第四十話 『彼女が水着に着替えたら』
『人』類は知らない。
世界が本気で『人』類を滅ぼそうとしていたことを。
『人』類全てを葬り去ることができる恐ろしい力をこの世界に放っていたことを。
かつて『人』類は、この世界のルールを捻じ曲げ、この世界とは別の世界、即ち『異界』とのゲートを開いて繋ぎ、そこから強大な力を取り出して傲慢の限りを尽くしてきた。
様々な種類の『異界』から、様々な『力』を取り出しこの世界に蔓延させた人類の悪行は、やがてこの世界そのもののバランスを大きく傾け、崩壊の危機を迎える。いくら自らが生み出したいとし子であるとはいえ、ここまでやられてしまっては、愛に溢れた世界といえど黙っているわけにはいかない。
世界は崩れてしまったバランスをもう一度元に戻すため、『異界』の力に汚染された世界各所を浄化するため、そして、『異界』の『力』をこの世界に蔓延させる諸悪の根源を根絶やしにするため、自らの代行者たる『害獣』を作り出して世に放った。
『害獣』達は、創造主の命令を忠実に実行に移した。そもそも、この世界そのものが彼らに力を与えているのだ。いくら『異界』の力を持つ『人』類といえど、一たまりもない。こうして少しずつ世界は元の姿とバランスを取り戻していった。
以来、五百年。
未だ『異界の力』は世界各地に色濃く残ってはいるものの、それでも世界崩壊の危機はとりあえず過ぎ去っている。このまま順調に『害獣』による世界修復が進めば、いずれ元の姿を完全に取り戻すだろう。
だが、しかし。
『害獣』の手が届きにくい世界の隙間に逃げ込んだ『人』類の中に、未だ『異界の力』を諦めぬ者達が潜んでいる。彼らはじっと闇の中に潜み、嵐が遠ざかるのを待ち続けている。いずれ使命を果たした『害獣』達が世界からいなくなる日が来ることを信じ、ひたすら待ち続けている。
勿論、そのことを世界は知っていた。
知っていたが故に、世界は再びその牙を剥く。
だが、『害獣』は使えない。奴らがいるのは『害獣』では入り込めない、あるいは見つけ出せない世界の隙間。だからこそ世界はある者にその使命を託す。その者は、かつて世界が生み出したあまたの『人』の種族の中で、最も他種族から蔑まれ虐げられてきた種族の子供。世界は、その子供を使って残った『人』類全てを滅ぼそうと考えたのだ。
元々、今回のことに限らず、『害獣』を生みだす以前から、世界はその種族の者達に何度も力を与えてきていた。
『異界の力』によって異常な力を持ち、世界そのものの摂理を捻じ曲げる異物。『人』類が『超越者』と呼ぶそれらを排除するために、世界はある種族の中から一人を無作為に選んで『力』与えてきた。
その力を与えられた者は、他の者達から『勇者』と呼ばれ、世界の意思に従って強大な力を駆使して他種族に生まれた『超越者』達を狩っていったのだ。
だが、世界が満足する結果は歴代のどの『勇者』も達成することはできなかった。『勇者』がどれほど『超越者』達を狩っても、すぐにまた次が生まれてくる。また、あまりにも強すぎる『勇者』は他の種族全てから敵視され常に狙われ続けた為、数で押されて殺されることもままザラ。いや、そればかりではない。運よく生き残ったとしても同じ種族の中からも裏切り者が出現し、どうあっても『勇者』という存在をこの世界から消してしまう。
それ故に、世界は新たな使徒として『害獣』を作り出すことを選択したのだ。
しかし、今、また世界は『勇者』を使うことを選択する。何といっても『害獣』が出現する前とは明らかに状況が違う。
滅ぼすべき『人』類の数は大幅に減少した。あまりにも少なくなってしまった『人』類には現在、過去に存在した『国』と呼ばれるほど大きな集団は存在していない。また、『勇者』となる種族の者達自身の数も激減している。つまり、身内から裏切り者が出るほど数はいないのだ。可能性はゼロではない。しかし、圧倒的にゼロに近いと言えるだろう。
そして、一番大事なことであるが、世界が力を与えようとしている者には強烈な不運の道が用意されている。これは世界がその者に押しつけた道ではない。周囲の環境が作り出すことになる運命。その者は世界に生まれおちてからわずかな時間を両親と共に過ごした後、その強烈な不運の道に突き出されてしまうだろう。そのとき、その者は必ずや他種族の全てを憎み恨む。
そして、そのときこそ『人』類は滅びの道を歩み始めるのだ。
『勇者』となったその者の手によって、『人』類は滅亡するであろう。『害獣』ではなく、同じ『人』類の手によって。
だが
世界の思惑は完全に外れることになる。
と、いうよりも、完全に外れたというべきか。
世界によって『勇者』となる運命を授けられたその者はしかし、『勇者』となることを拒否したのである。
いや、それどころか、全『人』類を滅ぼすほどの力を。
使いようによっては全『人』類を支配下に置くことも可能なその強大な力を。
あっさりと手放してしまったのであった。
いや、手放したどころではない。捨ててしまうならまだしも、なんとその力を他の者達に分け与えてしまったのだ。
そして、それ以降、世界を巡る運命は全く予想もつかない方向へ向かって走り出してしまっている。
この先、分散した『勇者』の力がどういう騒動を巻き起こすことになるのか、世界自身も全く予想できない。
世界自身が直接それらの力を回収することはできないし、『勇者』の力は世界自身が作り出したものであるから『害獣』に襲わせるわけにもいかない。
もし、世界に感情というものがあったとするならば、間違いなくこの事態に『唖然』としていたであろう。
ともかく、人知れぬ場所ではじめられた人類抹殺計画は、誰も知ることのないまま計画途中で頓挫し自然消滅してしまった。
人類の命運は守られたのである。
ある意味、その者は本物の『勇者』となったと言えるのかもしれない。
ただ、本人には全くその自覚はなかったが。
さてその『勇者』にならなかった者の今である。
かの者は、今どうしているのだろうか。
その姿は、城砦都市『嶺斬泊』の中に見ることができる。
かの者が今どうしているかというと。
「あっつぅ。今日も、あっついですねぇ」
プールサイドに設置されたビーチパラソルの下に寝転がるのは一人の少年。
上はグレーのパーカー、下は黒に近い濃い紺色のトランクスタイプの水着に包まれた体は一見華奢。しかし、良く見ると非常に引き締まった筋肉をしているのがわかる。前が開けられたパーカーの間から覗く腹筋は見事に割れているし、腕やふくらはぎにもたるんだところは全く見られない。
黒髪に黒目、耳は尖ったところもなければ獣の耳でもない。牙もなければ爪もなく、角もなければ鱗もない。典型的な『人』型の種族であると同時に、一目でわかるほど肉体的に他種族よりも劣っているとわかる姿形。
人間族。
あまた存在する『人』の種族の中で最も蔑まれ差別されている最底辺に位置する最弱種族。
その正体は勿論、言うまでもなくこの物語の主人公である宿難 連夜。
パラソルの下にできた影の中にいるというのに半端ない熱気が襲ってくる現状にうんざりした顔を隠そうともせず、周囲に視線を巡らせる。
そこには楽しそうにはしゃぐ様々な人々の姿。みな、連夜と同じように水着姿であり、ボール遊びをしたり泳いだり、あるいは巨大な滑り台から滑り降りたりと実に楽しそう。中には、扇情的なビキニ姿の女性達に声をかけている男性達の姿もあり、違う楽しみ方をしている者達もいているようだ。
同じ男として、彼らの気持ちはわからなくはない。ここにいつもののほとんどが、身に着けているものは水着のみというほとんど裸同然の姿で歩いているのだ。しかもそれが自分好みの美女であったり美少女であったりしたならば、声をかけたくなるのは仕方ないことだろう。例えその勇気がなかったとしても、目で追ってしまったり自然としてしまうものである。
そんな彼らの姿を苦笑しながらしばらくの間見つめていた連夜であったが、結局すぐに目を閉じてその場に寝転んでしまった。
彼らの気持ちはわかるものの、連夜自身は正直女性のそういった姿にほとんど興味はない。なんせ、彼が興味がある女性はたった一人だけ。しかも、彼は水着姿どころかそれすらない状態の彼女の姿をしょっちゅう見ているのである。彼の恋人は超美人である。そんじょそこらのグラビアアイドルなんか全く歯が立たないほどスタイルがよく、顔なんて連夜が知る有名女優よりもはるかに美しい。何よりも、その全身からにじみ出る高貴なオーラが半端ない。
誰が何と言おうと、連夜の中でぶっちぎり一位の美女であるのが彼女である。
したがってそれ以外の女性は完全に眼中にない。
逆に言えば、恋人本人のことはめちゃくちゃ気になるわけで。
「連夜くぅん、お待たせぇ。そんなところで寝てないで一緒に泳ごう。水の中だと冷たくて気持ちいいよう」
甘えるような涼やかな声。
それが耳に入った瞬間、連夜はヘッドスプリングで飛び起きる。
見事に立ちあがった後、彼は声の主を一瞬で特定。そして、しばし硬直。
長く美しい金髪を後ろで一つにまとめ、黒とオレンジのセパレートタイプの水着に身を包んだ霊狐族の美女が、連夜に向かって手を振っている。
ひまわりのような満面の笑みが眩しくて、つい目を細めてしまう。だが、すぐに我に返った連夜は両手をぶんぶん振りながら彼女に応え、そちらに向かって走り出した。
「はぁい、玉藻さん。今いきまぁす」
世界が『勇者』と定め、全『人』類を恐怖に落とすはずだったその者、宿難 連夜はいま。
城砦都市『嶺斬泊』の市民プールで恋人とデートの真っ最中だった。
季節は夏、しかもど真ん中。照りつける太陽はあまりも眩しく、真下にいる者達を容赦なく照りつける。
砂漠地帯を発祥の地とするリザードマン族やファイアドラゴン族の者達ならばともかく、多くの『人』の種族にとって、この暑さは体にかなり堪える。念動室温調節機という文明の利器を使えば部屋の中を涼しくすることができるものの、それは部屋の中だけのこと。部屋から一歩でも出ないとなればいいかもしれないが、ほとんどの『人』はそういうわけにはいかない。仕事、学校、買い物にそのほかいろいろ、人が人として生活していく為に、部屋の外に出ていかなくてはいけないのだ。
連日、記録的猛暑日が続く中、噴き出る汗を拭いながら人々は今日も日々を過ごしているわけだが、そんな日々に嫌気がさしてしまった人がいた。
「暑い、暑すぎるわ、連夜くん。もうやだ!」
熱気こもる自宅の部屋の中を、子供のように転げまわりながらダダをこねているのは、この物語のヒロイン如月 玉藻。一緒にいるのが連夜だけだからか、Tシャツ一枚に、黒のパンティーだけというあられもない姿で部屋の中を転がりまわる。動かなくても汗が噴き出るような暑さなのに、激しく動くものだから玉藻の体は汗で凄いことになっている。汗でべったりTシャツが体に張り付いて、扇情的な肉体のラインを完全に浮き彫りにしており、服を着ている意味がほとんどなくなってしまっている。
しかし、それでも玉藻は部屋の中を転がりまわり喚き続ける。
「仕方ないじゃありませんか。この部屋の念動室温調節機壊れちゃったんですから」
ベランダに出て洗濯物を干している連夜は、とんでもない姿で転がりまわり続けている恋人の姿をなるべく直視しないように背を向けながら話を続ける。当り前のことだが、連夜はちゃんと服を着ている。見るからに涼しそうな水色の半袖シャツにハーフパンツ姿。汗は勿論流れ出ているが、玉藻ほど汗だくではない。
そんな連夜の姿を見てどう思ったのか、さらに額に浮き上がらせた青筋を太くしながら玉藻は喚き散らす。
「それにしたってなんでよりによってこの一番必要な時に壊れちゃうのよ」
「そりゃ、十年も使っていれば壊れもしますよ。玉藻さん、暑がりで寒がりだから年がら年中使ってらっしゃったんですよね? つけっぱなしで外出されていたこともあったみたいですし、これだけ酷使していれば寿命もきます。むしろよくもったほうですよ」
「いやだぁ。そんな根性のないことでどうするのよ。せめて二十年。いや、三十年は頑張ってもらわないと」
「そんな無茶な」
あまりにも無茶苦茶すぎる主張に流石の連夜も呆れ果て、振り返って恋人の姿を見つめる。そこには、あまりにも転がりまわり過ぎて疲れてしまったのか、連夜が持ってきた扇風機の前でぐったりしている玉藻の姿。時折、扇風機に向かって正座し、子供のように『あ~』とか『う~』とか唸っている。
連夜は、ため息を吐き出した後、何もない虚空を見つめながらしばらくの間何かを考え込んでいる様子を見せた。そして、あることについてしばしの間葛藤していたが、やがて、連夜の頭の中の天秤は自分の悩みよりも恋人の笑顔を得るための方へと傾く。
どこか微妙に嫌そうな感じを出しながらも、連夜はある提案を口にする。
「そんなに暑いなら、涼しいところに行きますか?」
「涼しいところってどこ? ああ、ひょっとして大型ショッピングモールとか? そういえばブルーマウンテンエリアに大手ショッピングモールの『いい音』が出来たとかクレオが言っていたわね」
「違いますよ。もっと涼しくなるところです」
「って、どこよ。念動室温調節機があるとこならどこでも涼しそうだけど」
全くやる気のなさそうな声で連夜に向かって生返事を続ける玉藻。
正直、ここより涼しければどこだっていいという気持ちであった。しかし、連夜が口にした場所を聞いた瞬間、玉藻の中のやる気スイッチが完全にオンになる。
「えっと、ほら、近くにアクアパレスっていう、大型プールできたのご存知ありませんか?」
「あくあぱれす、って、あの大型滑り台とかがある、あれ? 人工的に川流れを再現したコースとか、大きな波を体験できたりする、あれ?」
「ええ。そうです。よかったらお昼からでも」
「行くっ! 絶対行くっ! 待ってて、すぐに用意するから!」
「え、ちょっ、玉藻さん、まだ。まだですよ! 洗濯物まだ全部干してないから、全て干し終わってからって、行っちゃったよ、もう」
と、いうようなことがあり、結局、急かしに急かされて昼からどころか、午前中のうちに来ることとなってしまったのだった。
急遽行き先を決定したにも関わらず、二人とも意外とすんなり準備を完了することができた。
連夜は一応プールに行くことを提案するつもりで来ていたので、予め玉藻の家に水着などを持参して来ていた。玉藻のほうはというと、今日明日というつもりではなかったが、夏休み中に行う連夜とのデートの行き先の一つとして、泳ぎに行くことを想定していたので、新しい水着は既に購入済み。どっちかというと、いつ自分から切り出そうかとタイミングをはかっていたところだったので、連夜の提案は渡りに船だったのである。
こうして速攻で準備を終わらせた玉藻は、連夜が洗濯物を大急ぎで干しているのを手伝って終了させた後、彼の手を掴んで引き摺るように家を飛び出したのだった。
それから連夜のサイドカーに揺られて三十分ほど。
夏休みとは言え、平日の昼間とあって空いている道路をすいすいと駆け抜けた二人は、都市中央から若干離れたところにある巨大なテーマパークへとやってくる。
『アクアパレス』
岩山に作り出された滑り台の絵が描かれた巨大な看板が、遠くからでもよく目立つ。
駐車場はとてつもなく広いが、どこもかしこも念動自動車で埋まってる。みな、考えることは同じと知って、思わず顔を見合わせて苦笑を浮かべてしまう。それでも、これだけの人が訪れるということは、そこそこ期待できそうだと、二人はサイドカーを降りて、中へと入っていったのであった。
水着に着替えるため、一旦、それぞれの専用更衣室へと別れた二人。
先に水着に着替えた連夜は、入れ違いになってはいけないと更衣室出てすぐのところにある休憩エリアで待っていた。ほどなくして、水着に着替えた玉藻がやってきて合流。二人はまず巨大なプール施設の中散策しはじめる。
「それにしても大きいですね」
様々なプールがあちこちにあるのに気づき、珍しそうに周囲を見渡す連夜。表看板にも描かれていたこの施設最大のウリである、巨大な岩山の滑り台を中心に、それらの周囲をぐるりと描くようにして流れてる川の流れを再現したプール。小さなお子様が遊べるように底が浅くなった小さなプール。滑り台から少し離れた場所には人工的に作り出された砂浜と、大きな波が寄せては返す巨大なプール。熱帯雨林の植物を多く配置してジャングル風に仕立てたプールには大きな滝が見えるし、東方に生息する松などを植えた東方風のプールから湯気が立ち上り温泉代わりに使われているところもある。
他にもいろいろと趣向を凝らしたプールが目白押しで、どれもこれも実に楽しそう。
しかし、肝心の連夜はというと、この状況を心から楽しめるとは思ってはいなかった。
「あれ? 連夜くん、なんだか浮かない顔をしているけど、どうしたの」
連夜に促されるままにわくわくした様子でいろいろなプールに視線を送っていた玉藻であったが、恋人至上主義者の彼女がすぐ側にいる恋人の変化に気がつかないわけがない。
周囲に視線を向けるたびに、引きつった笑みを浮かべたり黒い笑みを浮かべてどこかを睨みつけたり、なんだか妙にそわそわしている気がしてならない。いや、玉藻の気のせいではなく、間違いなく連夜は今、何かに気を取られている。折角のデートなのに、自分に意識を向けてくれない彼氏にふくれっ面を見せて猛抗議する玉藻。
だが、そんな玉藻に対し、彼は彼女に以上に不機嫌な様子を返してみせる。
普段、彼女に対しめちゃくちゃ甘くて低姿勢な彼が、ここまで不機嫌な様子になるのはほとんど見たことがない。ひょっとして自分は何かやらかしてしまったのだろうかと、物凄く不安になる玉藻。恐る恐る不機嫌の理由が自分にあるのではないかと聞いてみるが。
「玉藻さんは別に悪くないです」
何度問いただしても仏頂面でそればかり。
じゃあ、何が問題なんだと聞き直しても、物凄い不満顔のまま黙ってしまう。怒ってキレてしまうのは簡単だが、それをしたら彼は完全に沈没してしまう。他人からの精神攻撃にはダイアモンドの如き防御力を誇る彼氏であるが、身内からの攻撃には紙以下の装甲しかない。玉藻に至っては防御そのものを行わないので、軽い一撃でもノックアウトしてしまう。お説教するときはそれでもいいのだが、これからデートというときにそれはいただけない。
どうしたものやらと途方に暮れかける。
しかし、不意にあることに気がつく。先程から連夜があちこちに視線を向けていることに気がついてはいたのだが、その視線の先を追っかけているうちにあることに気がついた。
連夜の視線の先にいる者達もまた、こちらに視線を向けていたのだ。彼氏と睨みあっているのかと臨戦態勢に入ってみたが、どうもそうではないらしい。彼氏と、その視線の先の者達との視線は明らかに交差していない。ではどこを見ているのか。どいつもこいつも何やらだらしない笑みを浮かべながら、ぼやんとした感じでこちらを見つめている。
と、そこまで来て、玉藻ははたと気がつく。
(こいつら、私のことを見てるの?)
それを自覚すると、唐突に玉藻はあることを思い出した。大学にいるときに周囲から向けられる無数の男性生徒達の視線。あれと全く同じ。つまり。
(そうか、そういうことか。連夜くん、焼きもちやいてくれているんだ)
以前、大学の学生達と飲み会を行っていたところを連夜に目撃されたことがあったが、そのときも今と同じような表情で物凄く嫉妬してしまったと言っていた。やっぱりあのとき同じである。しばしの間、ぽかんと隣にいる彼氏を見つめていた玉藻であったが、急になんだか嬉しくなって愛おしくなって顔面を土砂崩れさせながら連夜の腕にからみつく。
「もうっ、連夜くんったら、ほんとにかわいいんだから」
豊満な胸を押しつぶさんという勢いで連夜の腕に抱きつき、自分の頬を彼氏の頬にくっつける。普段からできた彼氏である連夜は、玉藻が何をやっても許してくれる。そのことに対して不満を言うのはどうかと思うのだが、できれば本当に嫌なことは嫌と言ってほしいし、もっとわがままを言ってくれたらいいのになぁと思っていた。自分の感情を押し殺すのが、嫌になるほど上手な彼。
その彼が、自分の感情を殺しきれずにいる。他ならぬ玉藻のことが原因でだ。いつも、彼は『自分は独占欲がとても強い』と言いながらも、どこまでも玉藻の自由にさせてくれる。そういう面を見ていると、ほんとに自分のことを独占したいと思ってくれているのかと不安になったりすることも少なからずあった。
しかし、今の姿を見ていると、本当のことだったんだと実感する。
「そんなに心配しなくても私は連夜くんのものなのに。連夜くんだけの私なのに」
際限なくデレデレしながら『狐』の顔になった玉藻は、愛しさが止まらない彼氏の頬を舐めまくる。しかし、そんな玉藻の声に対し、連夜は相変わらずの不機嫌な様子でそっぽを向いたまま。
「そういうことじゃないんです。玉藻さんが浮気するとかそういうことを疑ってるわけじゃないんです。そうじゃなくて、玉藻さんの姿を他の男どもに見られるだけでも嫌なんです」
「え?」
「とりあえず、泳ぐまででいいですから、これ羽織っていてください」
連夜の言葉に呆気にとられている玉藻をなんとか引きはがした後、自分の来ていた大き目のパーカーを脱いで玉藻に着させる。
「玉藻さん、顔だけでも物凄い美しいのに、プロポーションに至ってはグラビアモデルも裸足で逃げ出すほどのナイスバディでしょ。いやらしい男どもの視線が増える一方なんです。僕の玉藻さんなのに。僕だけの玉藻さんのはずなのに」
ドス黒いオーラを全身から放出させながら、ブツブツと心の中に沈殿している猛毒を吐き出し続ける連夜。そう、連夜は最初からこうなることを予想していた。予想していたからこそ、玉藻の家に行ったとき、すぐにプールに行こうと切り出さなかったのだ。
玉藻はモテル。言うまでもなくとことんモテル。男女問わずモテルが、やはり男性にモテル。同じ美女といえども、どちらかといえば女性からより多く秋波を寄せられるミネルヴァとは逆に、男性からのアプローチが絶えない。中学校時代から現在の大学時代に至るまで、常に告白され続ける毎日を送っているのだ。どう客観的に見ても、凄まじく魅力的な女性であることに疑いようがない玉藻。そんな玉藻が、惜しげもなくその素晴らしい肉体を見せているのだ。惹かれない男など、ほとんどいないだろう。それこそ種族形態が全く違うとか、同性愛者であるとか、年齢が幼い、あるいはその逆にもう年老いて枯れているなど、余程理由がない限りは、皆、玉藻を目で追いかけることになる。事実、既にそうなっている。しかもその状態が現在進行形で続行中だ。連夜にしてみれば、心穏やかにしていられるわけがない。
普段、一応平静を装ってはいるが、実はそれ完全に連夜のやせ我慢である。玉藻から『嫉妬深い男は嫌い』とか、『私を束縛しないで』と言われたくない一心で耐えているのだ。だが、平常ならまだいい。まだ耐えられる。なぜなら、玉藻はちゃんと服を着ているから。連夜と一緒にいるとき以外は、玉藻は自身の素晴らしいプロポーションがわかりにくい地味な格好を常に心がけているし、スカートではなくズボンであることが多い。化粧もほとんどしないし、素肌も極力見せてはいない。美しい顔は隠しようがないからそれについてはしょうがない。そこまでならまだ許容範囲内だ。なんとか歯を食いしばって余裕のある男を演じることができる。
しかし、今回はダメだ。どの男達の目を見ても、完全に欲望の色に染まっている。『人』の恋人の体を連夜の許可なく舐めるように見つめている。それらを見ているだけで、怒りが爆発しそうになる。このあたり一面に『業火炎上』の呪符でもばらまいてやれば少しはスッキリするかもしれないと物騒な考えまで浮かんでくる。
完全に『祟鴉』モードになっている連夜の姿を、しばらくうっとりと見つめ続けていた玉藻であったが、再び顔面を土砂崩れさせながら今度は連夜の身体ごと抱きしめる。
そして、周囲の男達に見せつけるようにして連夜の唇を奪う。いつも以上に濃厚な口づけ。周囲の者達が何事かと呆気にとられ、思わぬラブシーンに頬を染める中、玉藻はたっぷり一分以上もそれを続けてから唇を離した。
「連夜くん。周りのことなんか放っておきなさい。あなたが見ていいのは私だけ。私だけを見ていればいいのよ」
「そりゃそうですけど」
「私がどんな『女』なのか、本当の意味で知っているのはただ一人。あなただけよ。私の外見だけに惑わされる馬鹿達にいちいち付き合う必要はないのよ。ほら、あなたは知ってる。私の心も、体も」
未だにぐずり続ける連夜に嫣然と微笑んで見せた玉藻は、有無を言わせず連夜の片手を掴む。そして、その手の平を自身の水着の下に滑りこませ自分の左胸を直に触らせる。
連夜は、一瞬顔を真っ赤にして硬直するが、すぐに表情を和らげると己の横顔を玉藻の大きな胸に押しつけた。
「玉藻さんの心臓の音が聞こえます」
「ね、こんなにもドキドキしてる。連夜くんが側にいるだけで、私はこんなにも胸がいっぱいになるの。他の男のことなんか気にしてはいられないわ。だから連夜くんも私のことだけを見て、私のことだけを考えなさい。いいわね」
わざと怒ったような口調でそう告げる玉藻に、今度こそ連夜は肩の力を抜いて笑顔を作る。それを確認した玉藻もまた、同じような笑みを作って目の前の大切な彼氏に応えて見せた。
「よし、じゃあ、私に集中できたようだから、早速プールを周っていくわよ。とりあえず最初はあの川のプール。いざ突撃!」
「あ、ちょっ、玉藻さん、引っ張らないでくださいってば」
先程のラブシーン騒動に集まってきた群衆をかきわけるようにして、玉藻は連夜を引っ張り駆けだして行く。
まだ時刻は、正午にもなっていない。遊ぶ時間はまだまだ十分あるが、楽しい時間は油断しているとあっという間に過ぎてしまう。玉藻は少しでも今日という日を楽しむ為、とことん恋人を連れ回そうと決意するのだった。