名を与えられた日
日が昇ると、藁葺きの屋根を透かして淡い金色の光が差し込む。
その朝、赤子はまだ眠っていた。
母は小さな体を布に包みながら、静かに胸に抱く。
「今日、この子に名を授けるのね」
かすれた声でそう呟くと、傍らの男――父がうなずいた。
頬に風の跡が刻まれた、農夫らしい無骨な手。
彼は焚き火に小枝をくべ、白い煙を立たせながら言った。
「そうだ。神殿の鐘が三度鳴ったら、広場に集まる。村の皆が見にくるぞ」
母は少し恥ずかしそうに笑った。
「皆の前で抱くなんて、緊張するわ」
「この子は、よく泣くが……目が強い。見てるだけで、胸があたたかくなる」
男の言葉に、母は小さく頷いた。
寝息を立てる赤子の頬を、指先でそっとなぞる。
やわらかく、命そのものの温もりだった。
***
広場には、村人たちが集まっていた。
木製の長い台の上に、白布と小さな水瓶。
神官が立ち、両手に銀の杖を持っていた。
その杖の先には、淡く光る青い石。
村人たちはそれを“神聖石”と呼ぶ。
「新しき命に名を授ける――」
低く響く声。
焚き火の煙が空へと昇り、風に溶けていく。
母は赤子を胸に抱え、神官の前に立った。
赤子は、まるで儀式を理解するかのように、じっと空を見ている。
その瞳に、青い光が小さく映った。
「名は――“レオン”。光を継ぐ者、という意味を持ちます」
神官の宣言に、村人たちは穏やかに微笑んだ。
赤子の額に清めの水が落とされる。
その一滴が頬を伝うと、まるで“涙”のようにきらめいた。
その瞬間、母の腕の中で赤子が笑った。
それは偶然ではなかった。
まるで何かを――思い出したように。
***
赤子の目に、光が残像のように焼きついた。
青い、鋭い光。
それが、どこか遠い場所で見た“信号機”の緑色と重なる。
意味は分からない。
けれど、胸の奥で何かが確かに疼いた。
(……見たことがある。あの光……どこで?)
記憶の断片は泡のように浮かび、そして消える。
ビルの影。
ガラス越しの夕暮れ。
書類の山。
――“黒瀬係長”という言葉。
赤子の脳裏に一瞬よぎったその名は、意味を持たぬ音として霧の中に溶けた。
けれど、彼の心の奥に“言葉”というものが確かに芽吹いた。
***
式が終わると、村人たちはそれぞれに笑いながら家へ戻っていった。
母は腕の中のレオンをあやしながら、小さく歌う。
穏やかで、あたたかい旋律。
レオンはその声に包まれて、目を細めた。
母の髪は栗色で、陽に透かすと金が混じる。
その光景は、彼の知らぬはずの“どこかの朝”を思い出させた。
駅のホーム。
すれ違う人々。
淡い光。
――なぜか胸が痛い。
母の唇が、そっと耳もとで動いた。
「レオン。あなたの名は光。
この世界で、誰よりも強く、生きていけますように」
その祈りのような声に、赤子は小さく笑った。
言葉の意味など分からなくても、心が震えた。
それは確かに――人の愛情というものだった。
***
夕暮れ、家に戻ると父が木桶を抱えて待っていた。
中には湯気を立てるぬるま湯があり、香草の匂いが漂っている。
「この湯で心身と名を清める。神殿の習わしだ」
レオンは湯に浸けられ、泣きもせずに目をぱちぱちと瞬かせた。
まるで、すべてを受け入れているように。
母は笑い、父は照れくさそうに頭をかいた。
「いい顔だな。……レオン」
名を呼ばれるたび、少年の胸の奥に小さな火が灯る。
“呼ばれる”という感覚が、どこか懐かしかった。
(……俺は、前にもこうして……)
その思考が生まれかけたところで、世界がふっと遠のいた。
意識は再び静かな眠りへと沈む。
赤子の胸が、規則正しく上下を繰り返す。
外では、夜風が村を撫でていた。
天幕の向こう、星が瞬く。
その光を見上げる両親の瞳には、未来への祈りが宿っていた。
「――ようこそ、この世界へ。レオン」
赤子は、夢の中でうっすらと笑った。
その笑みは、まるで“再び生きる”ことを知っている者のように、穏やかだった。




