第三十五話 『宿難家の人々』
大きな屋敷の広い庭。
東方風によく整備された美しい空間。
綺麗に整えられた様々な種類の植木の数々。
軽石と岩との絶妙な配置具合で表現されているのは山間を流れる川の流れ。いわゆる枯山水。
庭の良しあしなど全くわからないど素人にでもはっきりその趣味の良さがわかるようなそんな見事すぎる庭。
どこを見ても美しい景色が視界に広がるそんな中を、昔ながらの竹ぼうきで掃きながら興味深々に見つめていた霊狐族の美しい少女、如月 晴美は、ふとその手を止めて大きくため息を吐き出した。
「なんで私、ここにいるのかしら」
晴美は自分が置かれている立場の不可解さに小さな首を目一杯傾げる。
つい先日まで、晴美がいた場所はこことは真逆の場所。
命の価値は紙くず以下。ちょっと気を抜いただけで死が訪れるそんな場所。しかし、そこから逃げ出すことは許されない。彼女の命は彼女の物にあらず。彼女は彼女の命を買い取った無法者達の為、己の命を彼らを守るための盾として使わなくてはならなかった。
理不尽極まる運命。彼女はそこで己の最後を覚悟する。しかし、天は彼女を見捨てはしなかった。その地獄から逃げだすチャンスがやってきたのだ。勇気を出してその場から逃げ出した彼女は、決しの逃避行の果てにある人物と邂逅を果たす。
その人物とは自らを通りすがりの『農夫』とうそぶく不思議な少年宿難 連夜。
外見は今年十三歳になる晴美よりも三つか四つほど年上。しかし、この少年からはその優しげな外見と相反するオーラを感じる。まるでそれは熟練の傭兵が持つような強さと頼もしさ。そんな不思議極まりない少年は、あったばかりであるはずの彼女をまるで実の妹を扱うように優しく接してくれた。
それどころか、敵ではなく味方であることを断言し、彼女を救うと頼もしくも宣言してみせてくれたのだった。正直、この少年の言葉を鵜呑みにしていいものかどうか迷った。しかし、結局晴美は彼が差し出した手を取った。心から彼のことを信じようと思ったわけではない、だが、迷っていた彼女を決意させたのは、彼の身体から漂ってくる懐かしい匂い。それは昔自分をかわいがってくれた大好きな姉玉藻の匂い。きっとその匂いは似て非なるものだったのだろうが、それでも、自分を愛してくれた姉が自分を救うためにこの少年をここに連れて来てくれたのではないかと。そんな風に思えてしまった。
そして、少女は賭けに勝つ。
彼の手に導かれ、晴美は地獄を脱出した。待ちうけていたのは中央庁の救出部隊。晴美と同じく犯罪組織『バベルの裏庭』に誘拐され奴隷にさせられた者達を助けて回っている彼らに保護されたことで、自分が本当に地獄から解放されたのだと知ってようやく安堵する。
それから一週間。
城砦都市『嶺斬泊』内にある中央庁直轄の軍病院に収容された晴美は、そこでいろいろな治療や検査を受けたりしたが、幸いにもすぐに退院できる運びとなった。
健康体になり、自由も得た。めでたしめでたしとなるところである。
だが、そうは問屋がおろさない。晴美には帰るところがなかった。故郷はあることはある。身内と呼べるものもそこに存在している。だが、そこに帰るわけにはいかない。なぜなら、彼女を犯罪組織に売り渡し、地獄に突き落とした張本人がまさにその故郷にいる身内達だからだ。
しかし、だからといって他に行くあてなどなく、彼女は軍病院を出たところで立ち尽くしてしまう。
やったことなどないが、もう身体を売って生きていくしかないのだろうか。天国から再び地獄。どこまでも沈んでいく気持ち。しかし、そんな時間もすぐに終わりを告げる。
「晴美ちゃ~ん、お待たせ~」
能天気な口調でそう声をかけてきたのは、あの自称『農夫』の不思議な少年連夜。
膝を抱えて座り込んでいる晴美の側にやってきて優しく立たせた彼は、乗ってきたバイクのサイドカー側に有無を言わせず彼女を乗せると、行き先も告げないままバイクを発進。あまりの急展開に全然ついていけないでいる晴美を置き去りに、慣れた様子でバイクを走らせてやがて一つの屋敷の前へとやってくる。
東方風の素晴らしくも大きく立派な門。
その門の横にあるやや小さな勝手口を開けてバイクごと中へと入っていく。そこで二人を出迎えてくれたのは直立した姿の小さなネコのメイドさん達。
「お帰りなさいませですにゃ、若様」
「わ、若様?」
「ただいま、こうめ。晴美ちゃん連れてきたから、お世話のほうよろしくね」
「心得ておりますにゃ。如月 晴美様でございますにゃ。この屋敷でメイドを務めさせていただいております、ののはら こうめと申しますにゃ。これから晴美様の身の回りのお世話をさせていただきますのでどうぞよろしくお願いいたしますにゃ」
「は、晴美『様』って、あの、その」
「さぁさぁ、とりあえず、部屋に案内してあげて。みんなの挨拶はおいおいでいいんじゃないかな。まだ、お母さん達にもきちんと紹介していないし、まずはここに慣れてもらわないとね」
「いや、待って、あの、だから」
『ささ、参りましょう、晴美様』
「だから、晴美『様』って、いったいなにぃっ!?」
詳しい説明を受けないまま、晴美はなし崩し的に屋敷の中にある一室へと案内された。
そこは優に九畳はあるであろう広い部屋。真新しい布団が用意されたふかふかのベッドに、ウッドエルフ族の名工の手によるものとわかる洋服ダンスに勉強机。大きな窓から美しい庭にでることもできる。窓から入ってきた眩しい太陽の光は部屋の隅々まで照らし出す。天井近くには最新式の念動室温調節機が設置されていて、真夏だというのに部屋の中は非常に快適である。
ハッキリ言ってどこのお嬢様が使っているお部屋なのかという感じである。そのとんでもなく豪華な部屋を、案内してくれたメイドさん達は晴美の部屋として使ってほしいという。
冗談かと思った。しかし、夢でもタチの悪い冗談でもなかった。正真正銘本気でそうだったのである。少なくともこの一週間、彼女は追い出されることもなく、あの部屋で寝泊りを続けている。あの部屋を使っている彼女に対し、この屋敷の者たちから退去を命じられたことは一度としてない。ただ、未だに夢なのではないかと疑っていることも確か。
ともかく、この屋敷の中は少女を驚かせることで一杯である。働いてもいないのに朝昼晩とそれなりに豪華な食事を出してもらえる。部屋の中にある新しい洋服ダンスの中には、少女の体型にぴったりあわされたいくつもの服や下着が入っていて、使いたい放題使える。ひょっとして新たにどこかに奴隷として売られるのかとも考えたが、屋敷の外に出てもとがめられることはない。一応、こうめという名の専属メイドさんが護衛としてついてくるが、別に彼女の行動を束縛したりはしない。それどころか、ある程度のまとまった額をお小遣いとしてわたされ、自由に使って良いとまで言われてしまった。
いったい何なのだろう。何の目的があって自分を、如月 晴美という少女をこんな豪邸に連れてきたのだろうか。
外を散歩しているときに、思いきって横をちょこちょこ歩くこうめというメイドに尋ねてみたが、返ってきた答えは。
「いえ、ですから晴美様の身の安全を守り日々の生活のお世話をさせていただくためですにゃ。それがなにか?」
と、今更何を当り前のことを聞くのかと、逆に小首をかしげながら聞き返されたものである。
結局、いつでも逃げることは可能であると判断し、再び屋敷にもどりしばらく様子をみることにしたのであるが、戻った少女に更なる混乱が待ち受けていた。
屋敷に戻った少女をまず出迎えたのは燃えるような赤毛の物凄い美女。白銀色に光る蛇の眼に、肌のところどころに見える蛇の鱗、そして、背中からははっきり肉眼で視認できるほど強い真っ赤なオーラ。一目でかなり上位の上級聖魔族であることがわかる女性。
この美女のことは少女もよく知っている。救助してもらったときにも会ったし、軍病院でもその姿を見ている。
中央庁の救出部隊を率いていたかなり偉い人。
普通、一般人がおいそれと会えるような人ではないことくらい世間知らずの少女にだってわかる。なのに、その人が屋敷にいて、しかもである。
「まぁまぁまぁ、あなたが晴美ちゃんね。私はドナ・スクナーよ、よろしくね」
「は、はぁ。あの、その、初めましてき、如月 晴美です」
「きゃああ、なんてかわいい声なの」
奇声をあげながら晴美を抱きしめ、その小さな身体をぶんぶん振り回す。
いかつい中央庁の兵士達を叱り飛ばし、凛々しい表情で部下達に指示を送っていた人物と同じだとは到底思えない見事なはしゃぎっぷり。しかも彼女の口から信じられない言葉まで飛び出した。
「え? 私とレンちゃんの関係? やぁねぇ。私はレンちゃんの母親。よく似てるって言われているんだけど、わからなかったかしら?」
「え? は? は、母親?」
一瞬、耳に入ってきた言葉の意味が全くわからず、思わず目を白黒させる。
「えっと、あの、失礼ですが、その、『義理』とか、その『育ての』とかっていう意味でですか?」
「違う違う。レンちゃんは間違いなく私がお腹を痛めて産んだ子供よ」
「え? えええっ!?」
あまりの衝撃に、全力で絶叫してしまう晴美。それはそうだ。一般常識から考えればあまりにも信じられないことなのだから。確かに表面上は種族間に差別はない。どんな種族同士でも結婚できるし、ある程度生態が違う種族同士でも子供を作ることは可能。しかし、これはあまりにも違いすぎる。
宿難 連夜という少年は、全種族中最弱最底辺の人間族。
それに対して、この女性は全種族中最強最高位に近い上位の上級聖魔族。
ドナの言葉が確かならば、父親が少年と同じ人間族で、その人との間に連夜は生まれたことになる。
が、しかしだ。単純に肉体的な能力値があまりにも違いすぎる。それこそ、例えが悪いが、ネズミと象ほども違う。結婚するだけならば、できるだろう。しかし、子供を成すともなればあまりにも差がありすぎる。普通なら絶対にできないだろう。それなのに。
「うふふ、私と愛する旦那様との愛の前に、不可能はないのよ」
「は、はぁ、そうなんですか」
もうそうとでもいうしかしょうがない。いろいろと言いたいことはたくさんあるが、実際、生まれてしまっている実物と何度も会っているのだ。納得するしか仕方ない。
思った以上の衝撃に茫然としながらも、しかし、それを回復している暇は晴美にはなかった。
次の衝撃が待っていたからだ。
「お主が如月 晴美殿か。俺は宿難 大治郎 宣以」
「は? はぁ、あの、ご丁寧にありがとうございます。あ、あの、『貴族』殺しの『獅子皇』様ですよね?」
「む。まぁ、そう呼ばれるのは好きではないが、恐らくそれは俺のことだな」
獅子の頭を持つ堂々たる体格の武人は、晴美の言葉に何とも言えない苦笑を浮かべて見せる。
城砦都市『嶺斬泊』に、いや、北方諸都市に住む者で、その名を知らぬ者は一人としていないという最強の英雄。里に籠って暮らしていた晴美でさえその名を聞いたことがあるほどの超有名人。人気アイドルや有名俳優でもここまでその名を知られている者はいないだろう。
それほどの人物が晴美の前に現れ、そして、またもやとんでもないことを言い出した。
「敢えてこれ以上自己紹介をする内容は特にないな。・・・いや、一つだけあったか。大したことではないが念の為に言っておく。この家での俺の立場は長兄。つまり連夜の兄だ」
「ふ、ふえええええ!?」
正式な名前を聞いたときにそうではないかとは思ってはいた。しかし、本当に人間族のあの少年と、この獅子の武人とが兄弟だとは。『人』と『人』とのつながりとは、ほんとにわからないものである。
大治郎の本名についてだが、実はあまり知られてはいない。いやそれどころか、詳しいプロフィールそのものはほとんど知られてはいないと言っていい。
世間一般に知られていることは結構少ない。
一つ、種族は一見獣人族に見えるが、実はかなり高位の上級聖魔族であること。
一つ、ドワーフ族の剣聖坪井 主水の一番弟子であり、無外一刀流の免許皆伝者にして、恐るべき剣の達人であること。
一つ、北方諸都市最強の傭兵旅団と噂される『暁の旅団』の副団長にして、貴族クラスの『害獣』と戦い、これにトドメを刺して倒した英雄であること。
そして、最後に一つ。
世間一般に知られている通り名が、『獅子皇』であること。
ハッキリわかっているのは上記の四つほど。後はほとんど噂話の類ばかり。ともかく同じ『人』とは思えぬような化け物じみた武勇伝に事欠かない人物であるが、たくさんの人々から畏怖と尊敬を集めている。
晴美とて同じこと。『人』類の天敵であり、『人』の手では決して討てないと言われていた貴族クラスの『害獣』を打倒した若き英雄に憧憬を抱いていた。
ついさっきまでは。
「大治郎、いつになったらうちと戸籍入れてくれるねん! そろそろハッキリしいや!」
「ちょっと、ダイ。今週は私と毎日デートする予定だったでしょ。さっさと用意しなさいよ」
「あのぉ、大治郎様。今日はお腹の赤ちゃんの定期検診の日なのですが、担当医の方にお父様のほうに御話があると言われているんですけど」
晴美の目の前で繰り広げられる激しい女同士の戦い。そして、その中心に立つ獅子の武人はというと。
「すまん。とにかくすまん。何か知らんけど、すまん。本当にすまん」
「大治郎!」
「ダイ!」
「・・・大治郎様」
「申し訳ない」
土下座だった。
晴美の目の前で見たこともないような美しいフォームでの完全完璧な土下座。北方諸都市最強にして最高の英雄が土下座である。見ようと思って見れるものではないが、できれば一生見たくなかった光景であった。
やがて、英雄は三人の美しい女性達に引き摺られていずこかに連行されていき(引き摺っていったのは正確には二人、あとの一人は申し訳なさそうに後ろからついていった)晴美の前から姿を消した。
一緒にこの光景を見ていたはずのメイドやボーイ、執事達は、見慣れていますといわんばかりに全員見事に見て見ぬふり。
いろいろと心臓に悪い光景であったが、しかし、晴美を襲う衝撃はまだ続く。
「初めまして晴美さん。私はスカサハ・M・スクナー」
次に現れた少女に対しては、あまり晴美は驚かなかった。
白銀色の美しい髪に、赤い瞳。髪と瞳の色が全く逆のある妙齢の美女とそっくりの美少女。見た感じ自分よりも一つか二つ上であろうか。名前を聞いて流石の晴美もぴんときた。
「えっと、連夜さんの妹さんでしょうか」
「ええ、そうですわ。夏休みが明けたら一緒の中学に通うことになると思います」
「つまり、スカサハさんは私の先輩になるってことですね」
「ええ、ですから、学校で困ったことがあればいつでも私を頼ってくださいませ。勿論、普段から遠慮なく相談してくださって構いませんのよ」
いたずらっぽい笑みが実によく似合う。
これぞ美少女。同性の晴美から見ても本当に魅力的な容姿の少女であった。しかし、これまでに会った濃いいメンバー達からすると、容姿以外に特筆すべきところはない普通の美少女。
美少女である時点で普通とは言い難いかもわからないが、それでもこれまでのメンバーからするとかなり普通だ。
晴美は、ほっとしたような表情で肩の力を抜く。
だが、それはとんだ早とちり。完全に油断している晴美に対し、恐ろしい一撃が待っていた。
「そうそう、晴美さん」
「はい、なんでしょう」
「驚かせてしまうといけませんから、前もってお見せしておきますわ」
「えっと、何をでしょう」
怪訝な表情を浮かべる晴美。屈託のない美少女の素晴らしい笑顔の中に、言い知れぬ不安を覚える晴美。促されるままに庭にでた晴美の目の前で、変化は唐突に起こった。
「は? え? は?」
あまりにも突然の変化についていけず、ひたすら慌てまくる晴美。そんな晴美をからかうように、スカサハはいくつもある首の一つを伸ばしてきた。
「これが私のもう一つの姿ですの。何カ月かに一回脱皮の時期があって、そのときはこの姿にもどるんですのよ」
晴美の前でころころと笑う巨大な何か。
声は間違いなく先程まで一緒にいた銀髪の美少女のもの。しかし、その姿は全く違う。
象のような巨大な身体。頭があるべき部分からは、九つの大蛇の胴体が伸びている。そして、その蛇の頭があるべき場所には全て、半裸の少女の上半身が突き出ていた。
しかし、その少女の姿は先程の美少女とは違う。半人半蛇。全身を蛇の鱗が覆い、口からは大きな牙が突き出ている。一応『人』に近い容姿ではあるが、全体的に青緑色に光るその身体は爬虫類に近いかもしれない。
空中をうねうねと動きまわる同じ姿の九つの少女達に見つめられて晴美は完全に腰を抜かしてへたりこんだ。
「す、すすすスカサハさんて、ま、ま、『魔王』様なんですか?」
物を知らない晴美だって『魔王』という『超越者』の存在については知っている。『異界の力』の一つである『魔力』を自由自在に操り、聖魔族を統治していた伝説の最高位種族。今まで一度としてそんな存在にお目にかかったことはないが、しかし、彼女の生まれを考えればそうとしか考えられない。
へたり込む晴美の問いかけに、九人のスカサハは嫣然と微笑みを浮かべる
「『元』ね。生まれてからしばらくの間はそうでしたわ。でも、お兄様がご帰還なさって、私は『魔王』ではなくなりましたの」
「でもその力はどうみても」
「うふふ、お兄様のおかげで、『異界の力』を使わずともこの姿になれるのですわ。まあ、その秘密についてはおいおいね」
『人』の姿のときと同じように、魅力的でいたずらっこな微笑み。何がなんだかわからないが、ともかく、彼女に対して絶対失礼なことはしないようにしようと固く心に誓う晴美であった。
さて、もういい加減打ち止めだろう。
もうこれ以上強烈な存在は現れたりしないだろう。
そう思っていた。
しかし、更なる追い打ちが待っていたのである。
「やあ、こんにちは。随分遅くなってしまったけど、自己紹介させてもらうね。私は宿難 仁。一応、この家の当主をやらせてもらっているよ。もういうまでもないけれど、ドナさんの夫で、連夜くん達の父親だ」
人の良さそうな笑みを浮かべて晴美に話しかけてきたのは、見るからに優しそうな中年の男性。どこからどう見ても人間族。どこからどう見ても普通の『人』。
これまでがこれまでだっただけに、流石の晴美も心の警戒心を解いたりはせず、失礼にならない程度に目の前の紳士を観察する。
しかし、これまでと違ってどうみても普通の『人』だ。そんな晴美の様子に気がついた中年の紳士仁は、苦笑を浮かべながら肩をすくめて見せる。
「いろいろとうちの家族が驚かせたみたいだけど、私は至って普通の『人』だよ。うちの奥さんみたいに中央庁のお偉いさんでもないし、大治郎くんのように英雄でもないし、スカサハくんのように超常能力を持ってるわけでもない。うちの素晴らしい奥さんがたまたま私を選んでくれたおかげで、こんなにも華やかなところにいることができるけど、そうでなかったらそういうものとは一切無縁の人生を送っていただろうね。あっはっは」
「は、はぁ、左様ですか」
「まあ、うちの家族はいろいろと普通とは違うかもしれないけれど、みな優しい人達ばかりだからね。ゆっくり慣れていけばいい」
どこまでも優しい笑顔。その口調、態度になんの嘘も見受けられはしなかった。
その後もしばらくの間、晴美は仁に対して警戒を怠らなかったが、彼の手作りのケーキや夕食をご馳走になったり、洗濯物をメイド達と一緒になって取り入れてたたんだり、風呂を掃除してわかしたりしている姿をみているうちに、それも自然と消えていった。
どうみても、どこまでいっても見たままの人物でしかなかったからだ。
こうして、晴美は仁を宿難家唯一の普通の人と判断したのであるが、その判断は数日後に裏返ることとなる。
ここにきてからずっと上げ膳据え膳で、食べるか寝るか散歩してるかの毎日。遊んでばかりいるようで申し訳なく、なにか手伝える仕事がないかとたまたまそこにいた仁に尋ねたときのこと。
「そういえば、晴美ちゃんは元々丸薬作りをしていたんだよね」
「え、ええそうですけど、どうしてそれを?」
自分の過去については中央庁の役人に一言も言ってないはずなのに、さらりとそんなことを言ってきた仁に驚愕の瞳を向ける晴美。しかし、そんな晴美の問いかけをスルーした仁は、いつもと変わらぬ口調であることを晴美に提案してくる。
「じゃあ、私の仕事を手伝ってもらえないかな。専門じゃないんだけど、私もちょっとだけ丸薬作りを行っていてね。晴美ちゃんくらい本格的に丸薬作りの技術を修得した『人』に手伝ってもらえると非常に助かるんだけど」
「『丸薬』作りのお手伝いですか? わ、私でよろしれば」
突然の提案に驚きはしたものの、晴美はすぐに快諾する。
いくら中央庁の保護のもとにあるとはいっても、何の仕事もせぬままに食べては寝るという毎日。日に日に大きくなっていく罪悪感にいたたまれなくなっていた晴美としては、仁の提案は願ってもないことだったのである。
「そうかそうか。じゃあ、早速だけど、彼女達についていってもらえるかな。仕事の内容については彼女達がそのまま教えてくれるはずだ」
そして、晴美達の前に現れたのは双子のメイド達。
『だいもんじ かえで』と『だいもんじ いちょう』。
彼女たちに案内されて向かった先は、屋敷内の大きな庭にある小さな離れ。その中に一歩入った晴美は、思わず感嘆の声を出していた。
「すごい。希少な薬草や高価な霊草が入った瓶詰がこんなにもいっぱい」
部屋の四方には天井まで届くほど高い棚が四方にきっちり並べられ、そこにはたくさんの瓶詰がところ狭しと並べられている。先程晴美が言った通り、中に入っているのは全て手に入れるのが非常に難しい希少な薬草や高価な霊草ばかり。中には晴美でさえ知らない草が入っているものさえある。
「うちの里の倉庫にだってここまでの種類はない。いったい、仁さんて何者なんだろう?」
答を期待して発した問いかけではない。どちらかといえば、ただの独り言のつもり発せられた無意識の問いかけ。だが、その問いかけに対し、答はすぐに返ってきた。
「ご当主様は、薬品作りの名匠でいらっしゃいますにゃ」
「北方随一。いや、ひょっとすると大陸で一番といっても過言ではないですにゃ」
「人の身体を治す『薬』、人の身体を害す『毒』どちらも自在に操ることができますにゃ」
「あまりにも卓越した腕をお持ちになる故に、巷では『薬聖』の通り名で呼ばれていらっしゃいますにゃ」
「や、『薬聖』ですって!?」
晴美だって知っている。いや、丸薬作りに長く携わってきた晴美だからこそよく知っている通り名。『薬』術に携わる者達にとって、天の上に君臨する大人物中の大人物。それが『薬聖』である。
現在、世間に流通している難病の治療薬から、傭兵が原生生物を殺すために使用する超ド級危険毒薬に至るまで、たくさんの薬品の毒薬の制作に関与してきたという伝説の人物。あの人が作って世に広めた薬によって、命を助けられたという人は数知れず、また、あの人が生み出した毒薬によって退治された危険生物もまた数知れない。
表社会に姿を現したことは一度としてないが、表裏問わずにその名を轟かしているとんでもない有名人である。
だが、本当にあの仁がその『薬聖』なのだろうか。
「えっと、それ本当なんですか?」
「本当ですにゃ」
「真実ですにゃ」
「で、でもあの、『薬聖』って謎の人物ですよね。世間では正体不明ってことになってるんですけど」
「嘘だと思うなら、そこの一角にある秘伝書を見せてもらうといいですにゃ」
「ひ、秘伝書?」
「そうですにゃ。世間では公表されていないいくつもの秘伝の薬品、毒薬の作り方が記されていますにゃ」
確かにメイド達の指し示すほう棚の一角には秘伝書らしきものが並べられている。だが、とても開けて調べる気にはなれなかった。それを見てしまった後、どんな運命が待っているか想像するだにぞっとする。
だが、そんなことしなくても晴美は、仁が伝説の『薬聖』であることを確認することができた。
メイド達に促されて手伝った丸薬作りの内容が、彼女の知りうる技術のはるか上のモノであったからだ。自慢するわけではないが、霊狐族の里で行われている丸薬作りは進んでいる。それこそ一流の製薬会社に匹敵する技術力を保有しているのだ。下手をすると都市が抱える軍事製薬部門にも匹敵するかもしれない。そんな場所の第一線で働かされていた晴美であるから、身についている技術は半端なものではない。
その晴美が脱帽するほどの技術内容なのである。
「け、結局、仁さんも普通の人ではなかったのね」
その夜、精神的にも肉体的にもクタクタになってベッドの中に沈み込むように眠ってしまった晴美。
翌日以降も、暇をみつけては丸薬作りを手伝うようになったが、毎日が新鮮な驚きの連続。目から何度鱗が落ちたことか。ともかく、仁が『薬聖』であることはもう疑う余地がない。間違いなく本人だ。
いったいこの一家はなんだというのだろう。
この屋敷にやってきてから一週間という時間が流れたが、驚かない日は一日としてない毎日を送っている。
今日は、屋敷の住人達は、皆お出かけ中。仁もまた助手の双子メイドを連れて出かけてしまっているので丸薬作りの手伝いはない。
あまりにも手持無沙汰であったため、庭の掃除でもしようと竹ほうきを借りて掃きだしたのであるが、どうにも集中できず、ちょっと掃いては立ち止まってぼんやりしてしまう。
「本当になんで私、ここにいるんだろう」
あまりにも不可解で会ったため、つい先日この屋敷に晴美を連れてきた当事者である連夜に、他の奴隷達のことについて思いきって聞いてみた。
あのとき死の森の中で、晴美と一緒に大勢の奴隷たちが中央庁の特殊救出部隊によって救助されている。晴美は、軍病院でその中の何人かと出会い知り合いになったが、退院した後の消息については誰ひとりとして聞いてはいない。
そんな晴美の問いかけに対し、連夜は様々であると答えた。家族の元に帰った者もいれば、施設にいったものもいる。中央庁からいくばくかの金や保証を受けて新たな人生を踏み出した者もいれば、別の都市に旅立っていったものもいる。もし、気になる人がいるというのなら、その消息について調べてみるがと言ってくれたが、結局、晴美は断った。
気にならないといえば気にならないこともなかったが、どちらかといえば、本当に聞きたいことはそれではなかったからだ。
本当に聞きたいことそれは。
「なんで、私だけ連夜さんのところに引き取られたのでしょうか? そして、どうして皆さん、私にこんなにもよくしてくださるんでしょうか?」
その問いかけに対し、連夜はニヤリと人の悪い笑みを浮かべ、『近いうちにわかるよ。近いうちにね』というばかり。あまりにも意地の悪い言い方にちょっと不安になって涙ぐんでみせると、慌てて平身低頭謝ってきたので何か悪いことを企んでいるわけではないのだろう。しかし、どう問いかけてみても、その理由については決して明かしてはくれなかった。
いったい、どんな秘密があるというのか。みんないい人ばかりで本当に晴美に親切にしてくれるし、ここでの生活に不満など決してありはしないが、それでもどうしても気になって気になって仕方ない。
晴美は今日何度目になるかわからないため息を吐き出した。
「いつになったら、私がここにいる理由がわかるんだろう」
答を期待しての問いかけでは勿論ない。ただの独り言。ここにきてから、本当に独り言が多くなった気がして、またもため息を吐き出す。
一週間という時間が過ぎたが、未だに晴美はその答えを知らずにいる。屋敷にいる間に、様々な人にその質問もぶつけてみた。だが、誰も、ハッキリとした答えを返してはくれない。
皆、一様に同じことを言う。
晴美が知りたいと思っていることの答は、ある人物が知っているはずだと言うのだ。
その人物は、晴美をあの闇の中から救い出してくれた人。そして、ここへと連れて来た張本人。
晴美が屋敷にやってきてから、まともに屋敷にいた試しがなかった為、質問をぶつけることができなかった人物。
晴美自身も、きっと答を知るのはあの人だろうなぁとは思っていた。何故か大好きな姉と同じ匂いを感じる不思議な人。この屋敷における彼は次男ということらしいが、メイド達に言わせると、彼こそが当家の二代目になる人らしい。既に北方の一大英雄として名を馳せている大治郎や、生まれながらに一種族の頂点近くに立っているスカサハではなく、彼が後継ぎだと言うのだ。
正直びっくりした。
屋敷の面々の中では一番地味で、特別何か能力があるとは思えない彼が後継ぎ。
それとも、実は彼の父親のように何か突出した技能を持っていたりするのであろうか。
謎が謎を呼び、つらつらといろいろなことを考えてしまう。
そんなとき晴美は不意に後ろから声をかけられてびっくりする。
「ごめんごめん、晴美ちゃん、驚かせちゃったかな」
「連夜さん」
振り向いた視線の先には、晴美が知りたいと欲してやまぬ答を知るであろう人物『宿難 連夜』の姿。
そんな晴美の苦悩を知ってか知らずか、やけに屈託のない笑みを浮かべて口を開いた。
「夕飯の準備をしたいからちょっと手伝ってもらっていいかな」