初めての畑仕事
朝の霧が、地面を覆っていた。
まだ日が昇りきる前の畑は、白い息のように煙っている。
土の上を踏みしめるたび、しっとりとした冷たさが足の裏から伝わった。
レオンは五歳になっていた。
母の背を離れ、父の仕事を見に行ける年齢だ。
畑の端で、父が鍬を振るっている。
その動きはゆっくりで、無駄がなかった。
重い鉄の刃が土を割るたび、朝の空気が震える。
「レオン、こっちにおいで」
父の声に、小さな足がぴちゃりと泥を跳ねた。
レオンは畑の真ん中で立ち止まり、鼻をくすぐる匂いに目を細めた。
湿った土の香り。草と朝露の匂い。
それらが混ざり合って、どこか“生きている”ように感じられた。
「これが……土?」
「そうだ。命の器だよ」
父は鍬を休め、しゃがみ込んで土をすくい上げる。
掌の上で、土がゆっくり崩れた。
粒のひとつひとつが、陽の光にきらめいている。
「この中には、小さな虫や、草の根や、腐った葉がある。
みんなが混ざって、新しい命をつくるんだ」
レオンは目を丸くした。
その言葉は、彼の心にまっすぐ響いた。
(命を、つくる……)
火の祭りで見た“言葉の力”が頭をよぎる。
神官が言葉で火を鳥に変えたように、父は“手”で命を作っている。
世界を形づくる手段が違うだけで、本質は同じなのかもしれない。
***
「よし、今日はお前にも手伝わせてやろう」
父は小さな袋を差し出した。
中には乾いた粒――種がいくつも入っている。
「これを土の中に入れて、“頼むぞ”って言うんだ」
「たのむぞ?」
「そう。言葉をかけるんだ。種はな、聞いてるんだよ」
冗談めかして笑った父だったが、レオンは真剣な顔でうなずいた。
両手で小さな穴を掘り、指先でそっと種を置く。
そして、唇を動かした。
「……たのむぞ。おまえが、うまれるように」
小さな声だった。
だが、風が一瞬止まったように感じた。
土がわずかに震えた気がして、レオンは目を見開く。
父は気づかず、笑っていた。
「いいぞ、その調子だ」
レオンの胸の奥では、何かが静かに熱を帯びていた。
言葉が、ただの音ではない。
世界に“働きかける力”であることを、確かに感じ取っていた。
***
昼過ぎ、日差しが強くなり、父は額の汗をぬぐった。
レオンは小さな水桶を運び、畝の端に水を注ぐ。
水面に反射した光が、彼の瞳を照らした。
――光が、ゆらいだ。
ふと、彼の指先から淡い輝きが走った。
小さな青い光が、わずかに土の上に散る。
すぐに消えたが、その場所の土がふくらみ、柔らかくなった。
父は気づかずに言った。
「ほら、風が気持ちいいだろう」
レオンは頷いた。
でも、心の中では別の言葉が響いていた。
(……世界が、応えた)
“たのむぞ”という音が、ただの願いではなく、定義になった。
土に「芽吹け」という意味を与えたから、世界はその通りに動いた。
それは、火の祭りで見た魔法とは違う。
もっと素朴で、もっと静かな“祈りの魔法”だった。
***
日が傾き、作業を終えた父が笑った。
「今日の畑は、よくできたぞ。お前も手伝ってくれたおかげだ」
「うん。……土、あったかい」
レオンは両手を見つめた。
土の粒が指の間に残っている。
その一粒一粒の中に、命の光が眠っている気がした。
父はその様子を見て、少し驚いたように言った。
「レオン、お前……ほんとに畑が好きなんだな」
少年は笑って頷いた。
その笑顔の奥で、何かがゆっくりと形を取っていく。
――言葉は、命を動かす。
――命は、世界をつくる。
だからこそ、言葉を選ばなければならない。
軽く放てば、世界を歪める。
真に願えば、世界がそれに応える。
その理解が、まだ幼い心の奥で静かに根を下ろした。
***
夜。
家の外に出ると、月が高かった。
レオンは両手を組み、今日の畑に向かってそっと囁いた。
「……ありがとう。あしたも、がんばるね」
風が、やさしく吹いた。
畑の端の若葉が、かすかに揺れた。
まるで返事をするように。
その光景を見ながら、少年は微笑んだ。
まだ“魔法”という言葉を知らなくても、
彼はもう、世界と言葉の繋がりを感じ取っていた。
――世界は、言葉でできている。
そして、言葉は心のかたちなのだ。




