第五十三話 『見たまま全てが真実ではない』
「信じられない。もう絶対信じられない。一体、これはどういうことなの、お姉ちゃん!」
ゆでダコのように顔を真っ赤にして怒りと羞恥の絶叫をあげるのは連夜ファミリーの新しい一員である霊狐族の少女晴美。そして、その彼女の非難を真っ向から受けているのは言うまでもなく彼女の姉玉藻であった。
「違う、違うのよ、晴美」
「どう違うの。何が違うっていうのよ」
妹にとんでもないところを目撃されてしまった玉藻は、恥ずかしそうに体をモジモジさせながらも事情を説明するために妹を落ち着かせようとする。
「あなたが想像しているようなことじゃないの。つまりこれはその、あれよあれ」
「想像もなにも、誰がどう見てもこの状況は見たままとした説明できないと思うのだけど。一応、念の為にそのお姉ちゃんの説明についても聞いておくわ。そのお姉ちゃんがいう、『あれ』ってなんなの?」
「だからそれは」
「それは?」
「ズバリ、『子作り』よ!」
ただでさえ大きい胸をこれでもかと大きく揺らしながら張り出して胸を張る玉藻。しかも、顔にはこれでもかというほどに自信に満ち満ちたドヤ顔が浮かんでいる。
そんな姉の言葉を聞いた晴美は、『ぽか~ん』と大きく口を開けた状態で絶句。あまりにも予想外な答えだっただけに完全に頭がフリーズしてしまったのだ。それというのも、今まで晴美が知っていた非の打ちどころ一つない完璧超人の姉と、今現在晴美の目の前に素っ裸で立ち、恥ずかしげもなく胸を張りそれ以上に恥ずかしい言葉を羞恥心のかけらもない表情で言い放つ女性とがどうしても一致しなかったからである。
しばしの間、両者の間に何とも言えない静寂の時が流れる。
傍から見ていると、まるで時が止まっているようにすら錯覚しそうな静寂っぷり。しかし、その静寂が破られる時がやってくる。
いつまでたってもリアクションを返してこない妹に焦れた玉藻が、眉を八の字に寄せながら口を開いた。
「ねぇ、晴美。ひょっとして私の説明聞こえなかった? しょうがないなぁ。じゃあ、もう一度だけ言うわね。私と連夜くんは、ここで『子作り』をしてたの。『子作り』ってわかるかなぁ? 『子作り』っていうのはね、子供を作る行為のことでね、私のお腹の中に連夜ちゃんの『赤ちゃん』を作るためにね、私の女性器に連夜くんの男性器を・・・」
「だあああぁぁぁぁっ! お姉ちゃん、何言ってるの!?」
「だから、『子作り』」
「ただでさえ恥ずかしいのに『子作り』、『子作り』連呼しないで! しかも、今、何を説明しようとしていたの!? 物凄い具体的に何かを説明しようとしていたわよね!?」
「いや、だから、『子作り』がどういうものか晴美がわかってないんじゃないかと思ったから、子供を作るためのシステムをもう少し詳しく、かつわかりやすいように説明しようかなと」
「いらないから! そんな説明いらないから! 説明してくれなくても大体わかるから!」
「大体じゃ、今後困るでしょ。だから、この際もっと具体的に知っておいたほうがいいんじゃないかしら」
「それ今じゃなくていいから。いずれちゃんと学校の保健体育で習うから。っていうか、そうじゃなくて、問題はそこじゃないから!」
「あれ? 『子作り』の意味がわからなくてかたまっていたんじゃないの?」
「違うわよ。なんでそうなるのよ! その『答え』そのものが完全にアウトだから固まってしまったんじゃない。まさかの大不正解だよ、お姉ちゃん。っていうか、ある意味正解ではあるけれど、この場面は正解しちゃいけないところだから」
「え。ひょっとして誤魔化さないといけないところだった?」
「ひょっとしなくても誤魔化さないといけないから。『女』として。いや、『人』として。いや、常識ある『大人』としてそこは未成年に配慮しないといけないところだから!」
「いや、もう、状況証拠これだけ揃ってたら誤魔化しようがないっしょ」
「何『やっちゃった、てへっ』みたいないい笑顔して開き直ってるの!? そこはもうちょっと頑張ってよ! かなり苦しいとしても『服の中に毒虫が入ってしまったから』とか、『有害な薬を全身に浴びてしまったから』とか、全裸だった状態をもうちょっと別の方向にそらすなりなんなりできなかったの? 」
「そっかぁ。言われてみればそういう言い訳の仕方もあるわよね。・・・だが、断る!」
「断らないで! そこは断ったらダメなところだから! あれ? いま、気がついたけど、お姉ちゃん、本当に誤魔化す気ゼロだったの?」
「うん!」
「まさかの即答だぁぁっ!!」
何の迷いもない気合の入った真剣な表情。そんな無駄にかっこいい表情で頷く玉藻の姿に、絶望した晴美が地面を転がり続ける。
そんな風に苦悩する妹の姿を見てどう思ったのか、さらに表情を引き締めた顔で玉藻は偽らざる本心を口に出した。
「私と連夜くんの間にあるのは純粋な愛だけ。誰に憚る物でも隠す物でもないわ」
誰が見ても一目で嘘偽りがないとわかる真摯な表情。そんな表情をしながらじっと地面を転がり続ける実妹を見ながら玉藻はキッパリ言い放つ。
しかし、姉の言葉を聞いても全然納得したという表情を浮かべはしない。浮かんでいるのは物凄い微妙といわんばかりのなんとも言えない表情。その表情中には、怒りや困惑が見える。あるいは悲しみも見えるかと思えば、白けているという風にも見える。
だが、その中には『納得』や『理解』という言葉は見えない。玉藻は思わず両手で顔を覆いながら悲痛な涙声で訴えるのだった。
「どうして? どうして、わかってくれないの!?」
「隠してほしいところが隠れてないからよ! お互いの気持ちとか、愛とかそういうの隠してって言ってるわけじゃないのよ!」
「じゃあ、何を隠してほしいって言ってるの!?」
「そんな素っ裸のまま仁王立ちして言われても納得できるわけないって言ってるの!」
晴美、魂の絶叫だった。こんなしょうもないことで発せられるような言葉ではなかったが、間違いなくそれは晴美の魂から出た言葉だった。
繰り返すが、普通はこんなしょうもないことで発せられる言葉ではない。
「・・・えっ?」
「いや、『えっ?』じゃないから。『この子、何言ってるのみたいな顔されても』こっちが困るから」
「この子、何言ってるの?」
「ちょっと、お姉ちゃん、口から本心そのまま出てるわよ! わかってないの丸わかりじゃない! どうしてわかってくれないの!? なんなの? お姉ちゃん、どうしちゃったの!? それともお姉ちゃん、元々露出狂の変態さんだったの?」
「そんなわけないじゃない! 家の外を素っ裸で歩くようなおかしい神経してないわよ!」
「してるから! 今現在進行形でしてるから! 布切れ一枚身に着けてないから! それが全裸だから。お姉ちゃん、今、全裸だから、素っ裸だから。とりあえず、それを隠してっていってるのよ! わかるでしょ?」
「えっと。う、うん。わ、わかるわ・・・よ?」
「なんで、そんなにキョドってるの!? しかも、なんで最後疑問形!?」
素っ頓狂な返事ばかりの姉との会話に疲れ果てた晴美。元々森の調査で疲れているところに、この精神攻撃での止めである。立ちあがろうとするが果たせず、その場にへたり込んでしまう。
あまりといえばあまりの衝撃的展開についていけず、片手で頭を押さえながらともかく冷静になろうと必死に心を整える。だが、そんな晴美の努力もすぐに無駄となってしまう。動揺を抑えきれずに周囲に視線を彷徨わせていた晴美の目に、ある光景が飛び込んでくる。
いや、正確にいえばあるモノが見えてしまったのだ。しかも、モロ見えで。それは普通、『乙女』といわれるような人種が眼にしていいものではない。
勿論、晴美は間違いなく『乙女』と呼ばれる人種である。そんな彼女に、それは更なる精神攻撃として襲いかかる。
「おね、おね、おねねね、おねええちゃぁん!!」
「何? どうしたの?」
とりあえず、下着だけでも身につけておこうと思ったのか。物凄い大人仕様の黒の下着を身い着けていた玉藻は、突然叫びだした妹をキョトンとして見返す。
すると、そこには顔をゆでダコのように真っ赤にした妹の姿。妹は赤くなった顔を片手で必死に隠しながら、ある一点を人差指で指さしながらぷるぷると震えている。
不審に思いながらもその方向に視線を向けてみるが、そこには愛する人が安らかな顔で眠っている姿しか見えない。
ともかく、妹が何がいいたいのかわからない玉藻は、再び妹のほうに視線を向け直し今度は何が問題なのか直接問い合わせてみることにした。
「どうしたの、晴美? 震えているってことは、寒いの?」
「ちがうわよ、連夜さんをどうにかしてあげてって言ってるのよ!」
「え? どうにかするって何を?」
妹の言ってることがわからず、きょとんとする玉藻に対し、晴美は苛立ったようにある一点を指さした。
「見えてるの!」
「うん。確かに、連夜くんが見えてるけど」
「ち、ちがっ、そうじゃなくて、連夜さんの見えちゃいけないところが見えてるって言ってるの!」
しばし、見つめ合う二人の姉妹。揃って視線を連夜のほうに向け。再び揃って視線を合わせる。当然わかってくれただろうなと思って姉を見た妹は、そこに理解の色が全くないことに気がつき絶望の表情を浮かべる。
そして、追い打ちをかける姉。
「と、いいますと?」
「やっぱりわかってなかったぁぁぁっ!」
「ごめん。晴美の言いたいことがイマイチよくわからない」
「どうして? どうしてわからないの!? わかるでしょ? さっきまでのお姉ちゃんと同じ状態なんだよ? 今の連夜さん、どう見てもそのまま放置してていいことないよね? 安全性からも、その倫理的にも」
顔を赤くしながらいろいろなところに視線を走らせる晴美。ひっきりなしに体をもじもじさせ続けるその姿は、全身から羞恥のオーラが立ち上っている。そんな妹の姿と愛する人の姿を交互に何度も観察し続ける玉藻。やがて、ようやく理解できたのか、片手でぽんともう片方の手のひらを叩いて見せる。
しかし、閃いたという顔はすぐに消え失せ、代わりに浮かび上がるのは何かを面白がる表情。明らかに何かのいたずらを思いついた顔だった。
玉藻は再び困惑した表情をわざと作り、座り込み続ける妹に視線を向ける。
「えっと、じゃあ、晴美はどこを隠せと言うわけ?」
「ど、どこぉっ!? そ、それを私に言えって、お姉ちゃん言ってるの?」
「うん。だって、具体的に言ってくれないとわからないじゃない」
玉藻は、見ていて清々しいまでの笑顔で言い切る。しかし、そんな姉の瞳の中に明らかに自分をからかって楽しんでいる色を見つけた晴美は、今度こそ怒りの表情を浮かべて憎々しげに睨みつけた。
「そ、そんなこと言えるわけないじゃない!」
「え~、言ってくれないの? じゃあ、予想をつけて隠すから、間違ってたら教えてね」
わざとらしく肩を落とした玉藻は、激昂する晴美から離れていき愛する人が眠る横に立つ。そして、一枚の毛布を取り出すと、そっとそれをある一部分にかけてあげるのだった。
「そうそう。顔を隠してあげないと、恥ずかしいからね。って、違うでしょ、お姉ちゃんのばかぁっ! 顔だけ隠してどうするの!? まるで顔を潰されて殺された人の他殺死体みたいになってるじゃない!! やめてよ、そういうの!」
「もう、晴美は文句が多いなぁ。じゃあ、これならいいでしょ」
「そうそう。お腹は大事にしないと、冷えると大変だもんね。って、だから、ちが~う! お腹だけ隠しても意味ないじゃん! ってか、そこは見えてても別に問題ないでしょ。そうじゃなくて、水泳のときとかに、普通男性の人が唯一衣服を身に着けるところだよ。そこを隠してほしいのよ。ってか、お姉ちゃん、わかっててやってるでしょ! いい加減にしないといくらわたしでも本気で怒るわよ!」
「わかったわかった。お姉ちゃんが悪かったです。もう、かわいい妹を少しからかっただけなのに、晴美は本気で怒るんだから。ちょっとしたおちゃめな冗談なのに」
「全然『ちょっとしたお茶目』じゃないよ。悪意ありまくりだよ。あまりにもひどすぎて流石の私もドン引きだよ」
「はいはい。私が悪うございました。はい、これで文句ないわよね」
「うん、そうだね。それなら、なんとか隠れているかな」
そう言って顔を合わせて笑みを浮かべあう二人の姉妹。
二人ともわだかまりのない物凄いいい笑顔。
・・・のように一見見えた。
しかし、一人は完全に眼が笑っており、もう一人は完全に眼が怒っていた。
無言で姉に近づいた妹は、どこからともなく取りだしたハリセンで力いっぱい姉の頭を張り倒すのだった。
静寂の森に響き渡る『スパーン』という気持ちのいい打撃音。
「い、痛いよ晴美ちゃん」
「痛いよ晴美ちゃんじゃないわよ!」
「なによぉ。何が文句あるのよ。ちゃんと晴美が隠してほしいと思ってたところを隠したと思うんだけど」
「た、確かにそうだけど。これは違う! こういう隠し方をしてほしいわけじゃないのよ!」
「え? 隠れてない? ううん、確かにちょっとはみ出てるかしら。連夜くん、体は小さいのにこっちはとても大きいから。初めてのときは、これ私大丈夫かしらって心配したものだけど、今ではぴったりフィット・・・」
「いやああぁぁぁっ! そんな生臭い話を中学生の私に聞かせないでぇっ! って、そうじゃなくて、なんで、葉っぱで隠すのよ!?」
先ほど以上に顔を赤らめながらある一転を指さして晴美は絶叫を放つ。指先の方向には決して視線を向けはしないが、そこには男性にとって一番大事な個所に葉っぱを乗せられた連夜の姿。確かに、隠し切れてなかった。いろいろと見えてはいけない部分が見えていた。
と、いうよりも葉っぱが小さすぎてほぼ丸見えだった。
その状況を何故か下着姿に銀縁眼鏡という奇妙な出で立ちで観察し続ける玉藻。しばしの間、妙に理知的な表情を浮かべて考え込んでいたが、やがて冷静に状況判定の結果を口にする。
「確かにもうちょっと大きい葉っぱを探すべきだったよね」
「そうだね。ハスの花くらいの大きさがあれば十分だったんだけどね。って、そうじゃないでしょ!」
再び姉の頭にハリセンを叩き込む妹。その衝撃で玉藻の顔からふっとぶ銀縁眼鏡。
「め、めがねめがね」
「もうそういうお約束はいいから! 早く、連夜さんに衣服を身に着けてさせてあげて。それから、お姉ちゃんもいい加減服を着てよ!」
わざとらしく地面にしゃがみ込んで眼鏡を探すふりをする玉藻に対し、晴美の容赦ないツッコミがさく裂する。流石の晴美もそろそろ限界だった。既に涙目、泣き声である。
玉藻も妹の状態に気がつき、やりすぎたと反省。
眼鏡を拾い上げて畳んで置いている自分の服の中にそれを直したあと、晴美のところにもどってきて正面から彼女を見つめた。
「ごめんごめん。お姉ちゃん、悪ふざけが過ぎちゃったわね」
「ごめんごめんじゃないわよ。本当にもう、お姉ちゃんは、もう! もうもうもうっ!」
「これにはいろいろと事情があるのよ」
「また、『子作り』とかいうんでしょ」
「まぁ、それも目的の一つではあるから嘘ではないわね」
「なんなのよそれは。大体、今、大事な仕事の真っ最中なんだよ。中央庁のお仕事だよ、公務だよ。見たところ連夜さんが寝ている間にお姉ちゃんが勝手にやっちゃったって感じだと思うけど。そもそもどうしてこんな危ないところでやってるの? 仕事の最中に不真面目だって言いたいのもそうだけど、こんなところで素っ裸になって危ないと思わないの?」
怒りをにじませながらもその表情の中には真剣に玉藻や連夜を気遣っている色が見える。そんな妹の姿を、優しくも穏やかな笑顔で見つめていた玉藻であったが、急にその笑顔の中に険呑な何かが生まれ始める。
晴美は、同族であり、そして、本当の姉妹であるが故にそのことにすぐに気がついた。
「お姉ちゃん?」
「ねぇ、晴美。暗殺者が獲物を狙うときって、どういうときか知ってる?」
「暗殺者?」
「そう、暗殺者。『人』を殺すことを生業としている者達。奴らが獲物を狙うときはね、標的がリラックスしているときや、無防備な状態にあるときを狙う。たとえば、おトイレに行ってる時。排泄行為は大概の生き物が持つどうしても避けられないことよね。まあ、たまに義母様のように蛇型種族の方にはあてはまらなかったりするけど、それでもほとんどの種族がそういう行為のときには無防備になる。他にも食事のとき、寝ているときといろいろとある。『人』によって隙を見せる瞬間っていうのは本当に様々だけど、やはりそういう場合は普段よりも警戒心が薄くなりがち」
「な、何がいいたいの? お姉ちゃん、なんか眼が怖いんだけど」
「うふふ。もうちょっと我慢して聞いてね。それでね、その襲われやすい瞬間の中には、情交の最中、あるいはその前後を狙うっていうのもあるのよ。つまり『子作り』しているかしようとしているとき、そして、終わった直後よね」
「ちょ、そ、それじゃあ、やっぱりこんなところでそういうことしてたら危ないんじゃないの!?」
「危ないわね。見ての通り、『子作り』の行為をする為にはある程度衣服を脱がないといけないわ。最低でも下半身は丸出しになるし、最中だと動けなくなる。場合によっては上半身も脱いじゃうわよね。そうなると丸腰よ。武器は一切身に着いていない状態。あたりまえだけど、丸裸だから防具なんかといった身を守るものは一切ないってことでもあるわよね」
「襲われたらどうするつもりなのよ、お姉ちゃん!?」
「さぁ、どうしましょ。でもね、そんな状態でもベテランクラスの暗殺者はすぐには仕掛けてこない。万が一ということもあるから、周囲を確認し、執拗なくらいに自分達の安全を確保する。その上で獲物を一方的に狩れる状態だと判断してから仕掛けるの。たとえば、標的が情交の真っ最中であったとしても、周囲に他の誰かがいたり脅威となる存在がいる場合は仕掛けない。逆に情交をまだしていない、あるいは終わっていたとしても、相手が丸腰で危険が少なく、かつ脅威となる存在が周囲にいない。目撃者となるものもいないとなれば絶好の襲撃チャンスといえるんじゃないかしら」
「そ、そんな。それじゃ、早くここから移動しないと」
「いいえ。移動しないわ」
「どうして!? ここって、襲われるかもしれないんでしょ」
「そうよ。襲われるかもしれなかったの。でもね、もういいのよ。移動しなくていいの」
「な、何がいいの」
姉の顔が見たこともないような邪悪な笑みが浮かび上がる。それを呆然と見詰めながら、自分でも気がつかないうちに小さな声で問いかける晴美。
そんな晴美の問いかけを聞いた玉藻の顔が『狐』と『人』の中間のような顔へと変化する。耳まで裂けた口は、真っ赤な舌をだらりと出しながら三日月を形作る。
「移動しなくても。向こうから、仕掛けて来てくれたから」
抜く手も見せずに左腕を掴まれて晴美は地面へと押し倒される。そして、次の瞬間、バリっという衣服が破れる音がし、続いて肉を打つ強烈な打撃音。勿論、晴美の服が破れた音でも、晴美が殴られたわけでもない。
地面を転がる晴美の視界に入ってきたのは、宙を舞い森の奥へと飛んでいく迷彩色の軍服を着た兵士の姿。そして、片足を高々と上げた状態で静止している姉の姿。
姉の手には一枚のマントが握られていた。
横たわる連夜の近くで動きを止めた晴美は、もう一度状況を観察する。
そして、理解した。
恐らく先ほど吹っ飛んでいった兵士が晴美達に襲いかかってきたのだ。姉はそれに気がついて自分を逃がした後、兵士に反撃の一撃を与えたのだろう。手にしたマントは、そのときに兵士からむしりとったに違いない。
状況的に判断して、間違いなく正当防衛というわけだろう。だが、晴美はあることに気が付き、嫌な予感に体を震わせる。
はっきり見えなかったならここまで気に病むことはなく、流して終わりになっていたであろう。しかし、気がついてしまった。気がついてしまったからには確かめずにはいられない。晴美は、目の前に移る姉の細い背中に問いかける。
「お、お姉ちゃん、今のって」
「ああ、ただの出歯亀よ。やぁねぇ。人のエッチィところ覗き見してるなんて。しかも、欲情して襲いかかってくるなんて最低よね」
必要以上ににこやかな笑顔を浮かべながら玉藻はスラスラと言葉を紡ぎだして晴美に話しかけてくる。しかし、その眼は全く笑っていないし、形のいい大きなお尻から飛び出た尻尾は、明らかに内心の激しい怒りを現して膨れ上がっていた。何よりも恐ろしいのは全身から立ち上る、底冷えのする殺意の波動。
自分に向けられているわけでもないのに自然と体が震えてくる。しかし、このまま黙ってはいられない。何よりもまだ聞きたいことに対する確認ができていない。晴美は必死に自分の中からわきあがってくる恐怖を抑え込みながら姉の眼を真っ直ぐに見詰めた。
「今、ブッ飛ばされた人、本当に覗き見の変質者なの?」
「まあ、そうね」
「で、でも、さっきの『人』。中央庁の正規兵が使う野戦用戦闘服着用していたと思うんだけど」
「ああ、じゃあ、中央庁に所属している兵士で変質者なんじゃない」
あっけらかんと言い放つ姉の姿に、晴美は戦慄する。そして、確信する。知っていたのだ。姉は知っていて中央庁の兵士を蹴り飛ばした。自分達の依頼主と同じ組織に所属する兵士を蹴って害した。味方であるはずの相手を、襲いかかって来たのはあちらで、自己防衛のためにやむを得ない処置であるとはわかる。しかし、あまりにも手際が良すぎないか。
そこまで考えたとき晴美の思考が唐突に停止する。
『蹴り飛ばした』? 自分の頭の中で構築したその言葉に晴美は、違和感を覚える。何かが不自然。何だろう。わからない。混乱する。
そんな晴美の前で玉藻が、手にしていたマントを森の中へと無造作に投げ捨てた。何気なくそのマントを見つめていた晴美だったが、そのマントが持つ意味を理解して顔面を青ざめさせる。
「お、お姉ちゃん、今、捨てたマントって」
「ああ、『異界能力遮断マント』ね。あれ? あんた、いらなかったわよね。確か仁お義父様に霊力除去の手術を受けて、完全に異界の能力を体から抜いたって聞いていたんだけど。ちがった?」
「ううん。私も『外区』で働きたかったから、その手術を受けたわ。霊力全て抜いてもらったから、別にあの『異界能力遮断』系の装備は何も身に着けなくても『害獣』に襲われることないけど」
「びっくりさせないでよ。マント拾いに行かなきゃいけないかなと一瞬思ったわよ」
「そ、そうじゃなくて、今の『人』からそのマントを取ってしまったら」
多数の『害獣』が我が物顔で跳梁跋扈するこの森の中に、異界の能力を持つ者が何の装備もなく飛び込むことが何を意味するのか。城砦都市に住む者なら子供だって知っている。そして、城砦都市『嶺斬泊』の中でも間違いなく上位に入る頭脳の持ち主である姉がそれを知らないわけがない。
妹が何かを察した。その内容が何なのかを正確に把握した玉藻は、ニヤリと笑みを浮かべる。とてつもない邪悪な笑みを。
「都市を出たあたりからずっと私達のことをつけて来ていてね。鬱陶しくて仕方なかったのよ。連夜くんのことを影から護衛している『人』達がいることはわかっていたけれど、その『人』達とは明らかに気配の質が違う。はっきり言って雑。しかも、気配を消しているつもりかもしれないけど、殺意や害意が隠しきれてない。不快極まりないから確かめてやろうと、いろいろと隙を作ってみたりしたけどなかなか尻尾を出さなくてね。だったらと思って、二人きりになってみせつけてやったんだけど。それでも警戒バリバリでさ。晴美が来てくれなかったら、もうこっちから仕掛けてやろうと思っていたのよ」
「じゃ、じゃあ、連夜さんとこんな野外であられもない姿でいたのって」
「あいつらを釣りだすため。結構派手にやらしいことしていたつもりだったんだけど、逆にそれが奴らを警戒させてしまったみたいでね。罠と思われていたのか、情事の真っ最中には仕掛けてこなくてね」
「で、でも私が来たことで逆に人数が増えて警戒されたんじゃ」
「私と連夜くんが本当に何も寸鉄を身に着けていないことが、晴美との会話でわかったからじゃないかしら。うふふ。それとも我慢できなかった新兵あたりが本当に私のことを犯そうと襲いかかって来たのかもしれないけれど。ともかく、先に手を出して来たのは向こうってことで思う存分処理できる」
「『処理』って、お姉ちゃん、まさか!?」
「うふふ、晴美は連夜くんの傍から離れちゃだめよ、すぐに終わらせてくるからね」
「ちょ、ちょっと待ってお姉ちゃん」
「あらあら、まだ、戦うか逃げるか躊躇しているみたいね。中央庁お抱えの暗殺部隊のくせに状況判断が甘いわね。最初の一人が殺られた時点でどうするかすぐに次の行動を決めないと。って、言っても、もう手遅れなんだけどね。私の連夜くんに手を出す奴は、『狐』に蹴られて地獄に落ちろ」
不気味な笑みを浮かべた狐の半獣人が森の闇の中に溶けて消える。晴美の静止の声は彼女に届かない。
そして、わずかな時間の経過の後、森の中に交互に響き渡る布を引きちぎる音と打撃音。それがいくつもいくつも晴美の耳へと入ってくる。しかし、姿は見えない。音の正体であろう姉や、中央庁の暗殺部隊の兵士と思われる人影は、晴美の視界に全く入ってこなかった。
そう、こなかったのだ。最後まで、その姿は見えないままに終わりの時を告げる。
ひっきりなしに続いていた音はいつしかやむ。だが、静寂にもどったわけではない。森の中を別の音が響き渡る。
いくつもの『人』の悲鳴。そして、恐ろしい獣の咆哮。近くではない。耳のいい霊狐族の晴美だからこそ捉えられた音。聞こえてくる『人』の悲鳴は全て絶望に満ちあふれ、そして、すぐに聞こえなくなる。次に聞こえてくるのは肉を砕き噛みきる音。明らかに何らかの『獣』が食事をしている音だった。
晴美には何も見えない。音のする方向に眼を凝らしてみるが何も見えやしない。だが、音だけは聞こえてくる。絶望と死に満ちた禍々しい音が。
何が起こっているか見えずともわかった。自然と全身が震える。ここに来る前、草むらで事前に用を足していなければ間違いなく恐怖から失禁していたであろう。そういう場合じゃないとわかっていながらも、晴美は先程の自分を褒めてやりたかった。
そんな風にどれくらいの間、心の中で葛藤を繰り返していたであろう。
やがて、本当に何の音もしなくなっていたことに気がついたとき、晴美ははじめて自分の背後に誰かの気配があることに気がついた。
そこには、『人』の姿にもどった姉がいまだ眠り続けている連夜を抱きしめて座っていた。
しかも先程までの下着姿ではなく、しっかり戦闘服も着ている。それも玉藻だけではない。連夜もまた、ちゃんと服を着せられていた。
「お姉ちゃん、いつの間に」
「今、帰ってきたところよ。キモイ変質者達は全部駆除してきたから、もう心配ないわ」
「全部駆除って・・・まさか、本当に」
晴美の問いかけに対し、玉藻は邪悪な笑みを浮かべるのみで返答を返す。はっきりした言葉はない。だが、姉のその笑みだけで晴美は自分の予想が外れていないことを確信する。
優しいだけの姉ではないことは知ってはいたが、ここまではっきりと姉のもう一つの暗黒面を見たことはない。それだけにショックは大きい。だが、姉が邪悪な笑みを浮かべ、殺意と悪意を撒き散らしていたのは、先程、晴美の問いかけに答えたときのその一瞬だけだった。
今は、慈母のごとき優しくも穏やかな笑みを浮かべており、悪意の欠片も感じられない。その優しい瞳は真っ直ぐに連夜へと注がれている。
しかし、まさか中央庁の兵士を手に掛けるとは。指名手配されている犯罪者ならばわかる。あるいは『傭兵』や『ハンター』の中でも札付きといわれる犯罪者すれすれの輩に因縁をつけられた果てにということでもわかる。しかし、今回の相手はそれらを取り締まる側の中央庁の兵士なのだ。
いくらこの場所が、都市の法律が通用しない完全無法の『外区』であったとしてでもだ。
誰かに見られていて、今回の城砦都市『嶺斬泊』の中央庁に通報でもされたら。
今回、間違いなく先に手を出してきたのは中央庁側だ。しかし、果たしてその主張を中央庁が素直に鵜呑みにしてくれるだろうか。下手をすれば、正当防衛ではなく過剰防衛と判断され、晴美の姉は犯罪者にされてしまうかもしれない。
湧き上がってくる恐怖と不安で、晴美の顔が強張っていく。
しかし。
「大丈夫よ。あなたが心配するようなことにはならないわ」
心を見透かしたように声をかけてくる玉藻を、晴美はぎょっとして見つめる。
そこには自分の膝枕の上で安らかな寝息を立てている連夜の顔をじっと見つめる玉藻の姿。その表情はどこまでも優しく穏やかで、一転の曇りも焦りもない。何か、確固とした理由があるのだと悟り、晴美は彼女の前に正座して座り込む。
すっかり神妙な様子になった妹を視界の端で捉えた玉藻は、少しくすっと笑って見せた後、穏やかな声で今回の顛末について説明を始めた。
「今回のアルカディアとの交易再開は絶対に成功させなきゃいけない誰にとっても大事な仕事だってことはわかるわよね」
「勿論だよ。医療薬品の中でも最も重要な『神秘薬』と『特効薬』がこの一年の交易路封鎖のせいで作れなくなってしまってる。その材料を『アルカディア』から持って帰ってこないと」
「作れなくなってるのは北方だけじゃない。南方も同じ。あの二つの薬を作るには北方の材料も必要になる。だから、今頃南方の諸都市も困ってるはず。だからこそ、今回の仕事は誰にとっても絶対に成功させなきゃいけないこと。・・・のはずなんだけどね」
何とも言えない困った表情でため息を吐きだす玉藻。そんな玉藻を晴美は不思議そうに見返す。
「え? そうじゃないの? 現にみんな困ってるよ」
「ええ、困っていない『人』はいないわね。一人の例外もなくそうのはずなんだけど、自分すら困っているというのに、後回しにしてもいいと考える馬鹿がいるのよ」
「はぁ? な、なによ、それ。自分も困ってるんでしょ? なのに後回しにしていったいなんの得があるの?」
「今回の事業には当然、中央庁のお偉いさん達がたくさん関わっている。その『人』達は勿論、この仕事を成功させようとしているわけだけど、それとは逆に、失敗させようとしている輩もいるわけ。なんでかっていうと、これだけの重大事業なわけだから、失敗すれば関わった『人』達は当然責任を取らされる。よくて降格、下手をすればクビってこともありえるわけ」
「ってことは失敗を望んでいる『人』達っていうのは」
「そう。今回の作戦に失敗した場合に、失脚すると予想されるであろうお偉いさん達の椅子を狙っている輩ども。まあ、一枚岩で一糸乱れぬ統率のとれた組織なんて、この世の中にほとんどないわけで、そういう奴らも多少は存在しても仕方ないんだけれどね。しかし、いくらなんでも今回のことはあまりにも空気が読めなさすぎるわよね。傭兵やハンターだけでなく、一般の人達も薬がなくて困ってるのに」
「じゃ、じゃあ、さっき姉さんがブッ飛ばした奴らは」
「奴らが送り込んだ工作部隊よ。大方、先行偵察部隊に打撃を与えてこれ以上進めないようにしたかったんでしょうね。出発してからずっとへばりつくようにして私達の後を尾行してきていたわ。勿論、私も連夜くんも気がついていたけどあえて泳がしていたのよ。どうせ手を出してくるだろうから、そのときに対処しようと思っていたんだけど、まさか、自分達が仕掛けずにコブララプターの群れをけしかけてくるとは思わなくてね」
「ええええっ!? こ、コブララプターの群れに襲われたの!? お姉ちゃん達、大丈夫だったの?」
「あったり前でしょ。この森のことを二週間以上かけて調べつくしている連夜くんがついているのよ。ちゃんと対処方法がわかっているから、それほど苦もなく退治できたわよ。でもまあ、先行偵察部隊に任されていたこっちの指揮官が馬鹿だったのが誤算といえば誤算だったけど。まあ、ともかくなんとかなったわ」
「そ、そう。それならよかったけど。でも、そのときあいつらは一緒に襲って来なかったの?」
「来なかったのよねぇ。それも予想外。思った以上に私達があっさり退治しちゃったから、襲撃のタイミングを逃してしまったようなの。でも、大失敗しちゃったわけだから、そのまま帰るかなと思ったらしつこくその場に留まり続けているし。何がしたいのよっていい加減苛立っていたってわけ」
「それで、わざと無防備な姿を見せて襲撃させようとしたってことだったのか。だから、二人とも裸だったのね」
「そういうこと。連夜くんを眠らせていたのは、これ以上余計な騒動に関わらせたくなかったのよ。この二週間働きづめで、ただでさえオーバーワーク気味なのに、こんなつまらないことでさらに消耗することになったら困るもの」
大きなため息を一つ吐き出して玉藻は自分の膝の上に眠る愛しい人の顔をそっと両手で包み込む。本当に安心しきっているのかそれとも疲れているせいなのか、連夜は一行に起きる気配がない。そんな連夜を玉藻はただただ優しく見つめ続ける。
寄り添う二人の姿はまるで一枚の絵のようにぴったりとはまっていた。
二人の間を静かに時だけがゆっくりと流れていく。いったいどれだけの時が流れただろうか、玉藻はふと視界の端に映っているものにある変化が起こっていることに気がついて視線を連夜から外した。
そして、面白そうにその変化を起こしているものを見る。
「晴美、何、ふくれっ面してるの? かわいい顔が台無しよ」
「お、大きなお世話です!」
「あらあら。大好きなお兄ちゃんを取られて面白くないって顔かしら? それとも、それ以上の感情故の嫉妬?」
「そ、そんなの知らない。知らないったら、知らない!」
完全に面白がられて晴美のふくれっ面がさらにひどくなる。そんな晴美を見て、玉藻は一層笑みを深くするのだったが、いい加減からかわれるのに限界がきた晴美がやけくそ気味に話を逸らしにかかった。
「そ、それよりもいい加減連夜さんを起こしてよ。偵察の報告をしたいんだけど」
「ああ、それなら私が聞くわ」
あっさりと晴美の提案を退ける玉藻。流石にその提案は素直に受け入れることはできず、晴美は玉藻に食ってかかる。
「ちょっと待ってよ。一応、今回の指揮官は連夜さんなんだから、連夜さんに報告しないと」
「私と連夜くんの魂は霊狐族の秘術で繋がってる。晴美だってそのこと知ってるでしょ? 報告はそのまましてくれればダイレクトで連夜くんに伝わるわ」
「で、でも」
「はいはい。いいから報告して頂戴。それからクリスくん達もね。出るタイミング見計らっているみたいだけど、気配バレバレだから。さっさと出てきて偵察の報告してくれるかな」
尚も食いついてくる晴美を軽くいなしながら、玉藻は頭上へと声をかける。すると、三人の周囲に存在するいくつもの大木の上から次々と人が降りてきて着地。現れた人影は玉藻の言葉通り、クリス達であった。
「姐さんにはかなわねぇや。気がつかれないようにと思って二十メトルは上に陣取って気配を消していたのに、簡単に見つけられちまうんだもんな」
バツが悪そうに頭をかきながら近寄ってくるクリスに、玉藻もまた苦笑を返す。
「ごめんね。クリスくん達もあいつらのこと始末しようとしてくれていたんでしょ。わかっていたんだけど、こればっかりは自分で始末をつけたくてね。先にやらせてもらっちゃったわ」
「それもお見通しかよ。ったく、かなわねぇや」
玉藻の言うとおり、クリスもまた中央庁の工作部隊に気がついていたのだ。前回、森の中での調査中に襲撃された件もあり、ずっとその手の輩については注意していたのである。そしたら案の定、連夜達に付き纏う怪しい影。アシル達という思わぬ助っ人もあり、戦力的にも十分であったため、この際きれいさっぱり片付けてしまおうと考えていたのであるが。
「まさか、一人であの人数を全部片付けちまうとはな。『K』とタイマン張れるほど強いって話は聞いていたけど、ここまでとは思わなかったよ。流石、連夜の嫁さんになろうって人は違うぜ」
「あら、お世辞を言っても何もでないわよ」
「お世辞じゃねぇよ。呆れてるんだよ」
コロコロと無邪気に笑う玉藻の姿を見て、心底呆れたという表情で肩をすくめるクリス。
しかし、二人の周囲にいる者達は二人ほどリラックスしていたわけではない。程度の差は多少あるが、みな、ありえないものを見たといわんばかりの表情で玉藻のことを凝視している。
そう、彼らは間違いなくありえないものを見た。中央庁が誇る特級クラスの工作部隊。すなわち誰もが認める一流の暗殺部隊を、二十歳になったばかりの若い女性がたった一人で壊滅へと追いやる光景を。しかも、暗殺者達以上の隠形と暗殺術をまざまざとみせつけながら。
誰もが唖然とする中、一番最初に我に返った陽光樹妖精族の偉丈夫アシルがささやくようにして、前に立つクリスに問いかける。
「クリス殿。あ、あの女性はいったい何者なんですか?」
その問いかけに対しクリスはしばらく困ったように考え込んでいたが、やがて何かを諦めたような口調で答えを返した。
「ああ、まぁ、あれだ。俺の、っていうか、うちの一族のお得意さんの奥さんってところかな」
「はぁ?」
当たり前といえば当たり前であるが、クリスの返事に納得できた者はアシルも含め結局一人もいなかった。
彼らが連夜と玉藻という存在の本当の正体を知ることになるのは、もう少し後のこととなる。