第三十二話 『愛する人のもとに』
八月がすぐ間近に迫った七月の末。
連日記録的な真夏日が続く暑い暑い日差しの中を、たくさんの買い物袋を抱えて連夜が走っていく。
城砦都市『嶺斬泊』の中でも、特に人口が密集している住宅街の中。あまりの暑さ故に普段よりも人通りは少ないが、それでもちょっとした街中程度には人ごみが存在している中を、連夜は軽やかな足取りで駆け抜けていく。
他校よりも一週間程早く夏休みに突入してから早三週間。
かぐや達との対決から数えるならば一週間という時間が流れていた。
あの日、死に至りかねない大怪我を負って救急治療用馬車で、都市内に運ばれた連夜であったが、フレイヤ達の応急処置がよかったことと、すぐに『療術師』としては最高クラスの腕を持つ実父ジンの治療を受けることができたおかげで、三日ほどで完治することができた。治療を担当した父はあまりの回復の速さに驚き首をかしげていたが、早く治って問題があるわけではない。連夜の回復ぶりを素直に喜んでいた。
だが、連夜自身は知っていた。その驚異的な回復の理由を。そして、何故自分が死なずに済んだのかを。
それを知っているが故に、手放しで喜べずにいるのだった。
「しょうがないよねぇ。こればっかりは本当に僕の大失敗なんだから。謝って許してくれるかなぁ。玉藻さん」
とてつもなく複雑な心境を抱いて一人呟いた連夜であったが、それで足を緩めたりは決してしない。
小高い丘の上にある都市立十音小学校の真下を横切るように走る道を通り抜け、閑静な一戸建ての住宅街の中をひたすら北に小走りに走りぬけていく。
右手には、今日も子供達が元気いっぱいに遊ぶ児童公園がみえる。顔を綻ばせてその光景を横目で見つつ、連夜はその斜め向かい側にある、日当たりのよいクリーム色のお洒落なマンションの中に入っていく。入口近くにあるエレベーターは使わない。その横にある螺旋式の階段を上がって二階にあがる。そして、上がったところで廊下にでて、一番奥から手前にある目当ての部屋にゆっくりと進んでいった。
別にことさらゆっくりと進んで行ったわけではない。
単に買い物袋を両手に抱えるほど持ってるせいで動きが遅くなっただけである。
連夜は目当ての部屋の前まで来ると、器用に買い物袋をまとめて片手に持ちかえて、あいた手で部屋のチャイムを一回押し、また買い物袋を両手に持ち変える。
ぴんぽ〜んと鳴るはずが、ぴん・・くらいなったところで、『ダダダダダダダダダッ!!』とはっきりわかる何者かの足音が響き、本能的に扉から一歩離れた連夜の行動の数瞬の後、勢いよく扉が開けられて何かが飛び出して来た。
呆気にとられて硬直している連夜に、金髪金眼の美しい女性が半分笑顔半分泣き顔の複雑な表情で抱きついてくる。
「連夜くん!れんやくん!レンヤくん!」
「ちょ、うわ、玉藻さん、ストップ、ストップ!!」
両手を買い物袋で塞がれており、見動きが思うように取れない連夜に覆いかぶさるように抱きついて身体全体を擦りつけてくる玉藻。
非常にナイスバディで柔らかい身体をしている上に、温かい人肌が心地よい大好きな恋人の抱擁のはずなのだが、流石の連夜もこの体勢は苦しくて、悲鳴を上げる。
しかし、感情が溢れ出してしまっているのか、玉藻はなかなか気がついてくれない。
「さびしかった! 淋しかった! 寂しかったのぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
「わかった、わかりました! 僕もですけど、とりあえず、ストップ!」
「一週間! 一週間も会えなかったのよ。いったい何があったのよ、全然連絡もとれないし、なんだか嫌な胸騒ぎが連日してとまら・・・なか・・・ったし」
連夜の悲鳴じみた説得にも耳を貸さず、しばらく力いっぱい連夜を抱きしめてタイトスカートから伸びる三本の尻尾をぶんぶんと振り回していた玉藻だったが、急に何かに気がついたように身体を離した。
とりあえず、身体が自由になりほっと安堵のため息を吐きだした連夜。一刻も早く両手の荷物を下ろしたくて、その恋人の表情を見逃してしまった。
「すいません、今日はお昼御飯作って一緒に食べようと思って買い物してきたんですよ。キッチンに荷物おろさせてもらってもいいですか?」
「あ・・・うん・・・」
飛び出して来たときとはうって変って、何か困惑する玉藻だったが、とりあえず連夜の言葉に身体をどけて、連夜を部屋の中に通す。
そのまま玉藻の部屋に入っていった連夜は、キッチンまで行って持ってきた食材を手際よく霊蔵庫に入れていく。
そして、家から持ってきたひよこのアップリケのエプロンを身につけると、料理の用意をはじめようとした。
「玉藻さん、お昼は神州長いもとタイレン豚しゃぶのぶっかけうどんでいいですかね?」
「あ、え? え、ええ」
振り返った連夜の言葉に生返事の玉藻。
なんとなく歯切れの悪い恋人の言葉に違和感を感じたが、とりあえず流しを一度さっと洗い、マナ板と包丁の準備をしようとする。
しかし、その連夜の手は途中で横から伸びてきた白いほっそりした腕に掴んで止められる。
「玉藻さん?」
不審に思ってその手の主を見ると、その表情は恐怖と悲痛でいまにも崩れそうになるのを必死で踏ん張っているかのようで、顔色は真っ青。
流石に何事かと連夜が吃驚していると、その連夜の手をそっと引っ張っていく。
「ごめん、連夜くん。やっぱり、気のせいだって思って自分をごまかせない」
「え?」
「ちょっとこっちに来て座って」
玉藻は呆気にとられる連夜を引っ張ってリビングまで来ると、テーブルの横に連夜を座らせて、自分はその連夜の目の前すぐ間近に座る。
そして、真剣な表情でしばらく連夜を見つめたあと、連夜の手を両手で取ってぎゅっと握りしめた。
「お願いだから正直に応えて」
「は、はい?」
もうこれ以上ないくらい真剣で切実な何かを秘めた色を湛えた瞳で連夜を見据える。
「この一週間、いったい何があったの?」
「一週間ですか?」
玉藻の問いかけに、連夜は誤魔化しの笑顔を作ろうとして盛大に失敗する。そして、そんな連夜を見た玉藻は自分の悪い予感が外れていなかったことを悟った。
既に夏休みに突入している連夜と違い、玉藻はブエル教授の研究を手伝う為に大学に通う日々が続いている。勿論、これも『療術』の授業の一環であり、単位を取得する為にはさぼるわけにはいかない類のものだ。このまえ『外区』に出かけた時に、連夜がタイガーマンモスなどという化け物を単独を退治することを知ってから、是が非でも手伝おうと思っていた玉藻だったのだが、悪いことにちょうどこの時期ブエル教授の研究が佳境に入ってしまった。ブエル教授の研究室に所属している玉藻をはじめとする学生達は、土日も関係なく研究室に通い教授を手伝うことに。
正直連夜のことが心配でたまらなかったが、流石にこの研究だけは手を抜くわけにはいかない。一応、最愛の恋人には決して単独では動かないようにと口を酸っぱくして言い含めて約束させておいたので、守ってはくれるものと信じてはいる。信じてはいるが、しかし、そこはあの連夜である。場合によっては平気で命を投げ出しかねないという恋人の悪癖については、嫌というほど熟知しているので、どうしても不安を拭いきれないのだ。
とりあえず今の現状では恋人の側についていることは出来ないため、玉藻は不安を抱きながらもとりあえず自分に与えられている課題を少しでも早く片付けてしまおうと、研究に集中しようとしていた。
だが、今をさかのぼること一週間前。
玉藻の身体に変調が起こる。
研究で二種類の薬品を混ぜ合わせるため、それぞれの薬品が入ったビーカーを一つのフラスコに注ぎ込もうとしていたときのことだった。なんだか全身にぴりぴりと痛みが走り出したのだ。それほど痛い痛みではない。つまようじで刺されたくらいの痛み。連日続く細かい作業のせいで筋肉痛になってるのかなと思って無視していた。しかし、しばらくすると今度は横腹に今までのとは違うなんとも言えない痛みが走ったのだ。
いや、これも痛いというほど痛いわけではない。せいぜい便秘のときなどによくある腹痛と大して変わらないもの。実際、玉藻はこのときそうだとばかり思っていたのだから。また、動けないというほどの痛みでもなかったことが、玉藻の勘を鈍らせる結果になった。お通じがよくないときに起こる腹痛はこんな比ではないので、玉藻はちょっとお腹の調子が悪いくらいに考えてしまったのだ。
結局この日は、何も気がつくことなく過ぎていった。
しかし、翌日も全身に漂うピリピリ感と、鈍く軽い腹痛は続く。その次の日も続いて、三日目になってやっとそれらは収まった。
玉藻はこのときになってようやく何か変だと思い始めた。全身のピリピリ感はともかく、謎なのは腹痛である。この三日感、お腹の調子は悪くなかった。いや、むしろ絶好調だったのだ。なのに、三日もこの痛みは続いた。
そして、玉藻は唐突にあることに気がつく。ここ最近あまりの忙しさで念話していなかったが、最愛の恋人は元気だろうかと。そう考え始めた途端、今まで小さな違和感だったものが急速に大きな影を帯びて玉藻の心を覆い尽くし始める。そうなってくるともう落ち着いてなどいられない。すぐに連夜に念話を掛けた。
だが。
『お掛けになったルーン番号は、現在念波が届かないところにあるか、念源が入っていないためかかりません』
最愛の恋人の声の代わりに、アニメ声の爽やかな女性オペレーターの声が流れてくる自分の携帯念話を茫然と見つめる玉藻。
またも、危険地帯に出かけているのであろうか。そして、何か危険な目にあっているのではないか。
今すぐにでも連夜の元に駆けつけたい。しかし、どこにいるのかさっぱりわからない。自宅に押し掛けてもいいのだが、ミネルヴァやご両親と鉢合わせしてしまったらと考えると、いまいち勇気が出せない。『外区』に探しにいってもいいが、玉藻は『外区』になれていない。大抵の敵に絡まれても撃退する自信はあるが、天然ナビゲーションシステムである連夜が一緒ではないと、どこにいけばいいのかわからない。一応、ある術の効果によって、連夜の位置を正確に知ることができないわけではない。だが、遠くなれば遠くなるほど効果は薄くなる為、ある程度範囲を絞らないと、探索に相当時間がかかることとなってしまう。
また、ブエル教授の研究実験は続いており、ここで投げ出してサボることもできない。なんせ、彼女でないとサポートできないことも多々あるのだから、こればっかりは仕方ない。
悶々しながらも大学に通いつつ、合間を見ては念話をかける日々が三日ほど続いた。
そして、昨日の夜、ようやく連絡がついた。
明るい声で明日の土曜日、久しぶりに泊りがけで会いに来ると言う。
心なしかどこか元気のないように聞こえたが、それでも本人の声が聞こえて一安心。と、思ったが、やはりすぐにまた黒い不安が彼女の心を占め始める。
何かがおかしい。
どこがどうというわけではないが、やはり何かがおかしい。はっきりおかしい。
ひどく悪い予感がして気持ち悪くて仕方ない。
そして、今日、きちんと正座して相対し、彼の目を覗き込んではっきりとその不安が気のせいではなかったことを確信した。
未だ不安の原因が何なのかはわからないが、ともかく自分の悪い予感はあたっていたのだ。
玉藻は目の光を強め、絶対に誤魔化すことは許さないと恋人の目を真正面から見つめる。玉藻がこういう態度を取ったとき、恋人は決して嘘をついたり誤魔化したりはしない。どこか諦めたような表情になった彼は、ぼそぼそと気まずそうに視線を外しながら口を開いた。
「あ、あの、決して言わずにおこうと思ったわけじゃないんですよ。その切り出す一番いいタイミングを見計らっていたというか」
「いいから、全部話して。いったい何があったの?」
「ほら、あれですよ。そのほら、タイガーマンモス退治」
「やっぱり行ったのね? まさかとは思うけど、あれほど約束したのに一人で行ったってわけじゃないわよね!?」
目を剥いて怒りを露わにする玉藻に対し、連夜は慌てて首をぶるぶると何度も横にふって否定する。
「ち、違います。『葛柳会』の戦闘部隊に頼んでついてきてもらいましたから」
「『葛柳会』って、あのいけすかない大男のところ? なんだってあんな筋肉ダルマに」
「いやいや、あれでも僕の義兄弟ですから。それに純粋な戦闘能力だけで言うなら、玉藻さんに匹敵する唯一の人材ですしね。それは玉藻さんだってご存知のはずですよ」
「何いっちゃってるのよ。あんな脳筋よりも私のほうが強いわよ」
「ま、まあともかく、そういうわけで、K達の協力を得てタイガーマンモス退治に出かけていまして、無事退治完了し、帰還したというわけでございます。Kのことが嫌いな玉藻さんにはあまり嬉しい報告じゃなかったと思いますが、そういうわけだったのです」
複雑な表情でおどけるように苦笑する連夜だったが、玉藻の表情は一向に晴れない。
「で?」
「『で?』と申しますと?」
連夜から視線を決してはずすことなく、連夜の言葉に耳を傾け続けた玉藻だったが、それでも納得する表情を浮かべない。それどころか先程以上に強い光を瞳に宿し眉間のしわを深くして、射抜くようにして連夜を見つめる。
「連夜くんが嘘を言ってないことはわかる」
「でしょ?」
「でも、真実全てを言ってないこともわかる。連夜くん、さっきから嘘を言わないように、肝心なところは避けるようにして口にしてないでしょ」
「えっと、それは」
連夜は心の中で、浮気を追及されて逃げられない夫の心中ってこういうものだろうかと、大量の冷や汗をかいていた。
しかし、玉藻自身も迷う何かがあるのか、先ほどから何かを口にしようとしてはつぐむという行為を繰り返している。
お互い言うに言えない状態でしばし無言で見つめあう。
だが、結局最後に決断を下したのは玉藻だった。
明らかに意を決した表情で、連夜をまっすぐ見つめる。
「連夜くん。あなた、気が付いてる?」
「へ? わ、わわわ、た、玉藻さん何を」
玉藻がそっと連夜の手を自分の手で包み込むようにして自分のほうへと引っ張ると、連夜の頭を抱きしめるようにして抱え込む。連夜が真っ赤になってわたわたするのにも構わず、玉藻はその髪や頬に鼻を寄せてくんくんと匂った後、唐突に身体を離した。そして、もう一度その顔を連夜の顔の真正面に持っていく。
その顔を見て連夜は愕然とする。
玉藻の顔が真っ青になっていたからだ。
「た、玉藻さん、お顔の色が」
「青くなっているって? そりゃ青くなるわよ」
「え?」
「連夜くん、あなた、この匂いは何?」
「え? え? に、匂いですか? いやあの、自分では特に何も感じてませんけど、匂いますか?」
「匂う。はっきり匂うわ。ずいぶん弱くはなっているんだろうけど、つい最近までもっとはっきり匂いがしていたんだろうっていうことはわかる。それくらい強い匂い」
「おかしいな。念車に乗ってくる途中だれかの香水でも身体に着けちゃったのかな?」
自分の身体に鼻を近づけて匂ってみるが、特別何か強い匂いはしてこない。敢えて言うなら、朝、洗濯を手伝ったときについた洗剤の匂いがうっすら自覚できるくらいだ。どうしても玉藻の表情を一変させるほどの強い匂いを見つけられず、連夜は困惑した表情を浮かべる。
「す、すいません。やっぱり自分でよくわからないんですけど。もし、匂いが気になるようでしたら、お風呂でちょっと流してきますけど」
「ばかっ!!」
「え?」
「連夜くんは人間だから気がついてないかもしれないけど、霊狐族の私には匂う。はっきり匂うのよ」
「だから、それはどんな匂いだと」
「幼い頃、私が住んでいたところには、常にこの匂いが充満していたわ。村の絶対権力者である長老たちから、役に立たないと判断された兄弟姉妹達。その末路の果てに漂う匂い。つまり、『死臭』よ」
「!!」
「いったい何があったっていうの? タイガーマンモスはそれほど苦労することなく楽に狩れるって言っていたわよね。脳筋どもはただ見てるだけだったんじゃないの? いったい、現地で何があったのよ。こんなにはっきりした『死臭』久しぶりにかいだわ。これ致死レベルの『死臭』よ。つまり、死ぬ寸前の人が発する『死臭』よ。なんでこんな匂いが連夜くんの身体から漂ってくるの? 答えて、連夜くん!!」
堪え切れず涙を流しながらの絶叫。その言葉に衝撃を受けた連夜もまた、玉藻同様に顔を青くさせる。まさか、そんな匂いが自分に残っていたとは夢にも思わなかったのだった。正直、自分が死にかけたあの一件に関してだけは何とか今日のところは口に出さずに終わらせたいと思っていたのであるが、こうもハッキリバレテしまっては、それはもう叶うまい。
連夜は、しばしの間、顔を伏せて黙りこんでいたが、やがて顔をあげてまっすぐ玉藻を直視する。
そして、伏せようと思っていた最も重要な個所を、ストレートに口から零れ落とした。
「玉藻さん。実は今日からちょうど一週間前。僕は命を落としかけました」
バシンッ!
頬を叩く乾いた音が部屋に響き渡る。
一瞬、理性を弾けさせてしまった玉藻が、反射的に連夜の頬を平手で打ってしまったのだ。だが、それは本当に一瞬のこと、平手を振りぬいてから連夜の頬に届く前までに理性を取り戻した玉藻は、平手の力を一気に最小限まで引き下げる。流石に一度勢いがついてしまった腕を止めることはできなかったが、十分に手加減された一撃。音こそ派手だが、その実ダメージはほとんどない。玉藻はそう確信していた。
だが。
ドウッ!
次に響いたのは人の身体が床に横倒しになる音。
気がつくと連夜の身体が玉藻の目の前に倒れている。いったい何が起こったというのか。今の一撃はそんなに威力のあったものではない。全然力を入れていない一撃だったはずだ。なのに、恋人は自分の目の前で横倒しになっている。いやそれどころか明らかに失神してしまっているではないか。
パニックを起こして悲鳴をあげそうになる玉藻だったが、『療術師』としてのもう一人の自分で懸命にそれを制御。ギリギリのところで精神を保った玉藻は慌てて連夜に近づいて、自分よりも小さなその身体を抱き起こす。
「れ、れれれ連夜くん、しっかりして。お願いだから、目をあけて!」
玉藻が必死に呼び掛けること二分ほど。連夜はうっすらと目をあけて玉藻を視認。そのことに気がついた玉藻は少しだけ安堵した表情を浮かべた。
「あ、玉藻さん、すいません」
「私のほうこそごめん。本当にごめんね、連夜くん。ついカッとなって手が出ちゃった。まさか、こんなことになるなんて。でも、どうして。なんで? 力は抜いたはずなのに」
「ちょっとだけ、治ったばかりで本調子じゃないんです。本当に弱い身体で情けなくなります」
「『治ったばかりで本調子じゃない』?」
連夜の言葉に違和感を感じた玉藻。いや、違和感というよりも、作りかけのパズルの見つからなかった最後のピースが見つかったような、そんな閃きが玉藻の中に稲妻のように走る。玉藻は、自分の直感に従って連夜のTシャツをまくりあげた。
「な、なによこれ」
Tシャツの下に素肌はない。その代わりに白い包帯が腹部を完全に覆うようにぐるぐる巻きに施されている。いや、腹部だけではない。包帯こそ巻かれてはいないものの、連夜の全身にはいくつもの手当の跡があった。それを見て玉藻は唐突に悟る。三日前まで続いた全身のピリピリした痛みや、腹部の痛みはこれであったのかと。
連夜と玉藻はある特殊な『術』によって結ばれている。
その『術』の名は『祝いにして呪いなるもの』。
玉藻自身が連夜と自分に施したのは、霊狐族に伝わる超強力な太古の秘術。あまりにも強力すぎるが故に、太古の昔に禁術に指定されたほどのものであるが、その効果は抜群。
魂と魂を強力な呪いの力で結びつけるため、お互いの身に何かが起こったときにはすぐに感知することができる。術の掛け方によってその感知の度合いは様々で、相手が『浮気』をした場合、『浮気』以外での『裏切り』行為があった場合、相手が『危険』に遭遇した場合、あるいはその全て。相手に起こった様々な事象をリアルタイムで知ることができるのだ。
術の使い方になれてくれば、相手の夢の中や、心の中に直接飛び込んで行くこともできるようになる。つまり隠し事がほとんどできなくなるのだ。それほどまでに強力に互いを縛りつける術なのである。
また、結ばれた相手に与えられたダメージを身代りとなって肩代わりすることもできる。最も強力なものとなると、相手の命と自分の命を繋ぎ合わせ、どちらか死ねば両方とも命を落とすというまさしく『呪い』そのものともいえる効果まで存在する。
玉藻が自分達にかけた術は、まさにそれであった。
この命果てるまで共にありたい。命の限り愛し合い、命尽きる時、共に大地に還らん。そう強く願い、全身全霊をかけて施した究極の禁術。
勿論、勝手に掛けたわけではない。連夜の許可を得て掛けたのだ。
それだけに玉藻はどこかで油断していた。いや、油断というのとは少し違う。錯覚していたというべきか。連夜がどこかで危険な目にあったとしても、すぐに察知することができるし、場合によっては自分が受けた傷を引き受けて傷つけばいい。なんせ、自分は上級種族の中でも屈指の強靭な生命力を持つ霊狐族である上に、この都市でも十指に入る武術家でもある。連夜が大怪我を負ったとしても自分なら耐えきるだけの自信もあると。
だが、そうではなかった。
連夜の横腹を覆う包帯や、全身のいくつもの手当の跡を見つけたとき、玉藻は自分の術に大きな大きな欠陥があったことを知ったのである。
「私と、連夜くんでは元々の耐久度に差がありすぎるんだわ」
連夜の華奢な身体を抱きしめながら、玉藻は茫然と呟く。
この世界に存在する全『人』類の中でも屈指の身体能力を持つ霊狐族である玉藻と、全『人』類の中でも最底辺に位置する弱小種族である人間族の連夜。
二つの種族が持つ体力、防御力、抵抗力などの能力を数値化して比較した場合、各種族の平均値を比べただけでも優に三桁以上の差が開く。ましてや、霊狐族屈指のファイターである玉藻の数値ともなると、比較するのもバカバカしい限り。本来、『祝いにして呪いなるもの』という術は、同じ霊狐族同士の婚姻において使われていたもの。これほど、能力に差がある状態での使用など考慮されているわけがない。
だから、このような結果をもたらすことになってしまった。
「連夜くんにとっての致死レベルの傷は、私にとってはせいぜい腹痛程度しかなかったってことね。全くなんてことなの」
がっくりと肩を落としてしょげかえる玉藻。
そう。連夜が『死の森』でかぐや、ミネルヴァに傷を負わされていたとき、術は確かに発動し、玉藻にそのことを伝えてはいたのだ。だが、しかし、連夜が負った大ダメージは、玉藻にとってはかすり傷にもならない程度。ピリピリ痛むとか、腹痛程度のものでしかなかったのだ。
例えていうなら、連夜という人間の生命力を百という数値で表し、負ったダメージが九十九だとする。連夜にとってはあとたった一のダメージを食らっただけで即死する状態。だが、十万以上もの数値の生命力を持つ玉藻からすれば、たった九十九のダメージでしかない。その場で治ってしまうほどの軽傷ともいえぬものである。
だからこそ、玉藻は気付かなかった。いや、気付けなかったというべきか。
「でも、おかげで僕は死なずに済みました。玉藻さんが命綱として存在してくれるおかげで、僕はあのとき、あれほど出血しながらも生き続けることができた」
しょげる玉藻の頬をそっと撫でながら、玉藻の腕の中で笑みを作る連夜。
つまり、玉藻が無事である限り、連夜の生命力を『一』以下にすることはほぼ不可能なのである。『一』以下にしようと思っても、余分に与えたダメージの全ては、玉藻の十万もの数値から減っていくだけ。玉藻の生命力がゼロになって死なない限り連夜もまた死なないのだ。
「だからって生きているだけじゃ意味がないわ。もしも、手足を斬り落とされていたとしたら、いくら連夜くんが死ななくても、切られた手足を元に戻すことはできない。ましてや脳に影響があるような攻撃を受けていたとしたら、生きてはいても廃人になっていたかもしれない。それに私が直接ダメージを受けた場合、連夜くんの身体にどういう影響が出るかも定かじゃない。ダメだ。この術は欠陥だらけだわ。もう、ほんとになんてお詫びすればいいのかしら。ごめん、本当にごめんね、連夜くん。こんな中途半端な術を押しつけちゃって」
連夜の身体を強く抱きしめながら、玉藻はハラハラと涙を流した。
そんな玉藻の身体を優しく抱きしめ返した連夜は、大きな胸の中でふるふると首を横にふる。
「ううん、そんなことないです。この術をかけていただいて本当によかった。でなかったら、きっと、いろいろと取り返しのつかないことになっていたと思います。本当はね、僕はこの術の特性を知っていました。知っていたから利用させていただいたんです。この術があれば死ぬことはないって。そう過信したが故の油断。そして、大失敗です。本当に申し訳ありませんでした」
「だけどさ」
「玉藻さん、一週間前にあったことお話します。いえ、聞いていただけますか? 玉藻さんに聞いていただきたいんです」
いつになく真剣な面持ちになった連夜の顔の中にどこか憂いの影を見つけた玉藻は、同じように真剣な表情で頷きを返す。
そうして、連夜は話はじめる。タイガーマンモスを退治しに出かけたその先で、ミネルヴァ率いる傭兵旅団『A』と対峙したこと。彼らが違法な洗脳奴隷を使っていたこと。その主犯であるかぐや達一派と戦ったこと。害獣の王の出現。そして・・・
「あの馬鹿、いつかやらかすとは思ってはいたけど、よりにもよって連夜くんを刺すなんて」
連夜の横腹の傷を作り出したのが親友のミネルヴァであることを知った玉藻は、怒りの表情を隠そうともせず唸り声をあげる。高校時代からミネルヴァの周囲にはたくさんの『人』が集まっていた。その中にはクレオやリビュエー達のような傑物達がいた。心から尊敬できる有能な者達。だが、それと同数、いや下手すればそれ以上に、どうしようもない連中もまた多く集まってきていた。
それについては玉藻もクレオ達の早い段階で気がつき、あまり彼らがミネルヴァに深い入りしないよう目を光らせてきた。また、ミネルヴァ自身にも彼らには心を許さないようにきつくきつく言い含めてきたのである。だが、大学に入り、それぞれ進むべき道をみつけお互い一緒にいることが少なくなってから、一気に状況が変わった。
ミネルヴァは玉藻達の代わりに彼らを重視するようになり、そして、ミネルヴァ自身の気性そのものもまた変わっていった。あれほど誰に対しても公正であったそのまっすぐな心はいつしか、不自然なまでに自分の周囲にいる者達のほうに偏り始め、いつしか、それ以外の声が届きづらくなっていった。
「それでもあいつの一番根っこにある『正義』だけは覆らないと信じていたんだけどね」
そう信じていた。玉藻は信じていたのだ。幼き頃に出会い、世の中にはびこる理不尽に対し決して屈しない納得しないという同じ心を持った者。だからこそ、己と並び立つことを許した相手。
なのに、このような形で裏切られるとは。しかも、その裏切り方があまりにもひどい。あまりの悔しさに砕けるほど奥歯を噛み締める玉藻。だが、彼女はふいに気がつく。自分よりももっと激しく傷ついている者がいることを。
「連夜くん、あの」
「すいません。僕がもっといろいろと考えて手を打っていれば、こんなことにはならなかったのに」
「ううん、別に連夜くんのせいってわけじゃない。むしろ連夜くんは被害者じゃない」
「いいえ。違います」
「え?」
「僕こそが一番の加害者なんです。僕がきちんとお母さんを止めるか、あるいはみ~ちゃんに全てを打ち明けていればこんなことにはならなかった。だから、僕こそが加害者なんです」
連夜は語る。本来は語られることのないはずの裏の事情を。
そもそも何故連夜は、傭兵旅団『A』の内情を必要以上に把握していたのであろうか? 何故連夜はかぐや達に『異界の力』を大量放出させるようなギミックをつけたブレスレッドを流していたのだろうか? 何故傭兵旅団『A』に中央庁のスパイが大量に潜り込んでいたのか?
全てある人物が裏で糸を引いていたこと。
その人物とは、連夜とミネルヴァの実母ドナ・スクナー。
ドナは激しく怒っていた。表面上はそんな素振りを毛ほども見せてはいなかったが、彼女は本気で怒っていた。我が娘のある所業に対し激しく腹を立てていたのだ。
だが、同時に彼女は我が娘を信じてもいた。いつか、己がしていることに気がつき悔い改めるときが来るだろうと信じてもいた。しかし、待てど暮らせど、そういう気配が微塵もでてこない。それどころか、中央庁が注意して監視している要注意危険人物達と深く関わるようにさえなっていった。
このまま捨て置くわけにはいかない。
そう思ったドナは、娘に抜き打ちの最終試験を受けさせることにしたのだ。
犯罪組織『バベルの裏庭』の幹部や、差別主義を公然と謳う有力な政治家や財閥の御曹司が、娘が作った傭兵旅団に多数在籍していることを調査したドナは、これをそのまま利用することを思いつく。
それは、彼女自ら裏から手をまわし、更に多くの危険人物が娘の傭兵旅団に入団するように工作。ある程度大きくなったところでまとめて叩き潰すという恐ろしい計画。その際、娘が自分の所業に気がつけばそれでよし。しかし、そうならなかった場合は娘ごと、旅団を叩き潰す。
この計画を母から聞いたとき、連夜は悪い冗談か何かかと思った。しかし、母は本気だった。姉が自分のしていることに気がつかなかったそのときは、姉をそのまま本気で切り捨てるつもりであることを連夜は知る。
それを知った連夜は当然、母を止めようとした。だが、母は頑としてその言葉を聞き入れなかった。連夜は、自分一人では母を止めきれないと兄と妹にも助けを求めたが、なんと、二人は母の計画に賛成であることを表明。最後の手段とばかりに我が家最大の良心である父に相談しようとしたら、母に先手を打たれてしまう。なんと父には絶対に相談することは許さないと物凄い顔で脅されたのだ。父に相談したそのときには、問答無用で今すぐに姉を処断すると断言。勿論、ミネルヴァ本人にこの計画を暴露しても同様であるとまで念を押され、完全に誰も頼れなくなってしまう。
八方ふさがりの状態に頭を抱えた連夜だったが、手をこまねいているわけにはいかない。自分が考えられる様々な手を布石としてうち、なんとかミネルヴァが母の殲滅作戦に巻き込まれないようしようとした。
そして、運命の日がやってくる。
近日中に傭兵旅団『A』の壊滅作戦を行うと母が宣言し、焦りに焦っていたあの日。なんという運命のいたずらか、連夜は絶好の機会に恵まれる。
タイガーマンモスを討伐しようとして逆に返り討ちにあい、大打撃を被ってしまった傭兵旅団『A』と遭遇したのだ。
今なら、母よりも先に傭兵旅団を壊滅させることができる。傭兵旅団さえ先に壊滅させてしまえば、ミネルヴァをその中に巻き込んで諸共に処断することは不可能。そうなれば流石の母も姉を処断することを諦めるに違いない。
連夜は、母が潜り込ませている密偵の中でも特に仲が良く、ミネルヴァとも肉体関係を持っている二人の少女達に連絡。乱戦になった場合に、ミネルヴァの身柄を確保して守ることと、そして、かぐや達に加勢させないようにと指示を送る。二人はその指令を快諾、途中までは見事にミネルヴァの動きを封じ、尚且つ戦いの場から引き離してくれていた。また、誰の目から見ても、今までのかぐや達の所業を知らなかったという発言を引き出してくれたこともあり、傭兵旅団『A』に在籍していた者達の罪状が明らかになった場合に責任問題を追及されるミネルヴァの立場をかなり有利にすることができる。
そう思って安心したことが、油断につながった。
結果、ミネルヴァは取り返しのつかない暴挙に出てしまう。
旅団諸共に処断されることだけは防ぐことに成功したが、結局姉はA級犯罪者達を多数抱えていた傭兵旅団の責任者ということで母が率いる中央庁の部隊に捕縛された。
「そっか、そんな事情があったんだ」
「ええ。結局、僕がしたことは全て無駄でした。母の脅しに屈することなくみ~ちゃんに直接打ち明けるか、父に相談していればこんなことには」
「無駄ってことはないと思う。今回のことできっと、あいつもいろいろと気づけたこともあると思うのよ」
「そうでしょうか」
「そこまであいつも馬鹿じゃないわよ。まぁ、基本的には本当に馬鹿だけど。いや、大馬鹿だけど。学校の成績だけはいいから始末に負えないというか、ほんと部分的に頭がいいからタチが悪いというか」
「あ、あの、玉藻さん。一応聞きますけど、み~ちゃんのことフォローしてくださってるんですよね?」
「途中までそのつもりだったんだけど、連夜くんにこれだけひどいことをしていたんだよねって考えたらする気が失せた」
「いや、お願いですから、そこは最後までフォローしてあげてくださいよ」
とほほと肩を落とす連夜に対し、玉藻はわざとらしくソッポを向いてしまっていたが、やがてあることに気がついて腕の中の連夜に視線を移し直す。
「そういえば連夜くん。お母様を激怒させたミネルヴァの所業って結局なんだったの?」
「ああ、そのことですか。あの、玉藻さん」
「何?」
「玉藻さんは、み~ちゃんから、父の話を聞いたことありますか?」
「えっと、そういえば、あいつからお父様のお話は聞いたことないわね。中央庁に御勤めになっていらっしゃるお母様のお話は何度も御聞きしたことがあるけれど」
「それです」
「え?」
鎮痛な面持ちで紡ぎだされた言葉であったが、しかし、玉藻にはその意味がすぐにはわからず思わず聞き返してしまう。
そんな玉藻に対し、連夜はあらためて母の怒りの理由について説明する。
母が激怒した理由。それはミネルヴァが、実父ジンの存在をひた隠しにし続けたこと。
ミネルヴァは、自分の父が全『人』類最底辺に位置する人間族であることを決して公開しようとしなかった。玉藻を始めとする親しい者達であっても決してそのことを口にしようとはしなかった。
リビュエーやクレオのように、ジンの存在をしっている者もいたが、それは連夜の『婚約者』となった際に知ったことで、ミネルヴァ本人から聞いたわけではない。
母は看破していたのである。
人間族の血を引いていることを心のどこかでミネルヴァが拒否していることを。
そして、上級聖魔族に生まれてきたことに優越感を抱いていることを。
ミネルヴァ本人は、うまく誤魔化しているつもりだったのだろうが、聡い母にはお見通しであった。だから、彼女はかぐや達の考えに同調してしまった。だから、彼女はかぐや達を切り捨てることができなかった。そして、だからこそ、彼女はかぐや達を自分のすぐ側に置くことを受け入れてしまったのだ。
それは、宿難家の面々にとって許されざる裏切りであった。
連夜の兄大治郎は女癖の悪いところがある。連夜の妹スカサハは頭の固いところがある。
だが、二人とも自分達の実父ジンが最底辺に位置する人間族であることを声を大きくして広言しているし、隠したことなど一度としてない。ジンのことを自慢の父であると親しい仲間達に紹介し、自分達に人間族の血が流れていることに誇りを持って生きている。
母に至っては、誰に対しても常日頃から父のことを最高の伴侶と断言して憚らないし、同じ種族に生まれた連夜については言うまでもない。
一族の中で、ミネルヴァただ一人が人間族である父に背を向けているのだ。
「そういわれると心当たりがあるわね」
「え?」
「あいつってさ、かぐや達と出会う以前から、あいつらが言っていることと似たようなことを何度か口にしていたことがあるのよ。『優れた種族に生まれたからには、弱い種族の者達を守らなくてはいけない』ってね。でもさ、それっていったい何を基準にして『優れている』の? 『弱い種族』なの? あいつ、無意識のうちに自分が他の種族よりも優れているって思いこもうとしていたのかもしれないわね。自分は『弱い種族』ではないって」
「僕のこともやはり心のどこかで否定していたのでしょうか。自分は優れた種族に生まれたんだから、たとえ弟が弱い種族に生まれてきたのであっても受け入れてやらなきゃいけないって。無理矢理そう思ってたんでしょうか?」
悲しげに俯く連夜を見た玉藻は、一つだけため息を吐き出した後、彼の小さな身体を強く抱きしめる。
「それだけはないわよ。あいつはあいつなりに連夜くんのことを受け入れていたわ」
「そうでしょうか。でも、そうだったらいいな。僕はみ~ちゃんにとってあまりいい弟ではありませんでしたから」
気弱な笑顔を浮かべてひっそりと笑う連夜を、しばらくの間、玉藻は優しい表情で見つめていた。だが、すぐに表情を険しくすると連夜の身体を更に強く抱きしめる。
「あのさ、連夜くん」
「え? あ、はい、なんでしょう」
「私の前でまで無理しなくていいんだよ。忘れているかもしれないけど、私と連夜くんの間に結んだあの欠陥禁術には、相手の心の機微を敏感に察知させる効果もあるの。特に相手が近くにいればいるほど、その心がはっきりわかる」
「無理しているわけじゃないんですけどね」
「ミネルヴァに刺されたことが、本当は物凄くショックだったんだよね。今だって辛くて辛くて仕方ないんでしょ」
「そんなことないですよ。刺されたのは自業自得ですし、辛いという資格なんか僕には」
「隠したって無駄。私にははっきりわかるもの。身体も心もボロボロじゃない」
「大丈夫です。本当に大丈夫なんです。僕は大丈夫じゃないとダメなんです」
「もういいよ、いいんだよ。頑張ったね、連夜くん」
必死に自分に何かを言い聞かせようとする連夜の頭をやさしく撫ぜ続けていた玉藻であったが、やがて、連夜を立ちあがらせて寝室へと連れて行く。
「あ、あの、僕、お昼ごはん作らないと」
「連夜くんには何よりも先に休息が必要よ。心の休息が。それからご飯を作っても遅くないわ。今日は泊っていけるんでしょ?」
「玉藻さん」
「たまには彼女らしいことさせて頂戴。ほら、久しぶりに会う恋人にもっとすることあるでしょう?」
いつになく『女』を感じさせる笑みを浮かべた玉藻を見て、頬を赤らめた連夜は、結局素直に彼女について寝室についていった。
その日、玉藻の家に泊まった連夜は久しぶりに安らいだ気分で眠ることができたのだった。