光のあとに
遠い記憶の中に沈んだ“光”の正体を探すように、少年は剣と魔法の世界を歩き出す。
――これは、一度死んだ男が“生き直す”までの長い物語。
――まぶしい。
どこまでも白い光が満ちていた。
音が消え、風も止み、思考の形すら溶けていく。
身体があるのかさえ、もう分からなかった。
最後に思い出したのは、何かの光だった。
それが夕日の赤だったのか、車のヘッドライトだったのか、もう区別がつかない。
その光に包まれながら、黒瀬慎一は――消えた。
そして、世界が再び形を取り戻したとき、彼は泣いていた。
***
泣き声が耳に響く。
それが自分のものだと気づくまで、しばらく時間がかかった。
肌に触れるのは、やわらかな布と、温かい腕。
鼻先をくすぐるのは乳の匂いと、藁の乾いた香り。
どこか遠くで、牛の鳴き声と、焚き火のはぜる音がする。
――ここはどこだ。
目を開けようとしても、うまくいかない。
視界はぼやけ、世界は揺れていた。
ただ、耳だけがはっきりしていて、女の人の声がすぐそばで聞こえた。
「よかった……生きて……ありがとう、神さま……」
やさしい声。涙まじりの笑い声。
その響きに、胸の奥がじんと熱くなる。
知らないはずの声なのに、懐かしい気がした。
――どうしてだろう。
誰かに抱かれるなんて、いつ以来だろう。
思い出そうとしても、霧の向こうにあるようで、掴めない。
言葉も、名前も、すべてが遠ざかっていく。
そのまま、赤ん坊の意識は眠りに落ちた。
***
夜。
薄い布越しに、外の音が聞こえる。
虫の声、風の音。
木の壁が軋むたびに、母の腕が少しきつくなる。
その鼓動が、世界のリズムだった。
目の前の光が揺れる。
焚き火の赤に照らされて、誰かの影が近づいてきた。
低い声の男が、笑うように呟く。
「よく泣く子だな。……母さんに似てる」
「そうかしら。あなたに似て、頑固よ」
二人の笑い声が交じる。
父と母――それがどういう存在か分からなくても、言葉の響きは心地よかった。
やがて、男の手が赤子の額に触れる。
少しざらついた、働く人の手。
その感触に、何かが反応した。
――懐かしい。
昔、自分にも、こういう手があった。
机に向かい、硬いペンを握っていた。
誰かに「黒瀬係長」と呼ばれて――。
そこまで思いかけた瞬間、痛みのような眩暈が走った。
過去が泡のように消える。
世界がまた、赤子の目線に沈んでいく。
***
日々は、光と音でできていた。
朝は母の歌。
昼は風と牛の鳴き声。
夜は父の語る、古い英雄の物語。
意味なんて分からない。
でも、言葉のひとつひとつが、どこか懐かしく響いた。
それはまるで、遠い国の詩を聴いているようだった。
村の家々は木と石でできていて、窓には布が張られていた。
外では人々が畑を耕し、家畜を追い、焚き火の煙が空にのぼる。
そこは、かつて彼が知っていた都市の喧騒とは違う、静かで、ゆっくりした世界だった。
――そう、かつて。
その「かつて」が何を指すのか、彼には分からない。
けれど、胸の奥のどこかで「これは前にもあった」と、誰かが囁いていた。
***
ある日の夕暮れ。
母が赤子を抱き上げ、窓の外の夕陽を見せた。
「ほら、レオン。きれいでしょう?」
レオン――。
それが、この世界で与えられた名前だった。
赤ん坊は当然その意味を理解しない。
けれど、その響きが胸に残った。
まるで、それが“新しい人生の始まり”を告げる鐘の音のように。
空は金色に染まり、村の屋根が光を返していた。
その輝きの中で、レオンの瞳に、一瞬だけ強い閃光が映る。
光が記憶を刺激した。
遠い街の夜景、満員の車両、光る看板。
雑踏のざわめき――。
そして再び、何もかもが霧の中へ消えていった。
***
その夜、母は眠る赤子の額に口づけをした。
父は焚き火の火を弱めながら、静かに呟いた。
「この子は、きっと強くなる。あの日の光が、その証だ」
「ええ……きっと」
レオンは眠っていた。
遠い夢の中で、誰かの声を聞いていた。
『黒瀬係長、今夜の資料まだですか?』
不意に響いたその言葉の意味を、彼は理解できなかった。
ただ、夢の中で、なぜか胸が締めつけられるように苦しかった。
――この世界で、再び始まる物語も知らぬままに。
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(第1話・了)
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