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真・こことは違うどこかの日常  作者: カブト
過去(高校二年生編)
23/199

第二話 『狐と鴉』 その5

 相変わらず見事なまでにボロボロの黒装束で全身を覆い隠し、いつもと変わらぬ穏やかで飄々としたオーラを発しながら自分の目の前に立つ小柄な『人』影を玉藻は見詰める。

 全身見えている箇所はほとんど黒一色、ぶかぶかのコートと白い仮面のせいで年齢も性別も顔も名前も体型もわからない、そればかりか住んでいる場所も知らず、いつもどこからやってきていつもどこへと帰って行くのかもわからない。玉藻に関わってくるその本当の理由もわからず、なぜ代償を求めることなく玉藻を手助けしてくれるのかということも当然わからない。

 わからないことだらけ、知らないことだらけの全てが謎の怪『人』。

 なのにどうしてこうして再会できたことがこんなにも嬉しく感じてしまうのか、どうして自分の胸を打つのかわからない。

 そんな玉藻の複雑な胸中を知ってか知らずか、久しぶりに玉藻の前に現れた怪『人』は、いつにもましてハイテンションでウキウキした様子で、『よっ、久しぶり、元気!?』みたいな感じで玉藻に片手をぶんぶん振ってみせてくる。

 愛想を尽かされたのではないか、自分のことが嫌いになったのではないかと真剣に悩んだ自分がバカバカしく思えるくらいにいつも通りのフレンドリーな態度。八つ当たりとわかっていながらもついつい恨めしそうな表情になって目の前の怪『人』を見つめていると、怪『人』はそんな玉藻の様子に気がつき、慌てて近寄ってきて心配そうに顔を覗きこんでくる。

 玉藻はその後もしばし同じように恨めしそうに怪『人』を見つめていたが、やがてふっとその表情を和らげる。


「大丈夫よ。確かにちょっと今日は体調がそれほどよくないけど、そういうのじゃないのよ。ただの八つ当たりだから気にしないで」


 ところが、そんな玉藻の言葉を聞いても怪『人』はすぐに納得した様子を見せず、『本当に? 本当に大丈夫?』という風に玉藻の身体の隅々に顔を向けて玉藻の身体に異常がないか調べようとする。


「大丈夫だってば。私だってブエル師匠の弟子の一人、『療術師』のはしくれよ。自分の体調管理くらいちゃんとしてるわよ。 え? 今までもそう言って何度も身体を壊しているって? わ、悪かったわね、こ、今度は本当に大丈夫なんだから」


 『本当かな~? 信じられないな~』という風に両腕を組んで真っすぐに玉藻の顔のほうに視線を向けてくる怪『人』に玉藻は不貞腐れた表情を浮かべて見せ、二人はしばし睨みあう。しかし、そんな状態は長くは続かず、二人は互いの顔を見つめたまま噴き出してしまい、何の拘りもなくただただ笑い続ける。そこにあるのはいつもの二人の空気。一カ月顔を会わせない日が続いたが、二人の間に流れる空気は何も変わってはいなかった。

 それを肌で感じた玉藻は心の底からほっとしている自分に気がつく。いや、肌で感じるだけではない、今、目に見えているもの、今、耳に聞こえてくるもの全てが日々の暮らしの中であるものと同じようで違うような気もするのだ。ここだけにある何か、ここだけで感じることができる小さいけど自分にはとても大きな何かが自分を包みこんでくれている気がする。

 玉藻はそれをもっと感じていたくてそれらの空気を作り出しているものに無意識に手を伸ばす。

 それは自分の目の前に立つ何かで、玉藻はその何かの黒いボロボロのコートから出ている小さな手を掴みとる。黒い革の指抜き手袋に包まれた自分よりも小さな手、女性というには固い、しかし、男性というにはあまりにも優しさにあふれた温かいその手をそっと自分の両手で包みこむ。


「今までどうしていたの? 一カ月近く会えなかったけど」


 身体を屈みこみ、フードに包まれた白い仮面をじっと覗きこむと、怪『人』は心底困ったようにおろおろとその顔をあちこちに向ける。


「あ、ごめん。別に責めているわけじゃないの。いろいろとあなたに世話になっている私が、言えることじゃないよね。でも、ちょっと、気になってね」


 包み込んだ怪『人』の小さな手に視線を落とし、その温かみを感じながら自嘲気味な笑みを浮かべて見せる玉藻。そんな玉藻の様子を見ていた怪『人』は本当に心配そうな様子を見せると、そっと片手を玉藻の両手から抜き取ってその額にあてる。


「ね、熱なんかないわよ。失礼ね。確かに私は他『人』に対して無関心なところがある。ううん、どっちかというとほとんどの他『人』に興味がないわ。でも、特別な『人』がいないわけじゃないのよ」


 ちょっと怒ったように玉藻が見つめると、怪『人』は『わかってる』という風に深く頷いてみせ、その後『不躾な真似をして本当に申し訳ない』とばかりにぺこりと頭を下げる。


「や、やめてよ、そういうつもりじゃないんだったら。あ~、もう本当になんかやりにくいなあ、そうじゃなくて、また会えて嬉しいことなの!!」


 顔を真っ赤に染めながら慌てて怪『人』の頭を上げさせると、怪『人』は心底吃驚した様子でしばらく固まっていたが、やがて、玉藻のほうにちらちらと自分の顔を向けたり逸らしたりを繰り返しながらやたらもじもじし始める。しばらくその行動の意味がわからずぽかんとしていた玉藻であったが、どうやら怪『人』が照れているのだとわかると、なんだか物凄く嬉しくなってしまい、思わずその小柄な体を引き寄せてぎゅっと抱きしめてしまう。 


「!?」


「あなたって、本当にときどき妙にかわいいわよね。あなた、女の子なの? にしては身体つきが若干固い気がするし。あ、ごめん、本当に女の子だったら失礼なこと言ってるわよね、わたし」


 抱き締めた怪『人』の身体にぺたぺたとその手を這わせてその感触を確認する玉藻。すると怪『人』はわたわたと大いに慌てて両手をぶんぶんと振り回してみせるが、邪険に玉藻を振りほどこうとはしなかった。そして、しばらくの間、玉藻の好きなようにさせ、やがて落ち着いてくると片手を玉藻の背中に優しくまわし、ぽんぽんと叩いてみせる。

 そうして抱きしめ返してもらうことで更に落ち着いた気持ちになった玉藻は、若干の未練はあったものの怪『人』の身体からその腕を離し、もう一度その白塗りに東方文字の刻まれた仮面を見つめる。

 達筆な筆跡で『(たたり)』の一文字。

 不吉極まりない文字であるが、この文字を背負って立つ目の前の『人』物からこの意味合いに相当するようなことをされたことは一度たりともない。むしろ玉藻がいつももらっているのは『(たたり)』ではなく、間違いなく『(ふく)』のほうである。何故目の前の『人』物が己を指し示す文字としてそれを選んだのかはわからない。しかし、玉藻にとって目の前の『人』物は『(たたり)』を下すべく不気味な闇夜を飛ぶ怪鳥ではなく、『(ふく)』をもたらし優しい夜空を駆け巡る聖鴉だった。

 それは玉藻の中で絶対に間違いえようにない事実。だが、それは玉藻の中の事実であり、他『人』にとってのイコールではない。

 いつになく安らいだ気持ちで目の前の怪『人』を見つめていた玉藻であったが、ふと怪『人』の片手がせわしなく動いていることに気がついた。何やら片手をボロボロのコートの中に突っ込み、中から小さな珠をいくつも取り出しては親指で弾いて自分達の周辺にさりげなくばらまいている。

 いったいなんの(まじな)いだと思って不審そうな表情を浮かべた玉藻だったが、すぐにその表情が引き攣る。西域黒虎獣人(ノーブルノワール)族の巨漢二人と、魔族の少年が怪『人』の背後にいつのまにか肉薄していたからだ。

 久しぶりの怪『人』との再会で舞い上がってしまい、今自分が戦闘状態にあったことを完全に失念してしまっていたのだ。玉藻はすぐに怪『人』をかばって三人組を迎撃しようとするが、自身が武術の達人であるが故に今から動いても最早間に合わない距離であることを悟って絶望の声をあげる。


「や、やめてえぇぇぇぇぇっ!!」


「伝説の怪『人』と言えど、所詮この程度ですか!? 無様に沈め『祟鴉(たたりかがらす)』ぅぅぅぅっ!!」


 凶気の叫びと共に迫りくる二本の刃と二つの拳。怪『人』にとって完全な死角、今更振り返って防御の構えを取るには遅すぎ、飛びすさってかわすには三方向全て塞がれていて飛び退くスペースもない。絶対絶命の大ピンチ。

 だが、仮面の怪『人』慌てることなく自身の片腕を真っすぐに伸ばし二本の指を立てて何かの印を斬る仕草を取った。


『勅令!! 【散布】』


 バシュッと周囲で何かが弾ける音が次々と連続で響き渡る。そして、その直後、怪『人』の背後から必殺の一撃を叩きこもうとしていた三つの『人』影が、なんとも滑稽な姿で一斉に宙を舞う。


「な、なんだとおおおっ!?」


 くるりと空中でそれぞれ一回転した彼らは見事に後頭部から地面に着地し、激痛が走る頭を抑えて地面の上を転がりまわる。周囲を固めて事態を見守っていた不良達は、自分達のリーダーがどうしてそうなってしまったのかわからず、ぽかんと口をあけて無様に地面に沈み転げまわるリーダー達の姿を見つめるばかり。

 いや、不良達ばかりではない、すぐ間近で事態を見つめていた玉藻ですら一瞬何が起こったのかがわからずしばし呆気に取られていたのであるが、すぐに自分の周囲からやたらいい匂いがしていることに気がついて表情を引き締める。そして、素早く周囲に視線を走らせると自分と怪『人』が立っている以外の場所が、すべて何かの液体でびっしょりと覆われていることに気がついた。

 玉藻はその場にしゃがみこみ、すぐ手近の地面に手を伸ばしそこにある液体をそっと触れて感触を確かめ、次いで濡れた指先をくんくんと匂う。そして、その指先にある液体の正体がわかると、愕然とした表情を浮かべて怪『人』のほうへと振り返る。


「こ、これってローション? ひょっとしてさっきばらまいていた『珠』って、このローションをばらまくための・・」


 玉藻の言葉を聞いた怪『人』は、『大正解』と言うように親指を立てた拳を玉藻のほうにぐっと突き出してみせる。そう、襲いかかってきた三人組は最後の踏み込みの瞬間、ローションの中に思いきり足を踏みこんでしまい、力一杯滑って転ぶことになってしまったのだ。最初ローションは『珠』の中に収容されていて周囲は普通の地面であった。それゆえに不良三人組はなんの警戒も抱かぬままに怪『人』へと襲いかかったわけだが、それを完全に見透かしていた怪『人』が、絶対に避けることができない、気がついてもどうすることもできない絶妙なタイミングで『珠』の中のローションを解放したため、必殺の威力を生み出すための踏み込みの足力そのものをローションによって受け流されてしまい、見事に宙を舞うことになってしまったというわけである。


「あんたたちさあ、最初の時点で素直に私にやられるか、この子と私がしゃべってる間に逃げたほうがよかったのにね」


 未だに激痛がとれないのか地面の上をごろごろと転がり続けている不良達を見つめた玉藻は、なんとも言えない呆れ果てたとも憐れんでいるともとれる表情を浮かべて呟く。自分達の豪力そのものをそっくりそのままローションで跳ね返され、地面という絶対防御壁に叩きつけられたのであるから、その痛みは半端なものではない。むしろ気絶しなかった彼らの根性を褒めてあげるべきかしらなどと、のんきに考えこんでいると、玉藻の側に立っている怪『人』が不意にびくっと身体を震わせた。新手の敵がまた現れたのかと思いバッと武術の構えで周囲を見渡す玉藻だったが、周囲にいるのは未だに呆気にとられて立っているだけの不良集団ばかり。不審に思って怪『人』のほうに視線を向けてみると怪『人』は、自分の腕にはめているごつい腕時計を見てぷるぷると震えているではないか。  

 

「え、え、何? 時計がどうしたの?」


 困惑した玉藻が怪『人』に話しかけると、怪『人』は自分の腕時計を玉藻に見せながら焦ったように指先を時計へと向け続ける。  

 

「時間がないとか、時間が迫っているとか、そういうこと?」


 玉藻が自信なさそうにそう呟くと、怪『人』は『それだ!!』とばかりに激しく頷いてみせ、次いで何か机に向かうような姿勢を作って、ペンを走らせるようなジェスチャーをしてみせる。


「試験? 試験があるの? あなたに?」


 すると怪『人』は『違う違う!!』と首と片手を振って見せ、指先を玉藻へと向ける。


「わ、私? 私には試験なんてないわよ!!」


 慌てて玉藻も首を横に振って見せるが、怪『人』は玉藻の横に近づくと、玉藻の横に人のシルエットを描くように両手を描いて見せる。玉藻と同じくらいの身長、胸は玉藻よりも小さい、足は長い、髪の毛短い、そして、やたら賑やかそうに騒ぐジェスチャー。

 しばし怪『人』が指し示す人物について小首をかしげて考え込んでいた玉藻だったが、すぐに思いあたってぽんと拳を自分の掌に軽く叩きつける。


「ミネルヴァかしら、ミネルヴァだと思うんだけ・・あああああっ!! そ、そうか、そう言えば今日はミネルヴァの追試の付添だった!!」


 自分が今日何をしに『サードテンプル』に出てきたのかをようやく思い出した玉藻が絶叫をあげると、怪『人』は『それそれ!! 大正解!!』と言わんばかりに指先をぶんぶんと振り回し、次いでぱちぱちと拍手してみせる。


「いやあ、よかった思い出して。ってそんなこと言ってる場合じゃない、そろそろ約束の待ち合わせの時間じゃない!! あいつ自分が相手を待たせたときは軽く謝って終わりにするくせに、自分が待たせられるのは大嫌いですっごい根に持つっていう超我がまま女だからなあ。急がないといけないんだけど、それはそれとして、なんであなたがそんなこと知ってるの!? どういうこと? あなたミネルヴァの知り合いなの? え、『とりあえず、それはこっちに置いといて』って?」    

 

 あたふたと大いに慌てながらも目の前の怪『人』に詰問しようと詰め寄っていく玉藻であったが、怪『人』は何かを両手で持ってそれを横によっこいしょと置き直すジェスチャーで応え、そのあとコートの中に手を突っ込んで中から何かを取り出して玉藻に渡す。


「何よこれ? 獣人用のヘッドフォンと、サングラス? つけろって言うの?」


 手渡された物と目の前の怪『人』を交互に見つめて不審そうな表情を浮かべて見せた玉藻であったが、結局その指示に従ってヘッドフォンとサングラスをつける。


「つけたわよ。え? よく似合ってるって? も、もう、それはいいから、これがなんなのよ」


 玉藻がしっかりとヘッドフォンとサングラスを身に着けたことを確認した怪『人』は、『ちょっと待っててね』という風に片手で玉藻を押しとどめるようなジェスチャーをして見せたあと不良達のほうへと向きなおる。


「や、やってくれましたね『祟鴉(たたりがらす)』。もう許しませんよ・・」


 ようやく激痛がおさまってきたらしいリーダー格の魔族の少年が、怪『人』のほうに激しい憎しみの籠った視線を向ける。そして、立ち上がろうとするのだが周囲がローションだらけのため立ち上がることができず、立ち上がろうとするたびにつるっとすべって地面にへたり込み、また立ち上がろうとしてはつるっと滑ってへたり込むということを繰り返す。

 それは西域黒虎獣人(ノーブルノワール)族の二人も同じで、リーダーの少年よりもバランス感覚が悪いのか、立ちあがろうとしては盛大に転んでどこかを打ち、走る痛みでまた地面を転がるということを繰り返している。

 そんなピエロのような彼らのほうに顔を向けていた怪『人』だったが、やがて両手を真上にあげてパンパンと手を叩き他の不良達の視線を自分へと向けさせる。不良達は怪人のその行動の意味がわからず一瞬顔を見合せたが、すぐに緊張の色を浮かべて油断なく怪『人』のほうへ一斉に視線を向けた。

 それは周囲の不良達ばかりではなく、今だに地面を這いずっているリーダー達も同じで、警戒の色を浮かべて怪『人』を見つめる。怪『人』は周囲の不良達がみな一様に自分の方に視線を向けたことを確認すると、ぐっと右の拳を突き出してみせる。

 そして、一体何が起こるのかと不良達が固唾をのんでその拳に注目した次の瞬間、怪『人』はその拳を開いてみせる。そこには小さな珠が。


『勅令!! 【閃光】』


 開いた拳の上に乗っていた一つの小さな『珠』から激烈な閃光が発せられ、それをまともに見た不良達はたまらず悲鳴をあげる。


「ぎゃ、ぎゃあああ!!」


「め、目が、目がみえねえええ!!」


 対閃光防御用のサングラスをかけていた玉藻と、閃光を生み出した張本人である怪『人』を除く全ての者が自分の目を両手で覆ってその場に蹲る。


「おのれ、『祟鴉(たたりがらす)』、眼潰しとは卑怯・・」


『勅令!! 【轟音】』


 まんまと怪『人』の術中にはまってしまったリーダーの少年が悔しさに満ちた怨嗟の声をあげようとするが、すぐにそれは別の音によって遮られてしまう。両目を押さえて蹲る不良集団のど真ん中めがけて左手に持っていたいくつかの珠を怪『人』が投げ込み右手で印を斬る。すると次の瞬間凄まじい轟音が響き渡り、その音を聞いた不良達はバタバタとその場に崩れ落ちて動かなくなった。


「うっわあ。相変わらずえげつないコンボねえ。視力を奪われれば、いやでも『人』は別の器官に頼ろうとする。『目』がダメなら『耳』。『目』が見えなくなったことで聴力が鋭敏になっているところにあの『轟音』食らったらそりゃひとたまりもないわ」


 あっという間に不良達を完全沈黙させてみせた怪『人』の鮮やかすぎる手際の良さをを、呆れる様な賞賛するような複雑な表情で見つめて呟く玉藻。そんな玉藻の言葉に一瞬照れるようにぽりぽりと頭をかいて見せた怪『人』だったが、すぐに玉藻に近づくとその身体をひょいっとすくい上げるようにしてお姫様抱っこする。世間一般の同年代の女性に比べいろいろなところに筋肉がついているぶん重いことを自覚している玉藻は、まさか自分よりも小さな怪『人』に抱きあげられるなどとは思っていなかったので、一瞬何が起きたかわからずきょとんとしていたが、すぐに自分の現状に気がついて盛大に慌て始める。


「ちょ、ちょ、ちょっとおおっ!? あ、あなた何やってるのよ!? え、地面?」


 もがいて怪『人』の腕から飛び降りようとした玉藻だったが、怪『人』が自分の足で足元をバシャバシャといわせている音を聞いてはっと気がつく。そう、さっき怪『人』がばらまいたローションが自分達の周囲をばっちり侵食していて迂闊に足を踏み出せばひっくり返ること間違いなしの状態なのだ。


「いや、確かに歩けるような状態じゃないけど、なんで私があなたに抱きあげられていなくちゃ・・えええええっ!? うそっ!? あなたこのローションだらけの中歩けるの!?」


 盛大に文句を言おうとした玉藻であったが、そんな玉藻の声などどこ吹く風。怪『人』は足もとに置いていた玉藻のショルダーバッグを玉藻を抱いたままの状態で器用に拾い上げると、力強い歩みでローションだらけの地面に足を踏み出す。全く危なげのない様子でひょいひょいと歩みを進めていき、あっというまにローションだらけの危険地帯を渡りきってしまった。

 そして、駅の裏手からそのまま駅の表通り近くまで移動して、駅の改札口まですぐそこというところで玉藻を地面の上に下ろす。

 どうにも照れくさいという表情で下に降りた玉藻はすぐには礼の言葉が出てこず、しばらく恨めしそうな表情で怪『人』を見つめ続ける。すると、怪『人』は口笛でも吹いて誤魔化しそうな雰囲気で玉藻視線を避けるように斜め上の空を見つめ続けていたが、はっと何か気がついて再びコートの中に手を突っ込む。

 そして、中から品のいい薄緑色の布に包まれた箱を取り出して見せ、それを押し付けるようにして玉藻に手渡すのだった。


「何これ? バスケットケース・・って、ひょっとしてお弁当?」


 玉藻の言葉にうんうんと頷いてみせる怪『人』。


「い、いいわよ、別に。学食とかあるし、外食したっていいんだから。え? どうせ偏った栄養の食事しかとってないだろって? ビールとつまみだけの生活ばっかりするなって? な、なんでそんなこと知ってるの!?」


 手渡された弁当を返そうとした玉藻であったが、怪『人』がしてみせる複雑なジェスチャーの意味を悟って愕然とした表情を浮かべて見せる。そして、尚も弁当を返そうとしたのだが、結局怪『人』の熱意に折れてありがたくいただくことにした。これまでも何度か弁当をもらったことがあるが、いずれも玉藻が今まで食べたことのない素晴らしく美味しいものばかりで、今回もそれに違いないという下心が後押ししたせいもあるが。

 玉藻はそれを大事そうに自分のショルダーバッグに直し、怪『人』に改めて礼を言おうと顔をあげた。


「あの、いつもいつもありがと・・って、待て待て待て!! ちょっと待ちなさいって!! いっつもいっつもそうやって逃げるように去っていくんだから、もう!!」


 ちょっと眼を離した隙に、怪『人』が駅の建物の影に溶け込むようにして去って行こうとしていたことに気がついた玉藻は、怪『人』が消え去る寸前の危ういタイミングでその腕を掴むことに成功し、ほっとした表情を浮かべてみせる。

 そして、ちょっと怒ったような視線で怪『人』のほうを見つめると、怪『人』は慌てたように自分の腕時計を指し示してみせる。 

   

「わかってるってば、時間がないことは。もうあいつが来る時間だった言いたいんでしょ? それはわかってるの、だから間に合うようにそっちに行くから、ちょっとだけ私の話に付き合いなさいって」


 すると、途端に怪『人』は身体の力を抜き、『いったいなんだろう?』という感じに玉藻を見返してくる。玉藻は改めて怪『人』に顔を見つめられてなんとも照れくさくなってきたが、しかし、今ここで自分の目的を果たさないと次にいつ機会が来るかわからないからと照れくささを押し殺して怪『人』の顔をまっすぐに見つめる。


「あの、いつもいつもいろいろとしてもらって本当にありがとう。いや、あなたには本当に心から感謝しているのよ。この一年であなたの手助けがなかったら立ち直れなかったり、解決できなかったこともいっぱいあったから、本当に本当に感謝してるの。それでね、今日の晩、できたらもう一度会ってくれないかな。大したことできないけどお礼がしたいのよ」


 しかし、玉藻の言葉に怪『人』はゆっくりと首を横に振ってみせる。『必要ない。自分がしたいからしてるだけ』。言葉にしなくても怪『人』がそう言っていることはよくわかっていた玉藻だったが言葉を紡ぎ続ける。


「うん、あなたが何の見返りも要求していないことはわかってるのよ。でも、このままだと私の気が済まないの。借りっぱなしでいられる厚顔無恥な性格だったらよかったんだけどさ。私ってほらめんどくさい性格してるから。だから、その、今日は私の流儀に付き合ってくれないかな?」


 玉藻の言葉を聞いていた怪『人』はしばらく腕を組んで考え込んでいたが、やがて自分の腕時計を玉藻のほうに突き出して見せて指先で数字を示す。


「『六』? ああ、夕方の『六時』ならいいってこと?」


 玉藻が確認すると、怪『人』は深く頷いてみせる。


「わかった。じゃあ、今日の夕方『六時』にここでまた」


 念押しするように玉藻が言うと怪『人』はこっくりと頷きを返し、そっと玉藻の腕を自分の腕から離させると今度こそ建物の影の中へと姿を消していった。

 玉藻はその姿をしばらく見送っていたが、怪『人』からもらった弁当が入っているショルダーバッグを大事そうに抱きしめながら地面に視線を落とす。


「『六時』かあ。って言っても何も考えていないんだよねえ。勢いでああ言っちゃったけど、どうしようかな」


 深く溜息を吐きだしながらそう呟いた玉藻だったが、その表情はそれほど悲嘆しても困惑してもいなかった。むしろ遠足に行く前の日の子供のように無邪気な笑みが顔全体に広がっていて、誰が見ても楽しそうで幸せそうに見える、そんな笑顔だった。


「『六時』まで結構時間あるからゆっくり考えよっと・・って、やばい、ミネルヴァが来る時間だ!! いそがなきゃ!!」


 そう言ってその場を駆け出す玉藻。焦りの色を浮かべながらも、どこか楽しげな表情を浮かべながら。


 玉藻はいつも思う、世界は灰色だと、彼女が見る世界はいつもガラス越しの世界だと、自分を理解して側にいてくれる者はどこにもいないと。


 しかし、玉藻自身は気がついていない。自分がすでに灰色の世界に住んではいないことを。

 ガラス越しに世界を見ていないことにも気がついていないし、そして、彼女を心から理解しずっと側にいてくれる者がすぐ側にいることにも気がついていなかった。


 それに気がつくのはもう間もなくのこと。 

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