夜明けの鳥
夜が明けきる前、村の東の森は淡い靄に包まれていた。
空はまだ群青色を帯び、雲の端だけが金に染まりはじめている。
レオンは目を覚ますと、静かに布団から抜け出した。
まだ眠る母の寝息を背に、裸足のまま外へ出る。
朝露の冷たさが足の裏を刺す。
それでも彼は顔を上げて歩いた。
東の空の光に、どうしても呼ばれるような気がしたのだ。
森に入ると、湿った空気が肌にまとわりつく。
木々の間を渡る風が、かすかに笛のような音を奏でる。
その音を聞いていると、胸の奥に静かな震えが走った。
(……きこえる)
葉擦れの音、遠くの獣の足音、そして――鳥の声。
ひとつひとつが混ざり合い、まるで世界が囁いているようだった。
***
小川のそばまで来たとき、光が差した。
朝日が木々の隙間から射し込み、水面に反射する。
その輝きの中に、一羽の鳥がいた。
羽は白銀に近く、首元には青い紋。
まるで光そのものが形を取ったような美しさだった。
レオンは息をのんだ。
鳥はこちらを見ていた。
目が合った瞬間、世界の音が遠のいた。
――風も、川も、鳥の声も、すべてが止まったように感じた。
次の瞬間、胸の奥から、ふわりと温かい何かが広がった。
言葉にならない、けれど確かに意味を持つ“声”が心の中に届く。
〈おまえは、見ている〉
レオンは思わず口を開いた。
「……みてる、よ」
言葉を返すと、鳥の羽がわずかに揺れた。
そして光がほどけるように散り、姿が消えた。
***
彼はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
胸の中に、まだ温もりが残っている。
それは“魔力”という言葉を知らずとも、
確かに世界と交わった証だった。
(……あれは、夢じゃない)
手のひらを見つめると、指先に青い粒がひとつ光っていた。
小さな光の欠片。
それはやがて空気に溶けるように消えた。
レオンは胸の前で両手を合わせた。
「……ありがとう」
言葉を放つ。
それだけで、心が静かに満たされていく。
――言葉は、祈りの形。
世界と自分をつなぐ橋。
彼はそのことを、まだ知らずに理解していた。
***
家へ戻ると、父がちょうど畑へ出るところだった。
「おはよう、レオン。今日はずいぶん早いな」
「鳥を見たの」
「鳥? この時期に森の奥まで行ったのか? 危ないぞ」
父は軽く叱りながらも、笑った。
レオンはそれでも、言葉を探すようにゆっくりと話した。
「……きれいだった。光の……鳥。話した、かもしれない」
父は目を瞬かせ、そして頭を撫でた。
「光の鳥、か。きっと神さまが、お前に挨拶したんだな」
冗談めかした言葉に、レオンは微笑んだ。
けれど、心の中では確信していた。
――あれは、見たままの“鳥”ではない。
あれは“光”が“鳥”として定義された姿。
神官が火を鳥に変えたように、
自然が自らを“言葉”で形づくっている。
そう考えた瞬間、彼の胸の奥が震えた。
世界は、言葉で生きている。
だから、人もまた“言葉”をもって応えねばならない。
***
夜。
母がパンを焼く香りが家の中に満ちる。
炉の火が柔らかく揺れ、レオンは膝を抱えてその前に座っていた。
火の光を見つめながら、彼は小さく呟く。
「……ひかり、あたたかい」
その瞬間、火がひときわ強く揺らめいた。
ぱちり、と音がして、炎の中に鳥の形が見えた。
ほんの一瞬。
けれど、それは確かに“応答”だった。
母が気づかずに歌を口ずさむ中で、
レオンは心の中でそっと言葉を刻んだ。
――“言葉は、世界を呼び覚ます”。
まだ幼い彼の唇に、微かな笑みが浮かんだ。
その笑みの奥で、未来の魔導士の心が静かに目を覚ましていた。




