序章
いまとは違う、いつかの時代。
ある世界に一匹の狐がいた。
狐といってもただの狐ではない、数百年を生きた大妖。
その身体の内に秘めた霊力は強大無比、風に乗って空を飛び、雷を操って敵を滅し、龍族ですら扱うことが難しいとされる嵐を呼ぶことだってできた。
力技ばかりではない、姿形を変幻自在に変えることにも長け、人間が使うあらゆる言語をしゃべり、人の心ですら容易く見透かすこともできた。
狐が住んでいた世界で、狐以上の力を持つ存在はほとんどおらず、いたとしても彼らは狐が住んでいる場所に関心が全くなかったので、事実上狐はあらゆる生物の頂点に立つ存在となっていた。
なにもかもが自分の思うまま、当時、世界のあらゆる場所に存在し、他の生物達を支配していた人間ですら狐のことを恐れ、決して狐の言うことに逆らおうとはしなかったし、またその行う全てのことに逆らうこともしなかった。むしろ世界のあちこちにあった人間の国の王達が自ら進んで狐のご機嫌伺いにやってくる始末。
狐は世界の主として君臨していた。
狐にできないことは何一つとしてないようにみえた、自分の力をちょっとだけ見せつけるだけで人間達は自分を大いに恐れ敬い、何も言わなくても勝手にいろいろと財宝や食べ物を運んできたり、自分の発する言葉にいちいち反応して狐が少しでも気に入るように対処してくれたからだ。
狐は毎日毎日を愉快に過ごした。
しかし、あまりにも何もかもが思うままになっていたため、だんだん狐は毎日が退屈になってきた。
暇つぶしに大嵐を起こしてみたり、人間の王族をからかって遊んでみたりしてみたが、どれもこれも大して面白くはなかった。
あるとき、狐は自分が行ったことのない場所に行ってみようと思い立ち、今まで見向きもしなかった世界の端に足を運んでみることにした。
そこなら何か自分の知らないおもしろい何かがあるかもしれないからだ。
風に乗って空を駆け、あっというまに狐は世界の端っこに到着した。
そこは自分が普段住んでいる都会とは違う、辺境の中の辺境。あれほど世界に満ちあふれて存在している人間も、小さな集落を作って点々と暮らしているだけであり、それどころか他の生き物の姿もほとんど見かけないような荒れ地が広がるばかり。
その様子を見た狐はがっかりして、すぐに都に帰ろうと思った。風を再び呼んでその上に乗り、元いた場所へと駆け出そうとする。
だが・・
都に戻ろうと駆け出そうと一歩踏みだしたちょうどそのとき、狐の視線の端っこに一人の人間の少年の姿が映った。
歳の頃は十六歳くらいだろうか、薄汚れた旅装に身を包み背中に大きなリュックを背負ったその少年は、楽しげに鼻歌を歌いながらてくてくといずこかへと歩いて行く。特別美しい美少年というわけではないが、かといって不細工という言葉からはかなり遠ざかる。どちらかというと化粧でもすれば女の子に見えないこともないかわいらしい顔、分厚い旅装の上からではにわかに判別しにくいが、華奢で小柄な体。どこにでもいそうな普通の少年。
都に帰ればこれくらいのレベルの少年なら掃いて捨てるほどいる、別に興味はない・・はずだったのだが、なぜが狐はその少年を無視することができなかった。
自分でもよくわからない気持ちに狐は困惑する。
(なんで私がたかだが人間の子供に気を取られなくてはならないのだ? 人間達の上に君臨し支配しているこの私が・・いやまて、ひょっとするとあの人間の少年は他の生き物が化けているのかもしれない。もしそうなら面白い。折角だから、一つ話しかけてみることにしよう)
そう思いなおした狐は、自分が呼んだ風から降り立つと地上にいる少年目がけて駆け下りていった。
『おい、そこの少年』
突然自分の目の前に姿を現した大きな狐を見て、少年はびっくりしたような表情を浮かべて立ち止まる。
しかし、その驚きは恐怖を抱いたそれではなく、ただ純粋にびっくりしただけのようで、すぐに立ち直ってみせると、穏やかな笑みを浮かべて狐のほうを見つめ返した。
「なんでしょう、キツネさん? 僕に何か御用ですか?」
『おまえの魂が気に入った。食わせろ』
きょとんとして問いかけてくる少年に、狐は思いきり邪悪な笑みを浮かべて傲然と呟いた。
狐の言葉を聞いた少年は、なんとも反応に困った表情を浮かべてすぐには返答できなかった。
狐の言葉は、勿論本心からではない。歳を経た龍神の魂や力ある土着神の魂ならともかく、たかが人間の魂など食らっても何の足しにもなりはしない。いや、弱い魂や穢れた魂を食らってしまってはむしろ自分が弱体化してしまう恐れがある。はっきり言ってこの目の前の少年の魂を食らうことは狐にとって何のメリットもないのだ。・・にも関わらず、そう言って見せたのは目の前の少年がどう反応するのか見たかったからだ。
はっきり言えば熊よりも大きな体格を持つ大妖怪の自分に食われると言われて、目の前の少年が驚き慌てる様が見たかったのだ。
狐は少年が無様に狼狽して命乞いを始めるのを今や遅しと待ち続けたが、残念なことに少年の反応は狐が思い描いていた展開とは全く違うものであった。
少年は狐の言葉を聞いた後、しばらく腕組みをして真剣に悩み続けていたが、やがて顔を上げるとやっぱりなんとも困った表情を浮かべたまま、狐が仰天するような言葉を返してきたのだった。
「キツネさん、すいません、半分じゃダメですかね?」
『ああ、半分か。なるほど半分・・って、へ?・・はぁっ!? は、半分? 半分ってなんだっ?』
狐は最初少年の発した言葉の意味がわからないまま生返事を返そうとしたのだが、すぐにその言葉の意味の奇妙さに気がついて素っ頓狂な声で聞き返す。
「いや、あの、実は僕、次の転生先がすでに決まっているんです。今ここにいるのは、そこに行くまでの繋ぎというかなんというか・・ともかく、そこに行くのはもう決定事項で僕個人の一存では変えられないんですよ。もし、それを破ることになったら僕も狐さんもいろいろとまずいことになるので・・」
心から申し訳ないと思っている表情で狐に謝ってくる少年。狐は、『こいついい加減なことを言って誤魔化そうとしているな』と思いすぐに霊力を使って少年の心を見透かしてみるが、予想外なことにそこには一片の嘘も含まれていなかった。
狐は自分の予想とははるかに違う方向に話が転がって行こうとしていることに困惑しつつも、なんとなくこのまま放置して去っていく気にもなれず、そのまま話を続けてみることにする。
『あ~、まあ、おまえが嘘をついていないのはわかるが、なんで半分ならいいんだ?』
「詳しく説明したいんですけど僕も勉強不足で・・あの、わかる範囲で説明しますね」
てへへとかわいらしく笑ってみせる少年の姿を見て、狐はいつのまにか作っていた邪悪な笑みをやめてしまっていた。そして、表情に困ったような顔で少年を見返して続きを話すように促す。
『それでいいから話してみろ』
「わかりました。あの、魂ってその人が通ってきた人生の『道』の濃さで多くなったり少なくなったりするそうなんです。逆にいえば、ちょっとしかなくても、あるいはでっかい塊だったとしても魂は魂なんです。だから、ちょっとでも残れば魂として存在していることになるので大部分を狐さんにあげてもいいんですけど・・でもでも、あまりにも小さいと核となる人格そのものが消えてしまうらしいんです。転生すれば記憶はなくなるし、魂もまた何もないところから始まるんですけど、僕の場合はちょっと特殊でして。最終的に僕にはいかなくていけない場所があるので、人格が消えてしまうほどあげるわけにはいかないんですよ。それで、半分あればなんとか人格や大事な部分は保持できると思うので、半分でよければ差し上げますって言ったのですよ」
『そうか、まあ、なんとなくはわかったが、しかし・・おまえ、わしに魂を半分も渡してしまってもいいのか? 人間は魂がないと生きられない、半分しかなければ当然その生も半分ということになるんだぞ?』
どうやら目の前の少年が本気で魂を差し出そうとしていることがわかった狐はなんとも扱いに困ってきて困惑の表情を浮かべる。元々からかうだけでそんなつもりはなかったのだが、今更自分からやっぱりやめたというのはかっこ悪い気がするし、それなら少年がなんとか思いなおしてくれないかなと思って問いかけてみた。しかし・・
「ええ、構いませんよ。半分だってやれることはいっぱいあるんです。それに狐さんが僕の魂を気に入ったと仰るなら、きっと僕の魂の半分はあなたの側にあるべきなんでしょう」
『そ、そういうものなのか? と、というか別に無理だったら無理で構わないんだぞ、』
狐の思惑とは逆に、晴れやかな笑顔で肯定されてしまい、益々困惑の度合いを深める狐。やはりここはもう自分からもういらないというしかないと口を開こうとしたのだが、のんびりした様子とは裏腹に意外とせっかちだった少年は、狐が口を開くよりも早く行動をおこしていた。
「大丈夫です。すぐに半分にしますね」
『え、す、すぐにって・・ちょ、ちょっと待て、おいっ!!』
少年が何かをしようとしているのに気がついて狐は慌てて止めに入るが、それよりも早く少年は両手を組み合わせて何かの印をいくつも素早く結び短い言葉で何かを呟いた。すると、眩い光が少年の姿を包み込み、やがてそれが晴れたときには、少年の姿は二つになっていた。
「「はい、狐さん、半分にできました」」
呆気に取られている狐の目の前で、二人になった少年は全く同じ笑顔で微笑みかける。狐はあまりの出来事に口をぱくぱくさせるばかりで、咄嗟に言葉が出てこず、やがて頭を抱えてうずくまってしまうのだった。その様子を二人の少年は不思議そうに見つめていたが、やがて一人がもう一人に話しかける。
「ここには僕が残るから、君はもう行っていいよ」
「そうか、わかった。長い間、僕と共にあってくれてありがとう、僕の半身」
「うん、僕のほうこそありがとう、僕の半身。僕はもうここで終わる、これからまだまだ続いていく君の道に付き合えないのは残念だけど・・同時にほっとしてる部分もあるよ。ようやく僕は解放されるんだって」
「そうだね、確かにそれも僕の本心だ。連なる夜の闇の果て・・その向こうにある何もない『無』に帰りたい気持ちがあることも事実。でも、僕は行くことにするよ。いつか君のいる場所に行くことになるだろうけど、今は老師の指し示す場所に向かうことにする」
「うん、老師によろしく伝えてね」
「うん、さようなら、ここに残る僕の半身」
「さようなら、道を進むことにした僕の半身。君の中に残る、『人』を想う『仁』の心がいつまでも残り続けますように」
そう言って二人はお互い強く抱き合うと、やがて、もう一人は道に置いていたリュックを背負い直していずこかへと去って行った。
その様子を大きな口を開けて唖然としたまま見つめ続けていた狐だったが、残った少年がやがて自分に視線を向け直したこことに気がついてなんともきまずいようないたたまれないような表情を浮かべて見せる。狐はしばらくどう返答したらいいのかわからず無言を貫いていたのだが、残った少年の無垢な視線があまりにも痛くなってきて、自分でも勝手だなあと思う言葉を口にする。
『な、なんか言いたいことがあるのか!?』
「いえ、あの、どうぞ、食べていいですけど・・」
『た・・たべっ!? ば、バカッ、何いってるんだ!?』
「いや、だって狐さんが気にいったからって」
『た、確かにそうだけどっ!! え、ええい、なんかもう気分が乗らないから今はいらんっ!! いらんたらいらん!!』
「え、そうなんですか? じゃあ、あとでってことですか?」
『う、ま、まあそういうことだ』
「わかりました。じゃあ、しょうがないですね」
どう返答を返したらいいかわからないままに狐はとりあえず、その場しのぎの言葉を口にするが、それをどう受け止めたのか、少年はとてとてと狐の側にやってくると、怖れる風など全くなくよっこいしょと狐の大きな背中によじ登ってしがみつく。
『お、おまっ!! 何やってるんだ!?』
「ふえっ? いやだって、ついていかないとまずいかなと思ったので。僕、空とか飛べないですし」
『おまえ、わしが怖くないのか? 数百年生きた大妖怪だぞ、わしは? ついてくれば生きたまま裂かれて食われてしまうんだぞ!?』
「え、でも、僕の魂が気に入ったんでしょ? それってどんな形であれ好意があるってことですよね?」
『おまえ・・本当に奇妙な性格しているな』
きょとんとした顔で聞き返してくる少年の姿を見て、毒気を抜かれたようになった狐は大きく深い溜息をひとつ吐きだした。そして、改めて自分の背中の少年を見つめる。自分の魂を半分にして2人になってみせたことからただの人間ではないことはわかる。しかし、霊力や魔力など一切感じないし、身体的能力も全然よさそうではない。狐が本気になってここで無理矢理落として都に帰ることもできるだろうし、ここで殺してしまうのも容易いだろう。
しかし、どうしても狐はそうすることができなかった。なんとなく殺してしまうのが嫌だった。そして、自分を見ても恐れない、嘘をつかない、しかも自ら進んで殺されようというこの変な生き物を飼ってみたくなったのだ。
『もういい、どうせ、それほど長く生きられないんだろ。おまえが死ぬ時に食うことにする』
「わかりました。じゃあ、とりあえず、それまでよろしくお願いいたします」
『わしとしたことが変なの拾ってしまったなあ。まあ、いいか、どうせそれほど長い時ではあるまい』
「そうですね、あっという間ですよ、きっと」
『自分でいうな、馬鹿者!! ほら、都に行くぞ!! しっかりつかまってろよ!!』
その後、狐はこの変な少年と都で暮らすことになった。この変な少年は、『狐さん』、『狐さん』と自分のことを気安く呼び、勝手に自分の世話を焼き、気に入らないことがあるとずけずけと物をいい、狐が間違ったことをすると平気で説教してくるという、狐にとっては物凄く鬱陶しい存在だった。喧嘩はしょっちゅうだったし、価値観の違いでぶつかりあうことだって数限りなくあった。なのに狐は決して少年を離そうとはしなかったし、少年も狐から離れようとはしなかった。喧嘩している最中もどちらかが飛び出していなくなるなんてことはなかった。他の妖怪が縄張り争いにきて力比べになった危険な状態の時だって少年は狐の側にいた。かつて狐に痛い目にあわされた国が、軍隊を連れて討伐に現れたときも少年は出て行こうとはしなかった。狐のほうも少年にどれだけ耳の痛いお小言を聞かされても決して少年を邪険に扱ったりしなかった。自分が悪いときには自ら折れて謝ったりもした。あの、プライドの高い狐が自らである。いつのまにか二人の絆は深く強くなっていたのだ。
しかし、そんな二人の日常は、あの日二人が出会った時に予想した通り、それほど長くは続かなかった。
魂を半分にしてただでさえ長生きできない身体になった上に、健康な人間ですら耐えられないくらい強大な霊力を常に放出し続けている狐の側に居続けた少年は、出会ってからわずか三年ほどで動けなくなった。そして、動けなくなってから一カ月を待たずして死神が彼を迎えに来た。
最後まで・・死を迎える最後まで少年は狐と共にあり、最後まで笑顔を絶やすことはなかった。
そして、狐は再び一匹になった。
別に今までと変わらない、また退屈な日々が始まるだけ、狐は少年と永遠の決別をした日そう思いこもうとした。
しかし、いつまでたっても狐は少年の亡骸の側から動くことができなかった。そればかりではない、自分の両目から流れる熱い何かを止めることもできず、口からは言葉にならない嗚咽が漏れ続けた。それはいつまでもいつまでも続いた。
少年の死に際の言葉、『僕が死んだら約束通り食べてくださいね』という言葉が何度も何度も脳裏をかすめる。
しかし、その言葉を実行に移すことはできなかった。狐は少年の顔に自分の口を何度も何度も近づけはした。だが、食べようとはせず、ただただ、その鼻面を少年の冷たくなった亡骸に押し付けるばかり。そんなことをしても少年は生き返らない。そんなことは百も承知だった。でも、やらずにいられなかった。もう一度でいいから『狐さん』と呼んでほしかった。いや、ついに最後まで教えなかった自分の真名で呼んでほしかった。
大妖怪である狐にとって真名を知られることは、その命そのものに関わることである、勿論普通は絶対に教えたりしないし、自分から他人に教えることなどありえない。だが、それを警戒して教えなかったわけではないのだ、ただ、改めて言うのが照れくさかっただけなのだ。いつか言おう、いつか教えてやろう、そう思ってた。愚かにも自分と、この少年の過ごす時間が同じだと思いこんで、無限にあるわけではない時間を無為に過ごしてしまったのだ。そして、全てが終わってしまってから悟る、自分には二度とその機会が訪れないことを。
涙も枯れ、嗚咽すら出せなくなるほど長い長い時間を少年の亡骸の側で過ごし、やがて、狐の身体は徐々に衰弱していった。
いくら数百年を生きた大妖怪といえど、飲まず食わずで、霊力の補給もせずに過ごせば体も衰弱する。このままでは死ぬ。勿論そんなことわかっていたが、それでも狐は少年の亡骸の側を離れようとしなかった。
少年の亡骸は不思議なことに何日、何週間、何か月、いや、何年という月日が流れても腐りもせずそのままの姿であり続けた。あまりにも不自然な現象であったが、少年が死んでいるという事実が覆るわけもなく、狐にとってはどうでもいいことだった。
やがて、どれほどの歳月が流れたのか、狐は弱りきった身体の自分にいよいよ死期が迫っていると悟ったちょうどそのころ、狐の、いや、少年の亡骸の元に一人の老人が訪ねてきた。
どこからが髪でどこからがまゆげでどこからがひげなのかわからないくらい白い毛に顔は覆われて隠れ、ちんまりとした身体に東方の薄い緑色の着物に身を包んだその老人は、少年が横たえられている部屋の中に入ってくると、しばらく少年の亡骸と、その側で横になっている狐の姿を交互に見つめ続けた。
そして、それが終わったあとゆっくりした口調で狐に話しかけてきた。
「もう、この子を返してもらってもええかな? おまえさん、もうじき死ぬんじゃから、この子の魂もいらんじゃろ?」
狐の耳に聞こえてきたのは、枯れ果てた老人にしては低いがよく通る美しい声だった。狐は億劫そうに老人に視線を向けた。
『あんた誰だ?』
「この子の師匠じゃよ」
『今頃になって保護者面でのこのこやってきたというわけか・・もうこいつは死んでいるというのに、ただの死体でしかないというのに』
「魂は不滅じゃ。特に強い想いで己が信じる『道』を進んだ魂は強く美しいまま残り、決して滅びることはない」
『いい加減なことを言うな!! 滅びたじゃないか!! こいつは死んで動かなくなった!! 死んだら終わりだ、もう次はない!!』
ゆっくりと、しかし、よく耳に響く声で一語一語を噛み締めるように話す老人の言葉を聞いていた狐だったが、その内容に納得できず、力ない声で怒りの声をあげる。しかし、老人は狐の怒りの言葉に気を悪くした風もなく、ゆっくりと首を横に振ってみせる。
「いいや、不滅じゃよ。その証拠にほれ、その子の身体は腐りもせずそのまま、そして、その魂もそこにとどまり続けておる」
『え・・』
「おまえさんのことが余程好きじゃったんじゃなあ、その子は。その子の魂はな、おまえさんが心配で心配で、ここから離れられずにいるのじゃ。自分の朽ちる姿をおまえさんに見せて悲しませたくなかったんじゃろうなあ。必死に肉体をそのままにして保持したままここに留まり続けているのがはっきり見える」
『い、いるのか? あいつ、わしの側に・・ううん、今ここにいるのか?』
「おるよ。ずっとおまえさんにくっついておるよ」
老人の言葉を聞いた狐は、衰弱しきった体をのろのろと持ち上げて立ち上がらせると、自分のすぐ横に横たわる少年の顔に自分の顔を押し付けた。すると、薄暗い部屋の中、狐の想いに応えようとするかのように少年の亡骸の周囲に青白い鬼火が浮かび上がって明滅して見せる。
それを見た狐は一瞬驚愕の表情を浮かべてみせるが、すぐになんともいえない嬉しそうな、しかし、悲しそうな表情を浮かべて鬼火を見つめ、そして、目の前で静かに眠る少年に視線を向け直す。
『馬鹿だなあ、おまえは。ほんと馬鹿だ。しかもお節介で、お人好しで・・』
しかし、それ以上言葉を続けることができず、狐はただただ少年の顔に自分の顔を押し付け続けた。そうしてどれくらい時間が過ぎただろうか、やがて、ゆっくりと顔をあげた狐は、黙って横に立ち続けている老人のほうを見つめる。
『連れて行くのか?』
「連れて行くよ。それが約束だったからな」
『誰との?』
「この子とわかれたこの子の半身とのじゃ。この子の半身が別の世界に旅立つときに約束したのじゃ。もしこの子の魂が消えずに残っていたら、自分ともう一度会わせてほしいと。別の世界に行くことでお互い記憶を失い、人格を失ってしまってお互いが誰だかわからないだろうけど、それでももう一度会いたいと言っておったのでな。それでその約束を果たすためにここにやって来たわけじゃが・・」
狐の言葉に頷いてみせた老人だったが、何か思うところがあるのか、少し言葉をきると自分の顎ひげをしわだらけの枯れ木のようなで手でゆっくりと撫ぜてみせる。そして、その手を動かしながら言葉を再び紡ぎ始めた。
「あの子が向かった世界はな、これから大変な事態になっていくのじゃ」
『大変な事態?』
「うむ、そこに住む人々は、本来その世界にないはずの力を別の世界から引き出して使い、勝手気まま、思うがままに母なる世界を自分の都合のいいように変えていっておる。その世界はそのことに非常に怒っていてのう。もう間もなく、人々にその怒りの拳を振り下ろすじゃろう。それはもう世界そのものの怒りじゃから凄まじいものになるじゃろうて。そこに住む人々は下手をすると全滅させられてしまうかもしれんのう」
そう言った老人は、深い悲しみを秘めた溜息をひとつ大きく吐きだして見せた。
「放っておいてもよいのじゃが、いくらなんでもあまりにもな・・その世界には普通に平和に暮らしている人々だって大勢おる。いくら連帯責任といえど、そんな人達まで巻き添えを食って全滅というのは行きすぎじゃと思ったのじゃ。しかし、わしらは基本的に各世界に対し不干渉を貫かねばならぬ、自ら手心を加えることはわしらの法に触れるでの。それで、まだわしらの側でもなく、世界の側でもない半人半仙のあの子を向かわせることにしたのじゃ」
『半人はわかるが・・半『仙』? 『仙』とはなんだ? こいつがただの人間ではないとは知っていたけど』
「まあ、世捨て人じゃよ。世界との絆を断ち切り、世界と世界の挟間にある境界『線』の世界に生きる者達のことじゃ。あまり気にするでない。それよりも、あの子のことじゃ。あの子は己の半身を失うことで、いろいろと苦労を重ねた。しかし、その苦労があの子を成長させ、今ではこの子と一つであったときよりも大きな魂を持つようにまでなった。きっと向こうの世界でも己の役割を立派に果たしてくれるであろうし、世界に押しつぶされたりもせんじゃろう。しかしな、この目の前にいる子はそうではない。強い光は放っておるが、相変わらず中途半端な大きさの魂のままじゃ。これから激動の時代を迎えるあの世界に連れて行って果たしてそれが幸せなことかどうか・・かといって、約束を破るわけにもいかんしのう。そもそもこの子は、あの子の半身であの子のものじゃ。おまえさんにも、この子は必要ではなくなるじゃろうし、となると、やはり元の持ち主にもどしてやらねばなるまいて」
最後のほうは自分を納得させるためのような言葉らしきものを呟いてみせ、老人は二つほど頭を横に振って何かを振り払うと、少年の亡骸のほうにゆっくりと近づいていった。
「そういうわけじゃから、この子の魂は返してもらうぞ」
狐にそういうと、老人は少年の身体にその皺だらけの枯れ木のような手を伸ばしていく。だが、狐は衰弱しきった体に鞭打って動かすと、老人と少年の間に滑り込んだ。
「をいをい、もういいじゃろう? 今更おまえさんがこの子の魂を食らっても、この子の魂は消滅せんし、ましてやおまえさんはもう間もなく死ぬ。そうなってからこの子の魂を取り出すことだってできるんじゃから、何をしようと結局のところ一緒なんじゃよ?」
『わかってる。そんなことはよくわかってる。だからこいつを連れて行くのは構わない。だけど、ひとつだけ条件が・・ううん、頼みがある』
「頼み? 頼みとはなんじゃ?」
狐がそんなことを言い出すとは思ってなかった老人は、伸ばしかけていた手を止めて狐のほうをじっと見つめる。すると、狐は老人の顔を真っすぐに見つめ返し、自分の想いを口にした。
『わしを・・ううん、私も一緒に連れて行ってくれ。こいつを連れて行くことになっている世界に連れて行ってくれ』
「なんじゃと? 転生させろというのか?」
驚いて問い返す老人に、狐はゆっくりと首を縦に振ってみせる。
『なんの力もいらん、私の身体の霊力がほしいなら私が死んだ後、好きなだけ持って行けばいいし、向こうの世界で同じような大妖怪にしなくてもいい。狐じゃなくてもいい、人間に転生させても文句はいわん』
「いやしかしな、記憶も能力も全て失うんじゃぞ? その状態で会っても意味があるとは思えないし、ましてやこの子に出会えるとも限らんのじゃぞ? なのに違う世界での転生を望むのか? やめとけ狐殿。お主ほどの力の持ち主ならこの世界で再び今の記憶を持ったまま再生することも可能じゃ。そうしなされ」
『いやだ!! それでも・・それでも・・記憶を失っても能力を失ってもいい!! 私はこいつと同じ世界、同じ空の下にいたいんだ。それに私はどんな状態になっていても、必ずこいつを見つけ出してみせる!! だから・・だから、頼む!! 頼む頼む!!』
弱った体をひきずって老人のほうにやってきた狐は、必死になってすがりついて懇願する。その姿をなんともいえない様子で見つめていた老人だったが、やがて、溜息を吐きだすと、こっくりと首を縦に振って見せた。
「わかったわい。しかし、どうなっても知らんぞ。今からおまえさん達が転生するところは危険極まりないところじゃ。下手をすれば転生してもあっさりと死んでしまうかもしれん、それでもええんじゃな?」
『構わない。それに心配せずとも、私はどんな姿になってもあっさりと殺されたりはせん。記憶を失うのは痛いが、能力を失うのはむしろ好都合だ。この忌まわしい能力のせいでこいつを殺してしまったから・・今度はこいつを害さないように強くなって、今度こそこいつを守ってやるんだ。そして、一緒に・・いつまでも一緒に』
そう言って狐は顔を赤らめ潤んだ瞳で少年のほうに視線を向けると、老人から身体を離して少年の亡骸に覆いかぶさる。
「やれやれ、たかだか人間一人の為に数百年の霊力をドブに捨てるとは・・」
『私の霊力や命をどう使おうと私の勝手だ!!』
「わかったわかった。この子と同じ時代を生きられるようにできるだけ近い間隔で転生できるようにしてあげよう。しかし、あとのことは知らぬよ。わしらは基本的に不干渉じゃから、それ以降のことについてはおまえさんが自分でなんとかするがいい」
『元よりそのつもりだ。さあ、さっさとやってくれ』
「まったく、こんなことになってしまうとは・・『人』の想いとは実に面白いものよのう。どれだけ永く生きても、未だにわからぬ。みながそれぞれ進み行く『道』のなんと多彩なことよ。しかし、だからこそおもしろいか」
老人はそう呟くと、困ったような、しかし、どこか面白そうな様子でその両手を突き出した。
その両手からはみるまにまばゆい光が溢れ出し、そして、狐と少年の姿を覆い隠していった。
そして、時は流れ、こことは違うどこかの世界。
人間ばかりではなく、いろいろな姿形の種族が住むある世界。
その世界の北方の片隅にある一都市の中、ある高校の保健室の一室。
「連夜くん!! いったいどうしてこうなったの!? なんでこんなに傷だらけなの!?」
悲鳴にも似た金切り声をあげるのは、白衣を来た一人の歳若い女性研修生。美しく長い金髪、頭部からはぴんとたった大きな狐の耳、エメラルドのような美しい碧眼、とがった顎、血色のいいピンク色の唇、大きめの白衣の上からでもはっきりとわかるみるからにやわらかそうで形のよい大きな胸にくびれた腰、そして、すらっとして長い脚線美。ぷりっとしたお尻からは美しい金色の獣毛に覆われた三本の尻尾が伸びている。人間族ではないが誰が見ても完全無欠の美女。
霊狐族と言われる半人半獣の種族のその女性は、自分の目の前に座ってなんとも言えない困ったような笑顔を浮かべている一人の少年をじっと見つめる。
「いや、あの、その・・か、階段から落ちちゃってその・・」
目の前の美しい女性が詰め寄ってくるのに対し、しどろもどろに言い訳をする少年。
その少年は目の前に座る一流女優かモデルバリに美しい女性と対照的に、どこにでもいるような普通の人間族の少年だった。
癖っ毛のない長くも短くもない黒い髪に、まるで月のない日の夜空のような色をした黒い瞳、男子高校生の平均身長よりも弱冠低いと思われる身長に、やせ気味で小柄な体格。かっこいいわけでもイケメンでもないが、かといって不細工でもなくかっこ悪くもない。その性格からきているのか、全体的に人の良さそうな雰囲気を自然と纏い、化粧でもすれば女の子に見えそうなそんなかわいらしい少年だった。
しかし、今の少年の姿は、それら全てを完全に台無しにしてしまっていた。
頭のてっぺんからつま先まで、見事なまでに泥だらけ、そればかりではない、擦り傷や打撲のあとが、顔やまくりあげられた袖から伸びる腕のあちこちに点在していた。
「階段から落ちたくらいでこんな傷になるわけないでしょ!? またね、またなのね? 今度は誰にやられたの!? どうせまたこの学校のろくでなしの不良どもにやられたんでしょ!? 三年の鮫島達? それとも二年のブルータス一派? あ、一年生の連中なの?」
「お、落ち着いてくださいってば、如月先生。本当に喧嘩とかじゃないんです。それに大した傷じゃありませんし」
「大した傷じゃない!! 体中打撲だらけ、青あざだらけ、もう~~!!」
なんとか目の前の美しい女性をなだめようとする少年だったが、全然効果はない。それどころか、少年の顔や腕に残る明らかに誰かに殴られたとわかるいくつもの青あざを見て、女性の透き通るような碧い瞳にみるみる大粒の涙がいくつも浮かびあがって行く。
「あなたに何かあったら・・もし、何かあったら・・」
「ああああ、大丈夫。本当に大丈夫ですから、ね、ね。」
慌ててポケットから奇麗な白いハンカチを取り出した少年は、そっとそれを女性の目にあてて涙を拭き取ってやる。そんな少年の気遣いに女性はちょっと嬉しそうな表情を浮かべてみせたが、すぐに不機嫌そうな顔に変えて口をとがらせる。
「ほんとにもう連夜くんはお人好しなんだから。そんなんだから、頭の悪い馬鹿どもに目をつけられちゃうのよ」
「め、面目次第もない」
「ってことはやっぱり、誰かにやられたのね」
「は、はうっ!! あ、いや、その!!」
まんまと女性に乗せられてしまった少年は、両手をばたばたとさせて慌てだす。そんな少年の姿をしばらくじと~~っとした目で見つめていた女性だったが、やがて何とも言えない溜息を一つ吐き出して表情を緩めると、すっと少年に近寄ってその身体を引き寄せて抱きしめる。
「ちょ、き、如月先生!! が、学校の中でそれはちょっと・・」
「大丈夫、部屋の鍵は閉めてあるし、カーテンも閉めてるから誰も見てないわよ。それよりも連夜くん、二人きりのときはちゃんと名前で呼んでくれる約束だったでしょ?」
突然の熱烈な抱擁に、少年は顔を真っ赤にして女性の抱擁から逃れようとジタバタしてみせるが、女性は少年をがっちりと抱きしめたまま放そうとしない。
それどころか、しきりに照れる少年に自分の顔を近づけて真っすぐにその黒い瞳を見つめ、甘えるように囁きかける。
「い、いやでもですね・・」
「『如月先生』は、みんなの前でだけ。今は二人だけなんだから、ちゃんと名前で呼んで」
しばらくの間、女性の潤んだ瞳で見つめられていた少年は、あっちこっちに視線を移してなんとか逃れられないかともがいていたが、やがて観念したかのようにがっくりと肩を落とし、女性の瞳を見つめ返した。
「もう~~、誰かに聞かれたら本当にマズイんですよ? ただでさえ、しょっちゅうこの部屋に入り浸ってるから、いつ僕らの関係を疑われても不思議じゃない状態なのに・・だからこそ、できるだけ学校の中ではファミリーネームで呼び合って、卒業まで気がつかれないようにしようって約束したでしょ?」
「連夜くん。お・ね・が・い」
なんとか最後の抵抗をしようとする少年だったが、美しい女性のすがりつくような視線を真向から見てしまい、ついに抵抗を諦める。そして、今まで以上に顔を赤くして若干顔を背け気味にし、ちらちらと横眼で女性を見ながら、おずおずと口を開いた。
「今だけですよ・・その・・玉藻さん」
少年に名前を呼んでもらった女性は、ぱあっと表情を明るくすると、素早く片手を離して少年の顎を強く、しかし、痛くならないように掴む。少年は女性が何をしようとしているのか咄嗟にわからず、しばし呆気に取られてその手を見つめていたが・・
「あの、玉藻さん、何を・・むぐっ!!」
くいっと顎を掴んだ片手をひねって少年の顔を自分のほうに向けさせた女性は、その唇に自分のそれを重ねる。しばらくの間情熱的に少年のそれに重ね続け、やがて恍惚とした表情で唇を離し、大輪の華のような笑みを浮かばせて見せる。
「好き・・大好きよ、連夜くん」
唇を奪われた少年は、一瞬怒ったような表情を浮かべて目の前の女性に文句を言おうとしたが、それよりも早くなんともいえない幸せいっぱいに自分に向けての好意を口にする女性の姿に何も言えなくなってしまい、ただただ口をぱくぱくさせるだけ。
「連夜くんは? 連夜くんは私のこと好き?」
「あ、当り前じゃないですか。好きですよ。誰よりも玉藻さんのことが大好きだし、大切に想ってます。・・って、ご存知でしょ?」
「うん、知ってる。よ~く知ってる。でも、やっぱりその想いを口にしてほしいの。そして、それを聞きたいの。連夜くんの口から出た言葉で聞きたいの、どんな音楽よりも、誰の言葉よりも、いつでも、どこでも聞いていたいの。そして、そして、私の想いを聞いてほしいの、知ってほしいの、ほかの誰でもない、連夜くん自身に」
これ以上ないくらい熱烈な愛の告白をしてくる女性に、少年はしきりに照れて、女性の腕の中でみるみる小さくなっていく。
「う、嬉しいですし、幸せですし、光栄です。一流女優なんかめじゃないくらい奇麗で、頭もよくて、スポーツもできて、おまけに喧嘩も強い玉藻さんが、なんの取り柄もない、強くもなければかっこよくもない、大して価値もない僕をどうしてそこまで慕って下さるのかわからないですけど・・」
「そんなことない!! 連夜くんは強いしかっこいいわよ!! それに他の誰かにとっては価値がないかもしれないけど、私にとっては自分の命と同じくらいあなたには価値があるわ」
「う・・自分ではそうは思えないですけど、少なくとも玉藻さんが恥ずかしい想いをしない程度には価値のある男になりますね」
「もう、なってるわよ。私の中ではあなたは本当に一番いい男なんだから、そして、私の大事な大事な宝物なんだから」
自分の腕の中で小さくなっている少年のほっぺに、自分のほっぺをぐりぐりと押し付けながら、女性はきっぱりと断言する。そんな女性の姿を少年は苦笑を浮かべて見つめていたが、やがて女性と同じような幸せそうな笑顔を浮かべて女性の身体を抱きしめ返す。
「ずっと・・ずっと玉藻さんの側にいさせてくださいね」
「当たり前じゃない、連夜くんは、ずっとずっと私の側にいるのよ。ずっと、これからもずっとずっといつまでも一緒にね」
「はい」
そう言って見つめあった二人は、もう一度唇を重ね合う。遠い昔に交わした約束をもう一度確認しあうように。
こことは違うどこかの世界。
長い長い時の果てに再び巡り合った二人のカップルの他愛のない、穏やかだけど賑やかな日常が始まる。
「ところで連夜くん」
「なんですか、玉藻さん」
「結局、私の大切な宝物を傷つけてくれたのはいったいどこのどなた様なのかしら?」
「お、教えたらどうなるんですか?」
「ふふふ、二度とそういうことがないように、きっちりお話しようと思うの。それはもう、念入りに、微に入り細に入り、懇切丁寧にね・・うふふ・・うふふふふ・・どこをどうへし折ってやろうかしら・・」
「ぜ、絶対教えません」