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真・こことは違うどこかの日常  作者: カブト
過去(高校二年生編)
140/199

第十六話 『女王様の恋人』 その1

 都市立御稜大学の第三校舎の一番奥に、『療術』と呼ばれる回復系術式の第一人者ブエル・サタナドキア教授の研究室がある。

 現在その研究室の中に部屋の主たるブエル教授の姿はない。

 しかし、無人というわけでもない。いや、むしろ、かなりの数の人影が部屋の中にいることが、窓を通じて確認できる。

 このたくさんの人影の正体は、この研究室に所属している学生達。彼らがここに集まった理由は、ブエル教授から提示された上期の研究課題の結果をレポートに纏める為である。

 研究課題そのものはそれほど難しいものではなく、行っておかなくてはいけない実験そのものについてはほぼ全て終わっているし、データも揃ってはいる。

 しかし、実験が終わったからそれで『はい、おしまい』というわけでは、勿論ない。

 詳細な実験結果をわかりやすくレポートに纏めて期日までに提出しなくてはいけないのだ。

 さて、ここで一つの問題が浮上してくる。

 それは、今回の課題が個人単位のものではなく、研究室に所属する学生全てが対象のグループ課題であるということ。

 北方諸都市にその名を轟かせる著名人であるブエル教授の元に集まった学生達は、言うまでもなくみな優秀な人材ばかりである。課題が発表された後、それぞれ課題内容を分担して実験を行ったわけだが、彼らは皆分担された以上の成果を叩きだし、それぞれがもちよった結果は内容的にはどれも文句のつけようがないものばかり。

 これらを一つに纏めることができれば、それは素晴らしい研究レポートが完成することだろう。

 しかし。

 その纏めるという作業が最大の難事なのである。

 当たり前のことであるが、今日、研究室に集められた実験レポートの数々は、実験を実際に行った学生達本人の手で個人単位で纏められたものだ。先程も記載したが、その内容はいずれも素晴らしいものばかり。流石は北方諸都市最高峰の研究室に所属する学生達といえるだろう。個人単位のレポートの出来としては誰が採点してもAは固い。

 だが、それはあくまでも個人単位のレポートとしてならばの話。今回の課題は個人課題ではなくグループ課題。彼らが分担して行ったそれぞれの実験レポートは、あくまでもより大きな課題の答えを導きだすための一過程でしかないのだ。集められたデータを元に綿密に検証を行い、課題内容の答えに辿りつかなくてはいけない。

 ここからが本当の勝負なのである。

 真面目なエリート学生達が集めに集めた膨大なデータの中から必要な情報をピックアップし、それを更にきちんと文章にして纏め上げ直す。

 無茶苦茶大変な作業である。普通なら、どれだけ優秀な学生の集まりであっても一本にまとめるのに一週間以上はかかる作業。中には一カ月近くかかっている研究室だってあるのだ。

 それくらいの難事なわけだが、このブエル教授の研究室は少しばかり事情が違っていた。


 研究室のど真ん中に据えられたシックな木目調の大きな長方形型テーブルの端っこに一人の女性の姿がある。

 普段ブエル教授が座っている黒板の眼の前ある席のちょうど対面。そこに細いフレームにやや小さめの金縁眼鏡を掛けた女性が一人腰かけて、物凄い勢いで眼と手を動かしている。

 その血走った眼は、眼の前の空中浮かぶいくつものディスプレイ映像に向けられ、その両手はそれぞれ人差し指と中指をそろえて突き出された格好で、眼の前に置かれた二つの宝珠に向けられ、何やら複雑な印を次々と結んで操作を行っていく。

 

「陳。この『ウォルダルの蔓』のデータ不要。あなたの作業は材料の差による回復効果の違いを確認するものじゃない。それよりも実験にかかった時間をもっと詳細に記載し直して」


「あっちゃあ、確かにそうだ。すぐ書き直すよ」


「モルデン。術の効果時間のグラフよりも、術が起動するまでのデータのほうが重要だわ。書き直して」


「すいません、すぐやります」


「バッソー先輩。申し訳ありませんが、この術式の記述書き直してください。西域式の扇状範囲型回復術の構文の中に不要な文字がいくつかみられます」


「むむむ、確かに。わかったすぐに書き直すわ」


 テーブルの上に置かれた無数の宝珠。その宝珠から空中に投射されているレポートの映像を次から次に確認していく彼女は、一瞬見ただけでその内容を把握。テーブルの脇で待機しているレポート作成者達に不備が見られる部分の訂正や、不必要な箇所の削除の指示を的確に与えていく。その作業スピードは凄まじいものがあり、そして、また、同時に実に正確極まるもの。まさにエリート中のエリート。彼女はまだ二年生でありながら、教授補佐に任じられた女傑であり、この研究室に所属する学生の中の事実上のトップ。

 能力だけではない。

 その美貌もまた桁外れなものがある。

 流れるような金髪に、黄金そのもののような美しくも苛烈な光が宿る金色の瞳。

 ほとんど表情が変わることがないが、その白皙の美貌は氷で出来た彫刻のよう。

 体のラインがわかりづらい衣服を着ていても、誤魔化せないほどメリハリの利いたスタイルに、平均的な一般男性を上回る長身。

 現在御稜大学に在籍している全女性生徒の中のトップ五人に間違いなく入るであろう超絶美女、その正体は。


 勿論、玉藻である。


 恋人連夜と毎日毎日イチャイチャ、キャッキャウフフばかりしていそうな彼女であるが、そうではない。

 当たり前であるが、むしろ、そうではない時間のほうが圧倒的に多いのである。将来、小児科専門の『療術師』になることを目指している彼女は、休むことなく毎日大学に通い、自分が受講している講義に欠かさず出席。どの講義も一番前の席に座って講師達の講義に耳を傾け、聞いた内容全てをノートにびっちりとっているのだ。

 そんな超真面目学生の玉藻であるから、研究課題に手を抜くわけがない。

 気合を入れて、自分に分担された実験課題に取り組み、他の研究生達同様、それはもうきっちりかっちりレポートを仕上げてきたのである。

 後はそれを、研究室の先輩で纏め役でもある四年生達に手渡し、さっさと帰るつもりであったのだが。

 それだけではすまなかったのだった。

 自分が纏めたレポートを手に颯爽と研究室にやってきた玉藻は、扉の向こうの中の様子を見て絶句。

 なんと、研究生達が大喧嘩の真っ最中だったのだ。唖然としてしばしその様子を見守っていた玉藻であったが、その中に何人か喧嘩に参加していない研究生を発見。自分同様に呆然と事態を静観している彼らから事情を聞きだしてみると、どうやらレポートの纏め方でもめているとのこと。

 研究生達は皆エリートであるがためにそれなりにプライドが高い。中でも卒業間近の四年生達は、自分達こそが現在の研究室のトップであるという自負があるためかその傾向が顕著。少しでも自分の書いたレポートが課題結果のメインになるように纏めようとするため、内容に無理が生じそれに気がついた他の研究生達の激怒を買ってしまったというのが喧嘩の真相らしい。

 玉藻からしてみれば、正直あほらしくて、どうでもいい内容である。グループ課題なのだから、全員同じ点数しかつかないというのに、そんなところで優劣を競ってなんになるというのか。むしろ、内容がいびつなレポートを作れば点数は下がるだけ。何にもいいことなどありはしないということが、わからないのだろうか。

 このまま踵を返して家に帰りたい。心の底からそう思った玉藻であったが、グループ課題である以上そうもいかない。ここで投げてしまったら、研究課題はとんでもなく最低な点数をつけられてしまうだろう。

 めんどくさいことこの上なかったが、成績にはかえられない。大きな溜息を一つ吐き出した後、玉藻はまさに絶頂の最中にある喧嘩の中に敢然と乗り込んでいき、力づくでこれを鎮圧。

 そして、纏め作業は自分がやると宣言し強引に四年生達から集まったレポートを取りあげると、部屋の中心に座って有無を言わせず作業を開始したというわけである。

 このことに最初はぶつぶつと文句を言っていた四年生達であったが、頭が冷えて自分達の愚かさに気がついたことと、玉藻の群を抜いた優秀さを認めていたため、結局はこのことを承諾。また、三年生以下の者達は、元々玉藻を次期リーダーと認めていたため、特に抗議を声をあげることなく率先して協力。やっと研究室全体が一つに纏まったというわけである。


「それにしてもやっぱり如月さんすごいよねぇ」


「そりゃもう与厳大学切っての才媛だもん」


「無愛想過ぎるのが玉に瑕なんだけどねぇ。もうちょっと愛想よくてもいいとは思うのだけど」


「いやいや。そのクールなところがいいんじゃない」


「そうそう。それにさ、無表情ではあってもただ冷たいってわけじゃない。マナーを守って話しかけたら、ちゃんと受け答えしてくれるし。困っていたら声を掛けたりしてくれるしね」


「まあ、変な色目使いながらだと容赦なくぶっとばされるんだけどね」


 彼女をネタに雑談に興じているのは、この研究室の女性陣達。彼女達は早々に自分達のレポートをチェックしてもらって、既に玉藻から作業終了のお墨付きをもらっている。なので、現在、少し離れたところにある小さなテーブルに集まってのんびりお茶を飲みながら休憩中というわけだ。

 ちなみに、彼女達のすぐ側では、未だレポートの修正作業に悪戦苦闘している男性達と彼らを相手に忙しく奮闘している玉藻の姿が見られる。

 正直、彼らの手伝いに入りたいところではあるのだが、既にレポートの纏め作業は終盤に入っているし、いま、割って入ると邪魔になりそうなので、部屋の隅っこで大人しくしているというわけである。


「それにしても、如月さん、ほんと美人だよねぇ」


「うん、同性から見てもすごい惹かれちゃうもんね。嫌味がない美しさというか。まあ、無表情すぎてたまに人形なんじゃないかって思っちゃうけど」


「ちゃらちゃらしていないのは間違いないね」


「人形なんてとんでもないわよ。あなた達、如月さんが怒ったところみたことないの? この前なんて、物凄い大激怒していたんだから」


「ああ、ひょっとしてあれ? 力づくでキスしようとした空拳格闘部の部長、瞬殺しちゃった件?」


「え、あの積乱雲巨人(ストームジャイアント)族のブラス・ウォーノットをのしちゃったの? 北方諸都市総合格闘技大会で何度も優勝している彼を?」


「そうなのよ。あいつったら『俺の女になれよ』とかなんとか言っちゃって、強引に組み伏せようとしたんだけど、如月さんの回し蹴りの一撃で轟沈」


「ひええ」


「ブラスだけじゃないよ。あまりおおっぴらにはいえないけどさ、力づくで彼女を手に入れようとした奴らみんな返り討ちにあってるらしいよ」


「ほんと、男って馬鹿ねぇ」


「いやそれが、男だけの話じゃないらしいよ。さっきも言ったけど、同性からみても如月さんってすんごい魅力があるじゃない。女の中にも如月さんに言い寄った剛の者がいたらしいのよ」


「へ~~、それでそれで? どうなったの?」


「そっちも全部潰されたらしいわ。男女関係なく、力づくでどうこうしようって奴には容赦ない鉄槌を下すみたいね」


「うっはぁ。そりゃ確かにお人形さんじゃないわ。しかし、相方のスクナーさんとはほんと対照的ねぇ」


「うんうん。あっちは、男でも女でも、来るもの拒まず、何人でもOKだもんね。物凄い数のハーレム構築してるって噂だけど」


「噂じゃないわよ。それほんとの話。スクナーさんの側に、いっつも取り巻きがいるでしょ。あれほとんどスクナーさんと肉体関係もってる恋人や愛人達よ」


「マジで!? ってか、ちょっと待って。そういえばあの中には、上位種族のイケメン三巨頭や、龍族の第一王位継承者の龍乃宮 かぐや様。纏翅族のアリアさんとかもいるけど、まさか」


「そのまさかよ。全部、スクナーさんの愛人」


『ひえええええええ』


「まあ、そうは言ってもかぐやさんやアリアさん達って、妙なところでプライドが高いから、『私がミネルヴァの恋人なのではなく、ミネルヴァが私の愛人なのですわ』とか言っていたみたいだけど」


「それどっちでもいっしょじゃん」


「だよねぇ~。でも、彼女達には重要なところなんだって」


「マジでどうでもいいわ。それに比べ、ほんと如月さんはストイックだよなぁ。勉強一筋って感じ。あの人ずっと彼氏とか作らないのかな?」


「まあ、恋愛は個人の自由だからねぇ。それにしてもおしいなぁ」


「なにが?」


「如月さんの笑ってるところってみたことないから。怒ってるところは結構目撃してるけど、笑ってるところって見たことないから。あれだけの美人なんだもん。きっと笑ったら、もうすんごい美しいんだろうなぁって思うもん。流石の『氷壁の女王』も、自分の彼氏・・・まあ、彼女かもしれないけど、そういう『人』の前では普通に笑うでしょ」


「ああ、わかるわかる。いっつも、無表情か怒ってるかの二択だもんねぇ」


 少し離れたところで無表情のまま作業を続けている玉藻の姿を見て、女性陣達のほとんどが一斉に溜息を吐き出す。

 しかし、その中で一人だけ溜息を吐き出さず、また、その意見に同意しなかったものがいた。その彼女は、ニヤリと何か優越感に浸った笑みを浮かべて研究室の仲間達に視線を向けた。


「私あるよ」


「何が?」


「如月さんが笑ってるの目撃したことある」


「ああ、そうなんだ。って、ええええええっ!?」


 彼女の口からポロリと零れ出たその言葉に衝撃が走る。テーブルを囲む女性達はあんぐりと口をあけてそのまま固まってしまうし、近くで彼女達の会話を聞いていた一部の男性生徒達はレポート修正の手を止めて、大きく眼を見開いたままの状態で止まってしまっていた。


「う、うううううそ。うそうそ」


「いや、ほんと」


「ど、どこで? いつのことよ、それ!?」


 その言葉を皮切りに固まっていた生徒達は、一斉に動き出す。身を乗り出すようにして、衝撃の発言をした女生徒をぐるりと取り囲みギラギラとした視線を彼女に向ける。そんな彼女達(数名ほど、男性の姿もあったが)の様子に顔をひきつらせながらも、彼女は自分が見たことをゆっくりと口にし始めた。


「えっとね、見たのは食堂とか売店がある学生会館のカフェテラス。なんか見たこともないようなすごい豪華な手作りのお弁当食べながら、携帯念話で誰かと物凄く楽しそうに話していた」


「だ、誰と? あと、何話していたの?」


「わかんないよ。私もびっくりしてしばらく呆然としてたから」


「誰か他に見てないの? カフェテラスで弁当ってことはお昼時でしょ? 他にも誰かいたんじゃないの?」


「いや、もう大分御昼過ぎてた。三時限目がはじまってる時間で、お弁当食べてたの如月さんだけだったもん。寝坊して三時限目に遅刻しちゃって慌てて走ってくる途中に目撃したから」


「もう~~。どうせ、間に合わないんだったら、潔く三時限目の受講を諦めて如月さんの相手とその会話の内容を突きとめてくれたらよかったのに!」


「こらこら。無茶苦茶言うな。でも、気になるね、その念話の相手。誰だったんだろう?」


「スクナーさんじゃないの? ほら、スクナーさんって、確か小学校時代からの如月さんの相棒なんでしょ」


「ああ、そうそう。私、あの二人と同じ御稜高校に通っていたから知ってるんだ。二人ともいっつもつるんで行動してたからね。今は、スクナーさんの取り巻きが物凄い増えたからそうでもないけど」


「確かに如月さんってさ、高校時代の友達と親しげに話しているのたまに見かけるよね。スクナーさんだけじゃなくて、シーガイアさんとか、ポンペイウスさんとか・・・って、よく考えたら全員超美人ばっかだね。美人じゃないと如月さんと友達になれないってこと?」


「いや、そんなことはないと思うよ」


「全員間違いなく美人だけどね。まあそのせいで仲良しなのかどうかはとりあえずおいといて。あの人達の誰かと念話していたのを見たんじゃないの?」


「ありえる」


「あとそれ以外の人となるとサタナドキア教授くらい? 如月さんってスクナーさんと違って、一匹『狼』ならぬ一匹『狐』だから他に親しくしている人見たことないしね」


「う~んでもさぁ、あの人達と話していても大概ムスッとした表情のままじゃないかしら? 全然笑ってるのみたことないんだけど」


「あ、そういえば。ねね、念話していたときはどうだったの?」


「物凄い嬉しそうだったよ。しかも声をあげて笑っていたもの。そんな姿一度も見たことなかったから、思わず別人かと思ったんだから」


『えええっ!?』


 一斉にあがる大絶叫の嵐。そのあまりの白熱ぶりに、今まで騒ぎを静観していた別の男性研究生達もが『なんだなんだ』『どうしたどうした』と加わってきて、玉藻の話題が益々ヒートアップしていこうとしていた・・・

 まさにそのとき。


「ごめんなさいっ!!」


 一人の女性研究生の謝罪の声が、玉藻の噂話に花を咲かせるたくさん研究生達の声を貫いて研研究室に響き渡る。

 歳若い乙女の柔らかいソプラノの声。耳に心地よいその声はしかし、明らかに切羽詰った何かを含んでおり、それを敏感に察知した研究生たちは、一斉に口をつぐんで静まり返る。

 一体何事かと彼らが視線を声のしたほうへと向けてみれば、そこには深々と頭を下げる雪豹型獣人族の少女の姿。

 彼女が頭を下げている相手は、テーブルの真ん中で忙しそうにレポートの纏め作業を行っている玉藻をはじめとする数人の研究生達で、彼らのほとんどは信じられないといった表情で彼女を凝視したまま凍りついてしまっている。

 いったい何があったというのか?


「な、なんだよそれ。ど、どどど、どうすんだよ!?」


 一番早くショックから立ち直った研究生の一人が、頭を下げて続けている少女に悲痛な叫びをあげる。

 だが少女は、そんな叫び声を耳にしても頭を上げて口を開こうとはせず、ただ黙って頭を下げ続けるのみ。

 再び部屋を静寂が支配する。

 ほとんどの研究生達は、玉藻の噂話に夢中だったせいで、いったい何が起こっているのかわからず、困惑の表情を浮かべるばかり。勿論、中には世話好きなものもいるし、二人の間に割って入ってやろうという気遣いのできるものもいるのだが、流石に内容がわからないままではどうにもならない。

 そのまま、しばらく空気が凍ったままの状態が続いたが、やがて、四年生の女性グループの者達が、このままではいけないと意を決し、わからないままに彼らの間に割って入っていく。


「ごめん、ちょっといいかな」


「私達、休憩していたものだから、事情がいまいちよくわかってないんで説明してほしいんだけど。いったい何があったの?」


「後からしゃしゃり出てきてって大きな顔すんなって当然思ってるだろうけどさ。グループ課題なわけだから、無関係決め込むわけにはいかないっしょ」


 そう言いながら課題レポートの纏めチームと頭をさげている女子生徒の間に割って入った数人の四年生達。しかし、当事者達は黙したまま語ろうとはしない。なんとも言えない表情で顔を合わせ本気で頭を抱えそうになる四年生達。

 このまま、また重い空気に浸っていないといけないのかと、研究生達全員がげんなりしそうになったが、頭を下げている少女に代わり纏めチームの何人かが説明のために口を開いた。


「ベリーが自分のレポートを仕上げてこなかったっていっているんだ」


『ええっ!?』


 その少ない言葉だけ大方の事情を察した研究生達は、一斉に頭を下げたままの女性生徒に視線を向ける。そう彼女がベリーである。

 彼女は、玉藻ほどではないが研究室の中でも特に優秀な研究生の一人。しかも真面目で研究熱心でもあることから、今回の研究課題で欠かすことのできない重要な部分の一つを任されていたのだ。

 なのに、そのレポートを持ってきてないという。

 研究生達が各自持ってきたレポートは勿論どれも重要には間違いない。しかし、彼女が任されていた部分は、簡単ではあるが各自のレポートを纏める上で基本の物差しとなる重要個所。他の実験結果と比べるための基礎データの一つとして使われる予定だったのだ。

 これがないのはかなり痛い状態である。

 そのデータを省いて課題を纏めてしまうという方法は勿論ある。しかし、その場合、彼女のデータだけでなく、彼女のデータと比較する予定だった他のデータまで廃棄しないといけなくなってしまう。廃棄することになるのはおおよそレポート全体の二十パーセント。そうなるとレポートの内容が当初の予定よりもかなり薄くなってしまう。


「ちょ、ちょっと待ってくれ。っていうことは何か? 俺の実験結果は無駄死にするのか!?」


「この日の為に徹夜で仕上げてきたのに!!」


「なんでできてないんだ? 彼女の分担は素人に毛が生えた程度の研究生でも作れる薬品の作成と、その基本的な性能結果のまとめだったはずだろ?」


「あ~もう、なんてことなのよ。実験材料滅茶苦茶苦労して揃えたのに、全部パーなの!? 嘘でしょ!?」


「どうしてくれるんだ!!」


「というか、なんでそんなことになってるのかちゃんと説明しろ!」


 研究室のあちこちで次々と悲鳴と怒号があがりはじめ、研究室の中は一気に大混乱の様相をみせはじめる。そんな中、最初に声をかけた四年生達は、流石に他の者達よりも長年在籍しているだけあって、なんとか冷静さを保ち事態を沈静化すべく、混乱している研究生達を必死になだめにかかる。

 その甲斐あって、大部分の研究生達は結構すぐに冷静さを取り戻すことができたが、モロに影響を受けることになった研究生達はそうはいかなかった。床に膝をついてがっくり項垂れてしまうもの、本気で泣き喚き始めるもの、中には頭を下げ続けている女性生徒に掴みかかっていこうとする研究生の姿もあった。


「どうしてくれるんだよ、責任取れよ!!」


「黙ってないでなんとかいいなさいよ!!」


「ま、待って待って」


「落ち着け、気持ちはわかるけどとりあえず落ち着けって」


 冷静さを取り戻した他の研究生達がなんとか間に割って入り、暴力沙汰に発展することだけは阻止。相変わらず原因となった女性生徒に対する怒号や非難の声は尽きることはなかったが、それでも、室内は次第に一定の秩序を取り戻していった。


「ともかく、どうしてレポートを仕上げることができなかったのか、それだけでも教えてくれない。あなたみたいな真面目な人が、ただ忘れましたってことはないと思うのよ」


「そうね。確かにそうだわ。何かどうしてもレポートを仕上げられなかった理由があるんでしょ?」


 ある程度室内が静かになったタイミングで、四年生の中心メンバーたちが、頭を下げたままの女性生徒に近付いて優しい声で話しかける。しかし、それでも彼女は涙声で『ごめんなさい』を繰り返すばかり。どうしても理由を話そうとしない。困り果てた四年生達は、とりあえず事情を聞きだすことを諦める。

 頭を切替、打開策がないかどうかを考えることを先にすることにしたのだ。と、なると当然、実際にレポートを纏めにかかっているチームの者達に相談するのが一番だ。

 彼らは研究生の中でも特に優秀な者達であり、そして、実際にレポートのまとめ作業を行っているので現状をよくわかっている。

 中でもその指揮を執っている者はほぼ全てを把握しているはずだった。

 なので、最良の選択は、纏めチームの指揮官に相談するのがいいとなる。


 しかし。


(こ、こえええ)


 近くにいるだけで凍え死にしそうな極寒のオーラを放ち続ける『氷壁の女王』に話しかけるのは、ただでさえ物凄く勇気がいる。

 なのに、こんなとんでもない大問題が発生している状態で、彼女が普段よりも機嫌がよくなっているとは到底思えない。

 だが、ことここにいたってはほかに選択肢はないとここにいる誰もがきちんと理解してしまっていた。

 四年生の研究生達は、玉藻が壮絶に不機嫌になっていることを予想してびくびくしながらも、それでもそれしか方法がないと声を掛けようとした。


 だが。


 それよりも早く、その玉藻自身が口を開いた。


「『抗病薬』を最も基本的な材料で作成し、その効果をデータ取りする。確かそれがあなたの分担だったわよね?」


 何かを考え込むような素振りで頭を下げたままの女性生徒に声を掛ける玉藻。そこに浮かんでいるのはいつも通りの無表情ではあるが、先程まであった冷たさはなくなっている。そして、それは声の中からも消えていて、それに気がついた女性生徒は、ちょっとだけ頭を上げて小さく頷きを返した。


「そういうことか。だからレポートを作ることができなかったのね」


 何かを納得した表情になった玉藻は、何度か頷いてみせたあと、そのたおやかな指を自分の形のいい顎にあてて難しい顔で考え込み始める。

 しかし、周囲の者達にとっては今のやり取りだけでは全く何もわからない。しばらく、近くのもの同士で困惑する顔を見合わせたり、肩をすくめてみせたりしていたが、やがてその中の何人かが焦れたように玉藻に話しかけた。


「あ、あのさ、如月さん。本当に申し訳ないけど私達にわかるように説明してもらえないかな」


「うんうん。僕ら、如月さんほど頭よくないからさ」


「頼みます。お願いします」


 申し合わせていたかのように一斉にへへ~っと拝んでくる研究生達を、しばし胡散臭そうに見詰めていた玉藻だったが、やがて、しょうがないといった風に口を開いた。


「材料がなくて作れなかったのよ。だから、その子はレポートを作成できなかったの」


「材料がなかった? え、『抗病薬』の材料がなかったってこと? あんなのどこでも手に入るものばかりじゃないの?」


「ほとんどはそうね。でも、一つだけそうじゃないものがある」


『?』


 玉藻の言葉に一斉に首をかしげる研究生達の姿を見て、もう一度ため息を吐き出した彼女だったが、どこか諦めたような口調で説明を再開する。


「『高香姫(プリンセス)の榴蓮(アン・ドリー)』よ」


 艶やかなピンク色の唇から吐き出された単語に、それを聞いていた一同は一瞬きょとんとした表情を見せていたが、しかし、そこは大学きってのエリート集団。

 すぐにその単語の意味を理解して、先程とははっきり意味合いの違う絶望の声をあげる。


「なんてこったぁっ!!」


「南方の特産品だったわね」


「そういうことか。今、アルカディアとの交易路封鎖されているものね」


「そういえばニュースで、『南方の特産品はここのところずっと品切れ状態が続いている』って言っていたものな」


 ようやく事態を把握した研究生達。

 しかし、把握したことによって、自分達のレポートを完成させることが絶望的であることがはっきり浮き彫りとなってしまい、誰もかれもが脱力したように肩を落とす。

 もう、無理なのか。

 みな、一生懸命この日の為に頑張ってきたというのに。

 研究生の皆それぞれ、その頑張る理由は違えども、レポートを完成させ誰よりもよい成績を残したいという思いは同じ。

 それだけにこの事実は少なからぬ衝撃を彼らに与えていた。

 もう駄目なのか。今回のレポートは諦めるしかないのか。

 やるせない思いから虚ろな瞳を宙へと泳がせる研究生達。

 周りを見渡せば、男も女もみな生ける屍そのものといった雰囲気で、部屋の中はまさに完全に敗軍のそれである。

 だが。

 そんな中、たった一人その空気に染まっていないものがいた。


「どうしよう。確か余分に取って帰ったって言っていたから、頼めば『いいですよ』って言ってくれるだろうけどなぁ。でもなぁ。私、結局、全然役に立ってなかったしなぁ。なんかおんぶに抱っこでいやだなぁ。ただでさえ、最近、食費とか全部出してもらっちゃってるしなぁ。私、完全にヒモになりつつあるもんなぁ。でもなぁ、ヒモ生活を脱出するためにもきちんと正規の『療術師』にならないといけないし、そうなると今回の課題は落とせないしなぁ。でも、やっぱり頼ってばっかりっていやだなぁ。でも、成績落としたくないしなぁ」


 レモンイエローのかわいらしい携帯念話を握り締めたまま、深刻そうな表情で何事かをブツブツと呟き続ける一人の女性。

 周囲の研究生達同様に、明るいとは決して言い難い表情。

 だが、その表情の中に、『敗北』とか『諦め』とか『絶望』とかいった言葉が当てはまるものは全くみつけることはできない。

 誰がどう考えても打つ手なしの絶望的状況の中、その人物は膝を折ることはせず、険しい表情を浮かべながらもその瞳に希望の光を失っていない。

 その人物はだれか?


 勿論、玉藻だ。


 そんな玉藻の姿を見た周囲の研究生達は一様に驚きの表情を浮かべてみせる。

 玉藻は、普段、無感動、無表情、無愛想が常であるため、学生達から『氷壁の女王』と呼ばれているのだ。その『氷壁の女王』が珍しく感情を露にしている。いったい何事が起こったのか? 皆、その理由を知りたくてうずうずしていたが、しかし、どうにも声を掛けづらい雰囲気に誰も声を掛けることはできず、ただただ見守り続けるのみ。

 非常に微妙な空気が支配し続ける中、尚も玉藻は携帯を握りしめたままうんうん唸り続ける。

 そして、どれくらいの時間がたっただろうか。

 唐突に頭をあげた玉藻は、何故か赤くなった顔を群がる研究生達に視線を向け、どこか慌てている感じに口を開いた。


「あまり期待しないでほしいんだけど、素材を持ってる人に心当たりがあるからちょっと聞いてみるわ」


 それだけ言って席を立った玉藻は、妙にそわそわしながら足早に教室を出て行ってしまった。

 ぽかんとしながらそんな玉藻の背中を見送る研究生達。


「如月さん、出て行っちゃったね」


「なんか、アテがあるって言っていたね」


「うん」


「ってかさ、なんか、妙に嬉しそうじゃなかった?」


 困惑しきりといった風に、しばらく互いに顔を見合わせて首を捻っていた彼らであったが、ある一人の研究生が発した言葉に反応して一斉に黙り込む。

 そして、その言葉を発した研究生に無言のまま視線を向けた。


「え、いや、あの、なんか、そんな感じしなかった? なんていうか、その、嬉しそうというか、恥ずかしそうというか、まるで・・・」


『まるで?』


「恋人に念話をかけに行くみたいな」


 物凄い静寂が研究室の中を支配する。

 部屋の中にいる誰も彼もが、大きく『ぽか~~ん』と口をあけたまま彫像のように固まってしまっていた。

 しかし、数十秒の空白が流れた後、停止していた時は爆発するように再び動きだす。


『な、な、なんだってぇぇぇっ!?』


 部屋の外にまで響きわたる見事なまでの大合唱。

 それほどまでの大声であるから、自らの耳にも相当な負担がかかっていたはず。

 だが、部屋の中にいる生徒達はその痛みを敢然と無視すると、我先にとばかりに混乱する胸の内を次々と吐き出し始める。


「まさか、あの『氷壁の女王』だぜ? 恋人とかありえないだろ?」


「うんうん、これまでどれだけの数のイケメンが撃墜されてきたかあなただって知ってるでしょ?」


「イケメンだけじゃなく、美女でも相当な撃墜数にのぼるわよ」


「そんな如月さんに恋人? ナイナイ。ありえないって」


 そう言って一斉に乾いた笑い声を上げる研究生達。問題の発言をした女性の研究生も一緒になって引き攣った笑みを浮かべていたのであるが。


「そうだよね。私の、気のせいだよね。あ~あ、でも、すっごい興味あったのになぁ」


「なにが?」


「だって、もし本当だったらさ、今からその恋人に念話をかけに行ったわけでしょ? どんな顔しながらどんな話をするのか見たかったなぁって」


「ああ、そうね」


「それはみたいな」


「うんうん、もしそうだとしたら、今、話している真っ最中なんだろうけどね。あはは」


 一斉に静まり返る室内。

 さっきまで乾いた笑いを浮かべていた研究生達であったが、一瞬だけ顔を見合わせると、物凄い勢いで全員外に飛び出していく。


「さ、探せ!! なんとしてでも探しだすんだ!!」


「獣人系のものは、嗅覚を研ぎ済ませろ!! 虫人系は視覚と聴覚を最大までアップだ!!」」


「うおお、如月さんの匂い発見!!」


「よくやった!!」


「ぐっじょぶ!!」


「追えっ! すぐに追うんだ!」


「絶対逃がすな!」


「コピー(了解)!」


 普段敵対心むき出しで競い合っているライバル同士とは到底思えない素晴らしい協力プレイを見せた彼らは、あっというまに体育館裏にいる玉藻の姿を発見。

 彼らは玉藻に気がつかれないように、一斉に気配を消し去ると、自分の白衣が汚れるのも気にせずに匍匐前進でじりじりと彼女に迫っていく。


「報告! どうやらターゲットはまだ念話をかけていないようであります」


「了解。全員ターゲットに気づかれないように散会。それぞれ気配を断って声の聞こえるところまで前進」


『コピー(了解)!』


 いったいどこで訓練したんだと問い掛けたくなるくらいの一糸乱れぬ団体行動。プロのレンジャー部隊か、はたまた伝説の東方野伏(ニンジャ)並みの隠密行動で玉藻を取り囲んだ彼ら研究生達。

 奇跡的に、一人として彼女に気づかれることなく至近距離まで近付くことに成功した彼らは、それ以上前進することを止め、一斉に耳をそちらへと向けた。

 すると・・・


「どどど、どうしよう。飛び出してきたのはいいけれど、今ってどう考えてもまだ授業中だよね。こんな時間に掛けるの迷惑だよね。あ~、もう、私の馬鹿ばかバカ! 迷惑かけてばっかりじゃない。でもでも、恋人から念話かかってきたらうれしいよね。少なくとも私はうれしい。ということは、彼もうれしいはず。な~んだ、じゃあ、遠慮することないじゃん。愛があれば何をしてもいいよね。うんうん。例え、それがおねだりだったとしても、愛さえあれば・・・って、駄目でしょ!! 何それ、私、モノとか金目当てで付き合ってるみたいじゃん!! 違うもん。私はそうじゃないもん。愛してるもん。愛があるもん。モノや金がなくても全然平気だもん。あ~、やだ。なんか念話かけるの嫌になってきた。授業中云々よりもモノをねだる為っていうのが嫌だ!! やめよ、そうよ。私がレポート諦めればいいだけじゃない。そうすれば彼に迷惑をかけることも。でもなぁ。その所為で単位落としたことがバレたら、彼怒るだろうなぁ。『なんで言ってくれなかったんですか!?』って、言うだろうなぁ。それも嫌だなぁ。あ~、どうしようどうしよう。どうしたらいいだろう」


 彼らの気のせいだろうか? なんだか今日の玉藻は、見たこともないようなヘタレオーラを全開で放出しているような気がするのだ。

 大学の校舎に囲まれた中庭の中にある小さな庭園。

 その庭園の中央にあるガジュマルの大木の前で一喜一憂しながらいったりきたりを繰り返す玉藻の姿を見た研究生達は一様にぽかんと口をあけて固まってしまう。


「ちょ、あ、あれ、ほんとに如月さん?」


「だ、だと思うけど」


「ニセモノじゃないの? ほら、中級聖魔族のサキュバスやインキュバスの『人』って『変身』の『術』が使えるっていうし」


「いや、でもよ。あの匂いは間違いなく如月女史のものだぜ」


「そもそもサキュバスやインキュバスの生徒ってこの大学で見たことあるか?」


「ないわ。西域の端にある城砦都市『ワルプルギス』で少数存在してるって話は教授から聞いたことあるけどさ」


「ニセモノ説や身代わり説は無理があるって」


「そうかもしれないけど、でも、その、あのなんというか。言いたくないけど、どれだけ気の弱い子でもあそこまではなかなかないヘタレっぷりはどうなのよ?」


『う、う~~ん』


 今まで一度として見たことがない玉藻の姿に困惑しきりの一同。

 しかし、そんな周囲の様子がわかってないのか、玉藻は相変わらず苦悩する様子でいったりきたりをひたすら繰り返し続ける。

 これだけでも今の玉藻が普段とかけ離れた精神状態にあることがよくわかる。

 いつもの玉藻であれば、いくら気配を殺していたとしてもその自分を取り巻く無数の気配や風に乗って流れてくる他人の匂いを感じ取って自分が取り囲まれて監視されていることに気がついたであろう。

 だが、今の玉藻にそんな余裕は全くない。

 手にしたレモンイエローの携帯念話を凝視し、ルーン番号を途中まで押しては切るボタンを押してやめ、また押してはやめるを繰り返す。

 大学内で『無表情』と言えば即座に名前が挙がるほど、いつもは表情に全く変化のない女性として知られている玉藻。

 そんな玉藻が、ただいま絶賛百面相中。


 微妙、ひたすらになんともいえない微妙な空気がその場を支配する。


 百面相を続ける玉藻からも、そして、それを見守る研究生達からもなんとも言えない微妙な空気。

 そんな感じでそのまま時がすぎること数十分。

 この場にいる誰もがそろそろなんらかの動きがほしいと思いはじめたとき、ようやく渦中の『人』が覚悟を決めた。

 震える手でルーン番号を押すと、今度は切るではなく、発信のキーを押下する。

 そして、緊張しきった表情で携帯念話しから伸びたイヤホンマイクを頭上のキツネ耳に差し込んで待つこと十数秒。

 そのときがくる。


「あ、ああ、あのあの、あ、あたしだけど。突然念話しちゃってごめん、授業中だよね? 掛け直したほうがいいよね? え? 大丈夫なの? ほんとに? いいの? うん。うん。そ、そうなの? じゃ、じゃあ、いいけど。その、ちょっとお願いがあって・・・」


 相変わらず大木の前をいったりきたりうろうろしながら念話を続ける玉藻。

 その表情は今にも泣き出しそうな憂い顔。

 見ているだけで辛くなるようなそんな表情であったが、しかし。

 その大雨直前の曇り顔は、一瞬にして澄み切った青空のような美しい笑顔へと変化する。


「え? いいの? でもでも、あれだけ苦労して手に入れたのに。あたし、すっごい迷惑かけたし。なんか、ほんとに申し訳ないっていうか・・・え? や、やだ、何言ってるの? そ、そんなこと言っちゃって。も、もう!! 年上をからかわないの!! そんなこと言ったって全然うれしくなったりしないんだからね!!」


 誰がどう見てもうれしそうだった。


「く、口ばっかりうまい男は信用できないんだから。私があっさりそんなお世辞を真に受けると思ったら大間違いなんだから」


 誰がどう見ても真に受けていた。


「あ、愛してるからって。そんなの知ってるもん。そんな言葉くらいで私が浮かれるとでも思ってるの?」


 誰がどう見ても浮かれていた。いや、浮かれまくっていた。

 さっきまでの重い足取りはどこへやら。

 今にも宙を歩いてどこかに飛んで行ってしまいそうなくらいの浮かれっぷりでスキップしているキツネが一匹。


「じゃ、じゃあ、私今からそっちに取りに行くね。え? 来なくていいって? なんで? は? 持ってきてくれるの? いやいやいや、それは駄目でしょ。頼んでいるのはこっちなのに、更に持ってこさせるなんてそんなのできな・・・あ、あたしに会いたいから? きゃ~~っ!! いや~~~!! 何言ってるの何言ってるの!?」


 携帯念話を握りしめた大きなキツネが一匹、めちゃくちゃうれしそうな様子でそこらじゅうをとび跳ねまわる。

 いや、とび跳ねまわるどころの話しではない。真っ赤な顔でそこら中の草をむしる、芝生の上を転がりまわる、校舎の壁を横走りする。

 誰も彼もが一度として見たことのない『氷壁の女王』の物凄いハイテンションぶりに、研究生達は言葉もでない。

 嬉しさ大爆発で嬌声を上げ続けている玉藻と対照的に、彼女の周囲はお通夜のような沈黙が広がっている。

 しかし、幸せいっぱいの玉藻はそんな周囲の状況に全く気がつかない。

 一しきり大騒ぎした後、これ以上ないくらい幸せいっぱいの笑顔で再び念話の向こうの相手に意識を集中する。


「じゃ、じゃあ、わかった。私、待ってるね。ずっとずっと待ってるね。あなたが来てくれるまで帰らないで待ってるね。だから絶対来てね。すっぽかしちゃだめよ。万が一すっぽかしたら・・・」


 幸せそうな表情が一瞬にして『般若』のそれとなる。

 遠目からでもはっきりわかる禍々しい負のオーラを全身から放ち、妖しく光る瞳を宙へと向ける大狐。

 が、しかし、すぐにそれは霧散。

 『狐』の姿からいつもの『人』型の美女に変身した玉藻は、恐ろしい『般若』の表情を引っ込めると、代わりになんとも言えない苦笑を浮かべてみせる。


「って、あなたに限って万が一もそれはないか。あなたの心の中に『女』として存在してるのは私だけだもんね。それよりも気をつけてきてね。最近、このあたり物騒になってきてるから。うん。うん。そうよ、怪我とかしたら嫌よ。それ以上に別の意味で襲われるのはもっといやだけど・・・あ、いや、なんでもないわ。じゃあ、ほんとに待ってるからね。あとでね」


 そのあと、少しだけ雑談をしてからどこか憂いを帯びた表情で念話を切った玉藻。


「私の為にって気持は本当に嬉しいんだけどなぁ。でも、気をつけてほしいのよね。ただでさえ馬鹿や変態に狙われやすいんだから」


 深いため息を一度だけ吐き出した玉藻は、美しい顔の前で両手で祈るように握りあい、潤んだ瞳を宙へと向ける。


「お願いだから、ちゃんと私のところに辿り着いてね。そしたらいつものように強く抱きしめて、あなたの大好きなこの体をいくらでも自由に・・・」


 と、何やら妖しげなことを口にし始めたところで、はっとした表情となる。

 玉藻は重大なあることに気がついたのだった。


「って、私、今日すっぴんに近いじゃない!! や、やばい、急いで準備しないと!!」


 真っ青な表情で絶叫を放った玉藻は、わたわたと両手を振り回して慌てていたが、すぐに立ち直ると大急ぎでその場から駈け出して行く。


「やばいやばいやばい。十分やそこらじゃ来ないとは思うけど、彼のことだから油断できない。私、道具一式持ってきていたわよね? あと、服も着替えないと。確か更衣室に何着かもしものときの為に予備として入れていたはず。あ~、もう急げ急げ~~」


 風を切るようにして走り出した大きな狐は、あっという間にその場からいなくなってしまった。

 そんな狐の姿を茫然と見送る研究生達。


「い、いっちゃった」


「結局、念話の相手は誰だったんだろうね?」


「さぁ。でも、やっぱり恋人なんじゃない」


「あ~、そっか。そうだよねぇ」


「あの態度はそうだとしか思えないよなぁ」


『あは、あはははははは』


 近くにいる同僚達と互いに顔を見合わせた研究生達は、皆揃って同じような疲れた表情を浮かべなんともいえない乾いた笑い声を漏らす。

 なんとも言えない虚脱感に襲われながらしばらくの間笑い続けていた彼らであったが、やがて一人、また一人と研究室に戻って行く。

 そうして半数近くがその場からいなくなってしまったとき、唐突に一人の女性研究生があることに気がついて声をあげる。


「ねぇ」


「ん? なんだよ。俺達もそろそろ戻ろうぜ」


 長く尖った耳を持つ妖精族の女性研究生の声に振り返ったのは、二本角の赤ら顔の鬼族の青年。

 周囲にまだ残っている同僚達にも声を掛けながら、研究室のほうに向かって歩き出しながら顔だけを向けた彼だったが、妖精族の女性の様子がおかしいことに気がついて歩みを止める。


「どうした? なんか具合でも悪いのか?」


「違う違う。いや、そうじゃなくて、さっきの如月さんの念話」


「ああん? あれがどうかしたのか? なんか、聞いた感じじゃ研究材料もらえる感じで話しついていたみただったけど」


「それ!! それよ!!」


 青年の言葉に得たりとばかりに頷く妖精族の女性。しかし、鬼族の青年はその意味がわからず首をかしげるばかり。


「『それ』ってなにが?」


「だから~、如月さん『持ってきてくれる』って言ってたでしょ」


「言っていたな。だからそれがどうし・・・」


「『誰が』?」


 問いかけていたほうからの逆質問。何を言ってるのかわからないと再度口を開こうとした鬼族の青年だったが、すぐに彼女が何を言いたかったのかをようやく察し、驚愕の表情を浮かべる。

 いや、それは鬼族の青年だけではない。彼らの会話を聞いていた周囲の者達も一斉にその意味を理解して同じような驚愕の表情を浮かべた。

 しばし流れる沈黙。


 そして、彼らは図ったようなタイミングで同じ言葉を一斉に口にした。


『氷壁の女王の恋人が大学にやってくる!!』


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