第二話 『狐と鴉』 その1
彼女はいつも思う。
朝目が覚めた時、ご飯を食べている時、学校に行く時、授業を受けている時、学校からの帰り道にある時、そして、眠りにつきその夢の中にある時ですら思うのだ。
自分のことを心の底から理解して側にいてくれる者はいないと。
彼女には祖父がいる、祖母もいる、父も母もいれば、普通の家庭以上に兄弟姉妹もいるし、親戚もいれば血の繋がった彼女に近しいもの達はたくさんいる。みんな病気一つせず元気に生きているし、なんの問題もないはずだった。
しかし、この世界に生を受けてから二十年という月日の間のほとんどを彼女は孤独に過ごしてきた。
彼女が生まれた家は特殊な丸薬作りの大家であり、そこに住む人々の価値観は実に世間から大きく外れたものであった。その家の頂点に立つ一部の長老達にとってこの家に生きる大人達は丸薬を作るための大事な機械の一部であり、その家に生まれてきた子供達はいずれその大事な機械になる部品。
そこで生きる者達のほとんどが『人』として扱われることがない。生まれてきたそのときから、機械として生きることを徹底して教育され、物心がつく頃にはそれが当たり前になってしまう。
だが、幸か不幸か、彼女にはその洗脳が全く通用しなかった。
長年そうやって子供達を調教してきた一族の特殊教育係がどれだけ手を尽くそうとも、彼女だけは頑としてその洗脳を受け付けなかったのだ。特殊な軍隊に所属し、そういった精神操作に対抗する訓練を受けてきた歴戦の戦士ならともかく、生まれてまもない子供にまったくその精神操作術、洗脳術が通じないのである。
やがて、彼女のことを知った一族の長老達が、一族に伝わる記録を調べた結果、彼女が何百年に一人生まれてくるか否かの非常に強力な力を持った稀な存在であることを突き止める。本来であれば洗脳できない子供など秘密裏に処理されてしまうはずであったが、その潜在能力に目をつけた長老達は彼女をそのまま育て続けることを命じる。
そうして、彼女はその異質な世界で育てられることになったのであるが、紛れ込んだ異分子は、紛れ込んだほうも紛れ込まれたほうも受け入れられはしなかった。
周囲の親戚たちどころか、親兄弟達までもが彼女を最初からつまはじきにしたのだ。里の絶対権力者である長老の命令であるので、表だってことを起こすものはほとんどいなかったが、裏では陰湿ないじめが続く。それも本来なら自分の子供を守らなくてはならないはずの親や、かばわなくてはならないはずの兄姉達が率先して行うのである。そんな彼女の居場所などどこにもあろうはずもなかった。
しかし、そこまでされても彼女は壊れなかった。歯をくいしばって日々を耐え、自らの身体を鍛え、外の世界に自分の助けとなる者を密かに作り、その牙を研ぎ続けた。
そして、中学生に進級する日が間近に迫ったある日、彼女は自らが生まれた里と決別する。全寮制の学校に進学し、もう里には戻らないと長老達に告げたのである。
長老たちは何をバカなことをとその提案を一蹴しようとした。だが、彼女は自分達が洗脳した他の子供達とは違っていた。もしそれを許さないというのなら、この里の実情を中央庁に洗いざらいぶちまけると長老達に告げたのだ。
これを聞いた長老達は慌てふためいた。自分達の里の中では最強の絶対権力者であり逆らう者などいない王様の長老達であるが、流石の長老達も自分達が住む都市の頂点に君臨する中央庁にはかなわない。しかも里の中では合法であっても、中央庁側からすれば長老達が里の中でやっていることは許されざる違法なのだ。それも軽犯罪とかいう生易しいレベルではない、史上稀に見る大犯罪であり、公になれば歴史に間違いなく残ってしまうだろう。
長老達は一瞬、目の前に座る小娘をきれいさっぱり処分して証拠隠滅をとも思ったが、その小娘はそんな浅知恵が通じる相手ではなかった。どうやってかはわからないが、ある大学の高名な『療術師』の弟子となり、その後ろ盾をいつのまにか得ていた彼女は、もし、自分が戻らない場合はその師匠を通じて中央庁に連絡がいくと告げたのである。
里に引っ込み世間のことになど無関心の長老達も、その『療術師』の名についてはよく知っていた。長老達は北方諸都市に存在しているいくつもの製薬会社と取引をしているが、その製薬会社達がこぞって自分達の会社の特別顧問として在籍を求め、名前だけでもいいからとラブコールを送っているという超有名凄腕『療術師』。それが彼女の今の師匠だという。
寝耳に水の彼らは、信じられんと彼女に詰め寄ったが、彼女は酷薄な笑みを浮かべて傲然と呟いた。
『だったらあなた達が知る製薬会社に連絡を取り、あの『人』の念話番号を聞いて直接念話をかけてみればいい。すぐにわかること』
言われるまでもなく長老達はそれを即実行に移し、そして、彼女の言ったことが完全に真実であったことを知る。こうして長老達は完全に敗北を認め、彼女は里を出た。勿論その際、彼女が成人にいたるまでに必要な学費や生活費もろもろを、慰謝料代わりにごっそり払わせることも忘れずに。
こうして彼女は自由を得たわけであるが、自由を得ても彼女を理解してくれるものを得ることはほとんどできなかった。
いや、皆無であったわけではない。片手の指ほどであるが彼女を理解してくれる者がいないわけではない。彼女が尊敬してやまない師匠、小学校時代からの腐れ縁で大親友の少女、血の繋がった肉親の中で唯一心を許し理解し合うことができた妹。
みな、彼女のことを理解してくれ、味方となってくれる者達であるが、いずれは彼女の側を通り過ぎていくものであることを彼女はよくわかっていた。しかし、彼女が真に望んでいるのはそういうものではない。彼らだけでも非常にありがたい存在であることに間違いはない、しかし、自分の心が、魂が、求め続ける何かがあるのだ。常に渇きつづけているこの心を潤してくれる何かがほしい。
そう思ったとき、いつも彼女の脳裏に一人の少年の姿が思い出される。
ぼろぼろのフード付きのパーカーを目深にかぶり、ジーンズについたどろをはらいもせずに穏やかな気配で自分を見つめ続ける一人の少年の姿。目深にかぶったフードのせいで口元しかいつも見えなかったが、その口元にはいつもいつも笑みが浮かんでいた。
その姿を思い浮かべると、あのときに少年が自分に言った言葉が必ずよみがえり思い出してしまうのだ。
『お姉ちゃん、僕のお嫁さんになってくれる?』
それは彼女が中学校に進級する直前のときのこと、その言葉を口にしたのはその彼女よりもさらに年下の小学生の子供で、その意味の重要さを知ることなく口にしたのではないか、いや普通はそう考えるだろう、まだ小学生の彼が結婚して二人で生きていく本当の意味をわかっていたはずがない。しかし、彼女はそう思わなかった。あのとき、あの少年は間違いなくその意味を知っていて自分を求めたのだ。フードの奥底に光る二つのあの目。真っ暗な夜に星が輝いて闇をわずかに照らしだすような光。それは強烈な光ではない、しかし、その強い意志は間違いなくそこにあって、揺るぎなく自分を見つめていた。
あの瞳を思い出すたびに自分の心が鷲掴みにされたようになる。何か過去になくした大事な大事な何かに巡り合えたような、そんな歓喜にも似た溢れるような激情。しかし、幼い自分はそんな自分を誤魔化して、返事をはぐらかしてしまった。
『もっといい男になったら考えてあげてもいいよ』
恥ずかしくてそれだけ言い残して駆け去るようにその場を立ち去った。
それまでも彼とは何度も会っていた。学年が違っていて、同じクラスだったわけではない。それどころか同じ学校ではなかったのかもしれない。彼と会うのはいつも学校の外。彼女の大親友の少女と共に、弱い者苛めをするどうしようもない悪ガキどもを標的にして欝憤晴らしに大暴れしていると、いつもどこからともなく彼が現れるのだ。
悪がきどもに加担するわけでもない、かといって彼女達に加勢するわけでもない。ただ静かに自分達のしていることを見守り、事が終わると双方を簡単に治療して立ち去っていく。
実は、今の彼女の師匠である『療術師』と引き合わせてくれたのは彼なのである。あるとき彼女が悪がきどもをあまりにもぼこぼこにし過ぎて、洒落にならないほどの怪我を負わせてしまった時に、どこからともなく現れた少年が、その現状を見て師匠を連れて来てくれたのである。
やってきた師匠はあっというまに悪がきどもの怪我を跡形もなく治してしまったわけであるが、治療後あまりにも度がすぎる暴力をふるう彼女に説教しているうちに、彼女が置かれている現状を知った師匠が、自分が後ろ盾になってやるから里を出ないかと申し出てくれたのだ。その後、何度か師匠とやりとりをして正式に弟子になり、やがて彼女は里から離れることに成功することになったのである。
彼女の真の姿である『金毛白面』の姿は、当時から恐怖の象徴だった。彼女の容赦のない苛烈な武は、あまりにも凄まじすぎ、悪がきどもだけでなく普通の同級生達からも恐れられていたほど。実家のことでただでさえ荒れていた彼女は、心に抱え込んだ負の感情を隠そうともしなかったため、大親友以外のクラスメイト達はほとんどよりつこうとしなかった。
しかし、そんな彼女を目の前にしても、少年は全く動揺しなかった。それどころか嬉しそうに彼女に近寄ってきて、よく話しかけてきたものだった。
あまりに『人』に親しく接してもらったことがない彼女にとって、非常に対応に困る相手であったが、決して嫌な相手ではなかった。子供の言葉とは言え、『お嫁さんになってほしい』といわれたことだって嫌だったどころか、物凄くうれしくさえあった。
だが、その言葉を聞いたそのとき、その日が彼との最後の別れとなった。
それ以降、彼女は全寮制の学校に進学したため、今まで通っていた小学校付近にいくことができなくなり、彼と会っていた場所からはしばらく遠ざかっていたのであるが、ある日、彼のことをよく知っているという大親友に彼の近況を聞いてみた。あの日以降、ずっとずっと気にかかっていたのだ。そして、冷静に自分の気持ちを考え続けてやはり、自分もまた彼が好きだと自覚して、今更で照れくさくもあったが、思いきってそのことを大親友に告げて、彼のことを教えてもらうことにしたのだ。
だが、大親友の答えは
『えっと、その、つまり・・あ~、そうそう!! し、死んだらしいよ、交通事故であっけなく』
『嘘!? 嘘でしょう!?』
『い、いやいや、本当なのよ。うん。か、かわいそうだけど、あの子のことはお願いだから諦めて。ね、ね』
自分でも想像以上にショックを受けてしまった彼女は、その後一週間寝込んでしまった。改めて少年に対して持っていた自分の気持ちの大きさに愕然とした彼女であったが、それも最早今更であった。
もう、自分の想いを告げるべき彼はこの世にはいないのだから。
世界は灰色のままだった。彼女から見た世界はずっと灰色のままだ。
気持は全然整理できてはいなかったが、それでも生きていかなくてはならず彼女は再び立ちあがって学校に通ういつもの日々を送り始めた。いつもの灰色の世界を今日も彼女は歩いて行く。
高校に入り、大学に入り、そして、彼女は今年二十歳になった。
彼女を求める男達、あるいは女性がいなかったわけではない。恋人になってくれ、妻になってくれ、愛『人』になってくれ、ためしに付き合ってみよう、結婚しよう、様々な言葉が彼女に投げかけられる。しかし、それらは彼女の表面か、あるいはその異質な能力のみを求める声だけで、彼女の心はあのときにのように一度として震えたことはなかった。
それら全てに丁重にお断りの言葉を返し、言葉が通じない相手に対してはそれなりに対応する。
いま、この瞬間のように。
「くるくる回って飛んで行け!!」
「ぎゃあああっ!!」
都市営念車『サードテンプル』駅のちょうど裏手にある空地に年若い男性の絶叫が響き渡る。もともとは中央庁念気通信社の本社ビルがあった場所で、現在本社は隣町の『ルーツタウン』に移設新築され、使わなくなったビルは取り壊され、その後、次の買い手がなく空き地のままで放置されている。
そんな場所に集まっているのは、だらしない服装の地元の高校生らしき集団と、その彼らを睨みつけて立つ一人の女性の姿。
おもいおもいに自分達が格好いいと思って改造したガクランを着こんだ異質な姿の高校生と違い、彼らと対峙して立つ女性はこざっぱりした服装をしていた。大きめのブルーのシャツに、少し濃い紺色のパンツ、そして、ブルーのスニーカー。
しかし、その中身は地味で普通の服装とは全く対照的。流れるような輝く金色のロングヘアー、吸い込まれそうな金色の瞳、とがった顎、鮮やかな朱色の唇、頭からはぴんとたった狐の耳。百八十ゼンチメトルに届きそうなスラッとした長身は、出るところが出て引っこむところが引っこんでいて、その形のいいお尻からは二本の長い狐の尻尾が生えている。
どこからどうみても完全無欠の美女である彼女は、自分のことをいやらしい目で見つめ続ける目の前の高校生達に怒りに満ちたまなざしを向けて決然と吠える。
「悪いけど、私はあんたたちみたいに数にモノを言わせて『女』を自由にしようっていう低俗な奴らが大嫌いなのよ。あんたたちみたいなのはね、『狐』に蹴られて地獄に落ちろ!!」
霊狐族の大学生 如月 玉藻は不良達に向かって疾駆していく。
小学生の頃から変わらぬ荒ぶる魂そのままに。