第二十七話 『晴れのち夜』
死にたくない。
こんなところで死にたくない。
少女は涙と鼻水を止め処なく流しながらそれを拭こうともせず、ただ一心不乱に森の中を走り続ける。
止まったら死ぬ。
森に住む凶悪な原生生物に食われる。
あるいは人類の天敵たる『害獣』に淘汰される。
そして、一番最悪なのは、少女のことを奴隷として一族から買った奴隷商人達に捕まることだ。
今度捕まれば、いったいどういう地獄が待っているのか。最早想像もできない。
何故こうなってしまったのか。
自分が落ちこぼれてしまったからか。
長老達が想い描くようなエリートになれなかったからなのか。
あれほど修行を頑張ってきたというのに。
一族の中でもごく一部の者しか作れないような丸薬も作れるようになったというのに。
最高の腕にまで高められなかったら、何の価値もないというのか。
頑張ったのに。
死ぬ気で頑張ったのに。
決して好きではない丸薬作りの修行を今までずっと頑張って続けてきたのは、家族の為でもあるが、一番大きいのはやはり自分自身の負い目からであろうか。
元々この修行を命じられていたのは自分・・つまり如月 晴美ではない。
七つ年上の姉、玉藻であった。
そう、姉には丸薬作りの才能があったのだ。早くから姉の才能を見抜いた当時の継承者達は、姉に厳しい修行をかして育てた。また、長老達は少しでも姉の才能を伸ばすべく、精神力を鍛えるため一族郎党に姉を甘やかすことを厳しく禁止。常に辛く当たるように命じた。
妹である晴美は、幼い頃から姉に面倒をみてもらい、非常に彼女のことを慕っていたが、その自分にまで長老達は姉に懐くことを禁じ、あまつさえ、幼く意味のわからない自分に姉を傷つける言葉を言わせるように仕向けた。
いまでもあの日のことを思い返すと、幼き日の自分を力いっぱい殴り倒してやりたい衝動に駆られる。
慕っていた妹に、ひどい侮辱と屈辱の言葉を投げかけられた姉の、あの傷ついた表情はいまでも忘れることができない。
それなのに姉はよく耐えていたと思う、そんな環境の中にあっても必死に修行について行こうとしていた。
だが、ついに破綻の時は訪れる。
中学進学の時に姉は反旗を翻す。いつの間にか師弟の契りを結んでいた上級聖魔族の有識者の後ろ盾を得て、独立することを宣言。全寮制の中学校を選んで進学し、その際にきっぱり一族と縁を切ると長老たちに断言した。勿論、長老達は猛反発しようとしたが、彼女の後ろ盾になった者があまりにも強すぎた。下手をすれば一族諸共、社会的に抹殺されかねないほどの権力を有していたのだ。
流石の長老達もこれに対抗することはできないと悟り、姉を連れ戻すことを断念。未練たらたらながらも、ついには諦めることにしたのだった。
だが、しかし、彼らは自分達の教育方針については全く反省してはいなかったし、間違っていたなどと露ほども感じてはいなかった。
それどころか、次の標的として、今度は妹の晴美を選んできたのだ。
晴美は姉の惨状をつぶさに見ていたので、本心を言えば断りたかった。
だが、姉にあれほどの心の傷を負わせてしまった自分が、逃げることが許されるだろうか。
答えは否だった。
いくら自分が幼児で意味がわかっていなかったとはいえ、あれだけのことを言い放っておいて自分は知らぬ存ぜぬでは通るはずがない。
晴美は嫌々ながらも頷かざるを得なかった。
そして、想像通り、晴美は姉と全く同じ道を歩かせられることになる。
しかし、晴美は甘んじてその道を受け入れた。このことが少しでも姉への贖罪になればと思ったのだ。
だから頑張りに頑張りぬいた。
どれほど辛い修行にも耐え、どれほどひどい言葉にも耐え、どれほど寂しい孤独に晒されようとも耐え抜いたのだ。
だが、物事には限度というものがある。
いくら強い覚悟の元に行われることであったとしても、限界というものは必ず存在するのだ。人の力には限界がないと簡単に言い切る人がいる。だが、しかし、それは間違いだ。人はちょっとずつ力を蓄え、基本となる地力を身に着け、そして、十分にはばたける下地ができたときに初めて己の限界を超えるチャンスを得るのだ。
無尽蔵に限界を越えられるわけでは決してない。
無計画に無茶に無茶を重ねれば、いずれ破綻の時を迎えるのは当り前のことである。
誰も味方がいない中で、中学生にもなってない晴美がいつまでも頑張り続けることなどできるはずがなかった。
ついに晴美は限界の時を迎える。
丸薬作りの途中で意識を失った後、晴美は完全な人形と化してしまった。何も考えられないし、動くことも億劫で仕方ない。どれだけ怒鳴りつけられても、どれだけ殴りつけられても、もう心が反応しない。完全に虚脱状態となって、いったどれくらいの時が過ぎたであろうか。
ある日、晴美の前に何人もの異種族の者達が現れた。
晴美達が住んでいるのは、完全に閉鎖され忘れ去られた小さな村。住んでいるのは同じ霊狐族の者達ばかり。違う種族の者など、晴美が生まれてからずっと一度として見たことはない。
壊れる前の晴美であったなら、普段以上に興味を持って彼らのことを観察したであろう。だが、今の晴美は虚ろな瞳で彼らを見つめるばかり。
異種族の者達は晴美が見ている前で長老達と何やら話し合っていたが、やがて、話がまとまるといくばくかの金を受け取って晴美を彼らに引き渡した。いや、晴美ばかりではない。他にも何人か同じように引き渡されていた。皆、晴美と同じように壊れてしまった者達ばかり。
晴美達は、異種族の者達が乗ってきた『馬車』に乗せられていずこかへと運ばれていった。
そして、運ばれた先で、彼女達は見たこともないような禍々しいデザインの黒い鎧甲冑を着せられる。心が壊れた状態の晴美に抵抗するなど思いもよらぬ。ただただ成すがままに鎧を装着され、最後にフルフェイスのヘルメットを被せられた。
そして、それと同時に晴美は完全に己というものを失くしてしまったのだった。
いや、意識そのものはある。如月 晴美という少女の意識は存在している。だが、それはまるで幽霊にでもなってしまったかのような不思議な感覚。なぜなら、彼女の目の前に彼女自身がいるからだ。黒い鎧甲冑を身に纏い、勝手に歩いていく彼女自身の姿が見える。
ぼんやりとそんな自分自身を眺め続ける晴美。
そうしてしばらくの間、もう一人の自分を観察していると、やがて、もう一人の自分は、自分と同じ黒い甲冑姿の者達が大勢いる場所へとやってきた。
そこには自分を村から連れ出した異種族の者達と、彼らから何やら話を聞いている二人の龍族の姿。
「洗脳は完璧ですの?」
「勿論です。まあ、中には既に精神が壊れてしまっている者もおりますが」
「そんな者が役に立ちますの? 欠陥品ではありませんか」
「いえいえ。むしろ、精神が壊れている者のほうが楽なのですよ。洗脳する必要がありませんからな。こちらの強制命令術式も何の抵抗もなく受け入れますし、体に問題があるわけではありませんから、洗脳して無理矢理操作しなくてはならない者よりもよほどスムーズに言うことを聞いてくれます」
「まあ、役に立つというのなら問題ありませんけど、土壇場で故障するなんてないでしょうね」
「この『奴隷の壁』は、コントロール装置を積んだトレーラーから命令を発信し、奴隷どもの頭にかぶらせた特殊ヘルメットで命令を受信させ、それを強制的に実行させることでこちらの意のままに動かすことが可能という商品です」
「つまり、コントロール装置を積んだトレーラーと、奴隷の頭のヘルメットさえ無事なら、どれだけ他の部位が傷ついても命令を続行すると」
「左様でございます。その奴隷の命が続く限り。手が折れようが、足がもげようが、受けた命令を忠実に実行しようとします。ただし、コントロール装置と受信用ヘルメットのどちらか、あるいは両方が壊されてしまった場合は保障の限りではありませんので、何とぞ、ご了承のほどを」
「ふん。まあ、ヘルメットを壊すほどの衝撃を与えられたなら、中の頭も無事ではないでしょうから別に構いませんわ。ただ、トレーラーのほうは流石に壊されるのは不味いですわね。いいですわ。こちらは戦場から少し離れたところに設置して使うことにいたします」
「賢明なご判断かと」
「とりあえず、ここにあるだけいただけるかしら。あと、こちらの指定する時間と場所に届けていただきたいのですけど」
「かしこまりました。龍の姫君」
「剣児。この者に商品の代金を支払ってあげなさい」
こうして、異種族の者達と龍族の女性との間に商談らしきものが成立し、晴美達はトレーラーの中に積み込まれた。
そして、いったいどれほどの時間が流れたであろうか。トレーラーの狭くて暗い空間の中、人形と化して晴美達はひたすらそのときが来るまで待ち続けていた。
長い長い時間が過ぎ、やがてその時がやって来る。
暗闇の中、後ろからもう一人の自分をずっとぼんやり眺め続けていた晴美。そんな晴美に突如として眩しい光が飛び込んでくる。あまりの眩しさに一瞬目を覆い、そして、おそるおそる目を開けた。
最初に目に映ったのは背の高い木々がいくつも生い茂る大きな森。反対に目を向けてみれば対岸が見えないほど大きな河。足もとに目をやると『人』の手によって整備され舗装された大きな道。
そして、前に目を向け直すと、そこには到底信じられない光景が広がっていた。
見たこともない大きな一匹の怪物を相手に、たくさんの兵士達が群がって戦いを続けている。自分と同じ黒い甲冑姿の兵士達が懸命に怪物を抑えにかかり、その隙間を縫うようにして様々な種族の兵士達が攻撃を仕掛けている。だが、怪物は一向に堪える様子がない。数えるのもバカバカしいくらい大勢の兵士達から攻撃を受けているというのに、平気な顔で暴れまわっている。
むしろ、数で推しているはずの兵士達のほうが明らかに劣勢であるように見えた。
三本の長い鼻に、丸太のような二本の牙を持つ恐ろしい怪物。その怪物が自分の武器を大きく振り回すたびに、兵士達は吹き飛ばされ血を流して倒れていく。
そんな様子を、晴美は他人事のように見つめ続けていた。
まるで自分には関係ないといわんばかりに、ずっと見つめ続けていた。
しかし、傍観者の立場でいられたのは、ほんの少しの間だけ。すぐに彼女は、無関係の第三者の立場ではいられなくなったのだ。
突如、森中に響き渡るような咆哮をあげた怪物は、その方向を百八十度回転。あろうことか、晴美達がいるほうへと凄まじい勢いで突進してきたのだ。そして、晴美達がズラリと整列している前で立ち止まると、その大きな鼻を振り上げた。
晴美はそれを見ていた。
ずっと見ていた。
振り下ろされ、叩きつけられるそのときまで、ずっとずっと見ていた。
そして、晴美はこれまでの人生で一度として体験したことのない衝撃に見舞われて、一瞬意識を失ってしまう。
どれほどの時が流れたであろうか。恐らく、晴美が意識を失っていた時間は一分と経ってはいないだろう。
晴美は体中に走る痛みで意識を戻す。視線の先にはたくさんの葉っぱや草木、こげ茶色の土、そして、目を開けたままこちらを凝視している一人の男性の姿。何故、自分が見られているのか最初、晴美はわからなかった。ぼんやりとしたまま、晴美は男性に何かようかと聞こうと口を開きかける。
しかし、口から言葉は出なかった。代わりに別のものがせりあがってきて、口から勢いよく噴出する。
口からだけではない。晴美の大きな目からは涙がこぼれ落ち、鼻からは鼻水も吹きだした。そして、何も出なくなった口から、今度こそ言葉が出てきたが、それは言葉にはなっていなかった。
口から出たのは自分のものとは到底思えない、凄まじい悲鳴。
「い、いやああああああっ!」
こちらを見つめていた男性は、目を見開いていたが晴美を見てはいなかったのだ。いや、目を開いていても何も見えてはいなかった。その男性は首から下がなかった。
つまり男性は。
死んでいたのだ。
晴美は少しでも男性の死体から遠ざかろうと必死に体を動かそうとする、しかし、何かが乗っているのか思うようにその場から動くことができない。混乱する頭のままめちゃくちゃに体を動かす。しばらくそうして体を動かしていた晴美は唐突に自分の体が動いていることに気がついた。手も足も動いている。胴体も横にずらすことができるほどには動ける。
ではいったいどこが動いていないのか。
頭だ。頭を抑えつけられているのだ。抑えつけられている何かから、懸命に頭を抜こうとして体を引っ張る。すると、ほどなくして何かから頭がすっぽ抜けた。
尻もちをついたような格好で座り込む晴美。そして、視線を自分が先程までいたところに向けて、そのあと、再び彼女はその場に突っ伏した。もう何もでないというのに、胃から何かがせりあがってくる。
彼女の視線の先には、彼女が被っていたと思われる壊れかけのヘルメットが落ちていた。
フェイスカバーの部分が壊れ、完全にオープンフェイスとなってしまったヘルメット。そのヘルメットの上に何かが乗っかっていたのだ。その何かのせいで彼女は先程まで動けなかったのだった。
その何かとは。
首のない男性の体であった。
彼女は悲鳴をあげながらあとずさり、両拳を自分の口へともっていく。
ぬるり。
耐えがたいまでに不気味な感触。
恐る恐る自分の両手を確認した彼女は、更に大きな悲鳴を放つ。
彼女の両手は
真っ赤に染まっていたのだ。
もう嫌だ。
こんな場所にいるのは嫌だ。
なぜ、どうして、自分がこんな目にあわなくてはならないのか。
混乱が収まらぬままに立ちあがった彼女は、自分の姿をあらためて確認して茫然とする。その姿はさっきまで目の前にいたもう一人の自分のもの。黒い鎧甲冑を身につけたもう一人の自分。
何故、自分が同じ姿をしているのか。自分は傍観者じゃなかったのか。
そして、唐突に悟る。
全て自分だったのだと。
別の自分だったわけじゃない。ずっと同じ自分だったのだ。ただ、現実から目を背けていただけなのだ。一族から見捨てられた自分。奴隷として売られた自分。死地に追いやられた自分。全て同じ自分だ。
皮肉というべきだろうか。あまりにも強烈な死への恐怖が壊れていた彼女を元に戻してしまったのだ。
これなら壊れたままのほうがよかった。元に戻りたくなんかなかった。
だけど
死にたくない。こんなところで死にたくない。
彼女の周囲に、たくさん『人』が倒れている。もう何もしゃべることができなくなってしまった『人』。ついさっきまで『人』だったものが。ただの『物』になってしまったものがいくつもいくつも散らばるように存在していた。
そして、少し離れた所には、そういった『物』を量産する恐ろしい怪物の姿。
彼女は何度も何度も悲鳴をあげながらその場からあとずさる。
一歩、二歩、三歩めから千鳥足になり、早歩きになり、そして、とうとう駈け出していた。一刻も早くこの場から立ち去る為に。
死んでたまるか。こんなところで死んでたまるもんか。
強く強くそう思いながら晴美は森の奥深くに向かって走っていく。
道沿いに行くことはできない。障害物のない道沿いに進めば、すぐに兵士達にみつかってしまう。兵士達は彼女の味方ではない。兵士達を指揮していたあの龍族の女性は奴隷商人から自分達を買い取った張本人だ。見つかればタダでは済まない。晴美は、逃げるときに彼女に自分の顔を見られてしまったことを知っていた。
今は、怪物との戦いでそれどころではないが、決着がつき次第追いかけてくるのは間違いない。
河にも逃げることはできない。晴美は泳ぐことが得意だが、流石に見えない対岸に向かって泳ぎ続けることは自殺行為であるとわかっていた。
そうなると後は森の中しかなかった。森は危険だってことは百も承知だ。しかし、それは追手にとっても同じはず。うまくいけば、森の中に潜む『害獣』や原生生物が追手を始末してくれるかもしれない。そこまでうまくいかなくても、追いかけること事態を慎重に行わざるを得なくなり、結果として晴美が逃げる時間は大幅に増えるはず。
晴美は走った。ともかく走った。途中転んだり、躓いたりしたが、それでも懸命に走り続けた。
そうしてどれだけ走り続けただろうか。
兵士達の争いの声も、怪物の咆哮も、奴隷達の悲鳴も聞こえなくなったところで、晴美は唐突に倒れて止まった。
ここのところ満足に食事をとらず、運動もせず、睡眠もとっていなかったのだ。むしろよくここまでもったというべきだろう。
自分では気がついていなくとも、間違いなく晴美の体は疲弊しきっていた。心に至ってはいうまでもない。壊れた心が元に戻ったのは本当についさっきのことなのだから。
そんな状態で全力疾走すれば、倒れるのも無理はない。
一本の大木の真下、うねるように地面を這う太い根と根の間に倒れ込み、ひんやりとした草の中に晴美の小さな体は埋もれる。近くでセミが鳴いているのが聞こえる。森のかなり深い場所に来たせいか周囲に群生する木々の葉に遮られ木漏れ日もほとんどない。
「ここで私死ぬのかな」
小さな声でぽつりと呟いてみる。だが、当然、その声に応える者はない。
倒れているだけで徐々に体から力抜けていくような感じがし、晴美は己の死が間近に迫っているのではないのかと考える。そんな風に心弱くなってくると思い出すのは決まって一人の人物の顔。
「姉さん。玉藻姉さんに、会いたいな。死ぬ前に一度でいいから会いたいな」
折角乾いていたはずの目に再び涙が浮かんでくる。
しかし、一度思い出してしまうともう止まらない。姉と過ごした穏やかな日々を思い出し、そして、姉に対して言ってしまった自分の暴言もまた思い出す。幸福だったあの日、自分はそれを自らの手で壊してしまった。
二度と取り戻すことはできないだろう。だけど、せめて死ぬ前に一言、大好きだった姉に謝りたかった。ひどいことを言ってごめんなさいと謝りたかった。
だけどそれは二度と叶わぬ夢。
こんな危険な森の奥深く、たった一人で飛び込んで無事に帰ることができないことくらい、自分でもよくわかっていた。恐らく自分はここで死ぬ。野垂れ死にするのか、あるいは何かに食われるのかはわからないが、確実に自分は死ぬ。どう考えても助かるとは思えない。
何をどうしても明るい方向に己の考えを持っていくことはできず、ただただ絶望するだけの晴美。
そんな暗い空気に包まれる中、突然、晴美のお腹がなる。
しかも思ったよりも大きな音を立てて。
「く、空気読んでよね、私のお腹。でも、人って絶望していてもお腹は空くのね。一つ勉強になったわ」
形のよい眉毛を八の字に歪め、なんとも言えない表情でふかいため息を吐き出す晴美。
そんな晴美の目の前に、ひょいっとおにぎりが差し出される。
「お腹すいているんですね。よかったら、どうぞ」
「あ、これはすいません。いただきます」
空腹過ぎたせいだろうか、はたまた絶望しすぎて思考がマヒしていたせいなのか、晴美は何の疑いもなくそのおにぎりを受け取ってモリモリ食べ始めた。
「お、おいひい。もぐもぐ、とってもおいひいですけど、もぐもぐ、何故でしょう、もぐもぐ、とても食べづらい。でも、おいひい」
「いや、それは寝ながら食べているからじゃないですか。ほら、座って食べてください」
「あ、これはわざわざすいません。いや、ほんと、もぐもぐ、おいひい、もぐもぐ、おにぎりですね、もぐもぐ」
「食べてる最中に無理してしゃべらなくていいですよ。よかったら、もうひとついかがですか」
「いただきます、いただきます。今度はシャケが入ってる」
「いなり寿司もありますけど」
「大好物です」
「タマゴサンドだけですけど、サンドイッチもあるんですが」
「サンドイッチの具の中で一番大好きです」
「そんなに急いで食べなくても、まだたくさんありますよ。はい、お茶をどうぞ」
「いやあ、ほんとすいません。何からなにまで、んぐんぐんぐ、んぶぅぅぅぅっ!」
「き、汚っ! え、ナニナニ、どうしました!?」
おにぎりやら稲荷寿司やらサンドイッチやら、手当たり次第に口に入れてもぐもぐやっていた晴美だったが、いい加減食い散らかしてからようやく重要なことに気がついて盛大にお茶を口から吹き出した。
「え? は? え? あ、あなたどなたですか? っていうか、どちらさまですか?」
「いやいやいや、え、今さら!? ちょ、このタイミングで自己紹介しろとか言われてもかなり微妙なんで、とりあえず食べ終わってからにしませんか?」
「あ? そうですか? じゃあ、ちょっと、残りの食べ物急いで食べてしまいます」
「どうぞどうぞ」
何故かその場の雰囲気に流されて再び食事に没頭し始める晴美。
「デザートになるかどうかわからないんですけど、アンパンありますけど」
「甘いものって脳みそにいいんですよね」
「つぶれかけていますけどシュークリームとかも」
「つぶれてても味はかわらないんで、全然大丈夫です」
「羊羹あるんですけど、切り分けてなくて一本丸ごとなんですけど」
「そのままかじります」
「あ、よかったらお茶どうぞ」
「いやあ、本当にすいませんね。デザートまでご馳走になった上にお茶まで給仕していただいちゃって、んぐんぐんぐ、っぶぅぅぅぅっ!」
「ま、またぁっ!? え、ナニナニ、今度はどうしました!?」
デザートまできっちり堪能し、最後の羊羹を丸ごと片手でつかんだ状態でお茶を飲んでいた晴美だったが、そこまでいって我にかえり再び盛大にお茶を吹きだす
「いや、ダメぢゃん、私! 何やってるの、私! 食べることよりももっと重要なことあるぢゃん、私! なんで、それを後回しにして食べることに集中してるの、私! ばかばかばか、私の馬鹿! ほんとに馬鹿!」
「ちょ、なんかわからないけど、とりあえず、羊羹で自分の頭を叩くのはやめなさい! いろいろな意味でそれはアウトだから! ね、ね」
混乱収まらぬ晴美は何故か自分の頭を羊羹で叩き始めてしまう。勿論、そんなことしても痛くもかゆくもなく、ひたすら羊羹がぽよんぽよんとはねるばかり。彼女の対面に座って給仕していたその人物は、見かねて彼女の腕をつかむと、そのままえいっと彼女の口に突っ込んだ。
「みょっ!?」
「ふう、これでよし」
「みゃみみょみゅるんみぇりゅみゃ!?(何をするんですか)」
「羊羹が勿体ないでしょうが。食べ物を粗末にしてはいけません」
「みゃ、みゃっみぇぇ(だ、だってぇ)」
羊羹を口にくわえたままの状態ではむはむしながら抗議してくる晴美に、相手はちょっと怒った顔で注意する。しかし、すぐに表情を崩すと優しい笑顔を浮かべて晴美に近づきその頭を優しく撫ぜる。
「それにしても本当によく似ている。まさかこんなところで出会えるなんて」
「みゃ?」
「ああ、いえ、こっちのことです。そうだ、自己紹介がまだでしたね」
晴美の頭を撫ぜることをやめたその人物は、晴美の正面に座り直す。
その人物は黒髪黒目の人間族の少年。晴美よりも三つ以上は年上だろうか。穏やかで優しそうな瞳を晴美のほうにまっすぐに向けながら、彼は自分の名前を口にした。
「僕の名前は宿難 連夜。通りすがりの農夫です」
「の、農夫? お百姓さんですか?」
「そそ。森には農業で使えるいろいろなものが落ちていますからね。それを取りに」
「はぁ」
「で、ついでに他にも用事をいろいろと済ませようなんて思っていたんですけど。さて、お嬢さん」
「は、はい」
連夜の自己紹介の内容が完全に予想外だったせいで目を白黒させてしまう晴美。そんな晴美に、いたずらっこそのものといった笑みをニヤリと見せながら、連夜は問いかける。
「生き倒れていた理由を聞かせていただけますか? あんまり大きなことは言えませんけど、これでも僕、ちょっとばかし頼りになる男なんですよね」
すぐに返事を返すことができず、晴美はぽか~んと口をあけて呆けてしまう。
しかし、彼女は目の前の少年が何故か自分の敵ではないとわかった。自分でも何故だか知らないが、この謎の少年が自分を助けてくれようとしていることがわかってしまった。
どこか。
そう、どこか大好きな姉とよく似た匂いのする少年に、晴美は今まで自分に起こった全てを話そうと思ったのだ