風の記録帳
秋の空気が澄んでいた。
レオンは朝の光の中、胸に小さく折りたたんだ布を抱えていた。
その布は、昨日までの夜に書き上げた“言葉の布”――
風の記録、光の祈り、水の定義、そして自分の名前。
彼はそれを「風の記録帳」と呼ぶことにした。
布を胸にあてると、微かな鼓動のようなものを感じる。
生きているわけではない。
けれど、それは確かに、彼の“言葉の記憶”を抱いていた。
***
村の広場では、収穫の終わった畑を整える人々の姿があった。
子どもたちは落ち葉を蹴り、犬が吠え、風がそれを撫でていく。
レオンはその光景を布に記す。
炭の先で、そっと線を引きながら。
「風が笑う。
子どもたちの声を運び、麦の匂いを連れていく。」
書いた瞬間、広場に本当に風が吹いた。
枯葉がくるりと回り、犬が驚いて走り出す。
母親たちのスカートがひるがえり、笑い声が響いた。
(……まただ。僕の言葉が、世界に届いた)
けれど、それはもう“偶然”ではなかった。
レオンの心は、少しだけ震えた。
自分の言葉が、ただの記録ではなく、現実に影響を与えているという実感。
(なら、僕の書く言葉は、もう祈りじゃない。
――創造だ。)
***
昼過ぎ、レオンは森に入った。
木々の葉が赤く染まり、風の音が柔らかい。
彼は小川のそばに座り、再び布を広げた。
今度は“森”を記録しようと思った。
「木々は眠りながら、風の夢を見る。
水はその夢を運び、鳥たちは歌に変える。」
筆が止まった瞬間、森の空気が変わった。
風が止み、鳥の声がぴたりと止まる。
静寂の中で、木々の葉が一斉に揺れ始めた。
それはまるで、森そのものが彼の言葉を“聞いている”ようだった。
「……きこえてるんだね」
レオンは小さく呟いた。
次の瞬間、木の枝の上から花の種がひとつ落ち、彼の膝に転がった。
それはあり得ないことだった。
この季節、花の種はすでに地に落ちている。
――けれど、彼の言葉は、“森に夢を見せた”のだ。
(僕が書いた言葉が、現実を……)
胸が熱くなる。
しかし同時に、恐ろしい考えが浮かんだ。
(もし僕が、間違った言葉を書いたら?)
もし「枯れる」と書いたら、本当に森は枯れてしまうのだろうか。
もし「死ぬ」と書けば――。
彼の手が震えた。
炭の先が、布の上で黒い線を引く。
たった一文字でも、世界を揺らしてしまう可能性がある。
(言葉は、剣より鋭い……)
森の風がその思考をなぞるように吹いた。
布の上の黒い線がかすかに揺れ、まるで生き物のように脈打つ。
レオンは急いで布を折りたたいた。
光が消え、風が止まる。
世界が、静かに落ち着きを取り戻した。
***
夕暮れ。
家に戻る途中、彼は胸に抱いた布の重みを感じていた。
それは物の重さではなく、“意味の重さ”だった。
家の前で、母が薪を割っていた。
「レオン、何をそんなに大事そうに抱えてるの?」
「……ぼくの、言葉のかけら」
「ふふ、難しいこと言うのね」
母は笑って頭を撫でた。
その手のぬくもりに、レオンの胸の緊張が少しほどけた。
(言葉は怖い。
でも、母の“笑顔”は、それも包んでくれる。)
彼は家の中に入り、炉のそばで布を広げた。
そして炭を取り、そっと一行だけ書き加えた。
「言葉は刃にもなる。
だからこそ、優しくあれ。」
その瞬間、部屋の中に小さな風が生まれた。
暖かな風だった。
炉の火がゆらめき、母の背中を柔らかく照らす。
レオンは静かに目を閉じた。
恐れは、まだ消えない。
けれど、恐れの中に確かな“覚悟”が芽生えていた。
(僕は、この力と生きていく。
言葉と、世界のあいだで。)
その夜、風は静かに家の外を通り抜けた。
彼の書いた“優しさ”が、村を包み込むように――。




