第六十三話 『まよえる小狐』
圧倒的。
まさに『圧倒的』という言葉に相応しい戦いぶりであった。
「ば、ばかなぁっ」
血反吐を吐いて絶望のうめき声をあげながら地面を転がるのは、先ほどまで自分の優位を信じて疑うことすらしていなかった一人の男。
犯罪組織『バベルの裏庭』の生き残りの一人デンゼル。
『アルカディア』からの脱走に失敗し連夜一党に捕縛された彼であったが、自分の体を縛っていた鉄線をその怪力で引きちぎって拘束から逃れることに成功する。
そして、その勢いのまま連夜一党を単独にて撃破しようと息巻いていたのであるが。
「韋駄天族の『超加速』のうりょ・・・うげばっ」
「遅い、亀よりも遅い(ちらっ)」
速さで翻弄しようとすれば足を引っ掛けられて見事に転ばされ。
「な、ならば丘巨人族の豪腕でべれっ!」
「当たらなきゃ意味ないでしょ(ちらっ)」
怪力に任せて拳で叩き潰そうとすれば、それよりもはるかに早い速度で腕をへし折られ。
「スタンドシュリンプ族の甲殻防御壁なぶべらぁっ」
「流石に関節には防御壁張れないでしょ(ちらっ)」
自身を甲殻で包んで防御を固め体勢を立て直そうとすれば、甲殻を張れていない関節部分への容赦ない攻撃。
繰り出す特殊能力の悉くを打ち破られ、いまやデンゼルの体は満身創痍。
たった三分足らずの間に、鳥型『害獣』や『四本腕灰色熊』に襲われた時よりもひどい状態にされてしまっていた。
「な、なぜだぁ。様々な下等種族どもから吸い上げ身に着けてきた特殊能力の全てが通用しない。こ、こんな馬鹿なことがあってたまるかぁ」
自身が想像していた展開とまるで逆の現実に徹底的に打ちのめされるデンゼル。
保持する特殊能力の全てを駆使すればこの程度の一団数分で叩きのめすことができる。
そう思っていた。
しかし、現実は非情である。
一団どころか、たった一人の女性も倒すことができず、それどころか自分自身が無様に地面に倒されてしまっているのである。
「あなた自分が持ってる能力自慢したいんでしょうけど、いちいち能力の名前を言ってから発動しないと気がすまないの? なんなの? 馬鹿なの? 死ぬの? 所詮は『盗人の浅知恵』。あなたみたいなのを『身の程知らず』というのよ(どやぁ)」
完全に完璧に、そして、華麗にデンゼルの攻撃を全て完封し返り討ちにしてみせた霊狐族の美女如月 玉藻。
腰に片手をあて、あいたほうの手で長く美しい金髪をわざとらしくさらっと流しながらデンゼルを見下すように見つめて決め台詞。
そして、その後、ちょっとだけ顔を動かして後方でこちらを観戦しているはずの恋人と妹のほうを盗み見る。
めっちゃいいドヤ顔で。
「う、うぜぇ・・・想像以上にお姉ちゃんがうざい。うざすぎる」
姉に見られている妹のほうはというと物凄い渋面になっていた。
それはもう姉そっくりの美少女顔が完全に完璧に、そして、過激なまでに崩れて困ったゴリラみたいな顔になってしまっていた。
「ちょ、は、晴美ちゃん。顔っ。顔なんとかしてっ。すごいことなってる。テレビ撮影の最中だったらすぐにでも放映を中止しなくてはいけないくらい大変なことになってるから」
「私の顔よりお姉ちゃんの顔でしょ! 見ていました、連夜さん、あの顔?」
「落ち着いて晴美ちゃん」
「攻撃の最中、何度もこっちチラミしていたでしょ、しかも、腹立つくらいのドヤ顔で! なんなんですか、なんなんですか、あれ!?」
「なんなんですかと言われても、いつもの玉藻さんですが。何か問題でも?」
「いつも!? あれがいつもなんですか!?」
連夜のショッキングな告白を聞いて晴美は顔面を蒼白にして頭を抱えながら絶叫を放つ。
しかし、そんな妹の反応を見た玉藻は、何故か満足そうな表情で何度も頷きを繰り返す。そして、先ほど以上のドヤ顔を、まだ混乱から立ち直れずにいる妹のほうへと向けるのだった。
「ふふふ、お姉ちゃんのあまりの格好良さに流石の晴美も驚きを隠せないようね」
「確かに驚きを隠せないよ! っていうか、全然違う意味で驚きが隠せないよ! びっくりしたわ! びっくりするくらいのポンコツ具合だわ!」
「やめなさい、晴美。確かにこの男のポンコツ具合は驚くほどだけど、真剣に戦っている相手にそんな失礼なこと言うもんじゃないわ」
「違うから! 私が言ってるのわ、そっちの脱走兵の人にじゃないから! お姉ちゃんにだから!」
「ふふふ、またまたぁ、照れちゃってこの娘は」
「照れてないから! ってか、照れる要素が全く見当たらないから! ちょ、連夜さん、お姉ちゃんに何とか言ってくださいよ」
「玉藻さん、いつも格好いいなぁ」
「こっちもダメだったぁぁぁぁっ!」
どうしようもない反応を繰り返すバカップル二人を見て、晴美は頭を抱えながらごろごろと地面を転がっていく。
「もう、本当に落ち着きのない娘ね」
「誰のせいだと思っているのよ、誰の!」
「私の妹を混乱させるとは、なんて恐ろしい相手なの。これ以上晴美を混乱させないために、早々に決着を付けさせてもらうわ!」
「いや、そこの男の人のせいじゃないから! お姉ちゃんのせいだから! ってか、私の話を聞きなさいってばぁっ!」
頓珍漢なことを言いながら再びデンゼルのほうへと向き直る玉藻に対し、晴美は涙目になりながら声を張り上げる。こうなったら力づくでも自分の主張を聞いてもらおうと玉藻に向かって走り出そうとする晴美だったが、その寸前で誰かに肩を捕まれ動きを止められる。
「連夜さん?」
「玉藻さんに言いたい事がたくさんあるんだろうけど、ちょっと待ってくれるかな晴美ちゃん」
振り向いた晴美の視線の先には、いつもの優しい笑顔と柔らかな声。少し顔を赤らめた晴美は、渋々とではあるが動きを止めて彼のほうに向き直る。
「なんですか? またお姉ちゃんの贔屓の言葉ですか? そんなの聞きたくないんですけど」
「まあ、それもあるかも知れないかな。でも、冷静に聞いてほしい。玉藻さんは確かに懇切丁寧に誰にでもわかるという風に説明してはいない。でも、間違いなく晴美ちゃんにあることを見せたくて、今、戦っている」
「見せたい、もの?」
「うん。多分、玉藻さんはね、自分に扱えない『力』、あるいは身に過ぎた大きな『力』を持つことの愚かさを伝えたいんだと思う」
「扱えない『力』」
「晴美ちゃんは、『力』を欲しがっていたでしょ。僕が持つ力はまあ、大したことがないから一先ず置いておくとして、君が欲しているのはクリスやアルテミス、あるいは君の姉である玉藻さんのような『力』だと思う。みんな凄い力を持っているよね。クリスのサバイバル術、アルテミスの弓技、そして、玉藻さんの格闘術。どれもこれも一流だ。君が憧れるのも無理はないし、自分だってそれが使えたらと思うのは誰でもそうだろう。でもね、もし仮に今日いきなりその力を与えられたといって、君にそれらを使いこなせるだろうか? 晴美ちゃんはどう思う?」
「えっと、それは」
いつもと変わらぬ優しい笑顔、柔らかな声。しかし、問いかけられた晴美はある違和感を感じて戸惑いの声をあげる。何かが違う。自分の目の前に立つ、気弱な少年の姿が急に違うものに変貌したような気がした。
まるで得体の知れない何かが自分を見つめている。湧き上がる恐怖。晴美は思わず自分の両肩を両手で抱きしめる。
何故、こんな気持ちになってしまうのか。混乱する気持ちを必死に押さえつけようとした晴美の目に、あるものが映る。
目の前に立つ少年の瞳。いつもはまるで満月が浮かぶ美しい夜のような静かな輝きを放っている黒い瞳。しかし、その瞳に光がない。
闇。
漆黒の闇は自分へと向けられている。
晴美は今度こそ声を失ってしまった。
極度の緊張から声を出す事ができない。あるのはただただ無限の恐怖。
そんな晴美の様子を知ってか知らずか、目の前に立つ闇の化身が口を開く。
「『力』は与えられるものではないと思う。奪い取るものでもない。自分の中に生み出して育てるものだと僕は思う。そして、それはその人だけのものだ」
連夜は声もなく佇む晴美に言葉を投げかけ続ける。
例えばバットとボールを与えられたとしよう。
絶対に折れないバットと、絶対に潰れないボール。どちらも素晴らしい逸品だ。
その一流のボールを地面に置い一流のてバットで弾き飛ばす。そのくらいなら誰だってできる。子供だってできるだろう。止まっているボールを打つ事はそれほど難しいことじゃないから。
しかし、ボールが浮いていたらどうだろう。しかもそれがふわふわと上下していたら。いつかは打てるかもしれないが、バットを持ってすぐに打てる人はかなり減るだろう。
では更にそのボールがもっと早く動いていたらどうだろうか。あるいは自分に向かって飛んできたら。それもすごいスピードで。
打てる人は間違いなく激減する。
「どれだけ優れた道具を与えても、それを使いこなせなければなんの意味もない。技術だってそうだ。仮に晴美ちゃんにクリスのサバイバル術やアルテミスの弓技の真髄全てを会得させたとして、使いこなせるだろうか」
「それはやってみないとわからないと思うのですが」
「どれだけ晴美ちゃんが才能に溢れていたとしても、恐らくクリス達の一割も『力』を発揮できないと僕は思う」
「そんな! 納得できません!」
深い『闇』を切り裂いて少女の悲痛な声が響き渡る。しかし、闇が完全に晴れることはない。切り裂かれた闇はすぐに元の無明へと戻り、晴美の小さな体に纏わり憑くように包み込む。
「まあ、そうだろうね。口で説明したってわかりっこない。うん、それはわかってた」
「ならば!」
「だからこそ、玉藻さんはこの戦いでそれを見せようとしたんだ。玉藻さんが戦っている相手をよく見て欲しい。あいつは『業奪者』。ある危険な禁術を使って他の種族の特殊能力を奪い取った者」
「え? そ、そんなことができるんですか!?」
「完全に違法だけどね。恐らく奴隷として連れ去った者達から奪い取ったんだと思う」
「ま、待ってください。特殊能力を奪い取るって。種族によってはその能力そのものが命の源になっている種族もいるはずでは。う、奪い取られた者達はどうなるんですか?」
「・・・」
晴美の問いかけに対し闇は無言で答えを返す。具体的な内容を聞かずともたったそれだけが何よりも雄弁に答えを語っていた。
「そ、そんな」
「ともかく、あいつは恥知らずで決して許されない方法を使ってこれまでたくさんの『力』と、そして『命』を奪ってきたんだと思う。そして、それを自慢するように僕達に見せつけようとしていたんだろうね」
「え、でも、それらしい能力は一度も見ていないですけど。あ、そういえば最初にトロールの再生能力を見せていましたね」
「トロールの再生能力を発揮できたのは阻害してくる相手がいなかったからだよ。でも今は違う。完全に見切られているからね。ほら、よく見て」
「え?」
闇が指差すほうに視線を向けた晴美は、再び戦い始めた姉の姿を目撃する。最初の時は意識してみていなかったせいで見落としてしまっていたが、今ははっきりと見える。
いいように姉に翻弄され続けるデンゼルの姿が。
何かの特殊能力を発揮しようとするたびに、絶妙なタイミングで姉の一撃が入る。そのたびにデンゼルは地面に転がされ思う存分土を味わうこととなっていた。
「お姉ちゃん、相手が能力発揮できないように邪魔している」
「その通り。流石は玉藻さん。城砦都市『嶺斬泊』の戦士達の中でも十指に入る程の実力を持つだけのことはある」
「やっぱりお姉ちゃんは凄いんですね。ところどころどうしようもないポンコツなのに」
「いや、後の評価はどうかと思うけど、ともかく玉藻さんの凄まじい戦闘技量があいつに能力を発揮させていない原因の一つであることは間違いない。でもね、あいつが実力を発揮できていないのには、もっと大きな要因があるんだ」
一瞬、瞳の中の闇が和らぎ元の夜の明るさを取り戻しかけた連夜であったが、すぐにまたそれを打ち消して深い闇を顕現させる。一切の光が入らぬ闇。それ故に晴美は余計な思考を省き、連夜の問いかけに集中することができた。
晴美は闇の中でしっかりと目蓋を開き答えを導き出す。
「それは、あいつが使おうとしている『力』が元々自分のものじゃないから。他の誰かから奪い取った偽者の『力』だからですか?」
しばしの沈黙。
そして、次の瞬間『闇』が晴れる。
無数の星が輝き大きな満月が光を放つ優しい『夜』の黒い瞳。
それが晴美を優しく見つめていた。
もう恐怖は感じない。
「正解だ。まあ、晴美ちゃんなら必ずたどり着くと思っていたけどね。そう、晴美ちゃんの言うとおり。奴が使おうとしているのは結局偽者の『力』でしかない。生まれたときから種族特有の能力を持っていて、それを息をするように使い続けてきた元々の種族の人達と奴は全く違う。使い方を見たから聞いたから、或いは奪い取って自分のものにしたから使いこなせるというわけではない。『使える』ということと、『使いこなせる』ということは全く違う。奴は奪い取った能力を『使える』だけで、『使いこなせる』わけじゃないのさ」
「で、でも、今はお姉ちゃんに邪魔されて使えていないだけですよね? 実際に能力を発現させることができたら」
「相手に邪魔されないように自分の『力』を発現させることも立派な『力』の一つだ。そもそもいくら玉藻さんであってもその特殊能力を持つ本来の種族が相手だったなら、ここまで見事に完封することはできなかったと思うよ」
「お姉ちゃんの実力を持ってすればどんな相手だろうと可能なんじゃないんですか?」
「いいや、違うね。実際に完封できなかった相手は結構いるよ。実力に大分差がある相手でいうなら姫子ちゃんがそうだね。今の姫子ちゃんの実力ではとてもじゃないけど玉藻さんに敵わない。でも、ここまで能力や技を封じられることはない。いくら玉藻さんであっても、本当に自分の物とした能力や技を封じることはできない」
しかし、デンゼルの能力や技は封じる事ができる。
実際に晴美の目の前で完封しているのだから間違いない。そして、連夜は更に言う。仮にデンゼルが自慢の特殊能力を発現させることができたとしても、玉藻ならそれごと叩き潰すことができるだろうと。
「『力』を求めることそのものはいい。何かを成す為には、必ず『力』が必要になるからね。求める事そのものは何も悪くはないんだ。だけど、『力』を求める前に少しだけ考えて欲しい。一体何の為に『力』を求めるのか。そして、その為にはどんな『力』を求めるべきなのか。やみくもに漠然と強大な『力』を求め得たとしても、恐らくその『力』は本当の意味で自分の身につく事はないと思う」
「今、目の前でお姉ちゃんに翻弄され続けているあの人のようにですか?」
「うん。僕も玉藻さんも、晴美ちゃんがあいつのようになることを望んではいないからね」
死と恐怖を撒き散らす『闇』の気配を消し去った連夜に促され、晴美は目の前の戦いに再び視線を向ける。
連夜の言うとおり、姉と戦っている鳥型種族の脱走兵は全く能力を使いこなせていなかった。なんとか状況を打開しようとして、何らかのアクションを起こそうとするのだが、その都度姉に邪魔されて地面の上を転がり続けている。
能力を発現する直前に見える強い生体エネルギーの輝きが、彼が持つ能力の強大さを物語っている。しかし、能力そのものを発現できないのであればなんの意味もない。
ひたすらに滑稽であり、ひたすらに無様であった。
晴美は考える。仮に自分が、あの脱走兵と同じくらい強大な『力』を持つことができたとしても、やはり同じような結果になってしまうのだろうかと。
連夜は姉はそうなると思っている。しかし、晴美自身は完全にその答えに納得してはいなかった。
自分ならもっとうまく使いこなせる。例えば、強大な力を得たとして、十割全て使う必要はない。一割でもいいのだ。たった一割でもかなりの使い道がある。少なくとも今の晴美にとって、そのたった一割でも十分に魅力的な『力』に思えた。
そんな風に晴美が思っていると、横で誰かが深いため息を吐き出している気配を感じた。
周囲にはたくさんの戦士達の姿があるが、晴美の直ぐ横にはたった一人しかいない。
「連夜さん?」
「うーん。どうも晴美ちゃんは納得できていないみたいだねぇ」
「え、あっ」
連夜の苦笑交じりの言葉に、晴美は思わず両手で自分の口元を隠して赤面する。どうやら考えていた事がまともに顔に出ていたらしかった。
しばし見詰め合う二人。どうにも気まずい雰囲気が流れるが、連夜は怒って頭ごなしに晴美を責めるようなことはしなかった。代わりにどこか疲れたような笑みを浮かべて先ほどよりも更に優しさの篭った瞳で晴美を見つめる。
「晴美ちゃんに言わなかったことがあるんだ。もうちょっとだけ僕の話に付き合ってくれるかな」
「え、あ、は、はい」
「できるだけ早く強い『力』を手に入れたい。すぐにでも実戦で使えるような強い『力』が欲しい。そう思ってるね?」
「えっと」
「つまりそれは時間をかけず、大した努力もせずに得ることができる『力』ということになる。違うかな?」
「それは、確かにそうかもしれませんけど」
「単刀直入に言うけれど、時間をかけず、努力もしないで強い『力』を手に入れる方法は・・・ある」
「本当ですか!?」
「ある。嘘は言わない。間違いなく存在する。それも複数」
思いもかけぬ言葉を聞いて晴美は驚きの声をあげる。てっきり更なるお説教が待っていると思っていたのだ。そんな方法はない。『力』を手に入れたいなら、それ相応の時間をかけて努力すべきだ。そんな当たり前のことを言われるのだとばかり思っていた。
しかし、連夜の口から出た言葉は晴美が望んでいたことそのものだった。
両手をあげて喜びの声をあげようとした晴美。しかし、声をあげる途中で晴美はそれをやめてしまった。
何か裏がある。目の前の人物がただ優しいだけの『人』ではないことを、晴美は知っていたから。
「でも、簡単な方法じゃないんですよね?」
「いや、簡単だよ。それほど難しいことじゃない。いくつか方法はあるけれど、どれもこれも大した労力はかからない。例えば、目の前で戦っているあの脱走兵のように『業奪者』になる方法がある。君はただ出されたものを食べるだけでいい。たったそれだけのことで君は強大な『力』を手に入れることができる」
「そんなことで強大な『力』が手に入るんですか? でも出された物って、いったい何を食べさせられるんですか?」
「心臓」
「え?」
「だから心臓だよ。生きている他種族の『人』から抉り取った心臓。確実ではないけれど、その心臓を食べることによってその種族が持つ特殊能力を身に着けることができる場合があるんだ。まあ、身に着けられるまでどれくらい食べないといけないかは運次第だけどね」
「そ、その心臓を取られた人はどうなるんですか?」
「勿論、死ぬよ。ってか、あの脱走兵の人。いったい何人の心臓を食べたのかな? 百や二百じゃきかないと思うけど」
笑みさえ浮かべてあっさりと告げられる残酷な事実。晴美はしばし呆然とした後、視線を未だ姉と戦い続けている脱走兵の方に向けなおす。
自分が未だにどの能力も発現させることができずにいるが、さっきから自己申告している能力の数だけで既に十を越えている。どの能力も運良く一発で身に着けられたと仮定しても十数人分の心臓を食べていることになる。
しかし、一つの能力につき二人以上かかったとしたら。あるいは十人、いやもっとかもしれない。能力を身に着ける確率がひょっとして一割どころかもっと低かったとしたら。いったいどれだけの人が生きながらに心臓を抉り取られ、食されてきたのか。
腹の底からこみ上げてくるとてつもない不快感。胸のあたりがムカムカし始め、今にも食べたもの全て吐き出してしまいそうな気分になる。
晴美は口を押さえてその場にしゃがみこんでしまった。
「な、なんでそんなことが、できるんですか。お、同じ『人』なのに」
「彼にとっては同じじゃなかったんだろうね。ところでどうする? 晴美ちゃんもやってみる? もしやってみるならお母さんに頼んで死罪確定の罪人の人を回してもらうようにお願いしてみるけど」
「ふざけないでください! そんなことできるわけないじゃないですか!」
どこまでも優しい口調で残酷な提案をしてくる連夜に対し、晴美は涙目で睨み付け怒りの声をあげる。
「そっか。『業奪者』になる方法はお気に召さなかったか。まあ、バレたら犯罪者になっちゃうしね。じゃあ、別の方法いってみよっか。肉体の能力を上昇させるだけが『力』を得る方法じゃない。強力な武器や防具を装備するという手段もある。君だって『聖剣』や『妖刀』の伝説の一つや二つ聞いたことあるでしょ?」
「確かにそれは聞いたことあります。『害獣』が現れる以前に作られた武具の中には持ってるだけで『神』や『悪魔』になれる品があったとか。でも、それらは全て『異界の力』を使用して作られたものだから、今の世界では使うどころか持ってるだけでも危ないって聞きましたけど」
「そうだね。確かに五百年以上も前に作られた物だとそうなるね。だけど僕が言っているのはそんな昔に作られた物じゃない。つい最近でも作られている代物さ。ねぇ、晴美ちゃん、この世界で最強の存在ってなんだろう?」
「それは勿論、『害獣』ですよね」
「正解。彼ら以上に強い生物は今のところ存在していない。それはそうだよね。この『世界』そのものが自分自身を守る為に作り出した最強の守護者なのだから。『人』の『力』ではどうしても勝つことができない存在だ。どんな金属でも切り裂く『爪』。どんな生き物でも噛み砕く牙。そして、あらゆる『異界の力』を無効にする強力極まりない広範囲結界。『貴族』クラス以上の『害獣』はほぼ無敵といっていいと思う」
「それくらいは知っています。『貴族』クラスの『害獣』に出会ってしまったら逃げることすらかなわない。死を覚悟するしかないって」
「そう。『貴族』以上のクラスの『害獣』はそこまで強いんだよね。さて、そこで本題だ。そんな無敵の生物の『爪』や『牙』を、ある名工が加工して作り出した武具があるとしたらどうする?」
ニヤリと悪い笑みを浮かべる連夜をしばしの間呆然と見詰めていた晴美であったが、彼の言葉の意味を理解すると再び驚愕の声をあげた。
「どどど、どうするって、そんなものが存在しているんですか!?」
「存在しているんだな、これが。君も知っての通り、僕の兄は一年ほど前に『貴族』クラスの『害獣』を一匹狩っている。そのときに得た素材を使って、ある名工が武具一式を作り上げた。全身鎧に盾、そして、片手で扱う広刃の剣。鎧や盾は人が作る事ができるあらゆる金属でできた武器を弾き返す。そして広刃の剣はどんな金属でできた防具も切り裂くだろう。それら一式を身に纏う。たったそれだけで君は歴戦の戦士と渡り合えるだけの『力』を手に入れることができる」
「あらゆる金属でできた武器の攻撃を弾き返し、あらゆる金属でできた防具を切り裂く。流石は『害獣』の素材でできた武具といったところですか。でも、それだけの性能を誇るってことは当然高価なものなんでしょう? 学生の私が手に入れることは不可能ですよね」
「ううん、可能だよ。だってその武具の持ち主は僕だからね。君が使いたいというならタダであげてもいい」
「た、タダぁっ!?」
連夜の突拍子もない申し出に晴美は目を白黒させて彼の顔を覗き込む。相変わらず柔らかい笑みを浮かべたまま静かに晴美の顔をみつめている。冗談なのか、あるいはなんらかの意図あっての発言か。連夜の顔からそれらを読み取る事はできず、晴美は困惑の表情を浮かべて口を開く。
「ほ、本当にタダでいただけるんですか?」
「勿論、無償で晴美ちゃんに進呈しよう。ちなみにサイズが合わないのを渡すなんて意地悪なことはしないよ。ちゃんと君の体に合わせて仕立て直してから渡してあげる」
「それを着用すれば、私もお姉ちゃんみたいに強くなれるんですか?」
「なれる。というか、玉藻さんですら勝てなくなるだろうね」
「そんなにですか!?」
自分が想像しているよりも遥かに凄い性能なのだと知って晴美の目は益々大きく見開かれる。素晴らしい意匠の華麗な武具を身に纏い、歴戦の戦士達を引き連れて指揮する自分の姿を想像し晴美は顔をにやけさせる。
想像の中の自分は強面の戦士達ばかりではなく、尊敬している姉玉藻や、憧れの人である連夜の姿もある。皆が晴美を必要とし、そして讃えるのだ。
頭の中でどんどん妄想は膨らんでいき、やがて彼女は『英雄』となって伝説になる。幸せな白昼夢であった。
しかし、そんな幸せな白昼夢は長くは続かなかった。晴美にとって都合の良過ぎる夢。それを終わらせる為に連夜は言葉を紡ぎはじめる。
「そんなにだよ。そんなにも強くなりすぎて、すぐに制御できなくなる。そして、やがては武具に取り込まれることになるだろう」
「そうなんですか。武具に取り込まれるんだぁ。へぇー・・・って、ちょっと待ってください! ぶ、武具に取り込まれるってどういうことですか?」
「この世界最強の生物である『害獣』は死して尚、完全に滅することはない。例え物言わぬ骸と成り果てても、『世界』の意思を果たす為に、『力』を使い続ける」
「世界の意思って、それはいったい」
「世界に蔓延る『異界の力』の完全なる駆逐。その目的を達成する為ならば、例え死して骸と成り果てようと、例え武器、防具にその身を変えられようと、『害獣』は活動を続ける。武器や防具に宿るその『意思』はやがて持ち主の体を侵食し、心を侵食し、そして、最後には『人』の姿をした『害獣』となって『人』々に襲いかかってくることになる。まあ、でもそうなるまでに多少の時間はかかるから、短い間ではあるけれど無敵の存在になることはできるよ。どう? 晴美ちゃん、試してみる?」
「絶対に嫌です!」
いい笑顔でとんでもない提案をしてくる連夜に対し、晴美は再び怒りの声をあげる。
伝説に出てくる武器や防具なら、手にしただけで簡単に強くなるかも。本気でそう信じかけていた。そんな矢先に見事にはしごを外された為、晴美の気持ちは頂点から地獄で急降下である。
明らかに晴美の反応を面白がって提案している。そうとしか思えない。
晴美は、できるだけ怖い顔を作って目の前に立つ人間族の少年を睨み付ける。
しかし、そんな風に睨まれても少年の笑顔は全く崩れる様子はない。それどころか益々その笑みは深くなる。その明るい表情とは裏腹に、得体の知れない黒い影を帯びて深く深くなっていく。
「晴美ちゃん。強い『力』を求めるならば、必ず『代償』が必要となる。『代償』なくして強い『力』を得ることはできない」
「時間や努力をすれば代償を払わなくていいってことですか?」
「晴美ちゃんは勘違いをしている。『時間』や『努力』。それもまた代償の一つなんだよ」
「!」
楽しい『時間』を削り、やりたくもない辛い訓練を行う。来る日も来る日も『力』を得るための『努力』を続ける。『人』の『命』を糧に他人の能力を奪い取る。世界に己の自我を明け渡す代わりに『害獣』の『力』を得る。
『力』を得る為に『人』は何かしらの対価を払っているのである。ただ、得ることのできる『力』の大きさに比例して、払わなくてはいけない対価も大きくなるだけ。
ある日突然強い力を得る。漫画や映画のヒーローのように突然特別な『力』に目覚める。
そんな都合のいい夢など現実にはない。この世界のどこにも存在してはいないのだ。
「君だってわかってるはずだよ晴美ちゃん。君の素晴らしい霊草の丸薬作りの技術だって、一朝一夕で身につけたものじゃないだろう? 玉藻さんがいなくなった後、辛い辛い修行を毎日毎日繰り返して、涙を流し、時にはうまくいかずに挫折して諦め、そんなことを繰り返して身に着けた技術だ。違うかい?」
「それは・・・そうです」
連夜の言葉に思わず反発しようとした晴美だった。だがしかし、一瞬詰まったあとに口からでた言葉は反発ではなく肯定であった。
無理矢理だったとはいえ、自分が苦しんで進んできた道を否定する事はできなかったのだ。
しかし、だからこそ晴美はどうしても納得できない部分がある。
目の前の少年と自分を比べたときに湧き上がり浮かび上がってくるどうしようもない暗い暗い黒い心の染み。
晴美はそれを搾り出すようにして吐き出した。
「で、でもどうして連夜さんはそんなにも才能にあふれているんですか? 私と数年しか違わないのに丸薬作りの技術ははるかに上じゃないですか。丸薬作りだけじゃない。様々な薬草や霊草に対する知識もあるし、薬品作りの技術だってもっている。それどころか薬草や霊草そのものを栽培する能力も持っているし、それらに術式を通して何倍にも効果を引き上げる技術だって持っていらっしゃる。他にも様々なこと知っているし、戦う術だって持ってる。どうしてですか? 私は丸薬作りだけ必死に修行してやっとここまでしかたどり着けなかったのに、どうして連夜さんはそんなにもたくさんの能力に優れているんですか!? 生まれ持った才能ですか? 才能がなかったら何をやってもダメなんですか? 私じゃ結局連夜さんの役には立てないってことですか? 私は・・・私は如月 玉藻の妹ってだけで保護してもらってるただのお荷物なんですか!? 答えてください連夜さん。答えてくださいよぉっ!」
ずっと胸に抱えてきた黒い何かが言葉となって吐き出される。
一応、それらは最後まで言葉という形となって連夜にぶつけることができた。しかし、いい終わった後、晴美の顔はくしゃくしゃになっていた。
涙と鼻水と涎を盛大に垂れ流し、声をあげて号泣しながら連夜の体にすがりつく。
連夜はそんな晴美を突き放したりはしなかった。今まで浮かべていた笑顔を消し、代わりに困った表情を浮かべて自分の胸で泣き続ける小さな少女を見つめ続ける。
未だすぐ側で玉藻が脱走兵の男と戦い続けており、また、鉄線で縛られているとはいえ他の敵兵達の姿もある。のんびり話をしている状況ではない。
しかし、連夜は晴美との会話を続けることにした。状況を考えればこじれてしまった少女との確執を修復するのは後にすべきことだとわかっている。
だがそれでも連夜は晴美を優先することにした。このままにしてはいけないと思ったからだ。
やがて意を決したような表情となった連夜は、彼女の体を引き剥がして正面から見つめる。
そして、真剣な表情であることを話始めたのだった。
「『精神進化促進剤』という薬がかつて存在していた」
「ぐすぐすっ・・・え? は? あ、あるつはいまーですか?」
「アルツハイマーじゃなくて、『精神進化促進剤』だよ。ある犯罪組織が作り出した薬品でね。勿論、非合法」
「『魔薬』の一種ですか?」
恐る恐る晴美は聞き返す。
彼女の目の前に立つ少年は、今まで一度として見たこともないような真剣な表情を浮かべてこちらを見つめている。
冗談交じりで話していたこれまでとは全く雰囲気が変わっており、自然と晴美の表情も引き締まる。
いつのまにか涙は止まり、彼女は連夜の話に集中し始めていた。
「確かにどちらも危険な劇薬であることには間違いないけれど、ちょっと違う。『精神進化促進剤』には『魔薬』のような常習性はない。それどころか、使用するのは一人一回きり。使用後に再び同じ人物に『精神進化促進剤』を使う事はない」
「なんなんですか、その薬。なんの為に使うんですか?」
「薬の名前通り、未熟な精神を強制的に進化させる効果を持つ薬だよ。元々は先天的に脳が発達し難い障害を持った『人』達の為に開発された薬だったんだ。でも、薬の研究は思わぬ方向に進んでしまった。当初の目的とは全く違う効能をもった薬が出来上がってしまったんだ。それは使いようによって非常に有効な効能ではあったんだけど、同時にある致命的な欠点も内包していた。その欠点はあまりにも大きすぎた。薬を飲んで得られるプラスの効果は確かに魅力的ではあったが、それ以上にその後にくる後遺症があまりにもひどすぎた。結果、研究は中止。その薬は薬学会の歴史の闇の中に葬られるはずだった。でも、ある犯罪組織がその研究に目をつけた。彼らはその研究に携わっていた研究員達をスカウトし、その薬品のデータと精製方法を獲得することに成功する。彼らは組織の一員となった研究員達にその薬にある改良を施すように指示。その結果、恐ろしい薬がこの世に誕生することとなった」
「いったい、どんな効能があったというんですか? 『人』を即殺するような薬物兵器ですか?」
「兵器ではない。その薬にはね、三つの効能があった。一つは、六歳未満の幼児の精神を、たった一日で強制的に『成人』へと成長させるというもの。二つ目は薬品を飲んだ後の数日間、洗脳をしやすい精神状態にすること。そして、最後の一つは、強制的にある一定量の知識や情報を脳に刻み込むというもの。といっても小さな図書館一つ分もあるんだけどね」
「く、薬ですよね? 二番目の洗脳しやすい精神状態にするという効能はできなくはないと思いますが、一つ目と三つ目は。いったいどんな材料を使えばそんなことが可能になる薬が作り出せるんですか?」
はっきり言って晴美には信じられなかった。
『人』の精神状態をある程度コントロールする薬ならいくつか知っている。勿論、一般には出回っていない代物で軍などが捕虜に対する尋問をするときなどに使われたりすると聞いたことがある。しかし、残り二つの効能については聞いたことがない。あまりにも荒唐無稽な話だ。連夜が言ったのでなければ最初から考えることなく嘘だと断じていただろう。
「さっきから何度も言っているけど、実際にその薬は存在したし、つい数年前までは使用されていた。薬を投与されていたのは犯罪組織が世界各地から浚ってきた子供達。組織の目的は、彼らに都合のいい労働奴隷を作り出すこと。薬によって精神を無理矢理『成人』へと引き上げられると同時に、子供達の脳に労働に必要な知識や情報を直接流し込む。そして、その後、組織に逆らわないよう洗脳を施す。そうして出来上がった子供達は組織にどこまでも従順でどんな命令にも従う生きたゴーレムとなる」
「生きた・・・ゴーレム」
「そう。しかも性能は折り紙つきだ。外見こそ子供だが、思考能力や判断能力は大人と変わらず、しかも下手な学生なんかよりも遥かに豊富な知識と情報を持っている。体が子供なわけだからどうしても腕力や体力は大人には勝てない。だけど、逆に考えればもし仮に洗脳が解けて逆らってきたとしても全然怖い存在ではない」
「でもそんなんじゃあ、労働力としては期待できないのでは」
「大人の労働奴隷と比べれば単純な力仕事には向いてないのは間違いないね。でも、そこは詰め込まれた知識と大人の判断力で十分にカバーできる。作業内容によっては子供のほうが有利な場所もたくさんある。たとえば大人の大きな体では入れない狭い坑道とかね」
晴美の質問に答えを返しつつ淡々と話を続けていた連夜だったが、最後のくだりのところで表情が崩れる。
何かを思い出したのか、深い悲しみに満ちた表情を一瞬垣間見せる。しかし、二、三度頭を振ってみせるとすぐにまた元の冷静な表情へともどった。
晴美はそのことに気がついていたが敢えてそのことには触れなかった。その代わりに別の質問を口に上らせる。
「それでその非合法の薬の話がどうしたのですか?」
「大人の思考能力と判断力、そして、大学生でも持っていないような様々な分野の知識や情報を埋め込まれた子供の姿をした超高性能生体ゴーレム。主である犯罪組織の構成員達に忠実で、命令には絶対従うどこまでも都合のいい人形。しかし、もしそんな組織の洗脳を逃れ自由を得ることができた人形がいたとしたら、それは果たして人形といえるだろうか?」
「・・・えっ」
「同年代の子供達と比べれば遥かに優れた存在といえないかな? 六歳くらいといえばまだ小学校に入学するかどうかの年齢。大学の勉強どころかやっと算数や共通言語を習い始めたばかりの頃だろう。まさにこれから様々なことを学んでいく出発地点だ。ところが組織に浚われ薬を投与された者達はそんなところはとうの昔に過ぎ去ってしまっている。それどころか下手をすれば大学生よりも学識に優れた者だって存在しているんだよ。『頂人』とまではいかないが、それでも『常人よりも優れた者』であることは間違いがない」
演劇でもしているかのような大袈裟な手振り身振りで説明をし始めた連夜を、晴美は呆気に取られて見つめ続ける。今の連夜はまるで道化そのもの。観客を笑わせようとしているかのように見える。しかし、その作られた笑みの中にある瞳は笑ってはいない。それどころか深い悲しみの色をにじませていた。
夜のような黒い瞳。
そんな連夜の瞳の中に深い悲しみを見つけたとき、晴美は彼が語ろうとしていたことの全てを察した。
そして、そのことを確認する為に口を開こうとしたのだが、意外な人物から彼女に代わってその質問、いや、確認の言葉を紡ぐ出す。
「つまり、その子供奴隷の生き残りがおまえってわけだ」
野太い中年男性の声。
連夜と晴美が声のしたほうへと視線を向ける。そこには胡坐をかいて地面に座る始祖鳥人族の男の姿。
後ろに回された両手と体には鉄線が巻かれている。今、玉藻と戦っている脱走兵の仲間の一人だった。同じように捕まっている他の脱走兵達が、その男を守るようにした円陣を組んで座っている。どうやらそれなりに高い地位にいる人物のようだ。
捕まっているにも関わらず余裕さえ見せながらこちらを見つめてくる男に対し、連夜はわざとらしいため息を吐き出しながら口を開く。
「僕が話している相手はあなたではなく、ここにいる晴美ちゃんなんですけどね」
「いいから答えろ人間族。おまえがその子供奴隷の生き残りなんだろ?」
「やれやれ。尋問される側の立場であるあなたに答える義務など本来ならないはずなんですけど、まあ、いいです。あなたの仰る通り。子供の頃にあなた達の組織に浚われ僕は、あの悪夢のような薬を投与された」
「やはりそうか。くっくっく。はっはっは。こりゃ傑作だ。まさかあの薬を打たれてこの歳になるまで生きている奴がいるとは思わなかったぜ」
連夜の答えを聞いた始祖鳥人族の男はこらえ切れないとばかりにゲラゲラと笑い出す。いや、質問した男ばかりではない。男の周囲にいる捕まった脱走兵達皆が、連夜を見ながら嘲笑の声をあげていた。
そんな男達を不快そうに見つめる連夜と、困惑の表情を浮かべる晴美。
そして、周囲を固める戦士達の一部の者達の間から吹き上がる物凄い殺気と怒気。
周囲に劇的な変化をもたらしたのは間違いなく脱走兵達の下卑た笑い声であるが、当の本人達はその変化そのものに気がついていなかった。
よく耳を澄ませば周囲のあちこちから拳を握り締める音や、剣を鞘から抜き放つ音がいくつも聞こえてくる。
そのことに勿論気がついていた連夜は、疲れたように首を横に振りながら何かの合図を送るように片手を振る。
すると連夜の周囲のあちこちで感じていた燃えるような怒気は一瞬で鎮火。変わりにもっと深く恐ろしい何かが満ち溢れはじめる。まるで冷たい海の底に引きずり込まれるような嫌な気配。
しかし、やはり脱走兵達はそれに気がつかない。自分達が発する嘲笑に酔ってしまっていた。
だが、周囲の雰囲気が変わったことに気がついていない者がもう一人だけいた。その人物は先程脱走兵の一人が口にした内容がとても無視できないものだったことに衝撃を受け、それどころではなかったのだ。
彼女はその言葉の真意を測りかね混乱したように言葉をつむぐ。
「どういうこと。連夜さんの多彩な才能が『精神進化促進剤』とかいう薬のおかげだってことはわかったけど、洗脳が解けたのなら利点しかないはずよね。なのに、どうしてこの人達笑っているの?」
「お嬢ちゃんは本当にあの薬のことを知らないらしいな。おい、小僧。おまえ今、歳はいくつだ。未だに生きているということは二十歳にはなってはいまい。そうだな十五から十七といったところか。そこまで生きることができてラッキーだったな。しかし、内臓はどれくらい残ってる? 肝臓や腎臓はもう使い物になってはいまい。すい臓や脾臓も怪しいか。あるいは残っていてもほとんど機能していないか。どちらにせよ、おまえさん、そこで立っているのがやっとだろ?」
「え? え? 何? 連夜さんて病気か何かなの?」
「病気なんて生易しい代物じゃない。あの薬を打たれた子供は、確かに成人以上の思考能力や判断力を持ち、大学生以上の知識を身につけた『常人よりも優れた者』へと進化する。しかしな、同時にその未成熟な体は急激な脳の成長についていくことができず、常人よりも遥かに早いスピードで肉体が老化し崩壊していくというペナルティを負うことになる。その為、どんなに長寿な種族の子供であろうとも二十年と生きることができないのさ」
「なんですって!?」
始祖鳥人族の男が話す衝撃の事実に晴美は驚きを隠すことができない。悪意に満ち溢れたその言葉は虚偽ではないのか。一瞬、そう疑った晴美は真実を知るはずの少年に視線を向けた。
そこには厳しい表情を浮かべた連夜の姿。男の言葉に対し肯定の声も否定の声もあげず、ただただ冷たい眼差しで男を睨み続けているだけ。
晴美は男が話した全てが真実であることを連夜の態度から確信し絶望の声をあげた。
「そんな。嘘でしょ。連夜さんの命があとわずかなんて信じられない」
「信じられなくても事実は事実だ。しかし、まさか俺達の天敵があの秘密鉱山の生き残りだったとは」
「天敵ってのはなんのことです、副長。この小僧のことをご存知なので?」
始祖鳥人族の男の呟きに気がついた脱走兵の一人が不思議そうに問いかける。すると副長と呼ばれたその男は連夜の首にかかったガスマスクを指差してみせる。
「あれを見ろ。あのタコの吸い口のようになったガスマスク。それを被ったある怪人物のことをお前達は聞いたことがないか?」
「え? タコのようなガスマスク・・・って、まさか、副長。この小僧は!」
「ああ、恐らくこの小僧が『蛸竜』だ」
「こ、ここここんな小僧がですかいっ!?」
「俺も最初はまさかとは思ったが、こいつが『精神進化促進剤』の被験者だっていうなら納得できる。あまり知られてはいなかったがな、あの薬はただ子供を大人にするだけの薬じゃない。極まれにだが、とんでもない能力を持つ『怪物』を生み出すことがあったそうだ」
「とんでもない能力っていうと、例えばどんな能力なんですか?」
「種族特性とは別に、まるでかつての超越者達が所持していたような強力な能力を持つ者がいたそうだ。例えば大気を手足の如く操り周囲が止まって見えるほどのスピードで動くことを可能とする能力。あるいは電気を自在に操り放電するだけでなく、自分の体内にそれを流す事によって一時的に『超人』となることを可能とする能力。またあるいは『念』と呼ばれる超エネルギーを操り、まるで『害獣』のように『異界の力』によって発揮される現象の悉くを打ち砕く能力。そして、未確認ではあるが、五百年前に存在した最悪の殺戮マシーン『勇者』になる者もいたという」
「ゆ、勇者って、あの、自分とは違う種族の者全てを目の敵にして殺しまわったっていう、あの悪名高いあれですか? でも、あれは御伽噺なんじゃ」
「下級種族の者達には伝わってないかもしれんが、一部の上級種族達が持つ記録の中に『勇者』について書かれた書物がいくつか確認されている。つまり『勇者』は伝説でも御伽噺でもない。いや、『勇者』についてはこの際どうでもいい。何の種族だったか忘れたが、あれはある特定の種族にのみ現れる例外中の例外だ。この小僧がそうだという可能性は限りなく低い。しかし、それでも何らかの能力に目覚めている可能性は高い。いや、間違いなく何らかの能力に目覚めているのだろう。だからこそ、こいつは生き残り、そして、俺達に対する復讐を実行してきた。違うか、小僧?」
副長と呼ばれた始祖鳥人族の男と共に脱走兵達が一斉に連夜に向けて強烈な殺気を放つ。ただの犯罪者のそれではない。『害獣』に襲われても生き残るだけの実力を持った恐るべき強者達の鋭い眼光。並みの戦士であればそれだけで気圧されて、場合によっては失禁すらしてしまいかねない。
しかし、連夜はどこまでも冷然とその眼光を受け止める。いやそれどころか、彼は敵意を向けてくる脱走兵を強い眼差しで睨み返した。
深く暗い『闇』が溢れ出るドス黒い瞳。そこには晴美に向けて放たれていた月や星のような優しい光は欠片もない。どこまでもどこまでも続く光無き深淵の闇が覗いていた。そんな連夜の闇に呑まれた者達から小さな呻き声があがる。
「ひっ」
「なんだありゃ」
「が、ガキの目じゃねぇよ」
「狼狽えるんじゃない、バカヤロウ共!」
次々と拡がる恐怖の連鎖を、副長の一括が断ち切る。脱走兵達はかろうじてそれ以上の弱音を吐き出すことなく、口を閉じて自らの腹の中へと飲み下すことに成功した。だが、それでもどの兵士達もその瞳の中から完全に恐怖の色を消し去ることはできなかった。
全員が全員すがりつくようにして、中央に座る今のリーダー格である副長を見つめる。
部下達から見つめられていることに気がついていた副長は、目だけを動かしてある方向を盗み見る。そこでは未だに戦い続けている、自分達の隊長の姿。しかし、戦況はどうみてもよくはない。いや、はっきり言って悪い。リーダーが戦っている相手はあまりにも強すぎる。どう見ても勝ち目があるようには見えなかった。
と、なるとここは一発逆転の為に自分達が動くしかない。
『四腕灰色熊』の群れから逃れる為にわざと捕まって様子を見てきた。できれば『四腕灰色熊』と共倒れになってくれればよいと思っていたが、ここち配置されていた兵士達は残念ながらそこまで弱くはなかった。多少の怪我人は出しつつもきっちり討伐を果たしているのを確認している。
見たところここにいる戦士達は『アルカディア』直属の兵士ではない。とはいえ正規兵らしき姿も混じっていることから、恐らくここの中央庁に雇われた傭兵の一団だろうと思っていた。
しかし、彼らを率いていたのは自分達が行方を捜していた犯罪者潰しの怪人『蛸竜』と思われる少年。
信じがたいことではあるが、周囲を固める戦士達の挙動や言動から考えて、この年端のいかない少年が彼らの指揮官だと見て間違いはない。
先程、彼が元々自分達の組織が作り上げた労働用高性能子供奴隷であることは判明した。しかし、その詳しい素性まではわかってはいない。しかし、彼は間違いなく中央庁と繋がりがある。少数ではあるが周囲を警戒している正規兵達が彼に敬意を払って接しているのをその目で確認しているからだ。
それもその接し方は明らかに上官に対するもの。それもかなり階級が上である。
今まで気がつかなかった自分達の間抜け具合に苦笑しか出ないが、怪人『蛸竜』が中央庁に所属し裏の仕事を担当している考えれば、犯罪者を狩っていることも、正規兵と一緒に行動していることも不思議なことではない。いや、むしろ自然といえる。
正直、情報が少なすぎて明確な答えを今すぐに出すことはできない。
しかし、この目の前に立つ少年を抑えることができれば、彼を人質にしてここから安全に脱出することが可能になることだけはわかる。
恐らくその考えに間違いはないはずだ。
この部隊最大戦力であるリーダーの力を得られないのは痛いところだが、やるなら今しかない。
副長と呼ばれた男、始祖鳥人族の脱走兵ピエールは、喉の奥から『カモメ』のような鳴き声を発する。
それは部下達にだけわかる秘密の合図。
脱走兵達はピエールの合図にすぐさま反応し、行動を開始する。
戦意を漲らせた脱走兵達の体から、次々と鉄線が弾け飛ぶ。そして、自由を取り戻した兵士達は一斉にある一点目掛けて猛然と突撃を開始。
その一点とは勿論言うまでもなく、一人の少年。
「『業奪者』が隊長一人だと思ったか馬鹿め! ここから脱出するための人質になってもらうぞ『蛸竜』!」
慌てた様子もなく悠然とそこに立ち、こちらを冷然と見つめ続ける連夜に、ピエール達が殺到していく。
何かの能力を発動したのか、ピエールを先頭に数人の男達が凄まじいスピードで連夜に迫る。
連夜の体に手が届くと確信したピエールは勝利の笑みを浮かべようとした。だが、その寸前で彼の顔が凍りつく。
「なんで僕があなたたちを『業奪者』と思っていないと判断したんですか? これだけ警戒しているのに。馬鹿はどちらなんでしょうね」
心底呆れ果てたという口調の連夜の呟きがピエールの耳に聞こえただろうか。
連夜に手が届く寸前、連夜とその横に立っていた晴美の姿が掻き消えピエールの手は見事に空振る。それはピエールばかりではない。彼の後に続いていた部下達もまた同様。捕捉する寸前で目標を見失った彼らは、間抜けな面を晒しながら慌てて周囲を見渡そうとする。
しかし、ピエールと先頭グループに男達はついにそれを行うことはできなかった。
何かが上から降ってきた。かなりの質量を持つ何かが。それを感じて上を見上げようとしたそのときにはもう遅い。彼らは何かに押しつぶされ地面に叩きつけられることとなった。
あまりの重さに悲鳴をあげることすらできずに悶絶するピエール達。
「連夜の傍に護衛が誰もいないなんて、そんな状態ありえないだろうが」
上から降ってきた何かが怒りをにじませた野太い声でそう呟く。
それは生きていた。ぼろぼろの道着に身を包んだ白毛の大猿。そして、彼の左右の大きな肩の上に少年と少女が一人ずつ。
「『J』、護衛ご苦労様」
「当たり前だ、これが俺の仕事だからな。っていうか、おまえに何かあったら、美咲姉さんに何をされるかわかったもんじゃないぜ」
肩の上から労いの言葉をかける連夜に対し、霊山白猿族の戦士『J』は漢臭い笑みを浮かべて答える。
そう、連夜を救ったのは血の繋がらない彼の義兄である白い大猿の戦士であった。
ピエールが連夜に手を伸ばした直前、一陣の風となって連夜の傍に現れた『J』が、彼と晴美の体を肩に担いで空高く舞い、その場を逃れたのだ。そして、その後、連夜を見失って盛大に狼狽えている彼らの頭上にそのまま舞い降りて踏み潰したのだった。
「さて、折角だからもう少し見せ場をと思ったのだが」
「残念だったね。後の雑魚は俺達が頂いたよ」
「そうね、たまには侍従らしい仕事しないといけないからね」
連夜達を肩に乗せたまま残った脱走兵達を片付けてやろうと振り返った『J』であったが、そのとき既に戦闘は終結してしまっていた。
彼の視線の先には、地面に突っ伏して倒れる残りの脱走兵達の姿と、槍と薙刀という獲物をそれぞれ肩に担いでこちらに笑顔を向けてくる二人の戦士の姿。他にも数人の戦士達が脱走兵達の身柄を捕縛し確保していた。
「『F』にリビーさん。そして、みんなご苦労様」
「かわいい義弟を守るためだから、これくらいは当然」
「ボスの身に何かあっては、お屋形様や奥方様に申し訳がたちませんから」
「それでボス、この者達は如何いたしましょう」
倒れている脱走兵達を再度捕縛するよう命じていたクレオが、連夜の元にやってきて指示を乞う。大猿の肩の上で俯いて少しの間考えていた連夜であったが、ガスマスクを着用してから顔をあげる。
「そのままアルカディアの正規軍に引き渡そうと思っていたけれど、そういうわけにはいかなくなっちゃったね。僕の正体に気がつかれちゃったみたいだし、悪いけどカロン医師と彼の私設医師団を呼んで来てくれるかな」
連夜はどこまでも淡々とした口調で事務的に指示を出す。その言葉を聞いた者達の反応は実に様々だ。あくまでも無表情を貫く者、驚きを隠せない者、嫌悪感をあらわにする者、だが、大半の者達はその指示を聞いて笑みを浮かべていた。『悪魔』のような暗い笑みを。
「畏まりました。では、いつものようにカロン医師に引き渡すことにいたします」
連夜に向かって恭しく頭を下げて一礼するクレオもまたそんな笑みを浮かべる一人。彼女は頭を上げて連夜に背を向けたあと、嬉々として部下達に指示を出す。
「聞いた通りだ。ここにある『丸太』は全てカロン医師団に提供されることとなった。知ってのとおり、『丸太』は全て『移植手術』に使用される。したがって、これ以降の『丸太』の損傷は極力避けるように。万全の状態で保管してもらいたい。『丸太』の不穏状態がひどい場合は、術師に連絡。沈静術式で対応するように。では各員速やかに作業に取り掛かれ!」
『了解』
クレオの指示に従い戦士達が一斉に倒れている脱走兵達へと駆け寄っていく。彼らの体に何かの術式をかけた後、ぐったりした彼らの体を白いシーツでくるむ。そして、その後、二人がかりで担架に乗せると次々といずこかへと連れ去っていった。
そんな様子を呆然と見つめていた晴美は、自分が座る大猿の肩の反対側に座っているガスマスク姿の少年に恐る恐る声をかけた。
「れ、連夜さん、さっき何かすごい不穏な言葉がいくつか聞こえてきたんですけど、あ、あの人達どうなってしまうんでしょうか」
晴美の問いかけに対する答えはすぐには返ってこなかった。よくみるとガスマスクをつけた顔は晴美の方には向いてはいない。ちょっとまっていればこっちを向いてくれるかもと思っていたが、ガスマスクは一向にこちらを向きはしなかったし、答えも返ってはこなかった。
居た堪れなくなって周囲を見渡すと、先程とは違い、『F』やリビュエーをはじめ、連夜の縁者の者達が彼を守るようにして集まってきているのを確認した。だが、誰も晴美の方に視線を向けてはおらず、皆、連夜達に背を向けて立っている。恐らく新たな襲撃者が来ても対応できるようにであろう。
淡々と戦士達が作業している音だけが聞こえてくる。静かではない。しかし、晴美にとってそれは静寂となんわかわりがなかった。
孤独が晴美の心をじわじわと支配していく。
このまま放って置かれたら泣いちゃうだろうなぁ、と思っていたら晴美の耳にぽつりと誰かの呟きが聞こえてきた。
「彼らはこれから代償を支払うことになる」
「代償ですか? 強大な『力』を得たことに対するですか?」
「いいや、それも含めて彼らが行ってきたこれまでの『全て』に対する代償だよ。何かを得るためには、何かを支払わなくてはならない。タダで手に入るものなど、この世の中に一つも存在してはいない。例えそのとき自分が得をしたと思っても、実際には同じくらい大事な何かを失っている。本当に失って困るものを支払うことにならないように、無くさないように、『人』はよく考えて自分が進むべき道、その為の方法を考えなくてはいけない。でないと、あの脱走兵達や、あいつのように全てを失うことになる」
そういってガスマスクの少年はある一点を指差してみせる。晴美は、促されるままに視線をそちらへ向け、そして、絶句する。
彼女の視線の先にはかつて『人』だったものの残骸が転がっていた。手足が曲がってはいけない方向に曲がり、血だらけになって倒れている一人の兵士の姿。勿論、それは彼女の姉ではない。
彼女の姉は、ぼろ雑巾のようになって地面に転がる兵士の前にあった。傷一つ負っていないどころか、髪の毛すら乱れてはいない。完全に戦う前の状態そのままの姿で彼女は立っていた。
「自らの血と汗と涙を流し、貴重な時間を費やして勝ち得た己の力で戦った者と、『人』の命を踏みにじり、無理矢理奪った借り物の『力』で戦った者。今、目の前に現れた結果はある意味当然の形ではある。でも全てではない。場合によってはこれが逆転した結果になることも世の中にはある。どんな道を選ぶのも晴美ちゃんの自由だ。残念ながら僕にも玉藻さんにもそれはなかった。選択の余地はなく、ただ無理矢理押し付けられた道をなんとか自分の力で最善へと導くためにあがくしかなかった。でも、晴美ちゃんにはそれがある。何を選ぶのかは晴美ちゃんの自由だ。何を選んでもいい。でもできればよく考えてほしいと思う。最善を目指してあがいても、結局、自分の手で運命を変えることができなかった僕のようにだけはなってほしくないからね」
「連夜さん、それは、あの脱走兵の人が言っていたことはやっぱり」
「とりあえず、よく考えてみてよ。今日はここまでにするから。この後大事な仕事も残ってるしね。玉藻さん、お疲れ様でしたー」
玉藻に向かって嬉しそうな声をあげた連夜は、大きく手を振って見せる。その連夜の声に答え、少し離れたところに立つ玉藻もまた手を振り返す。
殺伐とした雰囲気の中、それをまったく気にすることなく二人の世界を作る玉藻と連夜の姿を、晴美はなんともいえない気持ちで見守り続ける。
正直に言えば二人の中に入っていって、盛大に邪魔してやりたいと思う。しかし、結局それをすることはできなかった。いくつもの疑問、いくつもの想い。晴美は自分の気持ちすらわからず、自分がどうしたいかもわからず、ただただ迷うばかり。
それでも彼女は考え続けるのだった。
彼女はしばらくの間悩み続けることとなる。