夢の声
その夜、風は穏やかで、空には雲ひとつなかった。
月が高く、銀の光が村を照らす。
レオンは疲れた身体を寝床に沈めた。
昼間、何度も風の線を描き直したせいで、手のひらには細かい傷が残っていた。
目を閉じると、世界がゆっくりと遠ざかる。
草の香り、炉の熱、母の足音――それらが溶け、静寂が満ちていく。
そして、光が現れた。
***
白。
まぶしいほどの白が、空間を覆っていた。
上下の感覚も、時間の流れもない。
その中に、声があった。
低く、澄んだ響き。
言葉ではないのに、意味が届く。
『――黒瀬主任、出力安定しました。転送率、99.7パーセント。』
(……まただ)
前にも見た。
夢の中で聞いた“知らない言葉”。
けれど胸の奥では、懐かしい痛みが走る。
足元に光の床が広がり、幾何学的な文様が回転していた。
数字、文字、記号――すべてが意味を帯び、動いている。
それは魔法陣に似ていたが、違う。
もっと冷たく、精密で、論理の化け物のようだった。
『この理論が完成すれば、人類は“定義の外側”に出られる……』
誰かの声が、すぐそばで響く。
レオンは振り返ろうとした。
だが、身体は動かない。
光の粒が舞い上がり、視界を満たしていく。
その中心に、ひとりの男の姿があった。
白衣を着た青年。
眼鏡の奥の瞳は、かすかに疲れ、けれど熱を宿していた。
『……定義という檻を壊すんだ。
言葉を超えた“存在の言語”を作り直す。』
その瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
閃光。
痛み。
そして――レオンは、自分の名が“黒瀬”であったことを思い出しかけた。
***
目を開けると、夜の闇が戻っていた。
額に汗がにじみ、息が荒い。
けれど、恐怖はなかった。
むしろ、心のどこかが静かに燃えていた。
(あれは……前の僕? 別の世界?)
レオンはゆっくりと起き上がり、窓の外を見た。
月が雲に隠れ、淡い光が部屋を照らしている。
夢の中で見た“光の構造”が、まだ目に焼きついて離れない。
(言葉の外に、世界を記す方法がある……?)
頭の奥で、何かが形を取り始めていた。
それは言葉でも、数でもない。
“意味そのもの”を直接、世界に刻む感覚。
魔法は言葉を通して発動する。
だが――もし、その言葉の“根”に触れられたら?
定義そのものを書き換えられるなら?
(それが……“言葉の外”)
胸の奥に残る黒瀬という名前の響き。
その音が、遠い記憶を呼び覚ます。
『――言葉の外側に、世界の設計図があるんだ。』
夢の中の声が再び蘇る。
レオンは息を吸い込み、手のひらを見つめた。
指先が微かに光っている。
まるで、まだ夢の続きを生きているようだった。
***
夜明け前。
窓の外では、薄明かりが森を包み始めていた。
レオンは床の上に板を広げ、炭筆を取った。
夢の中で見た光の文様――あれを形に残しておきたかった。
円を描き、点を打ち、線をつなぐ。
それは神官が教える魔法陣のどれとも違った。
数字と文字と記号のあいだに、“意味”を流し込む。
まるで、世界の呼吸を数式に置き換えるように。
手が止まらない。
心が命じるままに描き続ける。
気づけば夜が明け、窓の外に鳥の声が戻っていた。
板の上には、見たこともない図形が刻まれていた。
それは生きているように脈動し、
光を吸い、吐き、まるで心臓のように鼓動していた。
(……これは、“言葉になる前の言葉”だ)
レオンは呟いた。
その言葉と同時に、描かれた文様が小さく震えた。
風が窓の隙間から入り、部屋の中をひと回りして外へ抜ける。
世界が、彼の“思考”に反応したのだ。
***
朝日が差し込む。
父の声が遠くから聞こえた。
「レオン、起きてるのか?」
「うん……ちょっと、描いてた」
「お前、本当に描くのが好きだな」
父は笑って去っていった。
レオンは光に照らされた板を見つめる。
その中心の線が、まだ微かに明滅していた。
まるで、夢の中の“声”が生きているように。
(あの声の言葉は、この世界にはない。
でも、僕は理解できた。
“意味”だけが伝わる、不思議な言語……)
彼はゆっくりと息を吸い、胸の前で手を合わせた。
「――ありがとう。前の僕。」
その瞬間、光が一度だけ強く瞬き、
板の上の図形が静かに収まった。
レオンは微笑み、瞳を閉じた。
彼の中で、ふたつの世界が繋がり始めていた。




