森のざわめき
レオンが二歳になり、初めて森へ足を踏み入れる――
世界の生命の「声」と、彼自身の感覚の“異質さ”が静かに浮かび上がる回です。
春の光は、やわらかくも力強い。
雪解け水が小川を満たし、村の外れの木々は一斉に芽吹いていた。
その朝、レオンは初めて母の腕を離れた。
もう二歳。
よちよち歩きではあるが、自分の足で地を踏む。
そのたび、土の温度が足裏に伝わってくるのが分かった。
冷たくて、すこし湿っていて、どこか懐かしい。
なぜ懐かしいのかは分からない――けれど、そう感じた。
「森へ行くの? まだ小さいのに」
母の言葉に、父は笑った。
背には小さな籠、手には木の杖。
穏やかな瞳に、確かな信頼が宿っている。
「大丈夫さ。村の入口までだ。空気を吸わせてやるだけだよ」
母はため息をついたが、結局止めなかった。
家の前で、レオンは父の指を握りしめた。
その手は大きく、温かく、粗い。
けれど、何よりも安心できるものだった。
***
森は、思っていたよりも静かだった。
けれど、その静けさの下には、たくさんの音が潜んでいる。
葉がこすれる音、風が枝を抜ける音、遠くで小鳥が鳴く声。
レオンは立ち止まり、耳を澄ました。
――きこえる。
音のひとつひとつが、まるで意味を持っているように感じた。
葉の震えが囁きになり、鳥の声が言葉になる。
それは彼だけに届く、世界の呼吸だった。
父が振り返る。
「どうした? 怖いか?」
レオンは首を横に振った。
その仕草があまりに自然で、父は一瞬驚いた。
言葉もまだろくに話せないはずなのに、理解しているような目をしていた。
「……そうか。お前は、強い子だな」
父は優しく笑い、歩き出す。
レオンも小さな足で後を追った。
歩幅は合わないが、彼は転ばなかった。
足の裏が地面を“読む”ように、微妙な起伏を察していた。
***
森の奥に、小さな小川があった。
水は透明で、底に光が反射している。
レオンはその光を見つめ、そっと手を伸ばした。
水面が波紋を描き、冷たい感触が指先に広がる。
「つめたいな」
父が笑い、膝をついた。
「そうだな。森の水は神さまの贈り物だ。飲んでもいい」
父がひと口飲んで見せると、レオンも真似をした。
口に含んだ水は甘く、まるで果実の汁のようだった。
飲み終えたとき、風が森を通り抜け、木々がざわめく。
レオンはその音を、言葉のように聞いた。
(……こんにちは、って言った?)
そんな錯覚が、確かに胸を過った。
木々が自分を見ているような気がした。
けれど恐ろしくはなかった。
むしろ懐かしい。
この森に、ずっと前からいたような気がした。
***
鳥の声が近づく。
枝の上に、小さな青い鳥が止まっていた。
レオンは息を呑んだ。
鳥の羽が風に揺れるたび、光の粒が散る。
目を凝らすと、その羽の動きの意味が“分かった”。
(……あの鳥、巣に戻るんだ。子が待ってる)
理由もなく、確信があった。
鳥が羽ばたき、木々の間を抜けていく。
その軌跡を目で追ううち、胸の奥に微かな熱が走った。
それは“魔力”と呼ばれるものの最初の感覚だった。
***
「レオン?」
父の声で我に返る。
気づけば小川のほとりにしゃがみ込み、手のひらに光の粒が乗っていた。
陽光ではない。
それは、空気の中から集まってきた微細な輝き。
まるで水蒸気が形を変えたような、淡い青色。
父は息を呑んだ。
「……見えたのか?」
レオンは小さくうなずいた。
何を見たのか、どうして分かるのか、自分でも分からない。
けれど確かに感じた。
この世界の“息づかい”が、手の中にあると。
その光はすぐに消え、風が吹いた。
木々がざわざわと鳴る。
まるで森が笑っているようだった。
***
帰り道、レオンは父の背に抱かれて眠った。
肩越しに見える空は青く、雲がゆっくり流れていく。
風の音が心地よく、眠りの底へ引き込まれていく。
夢の中で、彼は再び光を見る。
満員の車両。
窓の外を流れる都市のビル群。
あの鳥のように飛びたい――と、誰かが思っていた。
それが“誰”なのか、レオンは知らない。
ただ、胸があたたかくなった。
***
家に戻ると、母が笑顔で迎えた。
レオンは眠ったまま父の腕の中。
母はその頬を撫で、そっと呟いた。
「ねえ、あの子……森に好かれてる気がしない?」
父は笑って頷く。
「そうだな。まるで森が、あの子を見守っているようだ」
窓の外で風が鳴る。
木々がざわめき、どこか遠くの鳥が一声さえずった。
それはまるで、幼い少年への“祝福”のように響いた。




