ぎ始める。
それは音楽。
美しい女性の声が紡ぎ出す、それは・・
紛れもない鎮魂歌であった。
「おまえ達に言っておく。今更反省をするな、謝罪をするな、そして、許しを乞うな。おまえらの上っ面だけの言葉など聴くだけで耳が穢れる。私がおまえ達屑どもに望むことはたったの一つ」
凄まじい殺意と闘志溢れる真紅の瞳が、その場にいる不良達全てを射抜いて呪縛する。
そして、黄金の獣は静かに怒りを爆発させる。
「今すぐ覚悟を決めろ」
小さな、ひどく小さな声。
これだけ静かな場所にあっても、ちょっと気が散れば聞き逃しそうな小さな声。
しかし、その場にたたずむ不良達全員その声をはっきりとその耳に聞いた。
聞きようによっては優しく穏やかな口調にも聞こえるその声。
だが、この場にいる全ての不良達は、一人の例外もなくそういう風には聞こえなかった。
彼らに聞こえたのは。
冷徹な死刑執行の宣告。
「私の大事な、大切な、かけがのない人に手を出したおまえ達は・・一人の、いいか、一人の例外もなく」
踏みだす。
憤怒の化身がその足を踏み出す。
決して触れてはならぬ、禁断の逆鱗。
決して傷つけてはならぬ、大事な宝物。
それに触れた者達に、それを傷つけた者達に・・
怒りの剣を振り下すために。
「狐に蹴られて地獄に堕ちろおおおおおっ!!」
今、ここに、
怒りの獣心降臨。