第十五話 『転校生来たりなば、大嵐遠からじ』 その4
城砦都市『嶺斬泊』の中にあってトップクラスの進学校である都市立『御稜高校』。
その『御稜高校』の中にはこの都市でも最大級と言われる超巨大図書館が存在している。古今東西の学術書は勿論のこと、かなり専門家でもなかなか読解できないような難解な技術書から、幼児が読むような童話、あるいは勉強には全く関係ない漫画まで、実に幅広い分野にわたって集められ蔵書されているのだ。
初めてこの図書館を訪れた者は、その凄まじい数の本の海に圧倒される。体育館の何倍ものスペースを持つ巨大な大広間の中に、ズラリと並んだ本棚の列。それが一階から五階までびっしりと続くのだ。
高校入学初日から卒業までの三年間、毎日毎日欠かさず通いつめても、全ての書物を読み切ることは到底不可能だといわれている。
さて、この超巨大な図書館。前述したように一階から五階まではびっちりと本が詰まっている。また、地下室も存在しているが、そこ特別な許可がないと閲覧できない禁書の類が厳重な警備の元で収められていおり、そこも凄まじい数の本で埋まっている。
だが、そんな図書館にも唯一本が存在しいないエリアが存在している。
屋上だ。
屋上は緑豊かなガーデンエリアとなっている。
そこは本を借りた生徒達が緑を楽しみながら読書できるようにと作られた場所。
北方に生息している様々な植物が屋上のいたるところに植えられ、その合間を縫うようにして走る散歩道。道のすぐ側には小さな泉や小川も作られており、ベンチや屋根つきの休憩所のようなものもある。
そんな場所であるから非常に居心地がよく、ここが作られてからは御昼休みや放課後は、癒しを求めて来る一般生徒達や教師達でいつもいっぱいだった。
御昼ご飯を食べに来る者、友達と遊びに来る者、鳥や虫の声を聞きに来る者、あるいは昼寝をしに来る者とその目的は実に様々だが、いつもそこは『人』々の楽しげな笑い声でいっぱいだったのだ。
だが、そんな声も今は聞くことはできない。今、この緑の休憩所で聞こえてくる声は楽しげな笑い声ではなく、不良達が発する聞くにたえない下卑た笑い声だ。
この屋上の現在の主は、二年生ゲットー・ヴァルカス。
種族はリザードマン族の上位種ノーブルリザードマン族でオス。
校内で上位十指に入る腕っ節を誇り、同じ爬虫類型の手下共と徒党を組んでいる。構成員は二十人から三十人ほどで、手下といえどもみんなそれなりに実力があり、校内での勢力は上の下といったところだろうか。
そんな実力派グループであるので、他の不良グループ達や生徒会役員達はなかなか手を出すことができないのだ。
一応、この図書館の主の依頼で、他の教師達がなんとかしようと動いたことがあったのであるが、彼らに怪我をさせてしまうことを恐れ思い切ったことができず今に至っている。
そういうわけでこの緑の美しい休憩所は彼らの独占状態。
ゴミや空き缶は平気で捨てる、タバコは吸う、遊び半分で草花を抜く、挙句の果てには御禁制の『魔薬』にまで手を出す始末。
それでも誰も何も言わない、いや、言えないでいた。
今日までは。
卒業まで誰も口出しすることが手を出すことができないと思われていた彼らの不可侵領域は、唐突に終りの時を迎える。
その口火を切ったのは、彼らと同じような厳つい不良。
・・ではない。
「すいません、ここ禁煙なんです。タバコを吸うのをやめていただけますか?」
「そうだそうだ!!」
かつては青々としていた芝生を抜きたい放題抜いて剥き出しになった地面。その寒々とした地面の上にしゃがみこんでタバコを吸っていたリザードマン族の生徒達に声を掛けたのは、緑色のロングヘアーのドライアード族の少女と、身長一メトル前後の小さなグラスピクシー族の少女。
形のいい眉を八の字にして怒りと悲しみに満ちた表情を浮かべた彼女達は、非難の視線をタバコを吸い続ける不良達に向け続ける。
さて、そんな彼女達に声を掛けられた不良達。当然、すぐにも怒り狂って怒鳴り声の一つもあげるかと思われたのだが、なんと全員が全員ぽか~んとしてしばらく声の主達を見返すばかり。
同じような不良達に因縁をつけられたり、生徒指導の先生に怒鳴られたりといったことならは何度でも経験している彼らであるが、吹けば飛ぶような華奢な少女達にこんなことを言われたのはみな生まれて初めて。一瞬、どう対応したらいいのやら判断に困った彼らであったが、やがて、一斉に大笑いを始めた。
はっきり言えばもう笑うしかないという状態だったのだ。
「なぁ、お譲ちゃん達、悪いことはいわねぇ。とりあえず、すぐにここから出て行けや。今なら、笑い話ですむからよ」
笑い続ける不良達の中から、何人かが立ち上がり二人の少女達を追い返そうと近づいてくる。
「出て行けじゃありません。そもそもここは誰が使ってもいい場所のはずです」
「そうだそうだ!! あんた達が出て行きなさいよ!!」
「ああん? おまえら馬鹿か? 今はダメなんだよ」
「何故ですか? 図書館責任者のエンキ・ドード館長にもちゃんと許可を得ています」
「そうだそうだ!! おじいちゃん先生が『使っていいよ~』って言ってくれたんだからね!!」
「がはははは、そんなおいぼれ知ったこっちゃねぇよ。今のここの責任者は俺達のリーダー、ゲットー・ヴァルカスだ。そして、ここを使っていいのはその仲間達だけなのさ」
「わかったら出て行きな。でないと、痛い目にあうぜ」
そう言ってタバコを咥えた長身のリザードマンは、大きく煙を吸いこんだ。そして、二人の少女達の前にわざと顔を近づけると、口をすぼめて口の中にたまったタバコの煙りを一気に吹きつけようとした。
そのとき。
「ヴァルヴァルヴァルヴァルゥゥゥゥゥゥッ!!」
「のぎゃあああっ」
『メゴッ』っとかいう鈍い音が聞こえた瞬間、タバコの煙を吹きつけようとしていたリザードマンの下顎がとんでもない形に変形した。そして、次の瞬間には上顎も変形、そしてそのまま仰け反るようにして後ろに一回転し、地面の上をゴロゴロと転がって行く。一体地面の上で何回転したであろうか、どこまで転がって行くのかと皆が呆然と見詰める中、進行方向にたまたまあった大木にぶつかってようやくその動きを止める。
彼の身にいったい何があったのか?
その場にいた不良達のほとんどは、何があったかわからなかった。
わかっているのは、いつのまにか少女達二人の前にいつのまにか別の生徒の姿があったということだ。
「二人とも大丈夫か?」
天に向けて右腕を突き出すような形でしばらく静止していたバグベア族の巨漢が、自分の背後にいる二人の少女に声をかける。
「おぅいぇぃ。ロムっち、さんきゅぅ。あたしもさっちゃんも無事無事」
「ありがとう、オースティンくん。助かったわ」
「礼はいらん。友達を守るのは当然のことだ」
礼を口にする背後の二人にニヤリと笑みを浮かべて見せたのはバグベア族の巨漢ロム。
突然の乱入者に、先程まで聞こえていた下卑た笑い声が一斉に聞こえなくなる。そして、笑い声の代わりに聞こえてきたのはいくつもの怒号。
「こ、このやろう」
「やれ、やっちまえ!!」
ロムめがけて一斉に飛びかかっていく不良達。だが、横から飛び出してきたいくつもの人影が、それらを悉く吹き飛ばしていく。
「ゴミ掃除、ゴミ掃除」
「いい機会だから、全部まとめて生ごみに出してしまおうぜ」
『賛成』
深緑妖精族の小柄な少年が手にした特殊警棒で不良の腹を一撃して悶絶させ、朱雀族の少年の飛び蹴りが別の不良の顔面を強打して吹っ飛ばす。狼型獣人族の少女は不良を一本背負いで投げ飛ばし、ドワーフ族の少年は、自分の身長の倍近くもある大柄の不良を捕まえるととんでもない力で持ち上げてそのまま見事なバックドロップで投げ捨てる。また、龍族の少女二人は矯正をあげながら嬉しそうにパイプ椅子で不良達を滅多打ちにしているし、三メトルを越える森巨人族の少年と女郎蜘蛛族の少女は、彼らが倒した不良達をせっせと外へと運び出していく。
素晴らしくも見事なチームプレイ。
緑の休憩所を占拠していた無法者達は、ほとんど何もできないうちに制圧されて無力化。戦闘開始からわずか三分後。ほとんど無傷の襲撃者達に対し、不良達で残っているのはリーダーであるゲットーただ一人。
「なんだ? いったいなんだっていうんだ?」
全身から盛大に冷や汗を流しながら怯えたように大振りの軍用ナイフを突き出して構えるゲットー。
一応、自分ではこの学校でそれなりに強いと思っていたし、彼の元に集まった者達もそれなりに精鋭だったはずだ。
今まで何度も他の不良グループとぶつかりあい、それなりに修羅場を潜り抜けてもいる。
時には彼らよりも大人数のグループとやりあったこともある。リーダーのゲットー以上の強者がいるグループとやりあったことだってある。
当然、これまでの戦跡は全戦全勝ではない。認めたくはないが、何度か負けたこともあった。
だが、ここまで一方的に負けたことなど一度たりともない。
この学校最大の規模を誇る三年生の不良グループチャン一派とやりあったときも、同じ二年生の強敵鮫島一味とやりあったときも、負けはしたがここまで一方的だったことはない。
相手側にもそれなりにダメージを与えたのだ。
それにもう一つどうしても納得できないことがある。
場所だ。
この図書館の屋上を溜まり場にしているのは別に景色がいいからではない。ある理由により、ここが彼らにとって最も有利に戦えるフィールドであることから彼らはここを自分達の砦としているのだ。それがわかっているから、チャン達も鮫島達もここには足を踏み入れようとはしない。そして、ここでの戦いでゲットー達は一度たりとも敗れたことはなかったのだ。
今日このときまでは。
ところが今回はそうではない。
ほぼ一方的にやられまくった。
確かに不意打ちを打たれはした。相手側を構成している人員のほとんどが暴力と縁のなさそうな連中ばかりと見て最初から舐めてかかっていたところもある。最近、大きな喧嘩をしてなかったから体がなまっていたということもあるだろう。
だが、いくらなんでもやられすぎだ。どう考えてもここまでやられるわけがないのだ。反撃らしい反撃もできないままに、本当に一方的にやられてしまった。
いったいなぜ?
得体の知れない恐怖がじわりとゲットーの体を侵食していく。
本身の刃を突きつけられても動じたことのない身体が小刻みに震える。
恐怖が彼の身体を支配するが故なのだろうか?
いいや、違う。
恐怖で震えているわけではない。
彼は唐突に自分達がとんでもない罠に嵌められていたことに気がついた。
「て、て、めぇら、屋上の温度を下げやがったのか」
「せいか~い! って、不良のくせに思ったより頭いいんだね」
驚愕の声をあげるゲットーの耳に、かわいらしい少女の声が飛び込んでくる。慌ててそちらに視線を向け直してみると、そこには幼稚園児くらいの人影。半袖ブラウスにボウタイ、チェックのスカートとこの高校の制服姿であることから一応高校生なのだろうが、もしもそれらを着用していなかったら絶対自分達と同じ高校生とは思わなかったであろう。
ちっちゃい。
ともかくちっちゃいその少女は、小型犬獣人族。ただでさえ小さい通常のコボルト族よりもさらに小さい一族で、成人しても物凄くかわいらしいことで知られている。それもそのはずで、元々、上位の獣人族の者達の手で愛玩用奴隷として飼われる為に作り出された種族なのだ。
なので、力は弱い、異界の力はない、性格も非常に温厚。可愛い以外に何の取り柄もない種族なのであるが、その最下層クラスの種族の少女が、はるかに上位にあたる種族であるノーブルリザードマンのゲットーを見下すような目で見つめていた。
「なんだ、その生意気な目は!? てめぇ、俺が誰だかわかってんのか!?」
「わかってるにきまってるでしょ。超タバコくさい、でっかいトカゲ?」
「なんだと、コルァッ!?」
スカートから伸びる長くふさふさした黒い尻尾をちまちまと揺らしながら、少女はビシッと短くもかわいらしい指をゲットーにつきつける。そして、そのかわいらしいダックスフントそっくりの顔には、全然似合っていない皮肉たっぷりの笑顔。
自分よりもはるかに劣るはずの小型犬型獣人族の少女に馬鹿にされたゲットーは、拳を振り上げて威嚇しようとする。
だが、彼が思ったようには体が動かなかった。わずかに腕が持ちあがっただけだ。
「ち、チクショウ、寒くて思うように体が動かねぇ」
「ふっふ~ん。高熱には強いあんた達も、寒さだけはどうにもならないようね」
ちっちゃい両腕をちまっと組んだ彼女は、体を限界まで後ろに仰け反らせて見下ろすような気分を存分に味わいながら震え続けるゲットーを見つめる。
そう現在、この屋上の気温は十℃前後。真夏とは思えないほどの肌寒さ。勿論、これは人工的に作り出された気温だ。
元々大陸の北方にあり、夏場であってもこの城砦都市『嶺斬泊』は気温が低い。一応最高気温が三十℃くらいまであがる日もあるが、それもごく稀だ。
その為、本来この気候は変温動物である爬虫類型種族にとって住みやすい環境ではない。本来、彼ら爬虫類型種族は全種族の中でも特に身体能力が高い種族であるはずなのだが、この北方ではその実力を十分に発揮することはできないのだ。
だが、特定の場所においては別である。
その中の一つが、この図書館の屋上の緑の休憩所だ。
この緑の休憩所には『気温自動調節装置』というものが存在している。それは、ある一定の領域の気温を、予め設定した温度に常に保つように自動的に調節する装置。元々は、休憩所に植えられている植物たちの為に、この図書館の管理者であるエンキ・ドード館長がある職人に特注して作らせて設置したもの。設置された当初からある時点までは、常に春から夏にかけての気温に調節されるように設定され使用されていた。
だが、ゲットー達が、ここを占拠してからその設定は一変する。
彼らはこの装置の設定を勝手に変更した。自分達の身体能力が最も高くなる四十℃前後の気温になるように設定を変更し直したのだ。
おかげで、暑さに弱い植物は早々に枯れ果てて休憩所のあちこちに砂場ができ、小川や池は干上がってそこに住んでいた魚達もたくさん死んだ。
緑の休憩所は今、かなり無惨な状態になっているのだ。しかし、それと引き換えにゲットー達は、自分達にとって最強の砦を手に入れた。ここでなら、どんな強敵相手でもそうそうに敗れることはない。ここでの決闘で他の不良グループに負けたことが一度たりともないことが、なによりの証拠だ。
だがそんな無敗記録も、過去のことになろうとしている。
彼が想像だにしていなかったとんでもない方法でだ。
さて、自分達に今まさに敗北の烙印を押しつけようとしているその方法については理解できた。だが、だからといって全て納得できたわけではない。一番ゲットーが納得できないのは、どうやってこの屋上の気温を下げたのかということだ。勿論、その方法はたった一つで、この屋上に設置されている気温制御装置を操作するしかないということはよくわかっている。わかっているからこそどうしても納得できないのだ。
この屋上に設置されている気温制御装置を使えば気温を思うままに変更することは可能である。だがしかし、だからといって誰にでも使える装置では決してない。調節方法は複雑かつ繊細で、普通は複数人の作業者達が丸一日以上かかって調節するのである。素人のゲットー達に至っては、今の気温に調節するまでに一ヶ月近くもの時間を必要とした。
それほどの難しい作業を短時間で終わらせるなどほぼ不可能。余程の熟練者か、あるいはこの装置の開発者の関係者達、もしくはその両方でもない限りごく短時間で調節を終わらせるなど到底無理のはず。
そもそも、彼らは一日中授業をさぼってここに常駐しているのである。装置の側にずっとつきっきりでいるわけではないが、装置は屋上の入り口近くに設置されている。
なので装置を勝手にいじっている余所者がいれば、トイレなどに行くときに通るときに、その目に止まるはずだ。
それとも夜間学校に忍び込んで装置を調節したのか?
ありえない。それなら、朝一番で彼ら自身が屋上の気温の変化に気がついたはず。ついさっきまで間違いなく屋上は砂漠のような暑さだったのだ。
ならば、いったいどんな手品を使ったというのか?
わからない。どう考えてもわからない。
そんな風にどんどん思考の迷宮の中に迷い込んでいくゲットーの姿に、小型犬獣人族の少女がニヤリと笑みを浮かべてみせる(ちなみに全然シブくない。ひたすらかわいいだけの笑顔)
「ふふふ、いいこと教えてあげようか?」
「なに?」
「ここの気温を調節したのはねぇ、私の下僕の一人なのよ!!」
「ひ、一人!? いい加減なことを言うなっ!! あの難解な装置をたった一人で調節できるわけないだろうが」
少女の予想外の答えに、思わず激昂し声を張り上げてしまうゲットー。だが、少女は全く慌てる様子を見せず、突き出した人差し指を『チッチッチッチ』と左右に振って見せるのだった。
「それができるのよねぇ。うちの下僕はね、あんたたちみたいなボンクラじゃないのよ。一緒にしないでくれる。ね、連夜?」
そう言って少女が振り返ると、そこには一人の人間族の少年の姿。
ゲットーはその少年を知っていた。
知っていたが故に、あんぐりと口をあけて驚愕の表情を浮かべる。
「お、お、おま、疫病神宿難 連夜」
御稜高校に通う生徒であるならば、誰もが知っている最低最悪の嫌われ者。
不良達は勿論、不良の天敵である風紀委員からも、一般生徒達からも、そして、果ては教師達からも嫌われている嫌われ者中の嫌われ者。
校内にいる者ほぼ全てが敵という状態であるのに、何故か毎日当たり前のように登校してきて、平然と授業を受けて帰っていく怪人物。
不良達からは当たり前のように毎日のように喧嘩を売られて絡まれる。風紀委員達からは目をつけられて毎日のように指導を受ける、一般生徒達からは無視されたり物を隠すなどの嫌がらせを受けたり。最後の砦ともいうべき教師の中には、それとなく彼に退学を勧めるものまでいるという。
なのに彼は全く堪える様子なく登校してくる。毎日毎日いつもと変わらぬ様子で登校してくるのだ。
不気味だった。ともかく不気味な存在だった。何故これほど劣悪な環境の中にいながら、あれほど平然としていられるのか? ゲットーには全く理解できない。そして、それは彼の仲間達も同じ。
だが、メンツの問題もあるので、一応は何度か因縁をつけようとしたことはあった。
しかし、できなかった。
にこにこと笑っているその表情の中、見通せぬほどに深く暗い闇を抱えた瞳に見詰められると、金縛りにあったように動けなくなってしまうのだ。それはまるでリザードマン一族の天敵である双頭蛇人族に睨まれているかのような、とんでもないプレッシャー。
なので、今までずっとこの怪人のことを避けてきたのであるが、まさか、今日になって突然向こうからやってくるとは思いもよらなかった。
ゲットーは思わず彼の瞳に自分の視線を向けてしまう。
あのときと同じ。そこに映るのは深い深い暗い暗い無明の闇。頭上には燦々と太陽が輝き地上を照らし出しているというのに、その瞳には全く光が映っていない。体は寒くて震えているのに、全身から脂汗が止まらない。
このまま睨みあいを続けていれば間違いなく意識を失う。
精神がガリガリと削られていく音を聞きながら、必死に意識を保ち続けるゲットー。
だが、幸いにもそんな精神的拷問の時間はそれほど長くは続かなかった。目の前の怪人がすぐに視線を彼から外したからだ。そして、何の予備動作もなく彼は走り始める。
一瞬、自分に攻撃を仕掛けるべく突進してくるのではないかと思ったゲットーは、震える体を叱咤して戦闘態勢を整えた。しかし、彼の標的はゲットーではなかった。彼はゲットーの目の前にいる標的をがっちりと捕まえて持ち上げる。
「シャルロッテ、かわいいいぃっ!!」
「きゅわわわわ、ちょ、連夜なにするの!?」
喜色満面の表情で小型犬獣人族の少女を抱き上げた連夜は、思い切り自分の顔を彼女に摺り寄せる。
「いつもいつもいつもかわいいけど、今日は特別かわいいね、シャルロッテ」
「や、やめて、やめなさい、連夜!!」
「何これ、この両耳のピンクのリボン。超かわいいじゃん」
「だからね、私の話を聞きなさいってね、言ってるんだけどね」
「なんかツインテールみたいですっごい似合ってるね」
「あ、あら、そう? 自分でもちょっとイケてるかなぁって思・・・ってそうじゃなくて」
「マルグレーテおばさんのコーディネート? あ、これ首のチョーカーと御揃いじゃん。うっは、超かわいい」
「う、うん、お母さんが似合うからってつけてくれたの。って、だから、私の話を聞きなさい。下僕の分際で生意・・「よしよし、シャルロッテはかわいいなぁ」・・くぅ~ん、くぅ~ん、って、何気に人のウィークポイント撫ぜるんじゃないわよ。気持ちいいじゃない、もっとしなさいよ!! 「はいはい、撫で撫で」・・くぅ~ん、くぅ~ん、って、そうじゃなくて!! 連夜、あんた、私のこと舐めてるでしょ!? ぺろぺろ 絶対私のこと舐めきってるでしょ!? ぺぺろぺろぺろ」
「うわっ、くすぐったいよ、シャルロッテ。ってか、君が僕のこと舐めてるよね!? 精神的にじゃなくて物理的に僕のこと盛大に舐めてるよね!?」
シャルロッテの首筋あたりを絶妙な手つきで撫で撫でする連夜と、かわいい尻尾を全力で振りながら連夜のほっぺを舐めまくるシャルロッテ。
連夜とシャルロッテの間で、いったい何の攻防がよくわからん熱い激闘がいつ果てるともなく続く。
そんな二人の姿をしばし呆然と見詰めていたゲットーであったが、やがてはっとあることに気がついて我に返る。
「けっ、どれだけ余裕があるのか知らないが隙だらけの姿晒しやがって。いくら気温の罠があろうと、いくら相手が疫病神であろうとも、この至近距離じゃ外すわけがねぇ」
未だ止まらぬ体の震えを必死に抑えながら、ゲットーは両腕で軍用ナイフを持ち、腰だめに構える。そして、いまだにじゃれつきあってる目の前の二人に視線を合わせると、その凶刃を振るうべく突進を開始。
「うおおおお、死ねぇやぁぁっ!!」
追い詰められたトカゲの雄叫びを耳にして、ようやく二人は自分達に暴漢が迫っていることに気がついた。きょとんとした表情で自分達のほうに向かってくるトカゲの姿を見詰める二人。
目の前に迫る二人の表情が、自分が手にしたナイフによってすぐに激変するであろうことを予想し暗い笑みを浮かべるゲットー。
そして、その瞬間がやってくる。
肉を打つにぶい音、そして、屋上に響く悲鳴、激変する表情。
ほぼゲットーの予想通り。
ただし、彼の予想とは違うことが一つだけ。
肉を打つ音も、悲鳴も、激変した表情もシャルロッテと連夜いずれのものでもない。
それらは全て、ゲットー自身のものであった。
「ぐぎぎぎぎ」
自分の身に何が起こったのかわからぬまま地面に這いつくばるゲットー。次第に力が抜けて行くなか、なんとか顔をあげた彼が見たものは、目の前に仁王立ちする黒髪と白髪の二人の少女達の姿。
「宿難くんにそんな汚い手で触らないでいただけますか?」
「うんうん。あんたの手、どうみても衛生的な感じしないもんねぇ。滅菌消毒しなきゃ。勿論、手だけじゃなくて全身ね。だよね、ミズキちゃん」
「あら、そんなの当然ですわ。リン、とりあえず早速始めましょうか」
「そうしようそうしよう」
「ちょ、ま、待て、貴様さ、う、うぎゃああああっ!!」
この日、御稜高校四番目の不良勢力であったゲットーグループが消滅。
一年以上彼らに占拠されていた緑の休憩所は解放され、この日以降、以前のように一般生徒達で賑わうこととなったという。