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神官の影

その日、朝から村の空気がざわついていた。

 風の向きが変わっている。

 鳥の声がいつもより少ない。

 村人たちは口には出さないが、どこか落ち着きがなかった。


 レオンは胸騒ぎを感じていた。

 世界が“何か”を警告しているように思えたからだ。


「……誰かが来る」


 そう呟いた瞬間、

 村の外れから馬の蹄の音が響いた。

 蹄鉄が硬い地面を叩き、低い響きを村に運ぶ。


 その音は、レオンにとって聞き覚えがあった。

 胸の奥がざわりと震える。


「神官……」


 白衣の姿が見えた。

 胸には青い宝石。

 間違いなく、前に村に来た神官――メルグだった。


***


 神官は村の広場へ降り立ち、馬を降りると静かに村人たちを見渡した。

 深い灰色の瞳が何かを探している。

 風が止む。

 まるで、森も空気も息を潜めているかのようだった。


「レオン。いるか」


 その一言に、周囲がざわめいた。

 村人たちの視線が、一斉にレオンへ向けられる。


 レオンの胸が高鳴る。

 逃げたい気持ちと、確かめたい気持ちが入り混じる。


 しかし、彼は一歩前へ出た。

「……はい」


 メルグはレオンを見ると、一瞬だけ表情を固めた。

 驚きにも似た、慎重な眼差し。


「少し、話せるか」


 その声は穏やかだったが、

 その奥には重い気配が宿っていた。


***


 森の入口まで歩くと、メルグはようやく口を開いた。

「君の描いたものを――見せてほしい」


 レオンの膝がかすかに揺れた。

「……どうして、それを」


「風が運んできた。

 “言葉が布に刻まれ、世界が揺れた”と」


 風が……?


 気配を感じ取る神官がいることは知っていたが、

 風そのものから“報告”を受けるなど、普通ではない。


 メルグは続けた。

「村に来る途中で、森の木々が異様な揺れ方をしていた。

 定義の揺らぎ……“言霊術ことだまじゅつ”の兆候だ」


 その言葉を聞いた瞬間、胸が凍りついた。

「ことだま……?」


「そう。

 音でも、声でも、詠唱でもない。

 意味そのものを世界に刻み込む術だ。

 昔、神々が世界を形作るために使った――禁忌の言語」


 メルグの声が低くなった。

 まるでその言葉を口にすることさえ畏れているようだった。


 レオンはごくりと唾を飲んだ。

「僕は……そんな、大それたことは……」


「だが君は、書いた文字で風を呼び、

 意味を世界に刻んだ。

 これは訓練された神官でもできない」


 メルグはレオンの目をまっすぐに見た。

 その瞳は揺らぎなく、しかし深い警告を含んでいた。


「君は……世界が“言葉になる前の声”を聞いている」


 その言葉に、レオンの心臓が跳ねた。

 前世の夢――光の記号、数式めいた声。

 この世界の風、水、森のざわめき。

 二つが重なる瞬間のことを、思い出す。


「神官さま……言霊術は、危険なの?」


 メルグは深いため息をついた。

「危険どころではない。

 言葉ひとつで、大地を割り、海を裂ける。

 昔、それを使った魔導王が世界を滅ぼしかけたと言われている」


 世界を……滅ぼしかけた。


 その重さが胸に落ちた。

 もし自分が“間違えれば”――

 森が枯れ、村が消えるかもしれない。


「レオン」

 メルグが静かに呼ぶ。

「君は今、この世界の理そのものに触れ始めている。

 だからこそ、言葉を恐れよ。

 恐れ、敬い、大切に扱え」


 その声は叱責ではなく、祈りのようだった。


***


「……分かりました」


 レオンは布を胸に抱き、深く頭を下げた。

「僕は……言葉を大切にします。

 世界を傷つけるような“定義”は、絶対に書きません」


 メルグはその姿を見て、ほっと微笑んだ。

「それができるなら、君は恐れる必要はない。

 恐れを知る者だけが、言葉を扱える」


 風が木々を揺らし、夕陽が森に差し込む。

 その光が二人の足元を照らした。


「――また来る。

 その時、君の“言葉”をもっと見せてほしい」


 そう告げると、神官メルグは静かに村へ戻っていった。


***


 レオンはひとり、森の中に立ち尽くした。

 布の中から、微かな鼓動が伝わってくる。

 その温もりは、恐怖でも希望でもない。


 それは――


 “言葉そのものの命”


 レオンは小さく呟いた。

「……僕は逃げない。

 言葉と一緒に、生きる」


 その声に、風がやさしく答えた。

 葉が揺れ、森が静かに歌う。


 世界が、彼の決意を受け止めていた。


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