第六十八話 『喧騒鳴りやまず』
北方の一大交易都市『嶺斬泊』。
その『嶺斬泊』においてその名を轟かせている一匹の美しい狐がいる。
狐の名は『如月 玉藻』。
現在『嶺斬泊』内に存在する強者達の中にあって、その実力は間違いなく頂点付近に位置する。
高位の『害獣』とも渡り合えるだけの凄まじいまでの『武勇』。
様々な知識、技術を会得し、攻撃から回復まで幅広い術を使いこなす『知力』。
そして、『人』型、『獣』型の人種どちらからみても美しいと絶賛される類まれなる『美貌』。
己が持つ全ての力を十全に使いこなし、彼女はこれまでいくつもの修羅場を乗り越えてきた。
彼女の能力を利用しようと画策した同胞達。振るいつきたくなるような豊満な肢体を、力づくで我が物としようとした暴漢達。またあるいは危険な『外区』を闊歩する恐ろしい魑魅魍魎の群れ。
そして、つい最近では北方の隅々にまでその魔の手を延ばしていた巨大犯罪組織『バベルの裏庭』。
どの戦いにおいても彼女が負ける事はなかった。最終的にその美しい手に握られていたのは『勝利』の二文字のみ。
これまで彼女に敗者の屈辱を味あわせることができたものはなく、またこれからもないであろうと思われた。
しかし、それは過去のものとなろうとしている。
今、彼女の目の前に、恐ろしい強敵が立ちはだかっているのだった。
油断していた。
犯罪組織『バベルの裏庭』との厳しい戦いに勝利し、訪れた平和を目の前にして完全に油断しきっていた。
まさか味方だと思っていた身内に裏切られるとは思っていなかったのだ。
そう、今、彼女の目の前に立ちはだかる敵を連れて来たのは、彼女がこの世で最も信頼し愛している人物。
「どうして、どうしてこんなことをするの、連夜くん」
半泣き状態になりながら愛しい人の名を玉藻は口にする。しかし、裏切りの理由を聞かれている当人は全く動じる気配はない。それどころか、見ているほうが腹立たしくなってくるようないい笑顔を玉藻に向けてくる。
「何がですか? 玉藻さん、それ苦手じゃなかったですよね? むしろ大好きでしたよね?」
最愛の人は敵を遠ざけるどころかぐいぐいと玉藻のほうに押し出してくる。
まだ心の準備ができていない玉藻に対し、さあ、早くかかってこいといわんばかりに敵をけしかけてくる。
確かに、彼の言うとおりだ。目の前に鎮座している敵のことは苦手ではない。
苦手どころか得意な相手ではある。
見るからに美しい狐色に染まった衣。
ごつごつしたいくつもの固体。
断面から滴り落ちる恐ろしい肉汁の滝。
そして、敏感な鼻をくすぐり続けるしょうがの匂い。
ダメだ。
絶対にダメだ。
戦ってはいけない相手だった。
戦えば自動的に玉藻の敗北が決定する相手なのだ。
それなのに、ああ、それなのに。
最愛の人はその敵に味方して玉藻を誘ってくる。愛していたのに、信じていたのに、魂も命も全てささげたのに、その人は完全に敵側に寝返ってしまった。
「連夜くんのばかぁっ! どうしてなのよ!? なんでこんなマネをするの!?」
「玉藻さんのことを思えばこそです。これこそが僕の愛」
「こんな愛はいやぁっ! って、な、何をする気なの、連夜くん。ま、待って、ちょっと待って!」
許されざる裏切り行為を盛大に詰る玉藻であったが、相手はそれでも全く動じたりはしない。それどころか、ついに敵に直接手を貸して玉藻を攻撃してきたのだ。
恐ろしい敵の一団の中でも一際大きな固体を掴み取った最愛の人は、それを玉藻のほうへと突き出してくる。
一気に表情を青ざめながらも玉藻は必死に顔を背けてその攻撃をなんとかかわそうとした。
だが!
「いや、やめて、お願いよ、連夜くん。それ以上それを私に近づけないで」
「はい、玉藻さん、『あーん』して下さい。『あーん』」
「や、やめて連夜くん。ひ、卑怯よ、卑怯者! い、いや、いやったら、いやー!」
「ふふふ、さあ、お口をあけてください」
「ああああ、ら、らめぇぇぇっ・・・あむっ」
絶対に避けることのできない最愛の人からの『さあ、召し上がれ。あーん攻撃』の前についに玉藻は最悪の敵を口の中へと侵入させてしまう。
「ふわわわわぁ」
口の中いっぱいに広がる禁断の幸せ。
溢れる肉汁、噛み応えはあっても決して硬くはない肉身、そして、しょうが醤油であじつけられたなんともいえない美味さ。
「うまーい。うまままーい。うまうまうまーい」
「どんどん食べてください。はい、どんどん。あーん」
「あーん。あむっ。うまー」
一口食べたらもう止まらなかった。次々と口の中に放り込まれる鶏肉の揚げ物を玉藻は幸せいっぱいの表情で食べ続けていく。完全に恋人の術中に嵌ってしまっていた。
自ら招き寄せた敵を胃袋の中へと納めていく玉藻の姿を見て、連夜はニヤリと笑みを浮かべる。
そして、玉藻が我に返ったとき、彼女は既に敵の一団の大半をそのお腹の中に沈めてしまった後であった。
自分がしでかしてしまった事に気がつき、玉藻はがっくりとその場に膝を着いて項垂れる。
「やってしまった。とうとうやってしまったわ。折角いい感じに絞れてきたのに。モデル体型になるのも夢じゃないところまで来ていたのに。おしまいだわ。こんなに油物をとってしまったら、私はもう・・・」
この後確実に自分の身に訪れるで悪夢を想像し、玉藻はその美しい瞳に涙を溜める。
そして、この恐ろしい罠に自分を陥れた張本人を厳しい視線で睨みつけるのだった。
「ひどい。ひどいわ、連夜くん。私があれだけ必死に頑張ってきたのに、よくもそれを台無しにするようなことをしてくれたわね」
「でも、美味しかったでしょ?」
「うん。美味しかった。腹が立つほど美味しかった。食べるのを止められなくなるくらい美味しかった。流石連夜くん、料理上手。主夫の鑑」
「じゃあ、よかったじゃないですか」
「そうね。美味しいは正義だもんね。じゃあ、遠慮なくもっとたべよっかな・・・って、そういうわけにはいかないのよ!」
「何故ですか?」
「ダイエットしていたからよ!」
魂の叫びであった。
劇画調の漫画のヒロインのような表情になった玉藻は、血涙を流しながら最愛の人に自分の想いをぶつけていく。
「ここのところ『外区』での危険な活動が多かったせいで、いい感じに脂肪が落ちてきていたのよ! お腹とか、二の腕とか太ももとか、あと、特にお尻のあたりとか! 胸は全然小さくならなかったけど、まあ、そこはよしとして、ともかく全体的にやせてきていたのに! 食にも気をつけて野菜重視で食べていたのに! 油物は極力食べないようにしていたのに! それなのによりにもよって『から揚げ』を夕食に出してくるなんて!」
天まで届けと言わんばかりの大絶叫。
そう、玉藻が相手にしていた最悪の敵とは『から揚げ』であった。
連夜と恋人関係になってからずっと幸せな毎日が続いていた玉藻であったが、そのことによって彼女の体にある異変が起っていたのだ。
毎日のように美味しい食事を作ってくれる恋人連夜。当然出された食事は全て完食する主義の玉藻は、決して残す事はなかったのであるが、そのため、彼女の体には余計な脂肪がどんどんついていく結果となってしまったのである。
運動をしていないわけではない。
というか、むしろ以前よりも運動量は増えているはずなのだ。
襲い来る様々な敵から日夜連夜を守って戦っている。その戦いは激しく、下手な運動をするよりもはるかに脂肪を燃やしているはずだった。
また連夜との夜の運動も欠かしてはいない。『あはん』やら『うふん』やら、やたら色っぽい喘ぎ声を大きな声であげながら、それはもう激しくリズミカルに何時間も運動しているはずであった。
「いや、それはちょっと脂肪を燃やす運動とは違う気がしますけど」
「いいの。気持ちよく脂肪を燃やしているの! そう思ってやってるの! 一石二鳥なの!」
ともかく運動は足りている。そう思っていた。だが、事はそう簡単ではなかったのだ。玉藻は間違いなく運動をしていた。しかし、想定外の出来事があったのだ。それは、連夜の食事がおいしすぎて、ついつい食べ過ぎてしまっていたということである。
どれだけ激しい運動をして脂肪を燃焼しても、それを上回るスピードで脂肪を蓄えていたということなのだ。
おかげでたった二ヶ月ほどで玉藻の体は『むっちむち』になっていた。
はっきりいってエロさが二割以上アップしていた。
「僕的には全然問題ありませんが?」
「私的には問題ありまくりなのよっ! 『肉付きがいい』なんて言い方で誤魔化されないんだからね! 『デブ』と紙一重の状態なのよ。一歩、間違えばそっちに分類されちゃう危険な境界線の上なのよ。これ以上太るわけにはいかないのよぉっ!」
切実だった。
かなり切実な状態であった。
幸せな状態に浸りすぎてそのまま流してしまうところであった。
玉藻は危ないところで我に返る事ができたのだ。
「いや、そのままでもよかったのに」
「よくない! 全然よくない! 連夜くんは私がデブになってもいいの!?」
「全然いいです」
「実際にデブになっても『愛している』って言えるの!? 誓えるの!?」
「全然言えます誓えます。超余裕っすね」
「あ、それならいいかも・・・って、いうわけないでしょ! 連夜くんのばかぁっ!」
女性が意識しているほど、男性は女性の容姿の変化にあまりこだわらないものである。
しかし、いくら恋人がそう言っても気にせずにはいられなかった。美味しいものはたくさん食べたいが、それ以上に美しくなりたいのである。
玉藻の中で『食』と『美』が天秤にかけられ、わずかではあったが『美』が勝ったのだった。
玉藻はダイエットを決意。ちょうどそのころ犯罪組織『バベルの裏庭』との最終決戦や、南方の城砦都市『アルカディア』との交易再開作戦が発生。恋人連夜にくっついて『外区』で活動することとなり自然と食生活は質素になることとなった。
相変わらず恋人の作る料理は半端なく美味しいものばかりであったが、危険な軍事作戦の最中ということもありヘルシーなものが中心となっていて、量を食べても太る心配はそれほどない。しかも『原生生物』や犯罪者達を相手に大立ち回りをすることも増えたためダイエットは順調に進み、あっという間に元の体型を取り戻す事に成功。
このまま続ければ自身が思い描く理想の体型を得ることも夢ではないところまできていた。
・・・だというのにである。
「連夜くんのおかげで全てが台無しだわ。どうしてくれるのよ! 責任とって!」
「じゃあ、責任とって玉藻さんと結婚します」
「やったぁ。これで連夜くんと夫婦だぁ・・・って、それは元々予定にあるでしょ! そうじゃなくて増えちゃった体重と脂肪をどうにかしてよって言ってるの!」
「『から揚げ』ってレモンや塩もいいですけど、やっぱり『マヨネーズ』ですよねぇ。はい、玉藻さん、あーん」
「あーん。あむっ。うまー。ほんとマヨネーズってから揚げにあうわよねぇ。これならいくらでも入る・・・って、更に太るもの食べさせてどうするの! また、むっちむちに逆戻りじゃない!」
「むっちむちに逆戻りしてください。お願いします」
「仕方ないなぁ。連夜くんがそこまでいうなら、戻ってやるかぁ・・・って、いうと思ったの!?」
「はい、玉藻さん、どんどんどうぞ。あーん」
「あーん。あむっ。うまー。連夜くんの作るから揚げは絶品よねぇ。やめられない、止まらない・・・って、全然私の話聞いてないし! しかも、がんがん私の口の中にから揚げいれてくるし! 誰か、連夜くんをとめてぇっ!」
結局、玉藻は連夜の攻撃を防ぎきることができず再び元の体型へとリバウンドすることとなる。
彼女が自分の理想の体型を手に入れることができるのは果たしていつのことだろうか。
彼女の戦いは続く。
「玉藻さん、明日はチキン南蛮作りましょうか。甘酢に特製手作りタルタルソースかけますよぉ」
「わーい、やったぁ。もうこうなったら自棄食いしてやる、コンチクショー」
そして、一週間後。
場所は『外区』
それも一般人はおろか、現役バリバリの傭兵やハンターですら近づかない恐ろしい『害獣』達の縄張りがある荒野のど真ん中。
一匹の大狐と小柄な人間族の少年の姿があった。
「連夜くんのいぢわる! 連夜くんのはらぐろ! 連夜くんのいぢめっこー!」
荒野中に響き渡るような大絶叫を放ちながら、狐は大きな口を開けて少年の頭を丸呑みした。
そして、頭を飲み込んだまま少年の体を軽々と右に左にと振り回し続ける。
「んんー、んんんー(玉藻さん、ちょっと落ち着いてください)」
「いやよ、連夜くんのばかー!」
頭を丸呑みされた状態のまま冷静に狐をなだめようとする少年と、盛大に泣きながらも決して少年の頭を放そうとはせず、しかも流暢に拒否の言葉を紡ぎだす狐。
なかなか器用なことをする一匹と一人。
言うまでもなく玉藻と連夜のバカップル二人である。
そして、更にいうまでもないことではあるが、玉藻は連夜のことを本気で丸呑みしようとしているわけではない。
絶賛痴話喧嘩の真っ最中ではあるが、いくら我を忘れる事になったとしても相手を本気で害することは二人とも決してない。玉藻は細心の注意を払って連夜の頭を口で挟んでいるのである。勿論、牙はあたってはいない。あたっていたら大変なことになってしまう。玉藻は霊狐族の中でもトップクラスの武力の持ち主である。
いや一族どころか他種族の猛者でも彼女に勝てる者は非常に少ない。それほどの力を持つ彼女であるから、本気どころかちょっと力を入れただけで連夜は大怪我どころではすまない致命傷を負うことになるだろう。
自分の命と同じくらいに大事に想っている最愛の人である連夜を、そんな酷い目にあわせるわけはないのである。
しかし、である。
どうしても腹が立つのである。
連夜に対する愛情が、減ったり無くなったりするわけではない。むしろ、日に日にその愛は大きくなっているといって間違いはない。
今現在、そんな愛しい人の頭を咥えて乱暴な真似をしてはいるが、根底にある『愛情』は大きくなりはしても小さくはなることはない。絶対にないのである。
だがしかしだ。そんな相手だからこそ、腹が立つ。可愛さあまって憎さ百倍なのである。
「憎さ百倍だけど、やっぱり愛しさは更に千倍になっちゃうんだけど、それでも腹が立つ! ほんとにもう、連夜くんは、どうしてそういうことするの!?」
「んーんんんー(だからーそういう玉藻さんのかわいらしい反応がみたかったからですー)」
「かわっ!? も、もうっ! 連夜くんの馬鹿バカばかーーーー!」
「んんん、んんんーんんんー(それに玉藻さんが日々綺麗になっていくのを観察するのが楽しかったですし)
「そ、そんなお世辞に誤魔化されにゃいんだからにぇー!」
連夜の言葉を聞いて顔を真っ赤に染めた狐が荒野中に響けとばかりに更なる絶叫を放つ。
何故このような状況になっているのか?
それは今朝、玉藻があることに気がついたからである。
いつものように寝起き悪くもそもそと布団から出てきた玉藻はシャワーを浴びて頭をスッキリさせるべく浴室へと向かった。
浴室の中には全身を映し出す鏡が設置されている。自分の顔の美醜についてはあまり頓着しない玉藻であるが、己の体を描くラインについては平均的な年頃の娘らしさを持っている。つまり、かなり気にしているということだ。なので、当然、裸になった自分の姿を鏡に映して厳しくチェックする。
「あーあ、ここのところ連夜くんの口車に乗せられて脂肪がつきそうなものばっかり食べちゃっていたからなぁ。崩れているよねぇ・・・って、あれ?」
鏡の中に映る己の裸身を目にした玉藻は、あることに気がついて愕然とする。
自分の予想通りに太った自分の姿を目にしたからではない。
体の曲線は大きく崩れてはいなかった。脂肪はある。胸や尻の辺りにたくさんついている。だが、腰や腹にはついてはいない。腰はくびれ、腹には見事な腹筋がある。
腕や足はある程度太い。武術を極めた者であるからには筋肉と無縁ではいられないからだ。でも、そこにも脂肪はついてはいなかった。
見間違いかと思い、何度も繰り返し鏡を見直す。体の位置を変え、隅々までチェックする。しかし、一週間前と曲線は変わってはいない。いや、それどころか若干自分の理想に近づいたような気もする。
「あ、あれ? おかしいな。この一週間お酒こそ飲まなかったけど、かなり暴食だった気がするんだけどなぁ」
首を捻りつつ、脱衣所にある体重計に乗ってみる。
「う、そ」
減っていた。
体重が一週間前に比べ2ギロも減っていた。
幻かと思い、何度も体重計に乗り直す。しかし、体重計の数値は何度乗りなおしても変わりはしなかった。
玉藻は混乱する。間違いなく嬉しいことなのに、どうしても素直に喜ぶことができない。この一週間、毎日玉藻は恋人連夜が繰り出す恐ろしいご馳走攻撃を受け続けてきたのである。ダイエットの為、断腸の思いで食事量を減らし、野菜中心の食事をしようと玉藻は固く決意していた。
なのに、それをあっさりと打ち砕いてくれたのが連夜が作るほっぺが落ちそうになるほど美味しい食事である。
どれだけ必死に断っても全く玉藻の言葉を聞いてくれない連夜。それどころか、食べさせてくれようとすらしてくるのだ。
いわゆる『あーん』というやつである。
玉藻にそれを断る事などできるはずがない。次から次に運ばれてくる食べ物を、ただただひたすらに口に入れ、舌鼓を打ってしまう玉藻。
どれもこれも美味しかった。それはもう、間違いなく美味しい料理ばかりであった。外食してもなかなかここまでのレベルにはお目にかかれないほど、高い完成度を誇る品々であった。
しかし、それらはどうみてもダイエット食には適さない。本格的に勉強したわけではない為、玉藻はそういった方面にあまり詳しくはない。詳しくはないが、素人目で見てもそれらはダイエット食には適さないとわかるような料理ばかりであった。
玉藻は覚悟した。
『太る』と。
間違いなく自分は太る。太ってしまうと。
最愛の人に美味しい食事を食べさせてもらえるという『天国』を味わいながら、玉藻はその果てにまつ『地獄』を覚悟したのだった。
不幸中の幸いなのは、恋人連夜がどのような姿になっても自分を愛してくれると宣言してくれていることであろう。
彼はそういうことで決して嘘をつかない人物である。その点は信用している。
だが、だからといって自分自身が自分の姿を許容できるかといえば、それはまた別の問題である。
玉藻はこの一週間なんともいえない複雑な気分で過ごし、できるだけ鏡をみないようにしてきたのだった。
しかし、そろそろ現実を直視すべきだと思って一週間ぶりに鏡の中の自分を見たわけであるが。
「おかしいわ。間違いなく、この一週間、私が食べてきたものって、どれもこれも太る要素満載のものばっかりだったもの。『からあげ』に『てんぷら』、『カツカレー』に『オムライス』。素材も調味料もあぶらっぽいものばっかりだったのに」
どうしても素直に喜ぶことができず、玉藻はこの一週間自分が食べてきたものを検証し始める。
あれはどうだったか、これはどうだったかと一つ一つ細かく検証してみるが、どの料理の中にも『ダイエット』という文字を見つけることができない。しかも食べた量も相当だった。どう検証してみても結果は同じ。普通なら太っているはずなのだ。
なのに現実にでた結果は逆。
考えたくはなかったが、玉藻は『病気』の可能性について真剣に検証してみる必要性を感じた。病気の中にはいくら食べても痩せていくものがいくつか存在している。ポピュラーなところでは『寄生虫』がある。体内に巣食う寄生虫が宿主の栄養を片っ端から強奪するためだ。他にも体重が減る症状を出すいくつかの病気を知っているが、いずれも早期発見しないと命に関わる重病ばかりである。
もし、『病気』ならばであるが。
「でもなぁ、そのことに連夜くんが気がつかないっていうのもありえないのよねぇ」
玉藻の健康状態については、連夜が徹底して管理している。それはもう本人以上に状態を把握しているといって間違いない。
連夜は高ランクな療術師ではない。中堅よりもやや上、中の上に引っかかるギリギリくらいの腕前しか持ってない。怪我や病気を『治療』する能力ははっきり言って『並』だ。しかし、『診察』能力は別である。これまで積み重ねてきた様々な経験が彼の『診察』能力を『並』よりもはるかに高い位置へと押し上げているのだ。
そんな連夜が病気の状態にある玉藻を見過ごしたりするであろうか。
答えは直ぐに出た。
『否』だ。これもまたありえない。
玉藻が重病だとわかり、自分に手に負えないと判断した時点で、彼の父親である『薬聖』仁か、二人の師匠であり北方最高の療術師であるブエルに働きかけているはずだ。
そこまで考えが至ったとき、玉藻の脳裏にある可能性が電光のように閃く。
頭に浮かんだ瞬間は『ひょっとして』という程度のものであったが、その可能性に大きく関わるのがあの『連夜』であると思い至った時、玉藻の中で『予想』は『確信』へと変化する。
玉藻は大急ぎでシャワーを浴びて服を着る。
その後、台所へと向かいテーブルの上に用意されている朝食を行儀悪く立ったままの状態で口の中へとかき込んだ。
そして、最低限の化粧と身支度を整えると、自宅を飛び出して行く。
向かった先は『外区』。城砦都市『嶺斬泊』の城壁からすぐ側にある荒野。たくさんのウサギ型『害獣』ジャッカルや、ネコ型『害獣』のシャウターがうようようと跋扈している悪名高き場所。
何故、そんな危険な場所へと向かったのか?
そこに彼女の最愛の人がいるからである。
「ちょっと、連夜くーん!」
散歩にでも行くような軽装で『外区』に出ようとしていたため、門のところで衛兵とひと悶着あったもののなんとか突破することに成功した玉藻。(結局、中央庁のお偉い人である連夜の母ドナの名前を出して通してもらった)
大狐の姿に変化してあっというまに街道を駆け抜けて目的地へと到達した彼女は、そこでのんびりと猫型『害獣』やウサギ型『害獣』と戯れている人間族の少年をみつけて声をかける。
「あれ、玉藻さん。今日は大学に行く日じゃなかったでしたっけ?」
抱えて撫で回していた六本足の猫型『害獣』を足元に下ろした連夜は、声の主へと視線を向ける。
被っていた麦藁帽子を取ってのんびりした様子で返事をする連夜。そんな彼の前まで全力で走ってやってきた玉藻は、荒い息を吐き出しながら血走った目で彼を見つめる。
「き、聞きたいことがあるんだけど」
玉藻は今朝になって気がついた自分の体の変化について語り、それについて何か知らないかと連夜に問いかける。
すると、連夜はその問いかけに対しあっさりと肯定の返事を口にした。
「知ってますけど、何か問題でも?」
「ああ、そう。知ってたのね。ならよかった・・・って、『知ってた』ってどういうこと!? いったい何してくれちゃったのよ!?」
あまりにもきっぱりあっさりした口調で断言するものだから、思わず聞き流しかけてしまった玉藻。しかし、寸でのところで流れに逆らって踏ん張ると、連夜の小さな肩を狐の両前肢でがっちりと掴んで詰め寄っていく。
「いや大したことしてませんよ。この一週間の食事を全部、お父さんのところで企画開発中のダイエット用健康食材で作ってみただけですから」
「・・・えっと、だ、ダイエット用健康食材・・・ってなに?」
恋人の口から出た一つの『単語』を聞いてなんとなく真相が見えてきた玉藻であったが、一応、念のために確認の問いかけをしてみる。
すると彼は隠すことなくすんなり説明を始めてくれたのだった。
「全てなんらかの植物でできた食材なんですけどね、調理すると肉や魚にそっくりな味になるというなかなか変わった食材なんですよ。流石に普通に調理するだけだと本物には遠く及ばない味なんですけどね。味の濃い料理とかだとそれなりに誤魔化せちゃうんですよ。ほら、『ハンバーグ』とか『カレー』って味そのものが濃いじゃないですか」
『ハンバーグ』も『カレー』も確かにこの一週間の間に食卓に姿を現していた。
そして中にはバッチリ肉が入っていた。いや、入っていたと思う。確かに肉の味がしたと思うのだが。
「ま、まま、まさか、あれ肉じゃなかったの?」
「違いますよー。今回の『ハンバーグ』の中身は牛肉や豚肉のミンチに見せかけた『豆腐』ですし、『カレー』に入っていた鶏肉モドキは、南方原産の『コカトリスフルーツ』っていう果物の果肉です。あ、ちなみに『から揚げ』も同じ果物を使っていました」
「ほええっ!?」
驚愕の真実に驚きの声をあげる玉藻であったが、しかし、あることに気がついて再び質問を投げかける。
「で、でもちょっと待って。味付けが濃いって言っていたけど、油や調味料は普通のものを使っていたんだよね。特にハンバーグにかかっていたデミグラスソースとか、『から揚げ』や『チキン南蛮』で使っていたマヨネーズとか。どれも美味しかったけどさ。いくら材料がよくても油や調味料をあれだけ使ったものを食べたら、普通、思い切り太るんじゃないの?」
「いや、食材だけじゃないですから。油も調味料も本物じゃないですから」
「え・・・えええっ!? あ、あれも違うの!?」
「違いますね。油はセイイキアブラハという植物から精製した葉種油を使っています。これって料亭やレストランなんか使われている油に比べると若干味が落ちるんですけど、多量に摂取しても脂肪になりにくい特徴をもっているんです。デミグラスソースとかマヨネーズとかを作る時にも利用しています。かなり味が落ちるかなとは思ったんですけど、それほどじゃなかったですね。まあ、これまでの油とは違うので、やっぱりいつもの味ではなかったわけですが」
「じぇ、じぇーんじぇん気がつかなかった。普通に食べてた。ってか、普通に美味しかったし」
「なら、よかったです」
玉藻の言葉を耳にして、連夜はほっとした様子で笑みを浮かべる。
連夜の料理の腕がよかったのか、玉藻の舌が安上がりなのか、それとも両方か。ともかくこの一週間、出された食事を不味いと感じたことは一度としてない。
おいしく料理を食べることができて、しかも当初の目的通りダイエットにも成功した。どう考えても喜ぶべき状況であった。
しかし、何故か素直にそれを受け入れることができない。
得体の知れないもやもや感がつきまとう。
玉藻はどうしても引っかかって取れない違和感をすっきりさせるべく、ある問いかけを口する。
「私が痩せる事に成功した理由については理解できたけど、どうしても納得できないところがあるのよ。ねぇ、連夜くん。どうして、最初から私にダイエット用の特別メニューを出すってことを言ってくれなかったの?」
「さっきも言いましたけどこの一週間の間に使用した食材はどれもこれも企画開発中の製品なんですよ。体に悪影響がないことだけはきっちり確認済みのものだけを使いました。いやもっと正確にいうと、安全性だけ確認できている食材だけ使っています。ダイエットに効果があるかどうかは一週間前の段階では、完全には確認できていなかったんです。そんな不確かな状態で玉藻さんに伝えて、もし効果がでなかったらぬか喜びさせちゃうでしょ。がっかりする玉藻さんの姿をみたくなかったんですよ」
「そうだったのね」
真摯な表情で思いやりのある答えを口にする連夜に心を打たれた玉藻は、感動で瞳を潤ませる。
そのまま彼の小さな体を抱きしめ感謝の言葉を口にしながら彼の頬に自分の頬を擦りつける。しかし、その途中あることに気がついた。
「あれ? でもさ、完全に確認できていなかっただけである程度効果があることはわかっていたんじゃないの?」
「えっと、それはぁ・・・」
「どうせ連夜くんのことだから、完全にではなくても効果が出ることを予想して料理を作っていたのよね。だったら、そのあたりのことも説明してくれたらよかっただけなんじゃないの? ってかこの一週間のメニューって、あからさまに太りそうなメニューばっかりだった気がするんだけど、それはなんで? そもそもダイエットに協力してくれる気があったのなら、普通にダイエットメニューを出してくれてもよかったんじゃ?」
「えー、それだと困るんですよ。大好物だけどダイエットには天敵である油物を目の前にして、苦悶やら歓喜やらいろいろと百面相して真剣に悩みながら御飯を食べる玉藻さんがかわいいのに、その姿が見れなくなっちゃうじゃないですか」
「・・・」
「・・・」
全く悪びれる様子なくとんでもないことをさらっと口にする恋人の姿をしばしの間ジトッと見つめていた玉藻であったが、眉間にいくつもの青筋を浮かび上がらせた後、無言で彼の頭を丸呑みにしたのであった。
そうして泣き喚いて暴れる事一時間。
「あー、酷い目にあった。もう、玉藻さんったら玉藻さんなんだからー」
「酷い目にあったのは私の方ですぅっ! ほんとにもう連夜くんは連夜くんなんだからぁ!」
ようやく折檻から解放された連夜がやれやれと肩を竦め、懲りない連夜の姿を見た玉藻がぷりぷりと怒りの声をあげる。
まだ完全には喧嘩は収まってはいないという雰囲気ではあるが、二人が二人ともお互いから離れようとはしない。
どれだけ喧嘩しても、根っこのところは互いを信頼しきっている二人である。性質の悪いいたずらをしようが、猛烈なわがままを言おうが、最終的には互いの所業を全て受け入れてしまう。二人にとって今回のことなど大したことではないのだ。
だから、二人の間を流れる空気はすぐにいつもの穏やかなものへと変化する。
大きな岩の上に腰掛けた連夜の上に、大狐の姿の玉藻が覆いかぶさるようにして抱きつく。別に怒りに任せて連夜を押しつぶそうとしているわけではない。十分加減して抱きついているのである。そして、玉藻は連夜の顔を覗き込み、彼が向けている視線の先を追う。
その先にあるのは大河『黄帝江』。
黄土色に染まった水がゆっくりと北から南へと流れていく。
時折、魚が飛び跳ねたり、カワウソらしき生き物が顔を出したりしているのが見えたりするが、大きくその光景が変わることはない。
連夜はそんな大河の流れをぼんやりと見つめ続けていた。
日は既に高く、早朝と呼ばれる時間はとっくに過ぎている。昼というにはまだまだ時間があるが、学生が登校するにはそろそろ遅い時間である。
大学生である玉藻は朝一の授業を取ってはいない為、まだ時間に余裕がある。しかし、高校生である連夜は違う。高校の授業は選択性ではなく、最初から時間割が決まっている。つまり既に授業が始まっているはずなのだ。
だが、連夜が動く気配はない。
「連夜くん、学校に行かなくていいの?」
「ええ、まだ、学校側の準備が整っていないんですよ。この前の作戦でアルカディアに足止めされていた校長先生を無事お連れすることができましたし、七月の大捕物の際に壊れた校舎もほぼ修復してはいるんですけどね。生徒ばかりか教師もたくさん中央庁にしょっぴかれてしまいましたからすぐに通常状態で授業を再開するというわけにはいかないそうなんです。なので、次の登校は十月からになりました」
「あ、そうだったんだ」
ぼんやりしている風に見える連夜であったが、流石に玉藻の問いかけにはすぐに反応を示す。
恐らく別の人物の問いかけであったならこうはいかなかっただろう。そのことがわかるだけに玉藻の心に形容しがたい優越感が膨れ上がる。
しかし、すぐにその思いは心の中でしぼんで消える。
自分は特別であり、今の反応は当たり前のこと。玉藻と連夜の立場が逆であってもそれはやはり変わらなかっただろう。つまり、ほとんど条件反射と変わらないということだ。
大河を見つめる連夜の顔には、深い憂いが浮かんでおり、それが晴れることはない。
理由はわかっている。秘術によって心が繋がっている玉藻には、その理由がわかっていた。
長年に渡って続いてきた彼の宿敵との戦いがようやく終わったのだ。
それは彼の宿願が成就されたというわけではない。しかし、大きな節目になったことは間違いはない。
いわゆる燃え尽きた状態となっているのだ。
そのことによって玉藻との関係に何か大きな変化があるというわけではない。実際、先程までやりあっていた痴話喧嘩からもわかるように、毎日仲良く暮らしている。二人の間に育まれている愛情に欠片の陰りもなく、それどころか日々大きくなり大切なものとなっていっている。
しかし、お互いにお互いだけを見つめて生きているわけではない。
できるならそうしたいところだが、『人』として生まれてきた以上そういうわけにもいかないのだ。勿論、この世の中で最も大切なのはお互いである。絶対に失ってはいけないものだ。だからといって、他に何も要らないというわけでもない。
連夜の心の中にあるもので自分に必要なものを玉藻はほとんど独占している。玉藻は嫉妬深い。連夜を自分の意のままにしたい、全てを掌中に収めて誰にも眼の届かぬところに大事に保管してしまいたい。
でもそれでは連夜の心が死んでしまう。連夜の心を独占したいが、殺してしまいたいわけではないのだ。
束縛したい、でも連夜らしく自由に生きてほしい。
矛盾する気持ちを抱えて苦悶する毎日。なんとも業の深いことだと自分でもわかっているが、どちらも本音。
そんな身勝手な自分に大きくため息を吐きながら、玉藻は憂い顔の連夜を心配そうに覗き込む。
「疲れちゃった?」
彼女の問いかけに対し、連夜は無理矢理作った笑顔を浮かべて否定の言葉を口にしようとした。
しかし、それが何の意味もないことをすぐに悟って笑顔を消して口を噤む。
しばしの静寂。玉藻は狐の姿の中で顔だけを『人』へと戻し、彼の前に出て自分の口を優しく彼の口に重ねる。
わかっているよ。
ちゃんとあなたの気持ちはわかっているよ。
玉藻は無言でそう彼に訴える。
しばし、無言での会話が続いた後、玉藻はそっと体を離して彼の顔を見る。
そこには深い苦笑が浮かんではいたものの、先程まであった憂いはない。
「心配かけちゃってごめんなさい。なんだか、もう自分の役割が全て終わったような気分になっていました。僕がやらなきゃいけないことは、もう何もないかもしれないなぁって」
「馬鹿なこと言わないでよ。私の世話はどうなっちゃうのよ。誰が私の相手をしてくれるのよ」
「ですよね。僕がこの世に生きる一番大きな理由なのに、忘れてしまっていました。ごめんなさい」
「もう、忘れないでよぉ」
再び完全な大狐の姿に戻った玉藻が、連夜の体に全身を擦り付け、彼もまた玉藻の柔らかい獣毛に包まれた体を抱き返した。
「いずれまた再び現れるかもしれませんが、しばらくは『バベルの裏庭』ほど強大な組織は現れないでしょう。現れたとしても、僕の意思を受け継いだ百八人の『聖者』達がいる。彼ら以外にも今の北方各地には奴隷商人達を追い詰め殲滅する組織がいくつも存在しています。十年以上かけて彼らをバックアップする体制も整えることができました。奴隷商人から助け出した人達のアフターケアも、僕の理想ほどではありませんができるようになっています。勇者の亡霊はそろそろ姿を消すべきなのでしょう」
「お疲れ様。本当にお疲れ様。連夜くんはね、頑張りすぎたのよ。くったくたになるまで頑張りすぎたの。戦って戦って戦い続けて。そんな異常な日常が正常だって勘違いしてしまうほどに」
本当に疲れた様子で遠くを見つめる連夜を、玉藻は後ろから優しく抱きしめる。
今度は大狐の姿ではなく全身『人』の姿になってだ。
「連夜くん、ちょっと休もう。もう十分戦って来たじゃない。あなたには休息が必要だわ。せめて、学校が始まるまでは、ゆっくりしましょう。私と一緒にのんびりするの。いいでしょ?」
組織に連れ浚われ、危険な鉱山で働く労働奴隷となったあの日から、ずっと連夜は戦い続けてきたのだ。
最初は自分自身が生き残る為の戦いだった。しかし、たくさんの人との交流により絆が生まれ、そして、それを理不尽に奪われ続けたことが、彼のその後の運命を決定づけることとなった。
彼は彼の大切な者を奪い続ける者達を許すことができなかった。それらを根絶する為に、彼は己の力と命の全てを賭けて戦い続けてきた。
戦って戦って戦い続け、いつしか彼の歩く道の後ろには大勢の人達が続くこととなる。やがて彼と共に歩む者達の中から、自分自身で道を切り開いて歩いて行く者たち現れ始め、その力は次第に強大なものへと成長していった。
そして、その力はついに北方全土を覆っていた巨悪を倒すにいたる。
気がつけば、連夜一人で始めた戦いの道は既に彼の手を放れはるか遠くへと続いていっている。
連夜が言うとおり、もう彼の力は必須ではないのだ。
彼の中にある怒りも憎しみも、そして恨みつらみも消えることはない。だが、彼がやらなくてはならないことはほぼ終わってしまったこともまた事実。連夜は、遠くを見つめることをやめて静かに眼を閉じると、後ろから回された玉藻の右手をとって自分の頬に擦り付ける。
「そうですね。何もかも忘れて、何もせずに玉藻さんとしばらくのんびりしましょっか」
「うんうん、それがいいよ。そうしよ。何もかも忘れて二人でのんびりしようね」
荒野のど真ん中、恋人達はお互いの体を抱きしめあう。
とても静かで優しい時間が流れていく。
そこは全『人』類の天敵である『害獣』達が無数に存在している危険地帯のど真ん中であり、普通に考えればとても場違いで信じられない光景。
だが、二人にとっては関係ない。むしろ邪魔者が入ってこない楽園ですらあった。
いつまでもいつまでも二人はお互いの肌の温もりを感じ続けていよう。そう思っていた。
が、しかし。
静寂を打ち破って一人の女性の声が荒野に響き渡る。
『何もかも忘れられては困ります!』
拡声器を使って作り出された大きな声が、二人の耳に飛び込んでくる。
その声の主を二人はよく知っていた。
「え? あれ? クレアさん?」
「なんでクレアの声が聞こえてくるの?」
声の主が連夜の侍従であり、玉藻の友人である人頭獅子胴族の女性のものであることに気がついた二人。
とりあえずお互いの体を離して声のしたほうへと視線を向ける。
すぐに目標を見つけることはできなかったが、しばらくそれらしいところをきょろきょろと探してみると、風景の中に明らかに異様な部分を発見する。荒野の端。城砦都市『嶺斬泊』の城壁が見える南方のすぐ前のあたり。
あまり高くない壁のようなものを見つける。
よくよく眼を凝らしてみると、それは壁ではなく物凄い数の人であることに気づく。
「な、なんなのあれ?」
「さ、さあ」
『『さあ』、じゃありません! ボス、いい加減帰ってきてください!』
「え? ちょっ、こっちの声聞こえているの!?」
『聞こえています! 今までのイチャイチャも全部聞こえていましたから! 丸聞こえでしたから!』
驚愕の声をあげる連夜に対し、物凄い苦々しい口調で返事を返してくるクレアの声。
いや、クレアばかりではない。何事かと連夜が問いかける前に、凄まじいばかりの声の津波が二人に襲い掛かってきたのだった。
『お姉ちゃん、ズルイズルイ! 連夜さんを独占しすぎ! 私の先生でもあるのに、ひどいよ!』
『そうですわそうですわ。連夜は、私のかけがえのない、その、つまりこ、恋人候補というか婚約者候補というか、ごにょごにょ・・・ともかく、イチャイチャしすぎですわ! 私だって、私だって!』
『姐さん、連夜とイチャイチャするのに文句はねぇけど、そろそろ連夜を返してくれよ! おーい連夜聞こえているんだろ、そろそろ帰ってこいって。アルカディアでの後処理が大変なんだってば。頼むから手伝ってくれ!』
『クリスくんのところも大変だろうけど、こっちも大変ですよ、ボス! アルカディアとの商談で決まった向こうに流す予定の交易品が全然集まらないんです。助けてください!』
『連夜、それどころじゃない。今回の『バベルの裏庭』の残党掃討でとんでもないことがわかったんだ。どうしてもおまえの、『蛸竜』の力を借りたい』
『もうまたKったら仕事のことばっかり! 連夜、お願い、私の恋路を助けてぷりーず。Kったら仕事のことばっかりであちしのことかまってくれないのよぉ。もう、何かって言うと『バベルの裏庭』が、奴隷商人がって、あちしのことはどうでもいいんかい! 連夜、この仕事ばかに何とか言ってやってー』
『あんたの私事にボスを巻き込まないで頂戴! それよりもボス、もっと大変なことがあります。今回の作戦でボスが表に出たことにより、各部門というか、各都市というか、各傭兵団というか、企業というか財閥というか、ともかくいろいろな勢力がボスの力を得ようと大挙して『嶺斬泊』に押し寄せてきています。なんとかこっちで押さえ込んではいますけど、それももう限界に近いというか、きゃ、きゃああっ!』
『害獣』が怖くて近寄れないのであろう。範囲外ぎりぎりのところから拡声器を使って連夜に呼びかけてくる知り合い達。
互いが互いの声を打ち消しあい、何がなんだか具体的なところがわかない状態であったが、最後に聞こえてきたクレアの悲鳴のあと、事態は更に混迷を深めることとなる。
『お初にお眼にかかります、嶺斬泊中央庁経済産業省のザーフランドと申します、今回はですね・・・』『ゴールデンハーベストから来ました・・・』『高品質な回復薬について商談させていただきたく・・・』『ツクモガミとやらで強化された武器を一部なりと譲っていただけないかと・・・』『農業部門の建て直しに是非とも宿難様のお力を・・・』
「な、なんだこりゃ」
遠くに混沌というに相応しい状況を確認し、唖然とした表情で声をあげる連夜。
玉藻もまた、連夜と同じように似たような表情を浮かべていたが、やがてなんとも言えない苦笑を浮かべて恋人のほうへと向き直る。
「あーあ、連夜くんともう少しのんびりできると思っていたんだけどなぁ。ほんと人気者の恋人を持つと大変だわ」
「いや、あれは人気者とかそういうのではない気が」
「うふふ、まあちょっと違うかもしれないけど、それでも戻るしかないでしょ。それともこのままどこかに逃げちゃう? 今ならあの人達追ってこれないと思うけど」
いたずらっぽい表情で連夜を覗きこむと、とんでもなく困った表情を浮かべた恋人の姿が眼に映る。
心を読まずともいろいろと葛藤しているのが手に取るようにわかる。きっと自分がごり押しすれば、本当に駆け落ちしてくれるだろう。しかし、それでは連夜の心に傷を残すこととなる。それは玉藻の本意ではない。
玉藻はわざとらしく大きなため息を吐き出してみせると、彼の腕に自分の腕を絡めた。
「はいはい、そろそろ戻りましょ。あなたのいるところが私のいる場所。あいつらに時間をとられてしまうのは業腹だけど、心までとられてしまうわけではないから我慢してあげる」
「ごめんなさい。僕はもっといろいろと捨てなくてはいけないものがあるんでしょうけど」
「いいのいいの。なんでもかんでも簡単に捨てられる人は、私の好きな連夜くんじゃないもの。でも、また大変な日常に逆戻りね。まあ、いっか」
全く喧騒治まる様子がない混沌たる群衆の姿を見て、二人は大きくため息を吐き出した後、同時に似たような苦笑を浮かべて見つめあう。
そして、ゆっくりとそちらに向かって歩き出すのだった。
二人にとっていつも通りのまた賑やかな日常が始まる。