風を描く
森の奥、昼の光が木々の隙間からこぼれていた。
陽はやわらかく、鳥のさえずりが遠くで響く。
レオンはひとり、倒れかけた切り株の上に腰を下ろしていた。
膝の上には、昨日父からもらった古い木の板。
もとは収穫祭で使われた計算板だったが、今はすっかり彼の“ノート”になっている。
指でなぞると、浅い傷の感触が心地よい。
(言葉は、声で世界を動かす。
でも、声を出さなくても、世界は聞いてくれる。
じゃあ……形にしたら、どうなるんだろう)
彼の中には、神官メルグの授業で見た“光の文字”が鮮明に残っていた。
あのとき、彼は気づいた。
詠唱の“音”よりも、“書かれた形”のほうが、確かに世界を揺らしていたことを。
(神官の“光”が言葉の定義なら、僕の“風”も、きっと描ける)
***
レオンは木の枝を拾い、土の上に線を引いた。
太陽の光が差し込み、描いた線がうっすらと影を作る。
彼は息を整え、指で線をなぞりながら呟いた。
「……風は、見えない道を走るもの。
見えなくても、すべてを撫でるもの。」
その言葉とともに、彼は土に“風”を意味する印を描いた。
神官の使う聖句とは違う。
形は歪で、文字とも呼べない。
けれどそれは、彼自身が感じた“風の姿”そのものだった。
――描くという行為は、言葉を“固定する”こと。
彼は本能的にそれを理解していた。
***
空気が、少しだけ変わった。
森の音が遠のき、葉のざわめきが止む。
その静寂の中で、描いた印の周囲に小さな光が集まった。
(……来た)
レオンは息を呑む。
光の粒が線の上を滑り、ゆっくりと形をなぞる。
描かれた文字が、まるで呼吸をするように膨らみ――次の瞬間、風が吹いた。
ふわり、と髪が揺れる。
鳥の羽が散り、土の上の草がさざめいた。
それは暴風ではない。
まるで「こんにちは」と挨拶するような、小さな風の精の息だった。
「……できた」
レオンの声は震えていた。
魔法の詠唱も、祈りの言葉も使っていない。
ただ、描き、定義し、意味を与えた。
それだけで、世界が応えた。
胸の奥が熱くなった。
――世界は“書かれた言葉”にも耳を持っている。
***
しかし次の瞬間、風が不意に強まった。
光が乱れ、描いた印が崩れはじめる。
風が円を描きながら、森の枯葉を巻き上げていく。
「……まって、まだ!」
レオンは慌てて線をなぞり直した。
だが、風は彼の手を無視して荒れ狂う。
枝が折れ、鳥が飛び立つ。
そして、木の葉の渦が一気に立ち上がり――ぱん、と音を立てて消えた。
静寂が戻る。
レオンはその場に膝をついた。
土の上には、崩れた文字の跡が残っている。
(……だめだ。定義が、足りなかった)
世界は応えた。
だが、それは不完全な言葉。
“風”を呼んでも、“止める”という意味を与えなかった。
だから、理を失い、崩壊した。
レオンは両手で土を掴み、ぎゅっと握った。
「……ごめん。ちゃんと、最後まで話さなきゃいけなかったね」
その言葉に、微かな風が頬を撫でた。
まるで「気にするな」と囁くように。
***
その夜、家の中でレオンは木の板に新しい印を描いていた。
蝋燭の光に照らされた板の上には、奇妙な図形が並ぶ。
円。線。点。
それらを繋ぎ、風の流れを数で示そうとしていた。
(言葉は意味。
文字は形。
数は秩序。
……それらを全部、組み合わせれば――)
世界は、きっと完全に応える。
描かれた板の上で、光がわずかに揺れた。
レオンの瞳が、その光を真っ直ぐに見つめる。
「次は……“風を歌う”ように描こう」
彼は微笑んだ。
それは、子どもの無邪気さと、
この世界の理を読み解こうとする研究者の目だった。
***
翌朝、森に行くと、昨日吹いた風の跡がまだ残っていた。
折れた枝の先に、ひとつだけ花が咲いている。
風が運んできたのだろう。
その白い花びらが、朝日を受けて揺れていた。
「……昨日の風、ありがとう」
レオンは花に手を伸ばし、指先でそっと触れた。
柔らかい。
生命の鼓動が、そこにあった。
(言葉は、世界と話す力。
でも、描く言葉は……世界と一緒に考える力だ)
風は頬を撫で、森の奥へ流れていった。
その後ろ姿を見送りながら、レオンは心の中で静かに呟いた。
――いつか、言葉で風を描けるようになりたい。
――この世界の理を、きれいな“詩”にできるように。
その想いが、まだ幼い彼の胸に深く刻まれた。
それは、やがて彼を“言霊の錬成士”と呼ばれる存在へ導く、最初の確かな一歩だった。




