第十二話 『友者達』 その7
彼の眼前に立ちふさがるのは今年二十歳になる一人の戦士。
夜空に輝く満月の光にも似た美しい金髪に金色の瞳、そして、日焼けして褐色に近い肌。
彼よりは若干低いものの百七十八ゼンチメトルと決して低くはない身長。
体格は一見細身に見えるが、見た目通りの貧弱な体ではないことを彼は知っている。
その衣服の下には、たゆまぬ武術の鍛練によって生み出された鋼鞭のような見事な肉体が存在しているのだ。
フェリペ・S・ファルネーゼ
通り名は『F』
幼きの頃から一緒に育ってきた、彼と血の繋がらない兄弟姉妹の一人。
極東の島国を発祥の地とする『雷獣』というかなり特殊な獣人族の出身。
彼にとってかけがえのない親友であり戦友であると同時に、最大最強のライバルでもある。
同じ師匠の下で武術を学んで来た彼らは、時に励まし合い、時に競い合うことでお互い切磋琢磨して己の技量を高めてきたのだ。
物心ついてからすぐに武術を学び始め、以来十数年。
彼とFは何度も何度も拳をぶつけあい、そうすることで自分達の技量を確かめあってきた。
勿論、そこに憎しみや恨みはない、ただ純粋なる闘争心と、お互いに負けたくないという意地があるのみ。
それだけに彼らは、他の兄弟姉妹達以上に互いのことをわかりあっている。
しかし、今回だけは今までと少しばかり戦う理由が違っていた。
いや、F自身は今までとなんら変わらぬ理由で彼の目の前に立っている。今まで通り、積み重ねてきた己の研鑽の結果を確かめるべくその拳を振るおうとしている。
だが、相対して立っている彼は違っていた。
ある一つの決意を秘めて、彼は今ここに立っている。
彼の名はジョージィ・ジャッキー・S・スン
その通り名は『J』
彼の目の前に立つ『F』と同い年の二十歳の拳士。
『霊山白猿』族という、彼もまた特殊な獣人族の出身であった。
限りなく猿に似た容貌。
それも普通の猿ではない。
南方に生息するという獰猛な肉食猿マンドリルに非常によく似た凶暴な面構え。
ギラギラと光る碧い瞳、へしゃげたような低い鼻、そして、横一文字に引き締められた口からは、大きな牙が突き出ている。
あちこち破れてぼろぼろになった黒い道着から見える手足のほとんど全てが、灰色に近い白い獣毛で覆われ、文字通りのけむくじゃら。
身長は二メートルを超える大柄で、上半身は異常に大きく、その上半身に比べると、下半身はかなり小さいと言えるかもしれない。
腕が異様に長く大きいのに対し足が異様に短いのでそう見えてしまうのだ。
だが、決して貧弱というわけではない。
一般的な『人』の体型から見ると、確かにその足は短かったが、恐ろしいほどに太い。
見る人が見れば、その下半身が凄まじいまでの鍛え方をされているのに気がついたであろう。
ともかく異形。
誰が見ても異形としかいいようのない姿の持ち主。
それが『J』であった。
彼は今、彼の最大のライバルであり、最高の相棒でもある乳兄弟『F』と真剣勝負を行おうとしていた。
これから行うことになる『J』と『F』の真剣勝負。勝敗は関係ないとは言わない。勝利をものにすることは勿論重要ではあるが、しかし、今回はそれ以上に重要なことがある。今回の真剣勝負・・これは、恐らく『F』との最後の戦いになるということだった。
いや、いつかまた拳を交えるときはくるかもしれない。だが、そのとき彼と『F』との関係は確実に変わっているはずなのだ。少なくともその拳の重さは今とは格段に違っているであろう。どちらが重くなり、どちらが軽くなっているかはわからないが、恐らく今とは全く違ったものになっている。
いや、それでなくてはならない。そうなるために、幼き自分と決別するために、一人の男として歩き始めるために、彼はけじめの拳を握る。
己の大切なものを守る為に、時に『人』は『鬼』とならなければならない時がある。
そのためにも。
明日から『鬼』となって生きて行く為に、『人』として最後の拳を握りたいのだ。
「J」
「む、なんだ?」
相棒のいつにない並々ならぬ気迫に気がついた金髪の麗人が、彼のほうに怪訝そうな視線を投げかける。
「今日はやけに気合いが入ってるな? 『今日こそは』ってやつか? まあ、それでも俺が勝つのだけどな」
今一つわけがわかっていないのか、『F』は苦笑を浮かべながら彼を見つめいつもの調子で話しかけてくる。いつもと変わらぬ自然体。何も知らない素人が今の『F』を見れば、お気楽極楽で隙だらけな感じに見えるだろう。
だが、ある程度の熟練者であるならば、すぐに気がつくはずだ。隙だらけに見えるその自然体の中に、一切の隙がないことを。
緩やかに吹き抜ける春の風の如き闘気。硬質さも尖った様子も全くないが、しかし、一歩でも『F』の制空圏に飛び込めば、たちまちにしてその風は雷を纏って嵐となることを『J』はよく知っていた。
強い。
『F』はかなり強いのだ。
『F』は『J』のことを常々『ライバル』と公言している。
しかし、『J』自身は口に出してこそいないが、そうは思っていなかった。そう言える立場であったのは小学校までの話だと思っているのだ。
中学に入ってから『F』の武術の腕はぐんぐんと伸び始め、逆に彼は伸び悩み始めた。
勿論、『J』とてさぼっていたわけではない。
離されるわけにはいかない。
『F』に悟られないように、何倍もの修練を己に課して必死に努力を続けた。
だが、そんな彼の努力をあざ笑うかのように、拮抗していた彼達の対戦記録は徐々に変化し始める。勝率五割であったものが、中学入学時には四割となり、卒業時には三割となり、そして、社会人となって実戦を経験するようになった今では、二割を切る・・つまり、ほとんど勝つことができないほどに実力に差がついてしまっていた。
その無情な事実は彼を存分に打ちのめした。
彼は『F』に勝ちたい一心で、これまで以上に熱心に修行してきたつもりなのだ。
そして、その逆に『F』は、就職先の素材狩り旅団の副団長となって、経営や事務作業に従事する時間が増えて、修行する時間はどんどん少なくなっていったはずなのに。
にも関わらず、彼は『F』に勝てなくなってしまった。天賦の才が『F』にあったのか、それとも単純に彼が弱いだけなのか。あるいは種族の差か、強さを求めることの覚悟の差なのか。
ともかく、あまり認めたくはないのだが、『F』は強い、はっきり言って自分よりも強い。
『J』の中の冷静な自分が、はっきりと、だが無情にそう宣告する。
このままではいけない。
こんな状態に甘んじていては絶対にいけないのだ。
そもそも『F』と自分との差は強さだけではないということを、『J』は嫌というほどよくわかっていた。
容姿のことについては端から勝負にならないのでこれについておいておく。
どこぞの貴公子か王子のような美麗としかいいようのない容姿で、男女ともにモテまくる『F』に対し、蛮族のような姿に粗野な言動でまったく女に近寄られることのない自分では到底勝負になぞならない。これについては最初から気にしていないのでとりあえず除外するとして。
『F』はともかくデキル存在であった。
幼い頃から自分よりもはるかに頭がよく、社交的で、なんでもできる存在であることを『J』は認知していたが、それがはっきりするようになったのは、彼らの中学卒業後のこと。
大家族を養っている家に、少しでもお金を入れるために、『J』と『F』は高校進学を諦め、知り合いが経営している素材狩り専門の武装旅団に就職した。
二人とも小さい頃から武術を習っていて、大人顔負けの実力を持っていたため、すぐに旅団内で頭角を現しだしたのだが、『F』の出世スピードは『J』のそれをはるかに凌駕するものであった。
彼らが所属している素材狩り専門旅団『ルルイエ』で、若干二十歳であるにも関わらず、彼はその副団長に任じられたのだ。
学校で勉強したわけではないのに、彼は、旅団の経営の仕方や会計事務仕事に非常に有能で、旅団に入団当初から積極的にそういった仕事を自ら手伝い、先輩達からその技術や知識といったノウハウを吸収。
今や、旅団の事務関係を一手に管理する司令塔として活躍している。
事務だけではない。
営業や交渉能力も抜群である。
自分の容姿を最大限に活用し、もぎとってきた上客お得意様は数知れず。
戦いしか能がない『J』とはまさに天と地の差が開いてしまっているのだ。
それ故に、彼は決断したのだった。
このままこの相棒の側にいれば、いずれ完全におんぶにだっこのただのお荷物になってしまう。
それを避けるためにも、自分はもっと強くならねばならぬ。
そのためにも・・
『J』はゆっくりと腰を落とすと、左腕の掌底を突きだすように、右拳を腰のあたりにためるようにして半身に構えをとる。そして、眼前に立つ乳兄弟へ鋭い視線を向けるのだった。
「お、やる気満々だな、J。じゃあ、そろそろやるか」
余裕に満ちた笑顔を浮かべて『J』の姿を見つめていた『F』だったが、やがて、膝を心なし曲げ両手をだらりと前に突き出すようにした独特の構えを取る。
『八双の構え』
相手のあらゆる攻撃に瞬時に反応し、反撃するための構え。非常に有用な構えではあるが、相当に実力がないとなんの意味もない構え。しかし、『F』が構えるなら、それは鉄壁の構えとなる。
『J』は、何度もこの構えの『F』と戦い、敗北を喫してきたのだ。だから、この構えが決して伊達でも酔狂でもハッタリでもないことをよくわかっている。
深くゆっくりと呼吸を整え、彼は自分の中に力をため込んでいく。彼の体内のエンジンがスタートしたことを確認し、ニヤリと不敵な笑みを浮かべて見せる『F』。
「行こうか、兄弟」
自分の中で今日で最後と決めたせいなのだろうか、自分でも不思議なくらいに穏やか気持で『J』は目の前の強敵に呼びかける。すると、彼の顔を見ていた『F』が一瞬きょとんとした表情をしてみせるのが見えた。
「どうした、F?」
「え? あ、いや。やっぱりなんか今日のJは変だな? どうした、何かあったのか?」
「いや、別に。なんでだ?」
「いつものJだったら、熱血モード全開で雄叫びの一つもあげているはずなのに、今日はやけに静かだから」
困惑した様子を隠そうともせず小首を傾げる『F』。しかし、そうした様子を見せながらもわずかの隙も見せようとしない。
その様子を見ていたJは、心の中で苦笑をもらす。
(いろいろな意味で、本当にこいつは凄いやつだと思う。オレの心境の変化を見逃すこともせず、だからといって、油断するわけでもない。やれやれ、このままだと本当にこいつはオレの手の届かないところにいっちまうんだろうなあ。だけど。だけど、まだそのときではない。まだ、この拳は届く、いや、届くはずだ)
口には出さない。
だが、心の中でそう断じたJは、碧く光るその双眸を目の前の強敵へと向ける。
「こういう日だってあるってことさ。それよりも、始めるぞ。殴られた後で『不意打ちだ!』とか見苦しいこと叫ぶなよ?」
「やれやれ、やっぱJはJだな。一応言っておくが、そういうこと言うのは小学校の時に卒業したから心配するな。遠慮なくかかってくるがいい」
肉食獣の笑みを浮かべてほほ笑みあう『J』と『F』。もう、言葉はいらない、あとは拳で語るだけだ。
二匹の獣の間の空気が一瞬にして凍りつくと同時に燃え上がる。
城砦都市『嶺斬泊』の中にある閑静な住宅街の一角。
それなりに大きな屋敷の広い東方庭園の中。
黒と蒼の道義を身に纏い対峙する霊山白猿族の巨漢と雷獣族の麗人は、青々と茂る芝生の上をじりじりとすり足で間合いを詰めていく。
リーチは巨漢のほうが長い。とはいえ、常にカウンターを狙っている麗人に対しては、アドバンテージにはならない。しかし、だからといって麗人の制空圏まで黙っているわけにもいかない。
まるで難解な詰将棋の解答を探すように、何度も何度も頭の中で奴への最初の一撃をシュミレートしてみるJ。
だが、どう考えてもスッキリした答えは出ない。
(まあいい。どうせ頭の悪いオレが考えたところで大していい答えが出るはずがないのだ)
Jはわざとニヤリと笑みを浮かべて見せると、右拳に力を込めていく。
狙うは風の如き速さで繰り出す正拳突き。
あれこれ考えるよりも、まずは最も自信がある一撃を放つ。あとのことはあとで考えればいい。
そう決断したJは徐々に近づいてくる最強のライバルに、決意の視線を向けると渾身の一撃を放つべく最後の一歩を踏み出そうとした。
今こそ
決着の時!!
と、思われたのだが。
絶妙なタイミングで、彼らの闘志を根こそぎ奪い取るかわいらしい声が!!
「えてきちにいたん、えてきちにいたん」
一瞬にして動きを止める『J』と『F』。
『J』はゴーレムのようなぎこちない動きで後ろをそ~っと振り返る。するとそこには、彼のズボンをちっちゃい手で掴む草原妖精族の子供の姿が。
それは今年五つになったばかりの弟のポポ。
可愛らしい顔を彼のほうに向け、鼻水をびろ~んと垂らしながら何かを言いたそうに見つめてくる。
「ど、どうした、ポポ? おやつか? ってか、その呼び名はやめなさいって何度も言ってるだろ!?」
調子狂うなあと思いつつも、かわいい弟を無下にすることはできないJ。
彼は自分でも引き攣っているとわかりながらも、どうにかこうにか笑顔を浮かべて小さな弟に問いかける。すると、ポポはそのちっちゃい首をぷるぷると横に振って見せ、ズボンを掴んでいないほうの手で縁側のほうを指さしてみせるのだった。
「ううん、あのね、あのね」
「うんうん、どうした? 何かあったのか?」
「のんたんがね、ウンチして泣いてるお」
「ああ、そっか、希ウンチしちゃったのか・・って、なにいいいいいっ!!」
ぎょっとした表情を浮かべたJが縁側のほうに視線を向けると、かすかにだが赤ん坊の泣き声らしき声が聞こえてくるではないか。彼は勝負を放り出して縁側のほうへと慌てて駆け出していく。
「ンア・・ン・・ンア・・」
すぐに縁側に辿り着き、声の聞こえてくる引き戸の影の方に視線を向けてみると、そこには小さな小さな女の子の赤ちゃんの姿。多分、ひなたぼっこさせてやろうと家族の誰かが置いてやったのだろうが、運搬用のかご型ベビーベッドの中でその子は一生懸命に泣いていた。
しかし、声が小さい。
あまりにも小さな声。本人は力一杯泣いているんだろうが、注意していないと小さくて聞こえないほどに小さな声。
未熟児として生まれて来たせいか、これまで両親が引き取ってきた兄弟姉妹の中ではダントツに小さい妹。
「ごめんな、希。兄ちゃんすぐに気がついてやれなくて。すぐにおしめかえてあげるからなあ、ちょっと待っててくれよなあ」
そう言って彼は裸足のまま家の中にあがり込むと、急いで植物製おむつと尻拭き用消毒葉を持って戻ってくる。そして、妹をかごの中から出してやり、おしっことウンチだらけになってしまったおしめを素早く取り外し、ぷるんとしたかわいいお尻を尻拭き用消毒葉で奇麗にしてやるのだった。
「これですっきりだぞ~、希」
お尻が奇麗になって満足したのか、妹はようやく泣きやんでくれた。そして、心配そう様子で覗きこんでいるポポに、ご機嫌に笑いかけている。
やれやれ、よかったよかった。と、拭き残しはないかと最後のチェックをしていると、今度はまた別の方向からJの道着が引っ張られる。
「えてきちにいたん、えてきちにいたん」
後ろを振り返ってみると、Jの道着をかわいらしい手で掴む南方屋敷妖精族の子供の姿が。今年小学校一年生になったばかりの妹のゆかりだった。リンゴのように赤く丸いほっぺが特徴的な彼女は、何かを言いたそうに彼のほうを見つめてくる。
「な、なにかな、ゆかり? 遊んでほしいのか? ってか、おまえらな、その呼び名はやめなさいって何度も言ってるだろ!? エテ吉兄ちゃんじゃなくてジェイ兄ちゃんだろ?」
なんだか嫌な予感がするなあと思いつつも、かわいい妹を無下にすることはできないJ。
彼は自分でも変な顔になっているとわかりつつも、なんとかかんとか笑顔を浮かべ小さな妹に問いかける。すると、ゆかりはその小さな首をぷるぷると横に振って見せ、道着を掴んでいないほうの手で部屋の中を指さしてみせるのだった。
「ううん、そうじゃないの」
「え、違うのか? 何かな? 何かあったか?」
「ちゃ~ちゃんとちゃ~ぽんが、ミルクほしいって泣いてるよ」
「ああ、そっか、チャーミンとチャッピーはミルクの時間か・・って、なにいいいいいいっ!!」
ゆかりが指さす部屋の中のほうに視線を向けると、ゆかりよりもほんの少しばかり大きい身長の二人の子供達の姿。子供達はその腕に、生まれてから半年たったばかりの赤ん坊を一人ずつ持っていて、盛大な泣き声をあげ続ける赤ん坊達を必死にあやしているではないか。
「ちゃ~ちゃん、お願いだから泣きやんで~」
「ちゃ~ぽん、ごめん。僕、ミルクの入れ方わからない~」
霊山白猿族の巨漢はしばし呆気にとられてその様子を見つめていたが、赤ん坊達をよしよしと慰めている子供達のほうが今にも泣きだしそうになっていることに気がついて我に返る。そして、目の前の希に素早くベビー服を着せてやったあと、幼い子供達のほうへと駆け寄ったのだった。
「シェリル、ロック、二人とも、子守御苦労さん。よく頑張ったなあ」
「「Jにいちゃん!!」」
Jが声をかけてやると、二人の子供達は涙目になりながらこちらに駆け寄って来る。そんな二人の子供達の身体を、彼はひしっと抱きしめてやるのだった。
今年小学校三年生になった俺の双子の弟妹 深緑森妖精族のシェリルとロック。そして、この子達の腕の中にいる赤ん坊達は、ドワーフ族のチャーミンとノーム族のチャッピー。みな彼とは血が繋がっていない。
しかし、みんな大事な彼の弟妹で家族達だと、Jはそう思っているのだ。
「子守をしてくれたのは本当にありがたいけど、お前達にはちょっとまだ厳しいだろう? リリー姉さん達はどうしたんだ?」
「ぐすんぐすん・・お買いものに行っちゃった」
「あ~、そっかそっか。泣くな泣くな。なっ、なっ。しかし、ほかにもほのかやジュリーや、ハヤテやショーン達がいるだろうに、何やってるんだ、あいつら・・」
「ほのか姉ちゃんやジュリー姉ちゃん、ミリー姉ちゃんやしょうこお姉ちゃん達もみんな、リリーお姉ちゃんといっしょに買い物に行っちゃった」
「あちゃ~、女性陣全員出陣しちゃったのか」
「ハヤテ兄ちゃんやショーン兄ちゃん、ガス兄ちゃんやブルー兄ちゃん達は『ぶかつ』があるからって、朝のうちに出かけちゃった」
「あ、あいつら~~!! 『ぶかつ』するなとは言わないが、休みの日はきちんと交代制で弟や妹の面倒みろっていっておいたのに!! 帰ってきたら全員ぶっとばす!!」
安心したせいで一気に涙腺が緩んだのか、盛大に泣き始めるシャリルとロックの頭をよしよしと撫ぜて慰めてやりながら、Jはこうなることを予想して家から脱出した年長組の弟達に怒りの炎を燃え上がらせる。
懸命な読者諸氏の皆さまにはすでにお察し頂いている通り、『J』や『F』達一家は大家族なのである。
それもこの家の大黒柱たる両親と、『J』達兄弟姉妹全て合わせて総勢四十八名の堂々たる特大の大家族。
当然であるが、この大家族を養っていくためには先立つものが必要になる。そういうわけで彼らの両親は毎日汗水垂らして一生懸命に働いてくれているわけである。
一応二人とも結構その道では有名でそれなりの稼ぎを毎日叩きだしている。ちなみに決して裏稼業で稼いでいるわけではない。
父親は傭兵が使う『道具』を作るための材料を『外区』に行って集める仕事を。
母親は都市の中央庁が経営している大病院に勤めている外科の御医者さんを勤めている。
両親だけではない。
一家の長女たる美咲・S・キャゼルヌは中央庁のエリート官僚としてバリバリ働いているし、『J』達年長組も、それぞれの特技を活かせるところに就職し、家に少なくない稼ぎを入れて両親をサポートしているのだ。
まあ、おかげで幼い弟妹達は住むところに困ることもなく、着る物がないわけでもなく、そして飢えることもなく生活することができている。
しかし、反面忙しすぎて家に帰ってくることがほとんどできない状態なのである。
いや、これだけの大家族を養うのだから、当然相当働かないと追いつかない。
自然とそうなるのが当たり前なのである。
だが、そうなると子供達の面倒は見れなくなってしまう。
では、誰が面倒みるのか?
当然、働いていない年長組の仕事である。
彼ら兄弟姉妹の中には、『J』達とは違い、進学の道を進む者達もいるのである。
それが、今年二十四歳になる二女のリリーを筆頭とする在宅組の兄弟姉妹達で、彼らが小さな弟妹達の面倒を両親に代ってみるわけだ。
幸い、彼らのリーダーであるリリーは家事全般が非常によくできる人物で、また、性格的にも子供好きなうえに世話好きの優しい性格であるため、小さな弟妹達は彼女に懐き、いまのところ大きな問題が起きることなく、家の平穏はきっちり守られている。
が・・
だからといって、家のことを全てリリー一人に全部押し付けていいわけがない。家を支えるリリーという支柱には及ばなくても、手の空いている者は率先してリリー自身を支えなくてはならない。
現在この家にいる十五歳以上の者で、在宅組に所属しているものは、リリーを除いても十人もいる。
勉強は確かに忙しいだろう。友達との付き合いもあるだろう。部活動などの勉強以外のことでも時間が必要な場合もあるだろう。
だがしかしである。
それだけの人数がいながら、男連中が一人も残っていないのはどういうことなのか。
まあ、女性陣はいい。食料をはじめとするさまざまな生活必需品の買い出しという大事な任務に出かけたというのなら、それは致し方ない。リリーも一人でこれだけの人数の食糧やらこまごまとした雑貨を買うのは大変すぎる。むしろ女性陣は大いにリリーの助けになっているはずなので、そこはいい。
だが、許せないのは男性陣である。
(『部活』に出かけただとおお!? 確かに学校行事をないがしろにしてはいかんとは言ったが、誰が幼い弟妹達を放り出していいと言ったか!? 普通、一人か二人は心配して家に残るだろうが!? それなのに全員出かけてしまうとは何事だ!? 許さん。あいつら帰ってきたら全員鉄拳制裁だ!!)
勤めて表情には出さないが、心の中では烈火のごとく怒りの炎が燃え上がっているJ。
自分の腕の中でぐすんぐすんと鼻をならしてかわいらしく泣き続ける弟妹達を脅かさないように、必死に怒りに震える手を抑えて弟妹たちの小さな頭を優しく撫ぜる。
「Jにいちゃん、Jにいちゃん。ミルクどうやったら作れるかな?」
家から逃亡した年長組の弟達に怒りの炎を燃やしているJに、シェリルとロックが涙と鼻水を流しながら声をかけてくる。ミルクを欲しがって泣いている妹達に、なんとか自分達でミルクが作れないかと聞いてくるのだ。
(なんて賢くて弟妹思いの子供たちなんだ。泣かせるじゃないか。自分達も小さいのに、妹達の為に一生懸命になってさ。なんてよくできた妹と弟だろう。よしよし。それに比べて、あいつらは~~~!!)
更に膨れ上がる怒りに身を任せてしまうところだったJであったが、寸でのところで気がついて心を鎮める。
そして、心配そうに赤ん坊を抱きしめ続けるシェリルとロックの頭を撫ぜておいて彼は急いで洗面所へと向かった。
手を洗うためだ。
さっき希のおむつを替えたせいで彼の手はバイ菌だらけになってる。よく洗っておかないと、ミルクを作るときに大変なことになってしまう。
彼は家に常備している強力消毒石鹸を自分の手に万遍無くすりつけて水道の水でよく洗い流す。
そのあと台所に向かい、消毒液につけてある哺乳瓶を木製の大きなペンチで取り出すと、そこに粉ミルクを入れてポットからお湯を注ぎ込む。吸い口を兼ねた蓋をしっかりとしめて軽くふり、中の粉が溶けるまで回し続ける。その後、水道の蛇口をひねって水を出し、特殊ガラス製の哺乳瓶を水につけてよく冷やすのだった。
「もうちょっと待ってくれよな、すぐにミルク作ってやるからな」
霊山白猿族の兄の大きな大きな背中にぴったりとくっついてくる小さな弟妹達。
そんな小さな弟妹達にできるだけ優しい表情で話し掛けた彼は、大急ぎで哺乳瓶を冷やし続けるのだったが。
ふと、視線を縁側のほうに向けてみると、そこには一人御茶を飲みながらくつろいでいる一人の麗人の姿が。
「てっめぇ、『F』、何一人で寛いでいるんだよ!? んなところでボケっとしてないで、こっちきてミルク作るの手伝いやがれ!!」
「へ? え? あ、そ、そうか」
『J』の怒声で初めて気がついたという顔をした『F』は、慌ててこちらにやってくる。
(悪い奴じゃないんだけど、家事全般のこととなるとどうにも気がまわらないんだよな、こいつ。経営とか事務とか戦闘とか営業とか交渉とか、大抵のことはソツなくこなせるのに、なんでこういう家事全般とか、子供の世話とかはダメなんだろう?)
ほとほと呆れ果てたという表情で溜息を吐きだしたJであったが、ふと目についた光景にぎょっとして慌てて立ち上がる。
そして間一髪のところで、素手で哺乳瓶を消毒液の中から掴みだそうとしていたFの腕を、Jは哺乳瓶を持ってないほうの腕で慌てて掴んで止めることに成功した。
「ちょ、ちょっと待て『F』。おまえ、消毒液の中にそんなばっちい手を突っ込もうとするんじゃねぇっ!! ちゃんと哺乳瓶を取るためのペンチがあるだろうが。それにおまえ手を洗ってねえだろうが」
「え、洗わないと駄目なのか?」
「あったりまえじゃあっ!! ちゃんと消毒石鹸で洗ってこい!! いますぐに!! チャーミンやチャッピーを病気にする気か、おまえは!?」
「う、うむ、わかった。ちょっと待っててくれ」
ドタバタと洗面所に走って行く麗人の姿を見送った巨漢は、深く長い溜息を吐き出し、目の前の弟妹達と顔を合わせる。
「「『F』にいちゃん、ダメダメ~」」
「ほんっと、ダメダメだな、あいつ。武術の腕前はオレよりも凄いんだけどなあ」