言葉紡ぐ手
朝の光が、窓の木枠を柔らかく照らしていた。
レオンは机の前に座り、昨日の板を見つめていた。
そこには、夢の中で描いた幾何の文様が残っている。
いくつかの線は淡く光を帯び、まるで“まだ何かを語りたがっている”ようだった。
(この板は、僕の言葉を覚えてる)
彼は指先で線をなぞった。
触れるたび、胸の奥に小さな反響が返ってくる。
それは音ではなく、意味の揺らぎ。
――板そのものが“言葉を理解している”ような感覚だった。
***
そのとき、母が声をかけた。
「レオン、また絵を描いてるの?」
「うん。昨日の風を、描いてる」
母は苦笑した。
「風なんて描けるの?」
「うん。たぶん、“風の言葉”を覚えておきたくて」
母は小さく首をかしげ、それ以上は何も言わなかった。
ただ優しい笑みを浮かべて去っていく。
その背中を見送りながら、レオンは胸の奥で呟いた。
(……言葉って、消えていく。
話した瞬間に空気に溶けて、どこかに流れていく。
でも、“書けば”残る。
だったら、それは……世界に刻むことと同じじゃないか?)
その考えが、稲妻のように走った。
***
レオンは机の上に紙の代わりに古布を広げ、炭を握った。
空気を吸い込み、心を静める。
(風の時は、“形”を描いた。
今度は、“意味”を書こう)
彼はゆっくりと筆を動かした。
一文字目。
“風は、通りすぎても記憶を残すもの”。
二文字目。
“言葉は、耳に届かなくても心に残るもの”。
文字を書くたび、空気がわずかに震えた。
炭の線がかすかに青く光り、布の上に淡い模様が浮かび上がる。
まるで言葉そのものが生命を帯びているようだった。
(書くって……こんなに、熱いんだ)
手が震える。
けれど止まらない。
次々と文字が流れ出す。
彼が感じたこと、見たもの、聞いた声――それらを全部、ひとつひとつの“定義”として書き連ねていく。
火とは、息をする光。
水とは、心を映す鏡。
風とは、言葉の通り道。
大地とは、世界の記憶。
書くたび、部屋の空気が変わっていく。
床を這う風が彼の足元を撫で、窓辺の光がかすかに揺れる。
それは明確な“応答”だった。
彼の言葉が、世界に届いている。
***
そのとき、不意に外から突風が吹き込んだ。
窓が開き、炭の粉が舞い上がる。
布の上の文字が一瞬だけ光を放ち――風の形をとった。
透明な流れが、布の上を滑り、レオンの肩を撫でていく。
風が笑ったように感じた。
「……聞こえるんだね」
その声に応えるように、部屋の中の空気がやわらかく旋回した。
布の上の文字が再び淡く輝き、そして静かに収まる。
世界は、彼の“記録”を受け入れたのだ。
***
夜。
家の灯が落ち、静寂が訪れる。
レオンは布を膝に抱え、焚き火の明かりで文字を見つめていた。
昼間の輝きはもうない。
だが、その跡ははっきりと残っている。
(この文字たちは、世界の一部になった)
彼はそう感じた。
書かれた言葉は消えない。
たとえ布が朽ちても、意味は世界に刻まれる。
言葉とは、ただの記録ではなく“定義の延命”――
それこそが、この世界を支える力なのだ。
***
彼は新しい布を取り出し、今度はそっとこう書いた。
> “わたしは、言葉を書く者。
言葉を記すたびに、世界が少しだけ生まれ直す。”
その一文を最後まで書き終えたとき、風がふっと吹いた。
火が揺れ、光が布の上を流れる。
まるでその言葉が“誓い”として刻まれたかのように。
レオンは静かに目を閉じた。
(書くことは、祈ること。
祈ることは、創ること。
創ることは、世界に“もう一つの声”を与えること。)
その思いが胸に広がる。
火の音が静かに弾け、夜が彼を包んだ。
――この夜、レオンは初めて“魔導士”としての一歩を踏み出した。
彼が書く言葉は、単なる記録ではなく、世界そのものを写し取る鏡になる。
そしてその鏡の中に、
やがて“神の言葉”さえも映し出す日が来ることを、
このときの彼はまだ知らなかった。




