第四十九話 『横取りの報酬』
八月末。
最北端ではないにしても世界全体からしてみればかなり北に位置する城砦都市『嶺斬泊』。
当然他の都市に比べれば四季の気候はかなり低いと言ってよい。だが、それでも流石にこの時期は他の都市同様に暑い。南方に位置する諸都市の住民からすればはるかにマシの暑さだと言われてしまうかもしれないが、それでも涼しいとは決して言えない。
そんな真夏日が続く城砦都市『嶺斬泊』であるが、そういう気候的な厚さとはまた別の熱気に現在包まれている。その熱気の源となっているのは、都市内にいくつも存在している傭兵ギルドやハンターギルド、そして、中央庁の『外区』専門の特殊作業依頼受付窓口。
どこの受付にも多数の戦士達が押し寄せ、各職員と激しい問答を繰り返しては慌ただしく外へと飛び出していくという姿が見受けられる。
凄まじいばかりの喧騒。
だが、その騒動は決して都市内部にだけで起こっているわけではない。
都市を覆う巨大な壁から一歩外に出て南方へと向かう。そこにもやはり多数の戦士達の姿。
だが、都市内部で職員と話し合っているような普段着姿ではない。どの戦士達も見ただけでわかる完全武装姿。
その役割によって戦士達が身に纏う武装の種類はまちまちではあるが、誰がどう見ても観光の為の格好ではないことはわかる。彼らが何をしに『外区』に出ているかなんて一目見ただけで、小学生でもわかるであろう。
何故なら、城壁から数十メトルほどしか離れていない地域で、既に戦闘を行っている集団がいくつも見られるからだ。
相手にしているのは『害獣』ではない。
全『人』類の天敵であり、現在の世界の支配者たる『害獣』であるが、流石にこれほどまで都市の近くには存在してはいない。
と、いうよりも『害獣』が存在しないエリアがごくわずかしかないとは言っても、どんな城砦都市も『害獣』が支配している地域から一定以上の距離が取れる場所にしか建築されていない。
彼らが都市のすぐ周辺で戦っている相手は『害獣』ではなく原生生物である。
それも、一年前までこの周辺では見かけられなかった種類の生物。城壁から出た戦士達がそれほど進んでもいない状態であるというのに、奴らはすぐに牙をむいて襲いかかってくる。
一年前では考えられないことである。
いや、一年前どころか、西の城砦都市『通転核』や、南西の城砦都市『ゴールデンハーベスト』、そして、北西の城砦都市『ストーンブリッジ』に続く城砦都市の通過ゲート付近では考えられない状態だ。
今あげた三つの方面に続く交易路周辺ならば、城砦都市から出て数キロ離れたところまで移動しなければこうした脅威と出くわすことはまずない。
日々腕利きの戦士達が周辺の脅威となる様々な外敵を駆逐し、『人』類の支配圏であることを力を持って誇示しているため、余程のことがない限り害ある原生生物がうろついていることはないのだ。
しかし、南方だけは違っていた。
一年前、街道の途中で『害獣』の『王』の姿が目撃されたことを切っ掛けに、南方の城砦都市『アルカディア』へと続く交易路は完全に封鎖が行われてしまった。以来、城壁のすぐ側であったとしても出ていくことは禁止され、一年間放置され続けることになったのである。
だが、ここに来てようやくその長きにわたる封鎖を解く目処を立てることができるようになった。一番の懸念事項であった『害獣』の『王』の一匹『グァ・パ』が本来の棲息地域である南洋に帰還したことが中央庁の情報機関によって確認されたのだ。また、二番目の懸念事項であった特級危険生物『タイガーマンモス』の討伐成功の報告も続き、封鎖が近日中に解除されることはほぼ決定となる。
とはいえ、今すぐに世間一般に封鎖解除を発表し、『はいどうぞ、お通りください』というわけにはいかない。
一年間もの長きにわたり放置し続けた結果、毎日のようにきちんと整備されていた南への街道は見るも無残な姿と成り果てていたのである。
また、『人』がやってこないことをいいことに、様々な原生生物達が交易路周辺に入り込んで好き勝手に縄張りを確立させ、まるで開拓前の人外魔境に逆戻りしたような状態となってしまっていたのだ。当然このまま交易路の往来を認めるわけにはいかない。
城砦都市『嶺斬泊』を治める中央庁は、自分たちが抱えている正規軍は勿論のこと、プロの傭兵やハンターから、普段都市内の道路工事を担当している民間の者達までも緊急で招集し、問題を速やかに解決すべく動き始めたのである。
はっきり言って何よりも最優先して解決しなくてはならない案件である。なんせ、南方との交易回復は北方諸都市全てに関わることなのだから。当然、他の諸都市にも応援を要請し、各都市はこれを受理。資金的な援助は勿論のこと、各都市は各々が抱える腕利きの傭兵達や、ハンターを『嶺斬泊』に向けて派遣し全面的にバックアップを図る。
こうして、八月中旬から始まった『南方地域交易回復作戦』は凄まじい勢いで成果をあげていったのであるが。
「成果もあがってるけど、怪我人も続出。急ぐ気持ちはわかるし人海戦術が悪いとは言わないけれど、こうもゴリ押しが過ぎると却って効率が悪すぎると思うんだけどなぁ」
そう呟いて大きなため息を吐き出す一つの人影。影は、大木の影に気配を殺して隠れながら油断なく周囲に視線を走らせる。
どこを見てもスプラッターの嵐。まるで違う種類のホラー映画を同時に見ているかのような状態だ。
右を見ればドワーフ族の戦士が四本腕の熊に吹き飛ばされて宙を舞い、左を見ればエルフ族の戦士が大きな牙が二本付き出た凶悪な面相の黒い虎に左腕を食いちぎられており、後ろを見れば虹色の胴体をした馬鹿でかい蛇に巨人族の戦士が丸呑みされている。
では、前ならばと視線を向けなおすと、人の拳大もあるシロアリの群れに全身をたかられて何の種族かわからない戦士が苦しみ悶えながら食われている姿。
そんな彼らの姿に何とも言えないため息を、深く大きく吐き出す影。
「どうよこれ。闇雲に戦うにも程があると思わないか? 普通さ、未知の敵と戦うにしたってまず情報を収集しようとか思わないのかね? そりゃまあ、いきなり襲われることもあるとは思うよ。でもさ、そうならないように斥候職っていう分野があるわけじゃない。なんなのあいつら。脳筋しかいないわけ?」
もう一度大きくため息を吐き出した影は、頭上へと顔をあげる。その視線の先には一人の戦士の姿。
森林仕様の迷彩色に染められた革製の鎧に全身を固め、顔には東方文字の『酉』と書かれた仮面。彼は影が潜む大木のかなり上にある太い枝の上にしゃがむようにして座り、やはり油断なく周囲に視線を走らせる。
「相手が『害獣』じゃないから舐めてかかっているんじゃないかな。なまじ『害獣』の脅威を知っている『人』ほどそういう先入観があるのかもしれない」
「まあ、『害獣』専門でやってる奴らは原生生物は避けて通るもんな。なんせ『害獣』ほど金にならんから見つけても無視するのがセオリーだし」
頭上の相棒の答えに対し、肩をすくめながら大木の影からもう一人の戦士が姿を現す。ほぼ同じ装備に身を包んだその戦士は、やはり仮面をかぶっているがその書かれた文字は『戌』。
大木から姿を現しはするものの、その気配は殺したまま。実際、この周辺にいる者達で彼を視認できているのは頭上にいる『酉』の仮面戦士一人だけであった。実に見事な隠形の術である。
「それにしてもあいつらほんと馬鹿だよな。城壁直前でもあれだけカオスな状態なのに、こんな森の奥深くまでやってきちまって。しかもここって一応『騎士』クラスの『害獣』の巡回エリアだぜ」
「僕の記憶が確かなら中央庁から出ている南方方面の仕事の中に森深くでの討伐依頼は一つとしてなかったはずだけど。傭兵ギルドやハンターギルドでは出ているのかな?」
「いや、どっちにも出てないと思うぜ。ただ、裏社会ギルドのほうでは出てるかもしれねぇな。なんせ、こっち方面の『害獣』の素材はここ一年ほんとご無沙汰だからよ。軍事企業関連でこっそり依頼を出していてもおかしくねぇな」
「こっち方面の『害獣』の素材はそんなに貴重なのか?」
「ああ、最新型の武器や防具を作るには、ここ近辺をうろついている『騎士』クラスの『害獣』の背骨がどうしても必要なのさ。普通に表のギルドに売っても高額な素材だからなぁ。裏で依頼が回ってるとなるとそりゃ、とんでもない金額になってそうだぜ」
「多少の犠牲が出ても無理して遠征してきてるってわけか。しかし、あれじゃ、目当ての『害獣』と戦う前に全滅しそうだけどね」
「欲に目がくらむとロクなことがねぇってこさ。まぁでも、あれだけ派手に奴らと戦ってくれりゃ、情報収集の手間が省けてこっちは大助かりってもんなんだけどな」
仮面の奥で苦笑を浮かべる二人の影達。彼らは右手に持つ映像記録する術式が刻まれた特殊装置を周囲の戦闘風景へと向けて必要な情報を写せるだけ写していく。
「あんまり撮りすぎると他が撮れなくなるから、そろそろ他に移動しようぜフェイ。他にも偵察しなきゃいかんところが山ほどあるからよ」
そう言って大木の下で撮影を行っていた『戌』面の戦士が頭上に声をかけると、枝の上に屈み込んでいた『酉』面の戦士は仮面をずらして素顔を晒して下を見つめ返す。
「了解だ、クリス。しかし、この仮面何か意味があるのか?」
「あるんだよ。あんまり俺達は表に出ないほうがいいからさ。今は二人きりだからいいけどよ、本当は実名で呼び合うのも禁止なんだぜ」
そう言って『戌』面の戦士もまた仮面をずらして素顔をさらし、美少女にしか見えない顔に苦笑を浮かべる。
そう彼らは連夜の友人である深緑森妖精族の少年クリスと、朱雀族の少年フェイである。
「今は誰にも見られていないからいいけどよ。まぁ、連夜から聞いたかもしれねぇけど、俺とかアルテミスとかは前に盛大にやらかしてて結構顔が知られちまっているんだ。別にやましい事があるわけじゃないけどよ。余計な騒動を増やしたくないからさ」
「なるほど。でも、僕はあまり関係ないんじゃないのか?」
「おまえさ、自分では気がついてないかもしれないけど、結構名前と顔を知られているんだぜ」
「へ? そうなのか?」
「あんまり聞きたい名前じゃないだろうけどあの剣児が、新人戦士の中で最も有望視されていたことくらい聞いたことがあるだろう? そのあいつと互角に戦ってたことでおまえの名前と顔も一緒に知れ渡ってしまってるんだよ。表社会でも裏社会でもな。まあ、そうは言っても期待のルーキーってことで声をかけられるって言っても勧誘の類だろうけど、おまえ、そういうのあんま興味ないんだろ?」
「ああ、とりあえず今のところは全く興味ないな。連夜の仕事を手伝うことが何よりも最優事項だ」
「俺としてもそんな感じだ。ってことで身内以外から声をかけられるのは勘弁願いたいのさ」
「だからこの仮面に、偽名か」
「そそ、俺が『戌』で、おまえは『酉』ってのは言わなくてもわかってるだろうけど、一応今日出張ってきているメンバー全員もう一度言っておくからしっかり覚えておけ。アルテミスは『未』、ロムは『申』、リンは『午』、スカサハが『巳』。他にも六人いるが今日は来ていない。またいずれ紹介してやるよ」
「わかった。うっかり実名で話しかけないように気をつけるよ。しかし、アルテミスは『未』か。まさに『羊』の皮をかぶったなんとやらだな」
「ははは、違いねぇ」
言い得て妙だと笑うクリスと一緒に笑みを浮かべるフェイ。しかし、自分はともかくとしてアルテミスの恋人であり婚約者でもあるクリスは『今わらっていいところだっただろうか?』と首を傾げフェイはなんと言えない微妙な表情を浮かべる・。しかしそんなフェイの様子に気がつかなかったクリスは、もう一を周囲を確認し再び隠形を強めて森の中へと溶け込んだ。
「さて、そろそろ移動しようか。馬鹿どもが時間稼ぎしてくれているうちに他を見て回らねぇとな」
「次はどこに行く?」
「基本的に森の中心近くには行かねぇよ。街道に近いところを重点に見て回る。その辺を縄張りにしている危険生物は街道そのものも縄張りにしている可能性が高いからな。場合によっちゃ討伐隊を呼んでこねぇといけなくなるし。一旦、キャンプ地にもどってそれからもう少し『アルカディア』寄りに移動する」
「わかった。では行くか」
今後の方針を定めた二人は再び仮面をかぶり直す。
次の瞬間、大木の影は元の太さへと姿を変え、大木の枝から人の影は消え去っていた。草一つ動くことなく、風の音すら聞こえぬままに二つの影は姿を消した。ただ、周囲の殺戮劇は明らかな終幕へと向かう。影達の四方で繰り広げられた壮絶な戦いの勝者は全て獣達となり、敗者は残らずその餌となったのであった。
だが、それは決して珍しい光景ではない。
確かに現在この方面にはかなり手強い原生生物達が集まって来ている。手練の戦士達をもってしてもこのザマである。しかし、それはどの方面でもそれほど変わることではない。他の方面に住む原生生物達は先人達の尊い犠牲のおかげで攻略法が確立され、ここに比べれば死亡率は格段に下がるとはいえ、死者が出ないわけではない。
ちょっとでも油断をすれば、喉元を食いちぎられ餌となるのは『人』類のほうなのだ。
それでも戦士達はみな『外区』へと出撃し、危険の真っ只中へと飛び込んで行く。
純粋に『人』類を守りたいという使命感の元に戦っている者もいる。だが、その一方で自らが英雄となるため名誉や名声を求めるものもいれば、『害獣』達を倒して得られる多額の報酬を得るために剣を握る者もいる。
それぞれの目的を果たすため、戦士達は今日も『外区』へと出撃していく。
勿論、クリスとフェイにもまた果たすべき目的がある。
そのために彼らは自分の命を危険に晒しながらもこの『外区』へとやって来ているのだ。
「まあ、友人の頼みだったとはいえ、バイト代に釣られなかったって言えば嘘になるんだけどなぁ」
森の中を風となって疾駆しながら困ったようにポツリと本音をもらす友人の声を、枝から枝へとムササビのように渡りながら移動していたフェイが耳ざとく聞きつけて苦笑をもらす。
「確かに時給換算で軽く5千円越える上に、夏休みの課題全部免除って言われたらなぁ」
「だろぉ? まあ、金はともかくあのくそうぜぇ夏休みの課題全部免除っていうのがなぁ」
「命かけるのに安くないかって言われたら確かにそういう気もしないではないが、やっぱりなぁ」
「うんうん」
「「めんどくさいよなぁ、夏休みの課題」」
学校の担任であるティターニア教諭が聞けば本気で涙を流しそうなセリフである。実に教えがいのない問題生徒達であった。
しかし、学生としては落第点の問題児だったとしても、彼らは戦士としては間違いなく一流であった。無駄な戦いを避け、『害獣』は勿論、原生生物や他の戦士達からも気がつかれることなく険しい森の中を駆け抜けていく。
今回彼らが与えられた任務は、『アルカディア』へと続く交易路周辺に棲息する原生生物達の生態調査。
一年間の封鎖の間にすっかり変わってしまった、交易路周辺、及び『死の森』に棲息する生き物達の様子をできるだけ多く映像記録装置で収集し、中央庁に持ち帰ることにある。
このミッションの依頼主は勿論言うまでもなく、彼らの友人であり恩人でもある宿難 連夜その人。
八月の中旬に都市内の市営プールで一緒に遊んだ際に、この仕事を持ちかけられたのである。
任務の内容を説明された時点でどれだけこの任務が危険であるかわからないクリス達ではない。しかし、彼らはみな仕事を請けることを即答。
一度も会ったこともないどこかの権力者やら金持ちやらの依頼ならともかく、仕事を持ってきた人物は自分達が嫌というほどその為人を知る友人である。断るという選択は誰一人として持ってはいなかった。
とはいえ、先程クリスが漏らした通り、その報酬に目が眩まなかったかと言えば嘘になってしまうのではあるが。
「連夜もさぁ、ほんと、俺達のことよくわかってるよなぁ」
「いいように使われるのが嫌ってことか?」
「まさかぁ。中途半端な額にしかならない貴金属やわけのわからん賞品を用意しておいて、上から目線で仕事を持ってくるどこぞの馬鹿とは違うっていうことだよ」
「ああ、それは確かに。そういえば、最近そういう輩がやけに多く絡んでくると聞いたが?」
「そうなんだよ、困ったもんだぜ。俺達を飼い犬か何かと勘違いしてるんじゃないのか」
「確かに」
憤懣やるかたなしという口調で言葉を吐き出すクリスに対し、彼の頭上を移動するフェイも頷きを返す。
仕事を正式に請け負った八月中旬からこっち、クリスはほとんど休むことなく毎日のようにこの『死の森』に出張ってきて、情報収集を行ってきた。
それというのも連夜の仲間の中で、クリスは斥候としての能力が特に突出して優れていたからだ。クリスは過去に、一族を滅ぼした『貴族』クラスの『害獣』を追って世界中を旅したことがある。
憎むべき仇敵を殺すため彼は一族の怨念を身に纏った『復讐者』となったのだ。
見つけ出して必ず殺す。どんなところに潜み隠れようとも必ず探し出し、どこまでも追う為に彼は索敵、隠形、地理地形把握といった、斥候に必要な能力を特に意識して磨き上げ続けた。その結果、彼の斥候能力は『嶺斬泊』に在籍している戦士達、いや、北方諸都市に存在しているあらゆる斥候職達の中でも間違いなく五本の指に入るほどにまで成長した。
その能力を存分に発揮して一年と少し前、彼は本懐を遂げる。探索の途中、両手、両足を失い、何度も死の淵に立たされるほどの重傷を負いながらも、彼は決して諦めることなく仇を追い続け、ついにその時を迎えたのだ。
だが、そのときを境にして、彼は自らのその能力をぱったりと使わなくなってしまう。凄まじいばかりの覇気とも鬼気とも言える何かを常に身にまとい続けてクリスは生きてきた。しかし、一族の無念を晴らしたあの日、あの時、あの瞬間。
『復讐者』としてのクリスもまた同時に死んだ。
それ以来、クリスは完全に人が変わってしまった。高校に入学し、普通の学生として学校に通い始めたが、授業に出ることはほとんどなかった。
毎日毎日学校の屋上に上がってそこに寝転がり、ぼんやりと空を見上げて過ごす日々の繰り返し。
『復讐』という生きる目的を失くしたことで、廃人になってしまったのではないか。種族の違う、しかし、誰よりもかれのことを愛している家族達は皆、彼のことを心配した。
しかし、彼の中の戦士としての魂は決して腐って死んでしまったわけではない。ずっと、そのときを待っていた。彼が四肢を失いのたうち回り、仇が討てないことに苛立ってただただ泣き叫ぶだけだったあの日、手を差し伸べ命を賭けて自分を支えてくれた義兄弟がいる。
その彼の為に、いつの日か必ず自分の牙を使う日がやってくる。そう信じて彼はその日を待ち続けていたのだ。
そして、ついにその日がやってきた。
彼の中で眠っていた凶暴な狼は再び目を覚まし活動を開始する。
彼には恋人アルテミスと同じくらい大事な義兄弟がいる。その大切な義兄弟の頼みとあらば、全力を尽くすのみ。
あの日、一緒に仕事を請け負った他の友人達の誰よりも早くクリスは行動を開始。その能力を存分に発揮して働き続けた結果、依頼されていた予定収集範囲の九割方を既に終了し、残り一割というところまで来ているほど。
順調どころではない。明らかに驚異的と言えるスピードでの情報収集能力であった。
勿論、その情報収集の作業は決して簡単だったわけではない。
『害獣』に四肢を食われて失った際に体内にあった異界の力も一緒に根こそぎ食われることになったクリス。その為、『死の森』を闊歩する『害獣』に襲われる心配はほとんどなかったが、それでも危険な原生生物に何度か気配を察知され命を危険晒すことになったことは一度や二度ではない。また、森に慣れているはずの彼であっても、一年もの間放置されすっかり地形が変わってしまった『死の森』の中で道に迷いそうになることもたびたび。
だが、友人達には勿論、親しい家族達にすらそういった苦労についてクリスは一言も口には出すことはなかった。
全てはかけがえのない義兄弟であり、大恩ある連夜の為を思えばこそ。そういう思いがあったからこそ自分の命をかけ様々な情報を集めてきたのだ。
だというのにである。そんなこちらの大変な苦労やら、命がけの思いやらを知ってか知らずか、突然横から現れてそれらを全てよこせと言ってくる馬鹿達が最近出没するようになったのだ。
クリス達は現在、『死の森』の中心近くにある湖の畔を自分達の集合場所兼各自の報告所として利用している。
そこに数日前からそいつらは姿を現すようになった。自らを城砦都市『嶺斬泊』中央庁の都市外交通安全運輸省所属の調査員だと名乗る輩達。胸には中央庁の役員がつけている独特の『城』のマークの入ったバッヂ。そして、全身を覆う中央庁が正式採用している『外区』用の特殊迷彩の鎧甲。どれも偽物ではないことは見ただけでわかった。
恐らく本人達は彼らが名乗っている通り中央庁の役人なのだろう。
確かにクリス達の依頼主は連夜であるが、その大本は連夜の両親。つまり本当の依頼人は中央庁であるわけだから、クリスが得た情報の提供を申し出てきてもおかしいということはない。
だが、クリスに情報を渡す気は毛頭なかった。
はっきりいって気に入らなかったからだ。何が気に入らないと言って、そのあまりにも傲岸不遜で上から目線の態度が気に入らない。
クリス達の姿を見つけるや否や近づいてきて、自分達の所属を必要最低限名乗った後、こちらの名乗りも聞かずに一言こう言ったのだ。
「もらってやるから集めた情報を早く出せ」
あまりのいいようにキレる前にまず唖然とした。怒りの声を出すよりも、まず相手の頭の状態を心配した。
ぶっちゃけて言えば『こいつ正気か?』と思ったのだ。
中央庁の役人は総じて慇懃無礼な輩が多い。勿論、ちゃんとした人材がいないこともないのだが、クリスが出会った一般的な役人達は、下から上まで大概まともな人格をしていないものがほとんどだ。
大概が上から目線、人の話をまともに聞いていないのか何度も何度も聞き返す、しかも頼んだ仕事は平気で期日を破り内容も実に大雑把。
はっきり言ってクリスの中で『役人』と呼ばれる人種への評価はかなり低い。
だが、その中でも今回の相手は最低で最悪だった。
そもそも『人』として最低限の礼儀がまずなっていない時点でもう論外である。虫を見るような眼で睨みつけてやりながら、クリスはすっぱり情報提供を断ってやった。確かに大元を辿れば中央庁という同じ発信元に辿り着くのかもしれないが、彼が依頼を受けたのは連夜である。
こんな無礼千万な『役人』どもではない。
確かに、中級クラスの傭兵やハンターでも来ることが難しいこの『死の森』の中心地に来ることができるくらいであるから、それなりに実力を持っているエリート様なのであろう。
しかし、だからと言って見ず知らずの相手に半ば恫喝するように命令する権利があるはずもない。
クリスのそんな態度に対し『役人』戦士達はすぐに激昂し、尚も情報を譲渡するように怒鳴り散らしてきた。だが、クリスは全く相手にせず、その場にいた仲間達に目線で解散を合図してさっさとその場を離脱。
彼らはクリス達を追いかけて来ようとしたが、重装備に身を包んだ彼らと斥候目的の軽装備のクリス達では追いかけっこが成立するわけもなく、一回目の交渉はあっという間に決裂し終了となった。
クリスとしては『鬱陶しい輩だったなぁ』くらいの感想で家へと帰りそのままその日は寝てしまったのであるが、残念ながら彼らとの付き合いはその日だけでは終わらなかった。
と、いうかその日以降、毎日のようにやってきては相変わらずの上から目線で情報をよこせと催促してくる。
あまりにもやり取りがめんどくさいので、集合場所を変更してみたりするのだが、『人捜し』の能力者でもいるのか、いつの間にかやってきて同じやり取りが繰り返される。
いや、厳密にいうと同じではない。日に日にそのやり取りはひどくなっていっている。
情報の譲渡に素直に応じようとしないクリス達に対し、日に日に怒りを増していっているのか言葉づかいはどんどんひどくなる一方であるし、そればかりか交渉の為と言って連れてくる人員の数も増えていっている気がする。
それも半端な人数ではない。
最初来たときはリーダーと思われる上級魔族の男性戦士と、屈強な二人のリザードマンの護衛の三人だったのに、五人、十人と増え続け、今では二十人を超えるちょっとした小隊規模の人数でキャンプ地に押し掛けてくるのだ。
超迷惑である。
「民間人が中央庁に協力するのは当然の義務である」とか
「下々の者達は何も考えず、黙って上の者の言うことを聞いておけばいいのだ」とか
「中央庁の都市外交通安全運輸省大臣である何某氏(興味がなかったので名前は覚えていない。なんか長ったらしい偉そうな名前だった)の為に役立てる機会を与えてやっているというのに、どうしてありがたいと思わないのか」とか
ともかく気に入らない。
全てが気に入らない。
なので情報は絶対に渡さないと決めた。
また、一応連夜から今回の仕事に関る者達のリーダーとして任じられているクリスは仲間達にも絶対に情報を渡さないようにと厳命。
仲間達もクリスと同じように、『役人』戦士達を気に入らないと思っていたようで一も二もなく快く賛同してくれた。
「僕が参加していない間にそんなことがあったのか」
クリスの話を聞き終えたフェイは、仮面の奥で表情を盛大にしかめる。その気配を敏感に察知したクリスは仮面の奥で苦笑を浮かべたまま頭上を見上げ、腕を組み見るからに考え事をしていますという奇妙な格好のまま枝から枝へと渡り進む友人を面白そうに見つめた。
「フェイは、今日初めて参加だったよな」
「うん。みんなと違って僕は本格的な『外区』での活動経験が少ないからね。仕事の依頼を受けた後すぐ、Jさんさんのところで一週間、特別野外訓練を受けていたんだ。その後も数日座学でいろいろと教えてもらっていたせいで合流が遅れてしまった。申し訳ないと思ってるよ」
「いやいや。そこはしっかりやっておかないといけないから全然構わないさ。というか、流石Jさんというべきか、きちんと基本を押さえたいい動きをしてると思うぜ。あとは経験をもっと積めばフェイもいい斥候職になれると思う」
「ははは。クリスにそう言ってもらえるとお世辞でも嬉しいよ。でも、どちらかといえば僕は斥候役ではなく攻撃職になりたいんだけどね」
「まあ、おまえなら、そうかもな。でも、いろいろとやれることを増やしておくのはいいことだぜ。どこかの傭兵旅団に入ってそれ専門のチームに配属されるならともかく、個人で動くとなるといろいろと要求されることは多くなってくるからな。多芸になれとは言わないが、せめて二芸か三芸くらいはできるようになっておいたほうがいい」
「そっか。武術馬鹿ではいかんということだな」
「勉強は大嫌いだが、厄介なことにしておかないと困ることがこの世界は多すぎる。なんせ文字にして数行足らずの知識を知っているかいないかで生死を分けることもあるんだからよ。俺達が住んでるところは、ほんと『人』に優しくない世界だよ」
実体験があるのだろう。しみじみとそう語るクリスに、枝の上からなんとも言えない視線を向けるフェイ。
そんな風に話しながらどれくらい二人して森の中を駆け抜けたであろうか。やがて、二人は森を抜け一つの湖へと辿り着く。
風がないせいかあくまでもその水面は穏やかで澄み切っており、湖を囲むようにして乱立する巨大な木々との絶妙なバランスが美しい風景を作り出している。勿論、それはあくまでも見た目だけ。
『人』々からは『走馬灯湖』と呼ばれ恐れられているこの湖の水面下には、『人』類の天敵である『害獣』が潜んでいる。それもかなり上位に位置する恐ろしい奴がだ。だから、普通はベテランの戦士であってもこの湖に近づくことはない。
そんな場所であるから、『人』はめったによりつかずだからこそクリスはここを仲間達のキャンプ地に選んだのだが。
「くっそ、予想はしていたけど、あきもせず今日もきてやがる」
湖の南側にある小さな浜辺に視線を向けたクリスは、仮面の奥で苦々しい表情を浮かべながら吐き捨てるように言葉を紡ぎだす。その言葉に促されるようにしてそちらへと視線を向けたフェイが見たものは、中央庁正規軍の『外区』用の特殊迷彩の鎧甲に身を包んだ大勢の戦士達と、それと対峙するようにして立つ仲間達の姿だった。
上級魔族のリーダーと思わしき中年男性が、一方的に仲間達に何か言っているようである。クリス達が立っている場所と若干距離が離れているせいではっきりと内容はわからないが、大声で怒鳴り散らしていることだけはわかる。内容は聞かなくてもわかる。どうせ、恫喝まがいの理不尽極まりない言葉で情報をよこせと言っているのであろう。
「懲りないやつだな。もういい加減何回来ても無駄だってわかっているだろうに」
あきれ果てたと言わんばかりに呟いたフェイは、同意を求めて隣に立つ相棒に視線を向ける。すると、そこにはいつの間に抜いたのか小剣を抜いて両手に構え今にも飛び出して行こうとしている小さな戦士の姿。それが完全な戦闘態勢であることに気づき慌てて声をかける。
「おい、どうしたクリス。何度も何度も押しかけられて頭にくるのはわかるが、実力行使による先制攻撃はまずいだろう」
「実力行使の先制攻撃に出ようとしてるのは俺じゃねぇ。奴らだ。みろ、あいつの後方。森の木の葉の中にうまく隠れているつもりだろうが、深緑森妖精族の俺には丸見えだぜ」
「ちょっと待てよ。まさか、やつら」
「ああ、『狙撃手』を配置している。十メトルほどの枝の上に、ざっと見た感じ五人ってところか、部族はわからないが、全員俺と同じエルフ種だな、ありゃ。それに、後方で待機している武装グループ。抜刀してばれないように背中や盾で隠してやがる。襲撃準備は完了済みってわけだ」
「なんだって!?」
クリスの言葉に半信半疑で再び視線を『役人』戦士の一団へと走らせるフェイ。様々な種族の中でも特に鋭い視力を持つ朱雀族の特性を活かし、もう一度クリスが言っていた個所を注視する。すると、大木の枝の上に確かにいくつかの人影。そして、交渉しているグループのすぐ後ろに控えている完全武装の一団は、みな武器を隠すようにして構えているのが見て取れた。
「あいつら本当に中央庁の『役人』なのか。地上げに来た暴力団と言われたほうがまだ納得できるんだけど」
「連夜から聞いた話だとよ、今、中央庁の中は相当腐ってるらしいぜ。しかも、各省同士の派閥争いもひどいものがあるらしくてな。足の引っ張り合いは日常茶飯事な上に、業績を上げるためなら平気でダーティな手段に出る省も少なくないらしい」
「その情報はできれば聞きたくなかったよ」
相棒のなんとも言えない情報に頭を抱えつつも、フェイは背中に背負っていた折り畳み式の方天戟を取り出して構える。
「交渉の決裂と同時に仕掛けるつもりだろう。今日はフルメンバー揃っているから不意打ちされてもきっちり対応できるとはおもうけど」
「わかってる。事が始まったら僕達もすぐに突撃だね」
「ああ、とりあえずは厄介な『狙撃手』達から始末を・・・」
と、とりあえずの行動指針を呟きかけたクリスであったが、あることに気がついて口をつぐむ。
何事かと無言で問いかけてくる相棒に対し、ジェスチャーで静かにするよう伝えたあと、クリスはある一点に視線を集中させる。
それは交渉を行っている人物の様子。だが、不審の眼を向けているのは怒鳴り散らしている『役人』のほうではない。相手をしている仲間達のほうである。リーダー格の男の話を聞いているのは二つの人影。一人は『申』の字が書かれた仮面を被った大男。もう一人は『巳』の字がj書かれた仮面をかぶった小柄な少女。二人とも妙に神妙な様子で話を聞いているようであるが、しかし、奇妙な点が一つ。
「なぁ、フェイ」
「どうしたクリス。何か妙なことでもあったか」
「いや、妙というかなんというか。普通だったら妙じゃないことなんだろうけどさ。あいつら。つまり、ロムとスカサハなんだけど」
「二人がどうした?」
「震えていないか?」
「え?」
一瞬言われた意味がわからなかったフェイであるが、とりあえず現状を確認すべく視線を同じ方向へと向け直す。
「確かに、震えているね」
「だろ?」
「あれだけの人数に囲まれていて恐怖でって・・・ことは、あの二人に関してはないよね」
「絶対ない。二人とも俺と同じくらいこれよりもっと絶望的な状況に何度も飛び込んでいるんだぜ。怖いなんて思うわけないじゃん」
「だよなぁ。スカサハちゃんはともかく、少なくともロムはありえないよね。ってことは、あれだ、怒りに震えてという状況なのでは?」
「いや、それともなんか違うだろ。どちらかというと、やっぱり恐怖で震えているというか、怯えているいうか」
「うん、なんか、全身小刻みに揺れてるもんね。ロムなんか腕組して平静を装っているふりしてるけど、隣のスカサハちゃんと同じく、明らかに顔を下に向けてるもんね」
「だろ? あれは、間違いなく恐怖だと思うんだ」
「っていうかさ、クリス。僕、今になって気がついたんだけど」
「なに? まだなんか不審な点があるのか?」
「よく見るとさ、ロムやスカサハちゃんだけじゃなくて、アルテミスやリンも震えてるように見えない?」
「なぬ?」
今度はクリスが驚きの声を上げる番であった。フェイの指摘に従って視線を交渉しているロム達の後ろへと少しずらす。するとそこには『未』の仮面をかぶった獣人族の少女と、『午』の仮面をかぶった少女の二人の姿がある。よく目を凝らしてみると、確かに彼女達も体を震わせているではないか。
いったいどういうことなのか。自分も含めて今日集まったメンバーは百戦錬磨の猛者ばかり。年は若くともベテランの戦士達に匹敵する武力と胆力をもった豪傑ばかりのはずだ。みんなそれなりに激しい修羅場を潜り抜け、しぶとく生き抜いてきた実力の持ち主ばかりなのだ。
そんな彼らがそろって体を震わせている。
いったい何が彼らをそこまで恐れさせているのか。
自分の瞳に映るあまりにも不可解な出来事にクリスは困惑を隠すことができない。しばらくの間、硬直した状態でクリスとフェイは何かに脅え震え続ける仲間達を見守り続けた。
いったいどれほどの時間がたったであろう。不意にあることにフェイが気がついた。
最初フェイは、自分が見たものが見間違いであったかと思った。しかし、どう見ても、何度見直してもそれが視界に入ってくる。挙句の果てに仮面まで外し、目を直接こすってまで確認した後、フェイは隣にいる相棒に最後の確認の言葉を投げかける。
「なぁ、クリス。ちょ、ちょっと確認してもいいかな」
「なんだ?」
「さっき、クリスは僕に言ったよね。今日ここに来ているメンバーは、僕とクリス以外でいえば、アルテミスの『未』、ロムの『申』、リンの『午』、スカサハの『巳』四人だって。言ってたよね? そう言ったよね?」
「あ、ああ、それがどうした?」
「じゃあ、あのアルテミスとリンの後ろに立っている『父』と『母』と『姉』って書かれた仮面をかぶっている『人』たちは?」
声だけじゃなく途中から全身を震わせながらクリスに問いかけたフェイは、震え続ける指先をある一点へと向けて止める。
その様子をしばし呆気にとられて見つめていたクリスだったが、すぐに我に返って、その指先に視線を向けた。
そこには、確かに『父』と『母』と『姉』と書かれた仮面をかぶった男女三人の姿があった。
予定にはない人物である。というか、今回の仕事において現場に直接出てくるはずのない人物達だった。
そう、クリスはこの三人が誰であるかがわかった。勿論、それはフェイもそうだし、あそこにいるメンバー全員わかっていると思われる。顔は隠しているかもしれないが、髪の色とか、体格とか、服装とかともかくその他もろもろの情報から合わせて、三人が三人ともクリスがよく知る人物で間違いなかった。仮面の奥でざ~~っという音を立ててクリスの顔から血の気が引いた。
もう真っ青を通り越して真白だった。
クリスの脳内にある知人辞典の中で、三人が三人ともトップテンに入る絶対に怒らしてはいけない超危険人物だった。『謝る』とか『なだめる』とか『逃げる』とかいう選択肢はあっても『戦う』という選択肢だけは絶対にないし、してはいけない人物達だった。
その超危険人物三人は現在、物凄い怒気と殺気を絶賛放出中である。いや、大放出中である。
その勢いたるや、遠くにいるクリスやフェイにでもわかるくらいの巨大にして強大なもの。間違いなく仲間達が震えている原因は彼らのせいだった。
と、いうか、あれだけのプレッシャーを放つ存在がすぐ傍にいるというのに、『役人』達はまったく気がついていない。
このとき、クリスとフェイの心から、『役人』達への敵対心は完全になくなった。彼らがこれから辿る道が見えてしまったからだ。
間もなく悲劇というか、見るも無残な『惨劇』が始まるだろう。
それを回避するにはもう、『役人』達が全員今すぐ土下座して謝り倒し、リーダー格の男が片腕を切り落とすくらいの落とし前をつけなくては到底おさまりがつかないだろう。
このときクリスとフェイ。いや、他の仲間達も心の中で同じ言葉を同時に叫んでいた。
(『役人』さんたち、今すぐ逃げて! 超逃げてぇ!)
しかし、彼らの願いは天には届かなかった。代わりに地獄の支配者には届いてしまったようだった。
交渉を行っていた『役人』のリーダー格がついにしびれをきらし、今まさに後ろに控える戦士達に襲撃の合図を出そうとした瞬間だった。
一瞬にしてリーダー格の目の前に移動してきたのは『母』と書かれた仮面を着けた女性。リーダー格の男の喉を鷲掴みにして声を出させないようにした後、ゆっくりとその仮面を外してみせる。
喉を掴まれただけだというのに身動きが取れない状態に焦り、もがこうとするリーダー格の中年男性であったが、目の前に現れた女性の顔を見て一瞬きょとんとした表情を浮かべる。
あれ? どこかで見たような? そんな言葉が今にも出てきそうなそんな間抜けな表情を浮かべる男に、女性はまるで地獄の底から響いてくるようなドスの利いた言葉で男に問いかける。
「おい、中央庁のお偉い『役人』とやら。俺の名前を言ってみな」
「なんなんだ、おまえは? おまえのことなぞ知ら・・・えっ!?」
かろうじて声が出る程度に拘束が緩められたおかげで、男は女性に罵声を浴びせかけようとした。
だが、それはできなかった。目の前にいる女性が誰なのかわかってしまったからだ。そして、それはリーダー格の男だけではなかった。彼を守るようにして周囲に展開していた戦士達もまた気がついてしまったのだ。
いったい、自分達が誰に対して暴言を吐き、それどころか狼藉を働こうとしていたかを。
一斉に戦士達の表情から血の気が引いていく。中央庁のエリート戦士達であり、それなりに実力も高い猛者揃いのはずの彼らの表情から面白いほどに色が失われていく。
そして、小刻みに震えだす体。戦士の一団のあちこちからは掃除していない状態で放置されたままの公衆トイレのような匂いが漂い始め、カチカチと歯の根が合わない音まで聞こえ始める。
彼らを恐怖のどん底に突き落とした燃えるような赤毛の美しい女性は、そんな戦士達をゆっくりと、そして、ぐるりと見渡す。
「俺の家族に付き纏って難癖つけといて、タダで済むとは思ってないよなぁ?」
魔王そのものといった恐ろしい笑顔。
その言葉を聞いていたロム達は、仮面の奥で顔を盛大に引き攣らせながら一斉に心の中で叫んでいた。
(お願いだからタダで済ませてあげてぇっ!)
しかし、当たり前ながらその願いは叶えられることはない。
凄まじいばかりの闘気と怒気と、そして、殺気が際限なく膨れ上がっていく異様な空間の中、生存本能に従って最初に動き出したのはリーダー格の両脇に控えていた二人の戦士。今日集められた『役人』戦士達の中でも特に屈指の実力を持っていたが故にリーダーのボディガードとしてすぐ横に控えていた彼らであったが、目の前に立つ女性が自分たちでは逆立ちしても絶対に勝てない化け物であることを誰よりも早く理解。
それ故に速やかにこの死地から離脱しようとした。しかし、それが逆に女性の逆鱗に触れることとなった。
一瞬でその場から姿を消す二人の戦士。いや、姿を消したわけではない。彼らは宙を飛んでいた。それも斜め上に向けて一直線に。
蹴りあげられたのだ。リーダー格の男の喉を掴んだままの状態で、赤毛の女性が二人の戦士を蹴ったのだ。一瞬で二人を。目にも止まらぬ速さで。弾丸のようなスピードで宙を飛び、そこから離脱していく二つの人影。ある意味、彼らは目的を果たしたといっていいだろう。だが、あくまでもそれはここが死地にならなかったというだけで、別の場所が彼らの死地になることは誰の目にも明白であった。
「落とし前もつけずにバックレようとしてんじゃねぇよ」
決して大きな声ではない。だが、しかし、怒りと不機嫌さが絶妙にブレンドされた美しくも恐ろしい声はその場にいる全ての者の耳へと届く。
「ったく、城砦都市『嶺斬泊』の一大事だっていうから、こっちは大事な息子や娘をむざむざ危地に晒すような真似してでも手伝っているっていうのに、それを邪魔するばかりか手柄を横取りしようとはよ。息子から報告を聞いた時はまさかとは思ったが、それをやっているのが同業者だっていうんだから呆れ果ててものが言えねぇよ。実際にこの目で確かめて見てから判断しようと思って出て来てみれば、庁舎で見たことある顔がゾロゾロとまぁ、よくもこれだけそろったもんだ」
赤毛の女性は爛々と光る銀色の瞳で戦士達を睨みつける。
「いいぜ、この喧嘩買ってやるよ。今回、交易路街道周辺の探索調査の依頼したのは、この中央庁『機関』長官のドナ・スクナー様だ。その私の依頼を邪魔しようっていう輩は、同業者であっても容赦しねぇ。相手してやるから、全員まとめてかかってこいや!」
凄まじい咆哮と同時に掴まえていたリーダー格の男を棍棒のように振り回し、とりあえず手近にいた戦士達を草でも刈るようにあっさり薙ぎ倒す。
ハイブリッドミスリル合金でできた鎧甲で全身くまなく武装した『役人』戦士達と違い彼女は寸鉄を一切帯びてはいない。
それどころか着用しているのはいつもの真紅のビジネススーツで、下は動きづらいはずのタイトスカート。
とてもではないが戦う為の姿では決してない。
だが、誰一人として彼女を止めることはできなかった。素手でミスリル合金の鎧をぶち抜きへし折って、ちぎり捨てる。歩きづらいはずのハイヒールのつま先で剣や槍をへし折る。あげくの果てに飛んできたクロスボウの矢を赤いマニキュアが奇麗に塗られた指で飛んでくる端から掴みったうえで、掴んだ矢を反対に投げ返す始末。しかもその矢は持主のもとに正確に飛んでいき、腕利きであるはずの『狙撃手』達の利き手にものの見事に突き刺さるのだ。
戦っても無駄であると判断し逃げようとする者も多数存在してはいたが、物凄いスピードで移動する彼女から逃れることはできない。
まさに阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられていた。
「最近、事務処理ばかりでしたから。長官もストレスが尋常じゃないほどたまっていたんでしょうねぇ」
常人ならば思わず目を覆いたくなるような凄まじい惨劇が繰り広げられているというのに、完全に他人事という風に呟き『姉』と書かれた仮面を外すのは、いままさに暴れている真っ最中の連夜の実母、ドナ・スクナーの秘書、美咲・キャゼルヌ。
そして、そんな美咲の言葉に呼応するように『父』の仮面を外すのはもちろん、連夜の実父 宿難 仁その人である。
「ただでさえ『バベルの裏庭』事件の後始末が完全に終わってないのに、議会で『アルカディア』方面の交易路封鎖解除が決定しちゃったでしょ。都市防衛省だけじゃなく、経済省からも総務省からも財務省からもヘルプヘルプで『対処しきれるかぁっ!』って怒り狂っていたところだったのに、今回のこれだもん。僕でもキレるよ。まぁ、先にドナさんがキレちゃったから自重するけど」
「そうしてください。流石にお二人に同時にキレられると私でも対処できません」
「あはは、ごめんね。はぁ、それにしても僕らとしては連夜くんにあんまり危ない橋を渡らせたくないんですけどなぁ。ほら、あの子って」
「ええ、心配になるくらいこっちに気を使ってくれますものね。今回のことも連夜から言い出したんですよね」
「うん。自分の伝手だけでなんとか手伝うからって。中央庁にはあまり負担がかからないようにするって」
「本当によく出来た『弟』だなって思うんですけど、『姉』としてはもうちょっとこう甘えてほしいというか」
「うんうん、わかるよぉ。僕もねもうちょっと『お父さん』を頼ってほしいなぁって思うもん。贅沢な悩みだとは思うんだよ。親の顔を立てて裏方に徹してくれるし、決して出しゃばらないし、でも必要なことはちゃんとしてくれるしね。自慢の息子だって胸を張って言えるけど、でもなぁ。やっぱりもうちょっと甘えてほしいよねぇ」
「ですよねぇ。今さらですけど、『そんなに早く大人にならないで!』って思ってしまうというか」
「うんうん。美咲ちゃん、わかる。ほんとよくわかるよぉ」
自分達のよくできた『弟』であり『息子』である連夜について熱く語り合う二人。しかし、そんなほんわかしている二人の状態とは裏腹に、彼らのすぐ側では、いつ果てるとも知れぬ地獄が続いていた。
『ぎゃ~』とか『ひぃぃ』とかいう普通の悲鳴から、『へぐっ』とか『うぐっ』とかいう断末魔の悲鳴まで。およそ言葉として成り立っていない声が『死の森』の中に響き渡る。
そんな状況の中に取り残された連夜の友人達は、疲れ果てた表情で茫然と立ち尽くしながら、先ほど同様に同じ言葉を心の中で叫んでいた。
(もういい加減、誰か止めてあげてぇぇぇっ!)
ちなみにこの日以降、クリス達の仕事の邪魔をする者が来ることは一切なくなったという。
「あ、そういえばクリス。この前お母さんから聞いたんだけど。いつもみんながキャンプ地にしている湖で中央庁の職員の人達が湖の主である『害獣』を怒らせてみんな食べられちゃったんだって。怖いねぇ。クリス達は大丈夫だと思うけど気をつけてね」
「いや、怒らせたのは湖の主じゃないんだよ。それよりもっと怖いものなんだよ」
「え? それよりもっと怖いもの? 何それ?」
「何それって、おまえ・・・いや、もういい。ともかく、俺達は絶対に怒らせないから大丈夫だ」
「そ、そう。ところでクリスなんか顔色悪いけど大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ。それよりも交易路周辺の調査報告まとめておいたから後で読んでおいてくれ」