かずのうた
朝の光がやさしく村を照らしていた。
商人たちが去ったあと、広場にはまだ人の気配が残っている。
草の上に車輪の跡、地面には銀貨の落とした輝き。
レオンはその跡を指でなぞっていた。
「レオン、また見に来たの?」
母が笑いながら声をかける。
「うん。昨日の人たちが置いていった“数字”の板、あれ見てるの」
小さな木の板。
商人が計算に使っていた“算板”の一部が、取引の途中で割れて捨てられていた。
表面には刻印のような線がいくつも刻まれている。
「これ、“ひと”“ふた”“みっつ”と同じなのかな」
レオンは指先で線を数え、声に出す。
ひとつ、ふたつ、みっつ――。
数を口にするたび、板の上の線が意味を持って見えた。
(これは、“ものの順番”を決める言葉なんだ)
数とは、世界の形を整理するための言葉。
“ひと”と“ふた”の間に、世界の距離が生まれる。
それを意識した瞬間、レオンの胸の奥が小さく熱を帯びた。
***
昼過ぎ。
父が畑から戻り、木陰で休みながら息子に声をかけた。
「またその板か。気に入ったんだな」
「うん。これ、音があるんだよ」
「音?」
レオンは板を指で叩いた。
とん、とん、とん。
規則的な音が響く。
それに合わせて、彼は小さく口ずさんだ。
「ひとつ、ふたつ、みっつ……」
父は目を細めた。
「……数えてるのか?」
「うん。でもね、これ、うたみたい」
「歌?」
「“数のうた”。数を言うと、ものの形がそろって見えるんだ」
父は少し驚いた顔をした。
子どもの想像ごときと笑い飛ばすこともできた。
だが、その瞳に浮かぶ集中の色に、軽く息を呑んだ。
***
レオンは板を膝の上に置き、目を閉じた。
頭の中で“数”を思い描く。
一は点。
二は線。
三は面。
四は形。
数が増えるたびに、世界が広がっていく。
その順序は、まるで“命が生まれる”ようだった。
(……数も、言葉なんだ)
心の中で呟く。
言葉が形を与えるように、数は秩序を与える。
混沌の中に“順番”を刻む行為――
それは、世界に理を生む小さな魔法。
指先がわずかに光った。
光は線となって、空中に三本の細い筋を描いた。
風がその間を抜け、音が鳴る。
とん、とん、とん。
それは、彼が口にした“数のうた”と同じリズムだった。
***
「……レオン?」
父の声で、はっと目を開く。
光の線はもう消えていた。
ただ、空気がわずかにあたたかく、静かに震えている。
「いま、光ったような……?」
「うん。数を言ってたら、空が光ったの」
父は言葉を失ったまま、息子の頭を撫でた。
理解はできない。
けれど、確かに目の前で何かが起きた。
それは、神官の火でも、魔導士の詠唱でもない。
言葉と数が織りなす、“定義の魔法”。
***
その夜、母がレオンに毛布をかけながら言った。
「今日も一日、よく考えてたね」
「数ってね、きっと“世界をそろえる歌”なんだ」
「そうかしら?」
「うん。ひとって言えば、ものがひとつになる。
ふたって言えば、ふたつの間にきょりができる。
ことばと同じだよ」
母は少しだけ驚き、それから微笑んだ。
「レオン、あなたは難しいことを考えるのね」
レオンは毛布の中で小さく笑った。
言葉も、数も、世界を動かす力。
それを感じ取るたびに、心が満たされていく。
(いつか、この世界のすべてを“言葉”で数えたい)
その幼い願いが、やがて彼を“理の魔導士”へ導いていくことになる。
その夜、窓の外では虫の声が規則正しく鳴いていた。
それは、まるで“数のうた”の続きのように、優しく響いていた。




