言葉の芽生え
神官メルグが村を離れてから、三日が経った。
村の空気は落ち着きを取り戻したが、
レオンの胸の中だけは、ずっとざわついていた。
――言霊術は、世界の理そのもの。
――扱いを誤れば、滅びを呼ぶ。
そんな言葉が、耳の奥に焼きついている。
恐怖ではなく、責任の重さだった。
言葉に命を宿すということがどういう意味か、
ようやく理解し始めたからだ。
(それでも……僕は、言葉を書きたい)
世界と対話したい。
風や水や木々の声を言葉にしたい。
その想いは、恐れよりも強かった。
***
レオンは森の小川へ向かった。
陽は傾き、森の影が長く伸びている。
水の音が静かに耳に届く。
彼はいつもの切り株に腰を下ろし、布を取り出した。
そっと深呼吸をする。
胸の奥のざわめきを、ゆっくり沈める。
(今度こそ、意図して“言霊”を書いてみる)
意図しない影響ではなく、
自分の言葉と世界が真正面から向かい合う瞬間。
それを確かめたかった。
布の上に炭筆を置く。
風の音が、わずかに止まる。
森が息を潜める。
レオンは、ゆっくりと一行を書いた。
> 「風よ、吹け。」
短い。
しかし、強い願いを込めた言葉だった。
書いた瞬間――レオンの胸が強く跳ねた。
空気がわずかに震え、葉が揺れる。
だが、それ以上は何も起こらない。
「……吹かない」
彼は困惑した。
以前なら、小さな風が応えてくれたのに。
今回はまったく動かない。
(どうして?
“吹け”って書いたのに……)
文字の線をなぞりながら、彼は気づく。
「……命令……なんだ」
それは命令文だった。
“世界に従え”と命じる言葉。
レオンは首を振った。
この世界は命令に従わない。
風は自由で、言葉は祈りで、世界は対話で動く。
神官の詠唱は命令の形式に見えたが、
実際には「神に許しを請う形」で成り立っている。
(僕の言葉は……命令じゃない。
願いで、意味で、世界と話すためのものだ)
彼は布に手を当て、深呼吸した。
そして、新しい文字をそっと書き始める。
> 「風は自由だ。
もし君がここにいるなら、僕に触れてほしい。」
最後の一文字を記すと――
空気が静かに震えた。
柔らかい風が、レオンの頬を撫でた。
一度、二度。
まるで「ここにいるよ」と答えるように。
胸の奥が熱くなった。
世界は、命令では動かない。
対話で、意味で、祈りで動く。
レオンはそっと微笑んだ。
「ありがとう……」
風が木々を揺らし、川面に波紋が広がる。
布の文字がほんのり光り、やわらかく脈動した。
それは、言葉が“芽生えた”瞬間だった。
***
夕暮れの光が森を金色に染め始めたころ、
レオンは布を胸に抱え、ゆっくり立ち上がった。
(言葉って……植えるんだ)
彼は考える。
布は土で、言葉は種だ。
書くだけでは芽は出ない。
意味を込め、世界に語りかけなければならない。
祈るように書き、
語りかけるように定義し、
願いを込めて育てる。
(言葉は、生き物なんだ……)
胸の中にその理解が広がる。
メルグが言った“恐れよ”という言葉の意味が、ようやくわかった。
生命を扱うように言葉を扱わなければならない。
決して、乱暴に放ってはいけない。
風がレオンの頬を撫でた。
まるで、よくできました、と褒めるように。
レオンは小さく呟いた。
「僕は……言葉を育てる人になるよ。」
その言葉は布に刻まれず、
風に溶けて森の中へ消えていった。
でも、確かに伝わった。
森が優しく揺れ、夕暮れの空が淡く光った




