旅商人との出会い
乾いた風が村を吹き抜けた。
夏の名残りを残した土の匂いに、遠くから荷馬車の音が混じる。
がたがた、がたがたと――車輪の音が道を転がるたび、村の空気が少しずつざわめいていく。
旅の商人たちがやってくる日だった。
レオンは家の前の道に立ち、目を輝かせていた。
去年も来た。けれど今年は違う。
言葉の意味を、少しだけ理解できるようになった今、
彼の世界は前よりも広く見える。
「父さん、あれ、なに運んでるの?」
「塩と布、それに薬草だな。王都から来たにしてはずいぶん早い」
父が目を細めて言う。
木製の荷台には、革袋や麻の包みがぎっしりと積まれていた。
その上で、色とりどりの服を着た商人たちが手を振る。
「おお、リドの村か! いい風だ、取引日和だ!」
その声には不思議な力があった。
高らかで、明るく、聞く人の心を動かす。
レオンは思った。
(……言葉の“重さ”が違う)
この人たちは、言葉で生きている。
火を灯す神官や、土を耕す父とはまた違う。
彼らの“魔法”は、きっと別の形で世界を動かすのだ。
***
広場に簡易の台が設けられ、村人たちが集まる。
布を広げる者、干し肉を並べる者、香草を量る者。
商人たちは手際よく計りを使い、銀貨を指で弾くたびに音が響いた。
――チリン。
その音に、レオンは目を奪われた。
「これが“貨幣”ってやつだ」
父が笑って教える。
「銀の円だ。言葉より小さいが、約束より強い」
「やくそくより?」
「ああ。『この銀貨で、塩をくれ』と言えば、それで取引が成立する。
信頼の証ってやつだな」
レオンは小さく首を傾げた。
(言葉じゃなくて、銀で伝わるの……?)
けれどすぐに気づいた。
――銀貨は、形を持った“言葉”なのだ。
「交換する」「渡す」「受け取る」という約束を、
言葉の代わりに刻んだ金属の符号。
つまり、“意味を固定した言葉”。
その理解が、彼の胸に鮮やかに刻まれた。
***
日が傾くころ、母が香草を買うために商人と話していた。
レオンはその横で、男たちの会話をじっと聞く。
「王都の情勢は?」
「北の国境がきな臭い。鉄の値が上がる。だが、南の港では香料が豊作だ」
どの言葉も、彼にとって初めて聞く響きばかり。
だが、その中に“空気の変化”を感じ取った。
値が上がる。取引が動く。国が揺れる。
それらはすべて、言葉が状況を定義していく行為だ。
“高い”と言葉にすれば、物の価値は高くなる。
“足りない”と言えば、 scarcity(不足)という現実が生まれる。
言葉ひとつで、人の行動も世界も変わる。
(……商人も、魔法を使ってる)
そう思った。
ただ、詠唱が違うだけだ。
彼らは「言葉で価値を変える魔法使い」。
世界における、もう一つの“術士”たちだ。
***
商人のひとりがレオンに気づき、微笑んだ。
「坊主、興味ありそうだな。見てみるか?」
彼は腰の袋から小さな銀貨を取り出し、手の上で転がしてみせる。
「これがな、ただの金属じゃねぇ。
俺たちが“銀貨”って呼ぶから、銀貨になるんだ。
言葉で決めた“価値”が、この世界を動かす」
それは、冗談めかした言葉だった。
けれど、レオンの目には本当の“魔法”に聞こえた。
(……言葉が、価値を作る)
胸が熱くなった。
魔法だけじゃない。
商人たちは“現実”そのものを言葉で定義している。
神官は祈りで火を変え、
父は言葉で種を育て、
商人は言葉で価値を作る。
――世界のあらゆる営みは、言葉から始まる。
***
日が沈み、商人たちは焚き火を囲んで歌いはじめた。
村人たちも集まり、子どもたちがその周りで笑い合う。
レオンは静かに座り、銀貨の輝きを見つめていた。
その光は、焚き火の炎よりも冷たく、それでいて確かな力を宿していた。
〈言葉とは、形なき約束〉
心の中で、そう定義した瞬間、
銀貨の表面がふっと柔らかく光ったように見えた。
気のせいではない。
彼の魔力が、無意識に“定義”に反応していたのだ。
***
帰り道、父が肩に手を置いた。
「今日の商人は面白かったろう?」
「うん。あの人たち、すごいね。
言葉で、お金やものを動かしてた」
父は少し笑って頷いた。
「人はな、手よりも先に言葉で世界を作るんだ」
レオンはその言葉を胸に刻んだ。
夜風が頬を撫でる。
空には、満ちかけた月が光っていた。
――言葉は、価値を与える。
――価値は、命を動かす。
その理解は、幼い少年の心の奥でゆっくりと形になっていく。
このときの光が、
のちに彼を“言葉を定義する魔導士”へと導く最初の灯だった。




