言の葉のかけら
夏が、村を包んでいた。
畑の麦は黄金色に染まり、風が吹くたび波のように揺れる。
家々の屋根には干した薬草が吊るされ、日差しの中で香りを放っていた。
その日、レオンは庭の木の根元に座り、石を積み上げて遊んでいた。
小さな手で、慎重に、ひとつずつ。
傍らで母が洗濯物を干しながら笑う。
「うまく積めたね。数を数えられるかな?」
母の言葉が風に混じる。
「……ひとつ。ふたつ。……みっつ。」
レオンはゆっくりと言った。
その声はまだ幼く、舌足らずだが、確かに意味を持っていた。
母は目を見開き、驚いたように息をのむ。
「まあ……数えられたの? 誰に教わったの?」
レオンは首をかしげる。
誰に、と問われても分からない。
気づけば、頭の中に“音”が浮かび、それが“数”と結びついていた。
――これは、言葉だ。
そう気づいたとき、胸の奥で何かが震えた。
世界の形が少しだけ変わったような気がした。
***
その日の午後、父が畑から帰ってきた。
肩には麦束、額には汗。
レオンを見るなり笑う。
「おっ、また石遊びか。将来は職人だな」
「……しょく、にん?」
聞き慣れない音に、レオンは首を傾げた。
父はしゃがみこみ、笑顔で答える。
「腕で仕事をする人のことだ。石を積む人、家を作る人、みんなそう呼ぶ」
「……つくる、ひと」
言葉を真似る。
その瞬間、胸の中にあたたかいものが広がった。
音と意味がひとつに結びつく――それは、世界を掴む感覚だった。
***
夜。
外では虫が鳴き、風が木の壁を撫でていた。
母は炉のそばで糸を紡ぎ、父は磨いた木皿を並べている。
レオンは膝の上で眠たげに瞬きをしていた。
「今日はいっぱい喋ったね」
母が笑いながら髪を撫でる。
その手の温かさに安心して、レオンは小さく頷く。
「ねえ、レオン。言葉ってね、魔法みたいなものなのよ」
「まほう?」
「そう。気持ちや思いを、音にして伝えることができるの。
誰かの心を動かす力があるのよ」
その言葉が、レオンの心に静かに落ちた。
魔法――という音が、どこかで聞いた気がした。
夢の中で、誰かがそれを唱えていたような。
けれど、思い出せない。
母の声が優しく続く。
「だからね、言葉は大事に使うの。優しい言葉は、人を救うのよ」
レオンは眠たげに頷き、母の胸に頭を預けた。
そのまま、意識が薄れていく。
***
夢の中は、白い光で満ちていた。
どこかで人々の声が響く。
――「会議」「進捗」「資料」。
知らない言葉なのに、どれも妙に懐かしい。
“声で何かを伝え合う”という感覚が、遠い記憶を刺激した。
ガラス越しの会議室。
机の上の紙。
そして、誰かが言っていた。
『言葉は、責任だぞ、黒瀬』
その名を聞いた瞬間、胸が痛んだ。
何か大切なことを思い出しかけている。
けれど、光がまた彼を包み、すべてが遠ざかった。
***
朝。
鳥の声で目を覚ます。
窓の外で、小さな羽音。
レオンはその音を聞きながら、小さく呟いた。
「……おはよう」
鳥は首をかしげ、ひと声さえずって飛び去った。
その姿を見て、レオンは微笑む。
音が意味を持つ。
意味が、心をつなぐ。
それが“言葉”なのだと、彼はまだ知らないままに感じ取っていた。
そしてその心の奥で、ゆっくりと芽生える。
――「伝える力」こそが、彼の生涯を導く光になるのだと。




