第十五話 『転校生来たりなば、大嵐遠からじ』 その1
いろいろなイベントをクリアし、ようやく家に戻ってきたバグベア族の少年ロスタム・オースティン。
彼は今、疲れた体をぺったんこの煎餅布団の上に横たえ、目を瞑りながら今日一日あった出来事を思い出していた。
十七年というそれほど長くもない人生の中でも、特に濃密な時間となった今日という一日。
ロスタムは、ある目的のために危険極まりない『外区』へと出かけたのだ。その目的とは、南方でしか手に入らない高級果物『高香姫の榴蓮』を手に入れること。彼が所属する高校のクラスの期末テストにおいて、出題された課題をクリアする為にどうしても手に入れなければならない素材だったのだ。
本来、『高香姫の榴蓮』は南方の熱帯雨林地方の気候でしか実らない作物で、普通、彼が住んでいる北方では栽培できない。なので、北方の諸都市は南方の都市からこの果物を輸入していたわけだが、ある事情から南方との交易が現在ストップ。
そのせいで『高香姫の榴蓮』を手に入れることができなくなってしまっていたのだ。
悩んだロスタムは、一縷の望みをかけて真友連夜に相談する。
すると、彼の真友は『高香姫の榴蓮』手に入れる方法があることを伝えてくれたばかりか、取りに行くのを手伝うと申し出てくれたのだ。
申し訳ない気持ちでいっぱいではあったが、他に策もなく彼は藁にもすがる思いで真友の好意に甘えることにする。
こうして、『高香姫の榴蓮』取得の小旅行に出発したロスタム。勿論、何の障害もなく目的のものを手に入れることができるとは思っていなかった。そしてその予想通り様々なハプニングが彼らの前に立ちはだかる。
中には命に関わるような危険なこともあり、正直達成できないのではないかと危ぶんでいたが、頼れる真友と彼の仲間達の協力の元、なんとかたった一日で終了することができた。
正直個人戦の成績はともかく、クラス対抗の期末テストについてロスタム自身はあまり興味はない。ただ、いつも一生懸命頑張っているセラのような少女が報われないのはあまりにも理不尽であると思ったが故に、柄にもないことをと思いながらも今回手を貸すことにしたのだ。
そう、今回の一件、元々の発端はロスタム自身が起こしたものではない。
元々の発端を作り、そして、この件の正式な依頼者は彼のクラス委員長で、麒麟種の派生種、ヘテ族の少女、漢 世羅であった。
クラス同士の諍いの果て、敵対関係にある別のクラスの委員長にまんまと罠に嵌められ、クラスで孤立する彼女を見かねたロムが手を差しのべたのだ。それというのも、ロスタムにはセラから受けたいくつかの恩義があり、それゆえに見捨てることができなかったのだ。
ともかく、ロスタムは目的を達成し、依頼主であるセラにクラスの課題をクリアする為に必要なだけの『高香姫の榴蓮』を手渡すことに成功したのである。
それにしても本当にいろいろなことがあった一日であった。
いろいろなことがあり、そして、いろいろと考えさせられることの多い一日であった。
と、いうか、既に彼の頭の中はこれからのことで頭がいっぱいである。
考えることが山ほどできたから。考えていかなくてはいけないことが本当に本当にたくさんできたから。
今日はゆっくり寝ることはできないかもな、煎餅布団の中でそんな風に考えながら何度も寝返りをうつ。
そんなとき、ロスタムを玄関からの呼び鈴がたたき起こした。
枕元にある時計を見ると、時刻は既に深夜を回っている。
こんな時間にいったいどこのどいつだと思って無視しようと思ったが、あまりにもしつこく鳴らし続けるので、のっそりと起き上がり、玄関へと向かった。
「はいはい、今出るから、そんな呼び鈴連打するんじゃない。・・ったく」
Tシャツの下に腕を入れてぼりぼりと背中をかきながら扉を開けた彼は、そこには一年以上会っていなかった懐かしい顔を見つけて思わず体を硬直させる。
「よ、よっす」
気恥ずかしそうに顔を赤らめて立つ中学校時代の親友が、片手を挙げて挨拶する。
「なっ? えっ? お、おお、おおおおおおっ!? リンか? リンなのか!?」
「あ、うん、俺」
「久しぶりだ。本当に久しぶりだな、リン!!」
「うん、久しぶり」
「よくここがわかったな?」
「わからなかったよ。一応連夜から地図はもらっていたけど、めちゃくちゃわかりにくいからこんな時間になっちゃったよ。もう」
『早乙女 リン』
連夜と同じく中学校時代のロスタムの真友。麒麟種の派生種の一つ、白澤族の少年。
相変わらず雪のように真っ白な美しい髪をしていてその髪の間からは二本の白い角がまっすぐに伸びている、身長はあまりかわってないようで、相変わらず小さい。
が、それ以外の雰囲気は中学校時代の彼とはかなり変わっていた。
いつもしていた黒ぶちの眼鏡は取り外され裸眼になっており、髪は肩を越えるほど長く伸びていて、中学のころはロスタムの髪同様いつもばさばさだったのに、今は奇麗に揃えられて光沢すらでている。
ずいぶんと小奇麗にするようになったなあと妙な感心をするロスタム。
ちょっと気になったのはその小さな体に不釣り合いなくらい大きなボストンバッグを抱えていたことだが、まあ旅行でもしているならありえることなので気にしないことにする。
「とりあえず、あがれ。ここじゃしゃべりにくい」
そういって、顎をしゃくってあがるように指示すると、ロスタムはのそのそと部屋にもどり窓をあけて、えいやと、煎餅布団をたたみ、横においていたちゃぶ台をよっこいせと出す。
「ごめんな、こんな時間に来ちゃってさ。連夜の家に行くことも考えたんだけど、今からまたあいつの家を探すにも念車はないしさ、この辺り宿泊施設らしいものもないし」
「何をつまらない遠慮をしているのだ。かまわんさ。今日はちょっといろいろとあってな、眠れそうになかったのだ」
部屋の様子に気づいたリンが、済まなさそうな表情を浮かべるが、ロスタムは気にすんなというサバサバした表情ですぐ横にある台所に向かう。
「玄米茶しかないが、いいか?」
「いや、それこそ気にするなよ」
「そうか。まあ、とにかく我慢してくれ」
あらかじめ沸騰させて入れておいたお湯の入ったヤカンの保温の札をはがしたロムは、玄米茶の入った急須にお湯を注ぎ込む。そして、しばらく待ったあと、年季の入った二つの陶器でできた湯のみ茶碗にそれを手慣れた様子で入れて行く。
湯のみの底から半分より少し高いくらいの高さまでお茶を入れた後、かなり熱いはずのそれを苦もなく両手に握ってちゃぶ台まで持ってきたロスタムは、無言で一つを親友の前に置いた。
その後どっかりと胡坐をかいて持ってきた熱い玄米茶をすすりながら、久方ぶりの相棒の姿を改めて観察する。
中学校時代、家庭の事情で追い詰められた生活を強いられていた相棒は、いつも瞳に闇を抱え、がりがりで骨と皮ばかりだった身体で無茶ばかりしてるような奴だった。
そんな相棒をロスタムはいつ死んでしまうかとハラハラしながら見ていたものだったが、中学3年生後半になり、その原因も取り除かれ、今彼は穏やかな生活を送っているはずだった。
それを象徴するかのように、いまの親友の顔は丸みを帯び、その表情は穏やかなものになり、ガリガリだった身体にはそれなりに肉がついて緩やかに丸みを帯びた身体付きに変わっている。他にもどこか違和感があるような気がしたが、一年以上も会っていないわけだから、雰囲気が多少変わるのはいたし方なかろうと、そこは気にしないことにする。
とにかく、あの頃死神に取り憑かれていたようだった影はもう彼の中には見えなかった。
そんなロスタムの視線に気がついて、居心地悪そうに身じろぎするリン。
「な、なんだよ・・」
「いや、お前が幸せそうで、うれしくてな。そういうお前の姿を見られただけでも、おまえに会えてよかったと思っていたんだ」
そう言って屈託なく笑うロスタムの表情には、友を案じる真心に溢れていて、リンはそれがとても照れくさくまぶしくて真っ赤になって顔を背けた。
「ば、馬鹿、変なこというなよ」
「変じゃない。あのころのお前は常に死相が出ているような真っ暗な表情だった。いつ死んでしまうかと気が気ではなかったが。今のおまえはほんとに充実した顔をしている。いい面になったな。『人』の面になった」
「もう、いいってば!!」
すっかり照れてしまったリンは真っ赤になった顔を隠すように下を向き、ロスタムはその様子をおもしろそうに、しかし、優しい笑みを浮かべて見つめる。
「ところで、おまえがここにいるということは交易路を通ってきたということだろうが・・大丈夫だったか?」
リンやロスタムが元々いた城砦都市『通転核』からこの城砦都市『嶺斬泊』までは当然のことながら、危険な『外』の街道を通ってこなければならない。一応両方の都市の行政部が直接運営している武装交通旅団に乗って行き来することが可能になっているため、比較的安全ではあるが、ごく稀に『害獣』や山賊に襲われることもないわけではなく、完全に安全というわけではない。
とはいえ、本人はここにすでにここに来ているわけであるから、ほぼ大丈夫だったということはわかっているのだ。
そういうわけでこの問いかけはロスタムなりの社交辞令以上のものはない。
「ああ、平和なものさ。退屈で死にそうだったことを除けばなかなかおもしろい旅だった」
「そうか」
その言葉にずずっと玄米茶を一口すするロスタム。
「で、今は旅行中か何かか? それとも俺に何か用事か?」
何気なく口にするロスタム。
別に特別な気持ちがあって言ったわけではない。
本人としては普通に、聞いてみただけなのだが、なぜか目の前の親友の顔が明らかに曇る。
「用事がなければおまえに会いに来てはいけないのか? 長年の相棒に会いに来るには用事が必要なのか?」
物凄く悲しそうにみつめてくる親友に、妙な違和感を感じながらも、ロスタムは素直に頭を下げた。
「いや、すまん、そういうつもりではなかった。気に障ったのなら謝る。久しぶりに会ったおまえと喧嘩するつもりはないから、できれば許してもらいたい」
その姿にむしろ慌てたのはリンのほうで、ちゃぶ台の向こうでおもしろいほどくるくると表情を変える。
「あ?、ごめん、違う、そういうつもりじゃなかった。おまえを困らせようと思ったわけじゃないんだ。いや、昔の俺ならこんなことでめくじら立てたりしなかったよな」
自分のした結果に明らかに気落ちする親友の姿に、自分と離れている間に確実に何かあったのだとロスタムは悟る。
「やはり、この一年の間に何かあったか」
「うん」
ロスタムの問いかけに、顔を伏せたまま頷く親友。
「言えよ。俺に出来ることが何かあるなら聞くぞ」
「うん、というか、ロムにしかできないことがある」
「俺にしかできない? 連夜にしかできないというならわかるが、はて、俺にしかできないこととはなんだろう?」
二人の共通の親友、宿難 連夜は日常生活の達人で、その手のことならエキスパートと言って差し支えない存在だ。
ロスタムの部屋の掃除や洗濯も彼がたまにやってきてやってくれたりするし、料理も作ってくれることがある。
実にできる男であるわけだが、生憎自分は連夜ほど何かが得意であったりすることはない。
まあ多少勉強とスポーツはできるが、人に教えるのは苦手だ。
そんな自分に何ができるというのであろうか?
しきりに頭を悩ますが解答がでてこないので、目の前の親友の言葉を待つことにする。
「あのさ」
「うむ」
「あの」
「うむ」
中学時代、行動してから考える人間として有名だった目の前の親友。
しかし、目の前でひたすら逡巡している姿の持ち主が本当に同一人物なのか、流石のロスタムも少々自信がなくなってきていた。
が、しかし、人は変わるのだ。
人が変わるのに一年という月日は決して短くないことをロスタムは知っていた。
なぜなら、たった一日で人生観が百八十度変わってしまった自分がいるのだから。
そう考えると、やはり目の前の人物は自分の知る人物に違いないという気になり、ゆっくりと焦ることなく待つことにする。
とはいえ、優しい瞳で親友が切り出すのを待ってみるが、なにやらしきりに照れたように顔を赤くしてどんどん声も小さくなってきている気がする。
余程にいいにくいことなのか、それとも自分の考えがまとまらないのか。
「なあ、リン、焦ることはないから、ちょっと落ち着け。おまえが言いたくなるまでちゃんと待ってるから」
「な!! お、おまえ・・」
気持ちを落ち着かせようと思って言った言葉だったのだが、なんだか余計に混乱させたように、赤い顔で口をぱくぱくさせる親友。
そして、すねたように顔を横に背けた。
「ずりぃよ。なんか一人で勝手に大人になったみたいな顔しやがって。どんどんそうやって一人でいっちゃうんだよな、おまえは。どうせ、俺のことなんて気にしてないよな」
「大人になんかなってないさ。むしろ、如何に自分が無知な子供だったかってことを今日まさに思い知らされたばかりだ。俺は何もわかってなかったんだなぁってな」
イラついて当たるように言った言葉なのに、ロスタムは全く怒る様子も見せずに、自嘲気味に笑うと心からの讃辞と羨望を込めてリンを見返すのだった。
「それに比べれば恐らくおまえのほうが大人だろうよ。何かはわからないが、おまえはこの一年、俺には想像もできないような体験をしてきたらしい。それが何なのかは俺にはわからないが、それでも並大抵のことじゃなかったことはいまのお前の顔を見ればわかる。と、いうか何かを乗り切ってここに来た感じがするんだ。まあ、俺が勝手に思い込んで勝手に解釈してるだけかもしれんがな、それでも、お前は俺よりもずっと大人になったように見える」
「・・ぃゃ・・」
「ん? どうした?」
ロスタムの言葉を聞いていたリンが顔を下に向けて、黙りこんでしまった。
その様子を怪訝に思ったロスタムが覗き込むように近づいて肩に触れようとすると、リンがガシッとロスタムのTシャツの襟元を両手でつかんだ。
そして、顔をあげたリンの表情はくしゃくしゃになって、その瞳からは涙がこぼれそうになっていた。
「おい、リン、どうした!? 何か俺はおまえを傷つけるようなことを言ったか!?」
「いやだ。いやだよ、ロム。なんで、おまえそんなこと言うんだよ。そんな遠くから見つめるように俺のこと見るんだよ」
「リン?」
「いやだよ。俺を置いて行くなよ」
血を吐くように呻く親友の目からはもう、涙がこぼれおちてしまっていた。
そんな親友の姿を絶句して見つめるロスタム。
「俺、おまえがこっちに引越してから、ずっと思ってた。いつか、いつかは俺達の道は分かれてバラバラに歩いて行くことになるから、高校進学で離れていくことになったのも、たまたまそれが早く来たんだって思おうとした。でも、だめだった。いやだった。おまえがいなくなって、俺初めてわかったんだ。自分の気持ちが。でも、このままじゃダメだって思った。このままもしおまえを追いかけても、結局は、いつかバラバラになっちまうって。俺がこのままの姿のままお前を追いかけてもダメだって、でも、会いたかった。すげぇ会いたかった・・毎日おまえのことだけを考えた。連夜じゃないぜ。おまえのことだ。おまえのことだけ考え続けた。おまえの側にずっといることができる俺になるために、俺はずっと考え続けた。一年間ずっと俺は待ったよ。それで、やっと言えるんだ。俺は胸を張ってやっとおまえに言うことができる」
そういうと、リンはTシャツを掴んでいた手を放して、代わりにロスタムの無骨な手を取る。
「?」
いったい何事かと訝しむロスタムの手を見つめていたリンは、涙のあとがくっきりと残る顔に男性ではありえないような妖艶な笑みを浮かべてロスタムを見た。
それをまともに見てしまったロスタムの背筋に何かが走る
「これが、俺の出した答え。お前とずっと一緒にいるための俺。ううん、私だ」
そういったリンは、自分の手でロスタムの手を引っ張ると、自分のTシャツの中に入れて胸にあてた。
『むにゅ』
男性にはありえない、いやあるはずのない豊かな肉厚の感触がロスタムの掌にあたる。
リンは、慌てふためき狼狽する親友の姿を確信し、妖艶な笑みをさらに深くする。
しかし、その予想は大きく外れる。
確かに、もしこれが昨日までのロスタムならそうなったであろう。
リンの予想通り、慌てふためき狼狽し、わけのわからないことを口走っていたかもしれない。
だが、ロスタムは既にリンの知るロスタムではなくなっていた。
ロスタムはゆっくりとため息を吐き出すと、自由なもう片方の腕で自分の手を持つリンの片手をそっと放させると、シャツの中から手を出して、そっとその衣服を直してやる。
「そうか。そういえば、おまえ、自らが決めた配偶者にあわせて性別を変える麒麟種の白澤族だったな。俺の性別にあわせて女性に変化してくれたのか。すまなかった。真剣に俺のことを思ってくれていなかったらそんなことできないってことはわかるし、性別変化がどれほど苦痛なことか俺なんかには想像もできないことだが、それでも俺のためにしてくれたということは素直にうれしい、ありがとう」
ロスタムはそういう親友の心意気に素直に感謝し、漢らしく土下座して礼を述べる。
「それで、俺はどうすればお前の心に報いられる?」
気負うでもなく、押しつけるでもなく、自然な表情でじっとみつめてくるロスタムを、今度こそ驚愕の表情で見つめるリン。
自分の予想とは全く違う、むしろ予想だにしていなかった展開に、完全にとまどいおいてけぼりになってしまった自分を感じながらも、リンは口をパクパクさせるだけで、何も言うことができずにいた。
今、リンは心の中で絶叫していた。
(いったいこれは誰だ!? 俺が好きになった相手はもっとこう、自分に近い存在だったはずだ!! 俺と同じくらい無茶をやり、俺と同じくらい考えなしの奴だったのに。今のこいつは、完全に別人じゃないか!!)
そう、心の中で絶叫しながらも、前よりももっと好きになっている自分にも気がついて余計に心の中が収拾つかない。
(なんでだ? どこで作戦を間違ったんだろう?)
しきりに腕組みをして唸りだした親友の姿を不思議そうに見つめるロスタム。
そんな親友をやれやれと優しい瞳でみつめながらも、ロスタムは今日、ある人に言われたことを思い出していた。
『別にそれは将来的にじゃなくてもいいんじゃないか』
ロスタムは、昨日まで自分の境遇にいろいろなものを諦めて生きてきた。他の人達のようには生きられない、他の人達と同じものを望んで生きてはいけない、他の人達が進む道とは違う道を選ばなくてはいけない。だから、彼は誰にも迷惑がかからないように、大きな体をできるだけ小さくして、多くを望まないように、人の中心から大きく外れた場所に自分の場所を作って生きてきた。
だが、それは違うと言ってくれた『人』がいる。
他の人達同様に、『今』を選んでいいのだと手を差し伸べてくれた『人』がいる。誰かの為に道を譲ることも大事だ。いつかの為に今を諦めることも大事だ。だけど、自分の為に道を選ぶことも大事なのだと、今を諦めないこともまた大事なのだと教えてくれた『人』がいる。
その『人』が、いや、その『人』達がこんな自分に手を差し伸べてくれた。
結果的に自分から掴むことはできなかった。しかし、その『人』達自身が彼の手を握って掴みあげてくれたのだ。
すると、途端に世界が広がった気がした。
別に特別な考えが浮かんだわけではない。劇的に人生が変わったわけではない。自分自身が超人や偉人になったわけでも当然ない。
だけど、彼の中の世界は間違いなく変わったのだ。そして、その変化は間違いなくこれからもっと自分を変えていくであろう。ずっと自分は古い今までの自分を捨てられないと思っていた。だけど、意外とすんなり新しい自分を受け入れようとしている自分がいることに気がついたのだ。
だから、リンの言葉もストンと自分の心の中に落ちて行った。
リンのことは嫌いではない。
嫌いだったら真友ではいなかっただろう。
だが、勿論異性としてすぐ好きになれるかと言われれば、ちょっと考えることになるだろう。
しかし、否定することもないと思った。
恋愛をしたことのない自分にとって、今真友に向いている気持ちが『好き』なのか『愛』なのか『情』なのかわからないが、ともかくそこになんらかの良い想いはあると思う。
だったら、できるだけ受け入れて、その想いに答えてみようと考えた。
それだけだった。
とはいえ、なぜか答えを要求してきたはずの真友のほうが、返答に困っているというなかなかおもしろい状況に、ロスタムは苦笑を浮かべた。
まあ、この調子だとまだまだ答えが出そうにない。
壁にかけてある時計をみるとそろそろ明け方に近い時刻だった。
「なあ、リン。ちっと朝飯買いに行くか」
「へ? え?」
「なんか腹が減ったわ。コンビニくらいなら、この時間でも空いてるだろうし。おごってやるから一緒に行こうぜ」
よっこいせと立ち上がったロスタムのことを赤い顔でしばらくぼ??っと見つめていたリンだったが、ロスタムが早くも玄関に向かうのをみて慌てて立ち上がって追いかける。
「あ、うん、行く。行くけど、別におごってくれなくていいよ。自分で出すよ」
「遠慮するなって。今日は臨時収入があってな、懐が温かいのさ。だいたい、中学時代、いっつも遠慮なくタカってきていただろうが。それこそ今更だ」
「そ、そんなことないって。いつもじゃなくてタマにだったじゃん。えっと、大体三日に一回くらいか、二日に一回くらいだったかな」
「それをいつもというのだ」
「にゃあああっ!! うっさいうっさい!!」
顔を真っ赤にして怒り声を挙げながら、たたたっとこちらを走ってくる親友の姿を何気なく見ていたロスタムだったが、このときになってようやく再会したときから感じていた違和感の正体に気がついた。
あまりにも似合いすぎていて思考がスルーしていたらしい。
真友はズボンではなくミニスカートをはいていた。
靴をはいていたリンはそんなロスタムの視線に気がついてきょとんと見つめなおした。
「なに?」
「いや、スカート似合ってるなって」
「あ、う、バカ。でも、ありがと」