二つの記憶
夜が明け、風が村を吹き抜けた。
いつもと同じ朝――のはずだった。
だがレオンの胸の奥では、まだ夢の残響が続いていた。
光の記号。数式のような言葉。
声なき声が意味だけを伝えてくる、不思議な感覚。
目が覚めた今も、それは確かにそこにあった。
“現実”と“夢”の境が曖昧なまま、二つの世界がゆっくりと重なっている。
***
父はいつも通り畑に出ていた。
レオンはその背中を見送りながら、家の外に出た。
森の方から吹く風が、彼の髪を揺らす。
(風の動き……昨日より遅い)
そう感じた。
ただの風ではない。
そこに“規則”がある。
音の間隔、枝の揺れ方、草の波――まるで誰かが“構文”を組んでいるようだった。
(言葉は、自然にも文法がある。
……夢の世界のあの光も、文法で動いていた)
ふと、胸の奥が疼いた。
夢の中で聞いた名前が、もう一度響く。
――黒瀬。
その響きに、記憶の断片が瞬く。
眩しい白い部屋。
金属の机。
空気の振動が、機械の音を混ぜて形を作る。
“意味を数値化する”――そんな言葉が、かすかに残っていた。
***
昼下がり、レオンは森の奥の小川に向かった。
陽の光が水面に揺れ、鳥の声が遠くで響く。
膝をつき、水をすくう。
指先に触れる冷たさが、世界の“輪郭”をはっきりとさせた。
「……この水にも、言葉があるんだよね」
そう呟くと、水の中に淡い光が浮かんだ。
昨日までよりもはっきりと見える。
まるで、世界の構造そのものが目に映っているようだった。
光は線を描き、やがて幾何学的な形を作る。
それは夢で見た図形と似ていた。
(やっぱり……同じ“理”が、ここにもある)
この世界の魔法も、前世の科学も、
根はひとつの“言葉”でできている。
ただ、それをどの角度から読むかが違うだけだ。
***
風が吹き、木々がざわめいた。
レオンは思わず立ち上がり、手を広げた。
「風――君の名は何?」
風が応えるように、木の葉が舞い上がる。
音ではなく、意味が流れ込んでくる。
〈われは流れ。留まらず、形を持たぬもの〉
その瞬間、夢の中で聞いた電子的な声が重なった。
『エネルギーは定義を与えられた時、形を得る。』
科学と魔法、理と感応。
二つの言葉が、ひとつの真理を指している。
世界は“定義”によって形を持つ。
その定義を与える力――それこそが、言葉の根源なのだ。
レオンは胸の前で両手を合わせ、静かに息を整えた。
「じゃあ僕の役目は……“定義の翻訳者”?」
この世界の言葉と、あの世界の記号をつなぐ者。
それが、自分がここにいる理由なのかもしれない。
***
夕暮れ、村の丘の上。
赤く染まった空を見上げながら、レオンは再び夢で見た図形を描いた。
今度は、形に“意味”を重ねる。
円は世界。
線は時間。
点は意志。
それをゆっくりと繋ぎながら、心の中で言葉を紡ぐ。
――“世界は、記憶を持つ書物”
描き終えた瞬間、空気が微かに震えた。
風が彼の周囲をゆっくりと巡り、草の先を撫でていく。
世界が、彼の定義を受け入れた。
胸の中で何かが灯る。
それは力ではなく、確信。
“言葉は神であり、科学であり、心だ”という真理。
レオンは空を見上げ、微笑んだ。
風が頬を撫で、遠くの空に光が走る。
(ありがとう……この世界。
そして、前の僕。
二つの記憶が、ようやく手を取り合ったよ)
風が彼の髪を揺らし、森の中へと消えていった。
そのあとには、静かな夜の気配と、
胸の奥に残る新しい“使命”の光だけが残っていた。




