第三話 『狐の想い』
穏やかな風が窓からゆっくりと流れ込んでくるのを感じて、少年はふと窓のほうへと視線を向ける。眩しいというよりも明るいという程度の優しい光が差し込むその窓の向こうには、城砦都市『嶺斬泊』に存在している四つの高校の中でも最大の広さを誇る広大なグラウンドが見える。そこではたくさんの生徒達が思い思いの遊具を取り出してきてグラウンドのあちこちで遊んでいる。それぞれがそれぞれなりに昼休みの一時を楽しんでいる姿が見えた。
ほんのつい先程まであった激しい乱闘がなかったかのような平和さだ。
その様子をぼんやりと見つめていた少年は、なんともいえない吐息をもらして、かすかな笑みを浮かべて見せる。それは歳相応の少年らしい笑みではなかった。社会に出て様々な経験をしてきたいいも悪いもわかっている大人の笑みだった。
ほんの数分前まで、少年は窓の向こうに広がるグラウンドで、繰り広げられた喧嘩という大嵐の真っただ中に身を投じていたのだ。
大嵐を起こしたのは少年ではない。この学校でも最大の勢力を誇る、ある不良の集団だった。
喧嘩の理由は実にくだらないもので、ただ退屈を紛らわしたかったという実に身勝手なものだった。そればかりではない。少年が所属しているクラスには、平和主義で喧嘩をしない植物系の種族や、身体能力が極端に劣る小人系や小妖精系の種族の者達が多く在籍している。彼らを一方的に蹂躙し、その憂さを晴らそうというとんでもなく腐った考えで狙ってきたのだ。
少年にとってそれは絶対に許せない理由だった。少年もまた差別される側の種族として生まれ、そして、生まれてからそれほど長くない人生の間に、様々ないわれのない差別やいじめを受け続けてきたものとして、その痛みや苦しみを知る者として、絶対にそんなことをさせるわけにはいかなかった。
彼らが襲撃してきたとき、すぐに彼らの目的を悟った少年は、隠し持っていたありったけの『煙幕珠』を発動させてグラウンド全体を覆い隠した。そして、不良達が混乱している隙を見逃さず、少年が最も信頼している二人の友人と合流して、彼らに不良達が標的することになるであろうクラスメイト達を集めて避難させるように指示した。
二人の友人達は少年一人を残していくことを非常に嫌がったが、時間がないという少年の必死に説得についに折れ、その場にいた植物系や小人系、小妖精系のクラスメイト達をひきつれて安全な体育館へと脱出した。少年の策は見事に的中し、不良達の魔の手からクラスメイト達を無事避難させることに成功。
少年の英断のおかげで、避難したクラスメイト達はほとんど無傷、腕に自信があって残って不良達と戦ったクラスメイト達の中にもも怪我らしい怪我を負ったものはいなかった。かなり大きな喧嘩であったにも関わらず、一般生徒達の負傷者はほとんどいなかったのだ。
もし、そういう大きな負傷者が出ていたら、昼休みどころではない、都市を管理している都市警察が事件と認定して出張ってくるだろうし、負傷者を運ぶために救急念動車だって来ていただろう。大騒ぎになり、こんな平和な時間はなかったに違いない。
先程の少年の笑みは、目の前で繰り広げられている小さな平和の光景が崩れなくてよかったという・・そういう意味のものであった。
だが、全く被害がでなかったわけではない。ごく少数だが、結構な傷を負った者達もいた。ほとんどの者は、学校に在籍している腕のいい保険医の手で傷も残さず瞬く間に治療されたが、流石の名保険医もすぐには治療しきれないほど傷を負った者もいたのだ。
彼らを逃がすための時間を稼ぐために乱闘の真っ只中に残った少年自身だった。
この世界に存在している数百とも数千ともいわれるさまざまな『人』の種族の中にあって、なんの身体能力も、魔力も、霊力も、神通力も、精霊力も、際立った特別な能力を何一つもたない、自他共に認める最弱の種族、人間族として生まれてきた少年。
その人間族の少年が、自分よりもはるかに格上の種族ばかりで構成された不良集団と渡り合った。時間稼ぎのためで、まともに喧嘩をしたというわけではない。その持てる能力を駆使して撹乱し、戦場をかきまわし続ける戦法をとり続けたわけであるが、だからといって無傷で済むわけがない。相手は人間族などよりもはるかに強い剛腕を誇り、人間族などよりもはるかに素晴らしい敏捷性を備え、人間族などよりもはるかに頑健な鎧のような肉体を持っているのだ。そんな連中を相手にして重傷を負うことなく生き残ったという事実はとてつもなく凄い事である。
彼と同じ人間族の者が彼のやってのけたことを知れば、事の良し悪しはともかくとして、その生き残ったという事実に対しては誰もが素直に称賛していたであろう。
が、しかし、少年の表情は全く晴れなかった。
一番知られたくなかった『人』にこの事実を知られてしまい、一番心配をかけたくなかった『人』に心配させてしまったからだ。
「あ、あの、如月先生? まだ怒ってます?」
半ば現実逃避するようにグラウンドのほうに視線を向け続けていた少年だったが、自分の目の前に座り物凄く恨めしそうに少年を凝視し続けている狐獣人族の保険医の視線をこれ以上無視することができず、おずおずと前に顔を戻すと恐る恐る問いかける。
問いかけられたほうは、すぐには少年の問いかけに答えることなく、黙々と少年の腕に包帯を巻いたり、少年の傷だらけの顔に薬を塗ったりしていたが、やがて、あらかた少年の治療が終わると、雪のように白い獣毛に覆われた狐の顔をずいっと近づけてきて、くわっと耳まで裂けた口を開いて噛みつくように少年に吠えた。
「な・ま・え!!」
「あうあうあうあう・・いや、だって、誰が入ってくるかわかりませんし、名前で呼ぶのはちょっと」
「扉は鍵閉めてるから誰も入ってこないわよ!! だから、な・ま・え!!」
拗ねたような怒っているような、そんな複雑な表情で吠える女性の姿を、なんともいえない困り果てた表情で見つめていた少年だったが、やがて諦めたように深い溜息を吐き出す。
「じゃ、じゃあ、玉藻さん・・まだ怒ってます?」
「怒ってないわよ!!」
少年の問いかけに即答する白面の狐。しかし、どう聞いても怒っているようにしか聞こえない吠え声に少年は悲しそうに顔を俯かせると、上目づかいで目の前の狐を見つめる。
「怒ってるじゃないですか」
「怒ってないったら、怒ってない!! 連夜くん、しつこい!!」
「いや、でも、どう見ても怒っているようにしか見えな・・」
「もう!! 怒ってないったら、怒ってないの!!」
再び怒ったように吠えて見せた白面の狐だったが、今度はただ吠えて見せるだけでなく目の前の少年の腕をがっと掴む。そして、自分のほうに引き寄せてその小柄な体をぎゅっと力いっぱい抱きしめるのだった。少年はしばらく狐のされるがままにされていたが、ふと狐の大きな胸から顔をあげて狐の表情を伺ってみる。すると、そこには黄金の瞳に大粒の涙を浮かばせて今にも泣きだしそうになっている狐の顔が。
「た、玉藻さん、あの、その!!」
「ほら、本当に怒ってないのよ。ただね、あんまりにも連夜くんが傷だらけだから・・グラウンドで見たときは泥だらけでよく見えてなかったけど、泥を払ってみたら思った以上に大きな怪我が体中にいくつもあるし・・あなたに・・あなたに何かあったら・・もし、この怪我のどれかが原因であなたがどうかなったら・・いくら生徒達に怪我らしい怪我がなく、ほぼ無事に事が収まったからって、肝心な連夜くんに何かあっていたなら・・そう思ったら、素直に笑ってなんかいられないもの」
「玉藻さん」
目の前にいる自分の最愛の女性が、自分のことをいつも心配して気にかけてくれているのは知っていたが、少年の予想をはるかにこえて自分を想ってくれているのだと改めてわかり、少年は本当に心から後悔した表情で目の前の女性に頭を下げる。
「ごめんなさい、玉藻さん。僕は、玉藻さんの気持ちをわかっているつもりで全然わかっていませんでした。こんなに僕のことを大事に想ってくれているのに僕は・・」
「そうよ、連夜くん。連夜くんだって、私のこと想ってくれているでしょ? 連夜くんがどんな想いで私を慕ってくれているのか、私を愛してくれているのか、きっと私の予想よりももっと凄く大事に想ってくれているんだろうけど・・私だって、そうなのよ。私、この世の中で正直怖いものがほとんどないわ。自分よりも強い相手と対峙したときだって怖いと思ったことはないし、この世界最強の生き物である『害獣』だって怖くない、きっと私の育った環境が環境だったから、どこか壊れているっていうのもあるんだろうけど、そんな私でもたった一つだけはっきり怖いと思うことがあるわ」
そう言ってちょっと少年を抱きしめていた力をちょっと緩めて身体を離すと、狐は真っすぐに少年の顔を、いや、その黒い瞳を見つめた。
「あなたよ」
「僕? 僕が怖いんですか?」
「違うわ、あなたが・・あなたがいなくなることよ。私の目の前からいなくなってしまうこと、二度と眼を覚まさなくなること、二度と私の名前を呼んでくれなくなること、二度と私と同じ刻を過ごせなくなること。それを考えると身体の震えを止めることができなくなるの」
玉藻の言葉の意味がはっきりとは理解できず小首を傾げて見せる少年に、玉藻は自分の両手をかざしてみせる。少年は玉藻の促すままにそちらのほうに視線を向け直してみる。すると玉藻のかざした両手が、その言葉通りに小刻みに震えていることを確認して表情を強張らせる。
「た、玉藻さん、その手・・」
「ね。震えているでしょ? あなたが危険な目にあって傷だらけになった姿をみるたびにこうなるの。あなたと付き合うようになってから、もう何度もあなたの傷だらけの姿を目撃しているはずなんだけど・・一向になれないわ。多分、一生なれることはないと思う」
「そんなに・・そんなに玉藻さんを苦しめていたなんて・・」
事態の深刻さをようやく理解した少年は、愕然とした表情でがっくりと肩を落とす。そんな少年をしばらく黙って見つめていた玉藻だったが、再び少年の身体を引き寄せて抱きしめると、その傷だらけの顔を長い狐の舌でぺろぺろと舐める。
「ごめんね、あなたのしたことを責めたくて言ったわけじゃないの。本当はね、あなたが危険に身をさらすのは、いつも何か止むを得ない何かがあるからだってことはちゃんとわかってるの。でも、やっぱりなれなくて、怖くて」
「玉藻さん、僕はもう今度こそ本当に危険なことをするのはやめ・・」
「ううん、そうじゃないの。ごめんね、勝手なことばかり言ってしまって。本当はね、ちゃんとわかってるんだ。今、私が口にしていることは八つ当たり以外の何物でもないって。あなたが今口にしようとしたことを本当に約束してくれたらあなたはきっと今度こそ危険なことから全て目をそらすようにしてくれるでしょう、ちょっとでも自分の命に関わる可能性があることには近づかないようにしてくれるでしょう。現にあなたはあのときの約束をちゃんと覚えてくれていて、あの『アルカディア』事件の後・・私達が正式に婚約してからは自分から危険に飛び込むような真似は極力しないようにしてくれていた。どうしても仕方ない時にはあなたの頼りになるお友達を頼ってなんとかしたり、あるいは別の方法を必死に模索して解決していたことも。わかってたわ、本当はあなたがお友達を矢面に立たせるのが嫌で嫌でしょうがなくて、傷つけたくなくて、でも、私との約束があるから自分が矢面に立つことができなくて、それでずっと悩んでいたことは」
玉藻の声音になんとも言えない複雑な感情が入り混じっていることを感じた連夜は、そっと身体を離して玉藻の瞳の奥に宿る光を真っすぐに覗きこんでその本心を知ろうとする。そんな連夜の吸い込まれそうな美しい黒い瞳に一瞬見惚れた後、玉藻は咳払いを一つして再び真面目な表情になると、今度は連夜の瞳に魅了されたりせず、その黒い瞳を真っすぐに見つめ返して真摯に言葉を紡いでいく。
「だけどね。あなたを苦しめたいと思ってるわけじゃないの。そりゃあ、危険を極力避けてはほしいけど・・だけど、ずっと逃げっぱなしでいるなんて、汚いものや危険なことから目をそらし続けるなんてあなたにできるわけないもの。がんじがらめにあなたを縛りつけてどこか遠くの誰も知らない安全なところに連れて逃げたっていいんだけど、そうもいかないでしょ?」
「玉藻さんが行く場所なら、どこにでもついていきますけどね」
「ありがと。その気持ちもちゃんとわかってるけど、でもね、本来のあなた自身を殺したくもないの。私の色で全部あなたを塗りつぶしてしまいたいけど、それは私の好きな『宿難 連夜』じゃないから。だからね・・だからね、連夜くんはそのままでいてもいいわ。ううん、そのままのあなたでいて。まあ、私のことだから、あなたが傷だらけになったのを見たら、また癇癪を爆発させちゃうだろうけど、でもね、やっぱり今のままでいいわ。今のままがいい。その代わり、これからは私も遠慮しない。あなたが首を突っ込むことに、私もガンガン首を突っ込んでいくから。そのために私はこの保険医の仕事を引き受けたの。できるだけあなたの側にいるために。側にいることさえできれば、今日みたいなことがあっても、私が守ることができるから。絶対絶対、あなたを守るから」
そう言って玉藻は再び連夜の身体を引き寄せると、連夜が苦しくならないように加減しながらもぎゅ~~っと抱きしめる。そして、また顔を近づけると、連夜の顔のあちこちに点在している傷の一つ一つを丁寧に舐めてやりながら、玉藻は強い意志のこもった瞳で連夜のことを見つめ続ける。そんな玉藻の暖かい想いのこもった言葉を聞いていた連夜は、今にも泣き出しそうな笑顔を作って玉藻の顔を見つめる。
「玉藻さんにそこまで想っていただけるようなモノじゃないんですけどね、僕は」
「それを決めるのはあなたじゃないわ。それを決めることができるのは私だけ。私があなたを大事に想う気持ちは、誰にも否定させない。例えあなたにだってね」
潤んだ瞳を見られないように目を閉じた玉藻は、その鼻面を連夜の顔に押し付けてすんすんと甘えるように鼻をならす。そんな玉藻の身体を強く抱き締め返した連夜は、玉藻の気持ちに応えるように自分の傷だらけの顔を玉藻の白い狐の顔にすりよせる。
そうやってしばらくの間、一つに重なっていた玉藻と連夜だったが、やがて、どちらともなく身体を離し似たような穏やかで柔らかい笑顔を浮かべてお互いを見つめるのだった。
「みんなに知られるわけにはいかないから、いつもどきどきはらはらしているんですけど、でも、やっぱり玉藻さんが同じ場所にいてくれるっていいですね」
「あら、今頃気がついたの? 私なんか、現役高校生としての学校での連夜くんの姿をいつも見られるから、いっつもどきどきしてるのに。まあ、今日のあの乱闘は別の意味でどきどきしたけど・・あいつら、せっかく連夜くんが体育している姿を生で鑑賞できるチャンスをぶち壊してくれて、もっとシメてやればよかった」
「え、玉藻さん、最初はともかく、後のほうはなんて言ったんですか? 小声でよく聞こえなかったんですけど?」
「ううん、何にも言ってないわよ」
慌てて言い繕う玉藻をきょとんとした表情で見返す連夜だったが、それ以上は言及したりせず、その代りに別のことを尋ねる。
「そういえば、あの不良グループ結局どうなったんですか? あの後玉藻さんにやっつけられて全員しばらくグラウンドにのびていましたけど、その後戻ってきてみたら、全員きれいにいなくなっていたし。生徒指導室に連れて行かれたんですかね?」
「まさか~」
「ああ、逃がしてあげたんですね」
「そんなわけないでしょ。私の・・いい、私のモノである連夜くんに手を出しておいて、生徒指導室でお説教くらっておしまいなんて、そんな生易しい罰で終わらせるなんて絶対ありえないし、あってはいけないのよ」
「え・・ちょ、ちょっと待ってください・・じゃ、じゃあ、いったい彼らはどこに・・あ!! そう言えば、さっき学校の外に中央庁の特殊中型車両が何台も止まってましたけど・・ま、まさかあっ!?」
連夜の脳裏に物凄く悪い予想が閃いて弾け、まさか、そんなはずはないと思いながら、僕の予想よ外れていてくれと願いながら目の前に座る最愛の女性に視線を向けた連夜。しかし、無情にも最愛の恋人は、連夜の予想を肯定するといわんばかりに、背筋が凍りそうな恐ろしくも邪悪な笑みを浮かべてみせる。
「う、うそですよね? 玉藻さん、そんなわけないですよね? ね! ね!?」
「お義母さまに、今日のこと密告しちゃった。てへっ」
「ええええええええええええええっ!!」
かわいらしくこつんと自分の頭をげんこつでおさえ、魅力的なウインクをしながら舌をペロッと出して見せる玉藻。しかし、玉藻の言葉の意味を完全に理解した連夜は、玉藻のかわいらしい姿に見とれているどころではなく、思わず驚愕に満ちた絶叫を放ってしまうのだった。
「だってだって、あんまりにも腹が立ってしまったんだもん、私の連夜くんを傷つけるような奴らは、一回本物の地獄を見ればいいんだわ。ぷんぷん」
「いやあの、ぷんぷんじゃなくてですね。ああああ、な、なんてことだ、ね、念話・・僕の携帯念話はどこだ・・ああ、しまった教室に忘れてきた!! い、急いでお母さんに連絡してやめさせないと、とんでもないことに!!」
「念話しても無駄よ、連夜くん。あのね、お義母さまからご伝言を承っているの」
「で、伝言?」
「そそ、あのね、『レンちゃん、心配しなくても大丈夫よ。この子達はちゃんとお母さんが預かるから。ちょうどよかったのよねえ。この子達運動不足で困ってるみたいだし、ちょっとお母さんのお仕事手伝ってもらおうと思って。『外区』に連れて行って楽しく『害獣』と遊んでくるから。そういうことで、お母さんとお父さんは二、三日『外区』にお出かけしてきます。携帯念話は圏外になってるはずだから、つながらなくても慌てないでね。じゃあ、お留守番よろしくね』ですって」
「な、な、な、そ、『外区』だってええええええっ!?」
母親からの伝言内容を聞いた連夜は、顔を真っ青にして思わずその場にへたりこむ。そして、それとは対照的に目の前の玉藻は、とんでもなく邪悪な笑みを浮かべて、まるで悪の大ボスのような含み笑いを浮かべ続けるのだった。
連夜の母親は、この都市のあらゆる公的事業を一手に握る統合行政機関『中央庁』の御偉いさんである。それはもう、トップではないものの、トップに近い役職についていて、それなりに権力を持っている。権力ばかりではない、その人望もまた物凄く厚く、政治、経済、芸能、あらゆる方面に極太の人脈を持ち顔が利くわけだが、なかでも特に顔が利くのが軍事関係である。恐らく母親の手のものに拉致された不良グループの面々は、命がけで大暴れしなければ生き残れないようなところに連れていかれたに違いない。
まあ、あの母親のことであるから、全員無事に帰しはするだろうが、拉致されている間、彼らはとんでもない地獄を見せつけられることになるのはまず間違いない。
「心配ないわよ。だって、連夜くんに耐えられたものが、あいつらに耐えられないわけないじゃない。お義母さまやお義父さまから聞いて知ってるのよ。小さい時、お二人についてよく『外区』のいろいろなところを冒険したってこと。大変だったみたいね。でもね、今よりもずっと小さい連夜くんにできたことでしょ? それだったらあいつらにできないわけないじゃない。人間族より優れているって自ら豪語していたんだもの。だったら見せてもらおうじゃないの、ねえ。それだけ優秀なんだから、余裕余裕」
「た、玉藻さん、あのとき、あいつらが口にしていたこと全部聞いていらっしゃったんですか?」
「うん、全部聞いてた」
「って、まさか、あの言葉をお母さんに!?」
「勿論、まるっと全部オールえぶりしんぐ伝言しておきました!!」
物凄くいい笑顔を浮かべた玉藻は、ビシッとサムズアップして連夜に応える。そんな玉藻を見て連夜は思わず頭を抱えてしまう。息子を溺愛しいる母親にとって、息子をバカにされたり、傷つけられたりすることはなによりも許せないことであるが、更にそれ以上に激怒させることがある。それは息子がいわれない差別にさらされることである。
もし、その事実があの母親の耳に本当に入っているのだとしたら・・
「お、お母さん、お願いだから、『人』死にだけは出さないでね、お願い!!」
「大丈夫、大丈夫、手足の二、三本もげても、いまの『療術』の技術は発達してるから、すぐつながるわよ。首がもげたらだめだけど」
「た、玉藻さん、なんてことを!!」
はるか遠くにいるであろう母親に必死に祈りを捧げる連夜に、玉藻はにゃははとお気楽な感じでとんでもないことを口にする。しかし、目の前の恋人が本気で涙目になってるのを見ると、流石に悪のりが過ぎたと感じたのか、近寄ってそっと冷たい床から立ち上がらせると、きゅっとその身体を優しく抱きしめる。
「大丈夫よ、連夜くん。あのお義母さまが無事に帰すって約束したんだから、絶対無事に帰ってくるわよ。まあ、かなり怒っていらっしゃったけど、目の色はかなり冷静だったし、なによりも今日は側にお義父さまがいらっしゃったから、無茶なことはしないはずよ」
「お、お父さんが一緒にいたんですか? それを早く言ってください!! あ~、よかった。それなら安心だ」
玉藻が口にしたある重要なキーワードを聞いた連夜は、たちまちほっとした表情になると、玉藻の腕の中で安心したように肩の力を抜く。母親の永遠のパートナーである連夜の父親は、恐ろしい暴れ馬である母親を完璧に操縦することができる名騎手だった。文字どおり都市の中枢で働いている母親とは対照的に、城砦都市『嶺斬泊』の外壁のすぐ外側に畑を作って農業を営んでいる父親は、いつもなら仕事が終わる夜にならないと母親と一緒にいることはない。しかし、今日は珍しく一緒にいてくれていたようで、本当に不幸中の幸いというしかない。
恐らく連夜が尊敬してやまない父親なら、母親を暴走させることなく穏便にことを済ませてくれるであろう。
そう予想した連夜はほっと胸をなでおろしたが、そんな姿を見た玉藻は、なんとも複雑そうな表情を浮かべる。
「ちっ、お義父さまが一緒にいらっしゃるとわかっていたら、もうちょっと痛めつけてやったのに。せめて腕の一本か、二本、へし折っておけばよかったわ」
「え、玉藻さん、いま、何かおっしゃいました?」
「ううん、乱闘のときの連夜くんかっこよくてどきどきしたわって言ったの」
「や、やめてくださいよ。自分でもみっともない姿だったなあって自覚しているんですから。それに僕なんかよりも玉藻さんのほうがずっとずっとかっこよかったですよ。まるで一流のバレリーナみたいに芸術的で奇麗でした」
華麗な足技を変幻自在に使いこなし、まるで空中を舞い踊るように戦っていた玉藻の姿を思い出した連夜、うっとりした表情でつぶやく。そんな連夜の言葉を聞いて、玉藻は白い顔を一瞬で真っ赤に染め上げると、にゃ~~っと叫びながら照れ隠し気味に片手でバシバシと連夜を叩く。
「な、何言ってるの、何言ってるの、連夜くんったら、もう!! 年上をからかって!!」
「いたたたっ、痛いです、玉藻さん!! って、別にからかってないですよ、いつも玉藻さんは奇麗だけど、戦ってる玉藻さんも奇麗なんです」
「そ、そう? 本当に? わ、私、奇麗?」
「はい!! 玉藻さんは僕が知る限りの女性の中で一番美人です!!」
「そ、そっかあ。えへへ、一番奇麗なのかあ」
きっぱりはっきり断言してくれる最愛の恋人からの最上の褒め言葉に、玉藻はいやんいやんと身体をくねらせていたが、またもや連夜の身体を抱き寄せると、今度は牙をたてないように、連夜の顔や首筋をかぷかぷと甘噛みしはじめる。
「ほんとに連夜くんはお世辞が上手なんだから。もうなんて、かわいいんだろう。こうしてやる!! こうしてやる!!」
「ちょ、ま、た、玉藻さん、タンマ、タンマ!! や、やめてください!! 噛んだあとはキスマークよりも強烈にあとに残るんですよ!? まだ午後の授業残っているっていうのに、こんな顔で教室にもどったら大変なことになりますってば!!」
「ああ、それなら大丈夫。担任のティターニア先輩に、連夜くん重傷だから午後の授業は保健室で休ませますって言っておいたし」
「な、な、なんですってええええええっ!!」
慌てふためいて身体を離させようとする連夜をがっちりと抱きしめたまま、玉藻はとんでもないことを口にする。
「だから~、重傷の連夜くんは~、今日は帰宅時間までここにいてくださいね」
「マジですか?」
「マジです」
きっと冗談だろうなあ、いや冗談に違いない、というか、お願いだから冗談といって!! という一縷の希望を持って玉藻の瞳を覗き込む連夜だったが、その欄々と金色に光る瞳の中に冗談の欠片も見出すことができず、連夜は全て真実であることを悟りがっくりと肩を落とす。
そんな連夜の今の気持ちが手に取るようにわかった玉藻は、益々その行為をエスカレートさせていき、甘噛みだけでなく、連夜の口を直接なめたり、耳の中に舌をいれてみたりとやりたい放題。
「あっ、もうっ!! 玉藻さん、やめ、あ、ああっ!!」
自分の腕の中で顔を赤らめて切なげな声を出す連夜の姿を見ていた玉藻の瞳に、だんだん妖しい光が宿りだす。
「連夜くん、あの・・あのね」
「なんですか玉藻さん? というか、いい加減にしてくださいってば!!」
連夜の小柄な体をがっちりとホールドして首筋をちろちろとなめたり噛んだりを繰り返しながら、玉藻はいつにない艶っぽい声で連夜に呼びかける。しかし、平時ならばともかく、すっかりおもちゃにされていてそれどころではない連夜はそれに気がつかず、じたばたしながら玉藻の問いかけに応じる。
「ここって、保健室なの」
「ええ、よく知ってますよ・・って、くすぐったいです、玉藻さん!!」
「保健室にはベッドがあるの」
「ありますね、目の前にあるから、わかりますけど・・ちょっと、本当にいい加減にしてくださいってば、ああん、もう!!」
「私ね、今発情期なの」
「ああ、そう言えば、そうでした・・ね・・」
「・・」
「・・」
見つめあう二人の男女。しかし、お互いを見るその目に宿る意味は全く違っていた。それは愛し合いお互いを慈しみあうカップルのそれではない。今まさに獲物に襲いかかろうとする肉食獣のそれと、今まさに天敵である肉食獣に襲いかかられようとしている草食動物のそれ。
二人はしばし、それぞれの想いで互いを見つめあい、そして・・
「連夜くんを食べていい?」
「ダメダメダメダメダメダメ~~~~ッ!! 絶対にだめ~~~っ!!」
可愛らしく小首を傾げて、しかし、全然目は笑っていない状態で聞いてくる玉藻に対し、連夜は全力で首を横に振ってみせる。
「なんでなんで!? 連夜くん、以前私にこう言ってくれたよね? 『玉藻さんが、もし伝説の悪狐になって暴走して僕を食らうことになっても、僕は後悔しません』って言ってくれたよね? あれはウソだったの?」
「そんな潤んだ瞳で僕を見てもダメです!! だいたい意味が全然違うじゃないですか!! そのとき僕が言った意味は僕の命や魂そのものを食べてもいいってことで、今回のこれとは全然全くこれぽっちも同じじゃないじゃないですか!!」」
「違わないわよ、同じよ!!」
「じゃあ、十八歳未満の方はお断りなやらしいことはしないんですね?」
「するわよ!! 私の思いつく限りのやらしいことを全力で行うことを誓っちゃうわよ!!」
「ダメじゃん!! ってか、そんなこと誓わないでください!! 何考えているんですか!?」
「何考えてるって・・そんなこと決まってるじゃない、大っぴらに言えないやらしいことに決まってるでしょ!! 連夜くんを生まれたままの姿にして・・」
~しばらくお待ちください~
「・・で、最後に赤ちゃんができちゃったとしても、私は後悔しない、するもんですか、むしろ、ばっちこいよ!! って、連夜くん、何で床に突っ伏しているの?」
玉藻の口から飛び出した数々の十八歳未満お断りな単語の数々に、思わず床に突っ伏して悶絶しそうになる連夜。しかし、なんとか意識を手放すことなく復活を果たした連夜は、不思議そうに小首をかしげている玉藻の両肩をがしっと掴むと、これ以上ないくらいくそ真面目な表情で絶叫する。
「じょ、女性が、仮にも『人』より圧倒的に美『人』な玉藻さんがよりによって、(該当部分において不穏当な言語が流れていますので、削除させていただきます(作者))とか、言うなんて!! ダメです、そんな単語口にしちゃダメ!! 禁止、絶対禁止です!!」
「なんでなんでなんで!? れ、連夜くん、ひょっとして本当は私のことキライなの? 一昨日の日曜日、久しぶりに私のことを抱いてくれたと思ったら、たったの二か・・」
「うわあああああああっ!! ちょ、ちょっと、玉藻さん、なんてことを口にしているんですか!? ダメです!! 学校でそういう話はタブーです、禁止です、口外無用です!!」
「やっぱり、やっぱり、私のことなんか愛してないんだあああああっ!!」
『人』には絶対に聞かせられないようなプライベートな内容をぼろぼろと口にする玉藻に、怒ったような表情で詰め寄る連夜だったが、そんな連夜の姿を見た玉藻は連夜に背を向けると近くにあったベッドに突っ伏して泣き始める。
「ど、どうしてそうなるんですか!?」
「だってだって、連夜くんが、私のことを拒絶するから・・」
「拒絶するからって、当り前です!! 学校でそういうことするのはダメでしょ!!」
「何言ってるの!? エロ漫画では、保健室で生徒と先生がそういうことするのは当然で常識のシチュエーションよ!!」
「エロ漫画では当然で常識でも、現実では当然じゃありませんし非常識です!! ってか、そんなエロ漫画読まないでください!!」
「だって、ミネルヴァが読んで勉強しておかないといざというとき困るからって・・」
「犯人はみ~ちゃんかあああっ!! なんで、そういういらんことばっかり玉藻さんに教えるんだ、あの姉は!?」
玉藻に偏った知識を植え付けた張本人が、玉藻の大親友であり連夜の実の姉であることを知って思わず頭を抱えてしまう連夜。こんな事態を招くような余計な知識を最愛の恋人に植え付けた姉は、帰ってからみっしり説教するとして、とりあえずこの場をどう凌ぐかと、痛む頭を押さえながら立ち上がった連夜だったが、ふと視線を恋人のほうに向け直してみると、いつの間にか狐の顔から、人の顔になっているではないか。
「ちょ、玉藻さん、本当にまずいですから!! 学校の外ならいくらでも『人』の姿になってもらっていいですけど、学校の中ではマズイです!! 現にさっきの乱闘で一部の生徒にその顔を見られていますし、流石に乱闘の時の美人戦士と、学校の狐の保険医さんが同一人物だってすぐには気がつかないでしょうけど・・誰かにみられたら本当にマズイですってば!!」
「き、狐の姿だから愛してくれないんでしょう? だったら、もう狐の姿にならないもん。人の姿のままでいるもん」
「そんなこと一言も言ってませんてば!! どんな姿の玉藻さんだって愛していますよ。知ってるでしょう?」
「だってだって・・」
すんすんと鼻を鳴らして泣き続ける玉藻の姿を見た連夜は、流石にかわいそうになりゆっくりと近づいてベッドに突っ伏す玉藻の背中から優しく抱きしめる。
「本当に本当に愛していますよ。どんな姿の玉藻さんだって、大好きなんですから」
「ぐすんぐすん・・本当に?」
「本当ですってば」
「ぐすんぐすん・・どんな姿でも、どんなことをしても許してくれる?」
「当り前じゃないですか、たとえどんな姿になろうとも、たとえどんなことをされようとも、僕は玉藻さんのことを愛し続け・・あれ? 今、『どんなことをしても許してくれる?』って言いました?」
真摯な気持ちで玉藻の問いかけに応えようとした連夜だったが、今の問い掛けの中に無視できない文章があったことに気がつき、背中を向けている玉藻の顔を覗き込むようにして問い返す。するとその声に応えるように、玉藻はゆっくりと連夜のほうへと振り返った。
そこには、獲物をまんまと捕まえて、今にも大きな口を開けて食らわんとしている肉食獣の笑みが。
「つ~か~ま~え~た~~」
「ぎゃ、ぎゃああああ、し、しまったああああああっ!!」